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アメリカでガンダムの人気がないという話は、前から知ってはいました。
ここにも書かれているように、タイミング的なものがわるかったり、バンダイの戦略がうまくいかなかったりとか、いろいろ複合的な要因があるんでしょう。
中国ではガンダムの人気がかなりあるらしいんですが、アメリカではもう無理なんでしょうね。
これから、アメリカでガンダムが一大ブームに、なんてことはなさそう。
ジョンさんは日本とアメリカの文化土壌に一つの要因があるのでは、と考察してます。
「巨大ロボットは現代日本の歩みに深く根ざしたイメージです。日本映画における巨大な怪物(ゴジラはその筆頭)のイメージが核の恐怖を反映したものだとすれば、そういう破壊的な力をねじふせる存在として巨大ロボットのイメージが日本に根付いているのです。破壊の恐怖を平和利用、というわけです。
アメリカン・カルチャーはかなり違います。日本に比べると、テクノロジーへのこだわりはそれほどではありません。巨大ロボットを操作するという発想に日本の子ども達が無意識にメッセージを読み取っている、そして巨大兵器の危険なパワーについて無意識に理解しているとして、米国人はと言うと、このテーマを実感として把握するのは難しいはずです。」
テクノロジーに対する彼我の違いが、巨大ロボットに対する情熱の差になっている、という話はどこまで的を射たものなのか、よくわかりません。
テクノロジーの進歩がもたらす破壊的悲劇というものがアメリカ人の無意識のなかに入っていないというのはホントなのかな?
ジュラシック・パークなんかでは、発達したテクノロジーによって破壊的な悲劇が起こってたりするわけですが。
まあ、ジョンさんの言うように、アメリカ人にそういう意識がなく、日本人には濃厚にそれがあるとしたら、それはたぶん「原爆」の経験によるところが大きいんじゃないでしょうか?
日本人は子供のころから、原爆の恐怖をさんざん教え込まれますからね。
原爆がいかに恐ろしいものか、骨身にしみこんでます。
いっぽう、アメリカ人にとって原爆という、テクノロジーが行き着いたはての大量破壊という恐怖は実感がわかないものです。
9.11のテロ直後にアメリカのテレビを見ていたときのことです。
テレビに出てたコメンテーターがこういう話をしはじめました。
「日本が真珠湾を攻撃したとき、アメリカ人はひどいショックを受けた。しかし、われわれアメリカ人はそれから数年ののちに原爆を開発し、戦争に勝つことができた。だから、今回のテロに対しても屈することはない。アメリカ人はやればできるんだ」
ずいぶん、昔の話で細部ははっきり覚えてませんが、こんな感じの話をアメリカ人のコメンテーターはしてました。
驚きました。
彼らにとって、原爆というのは忌むべき存在ではなく、輝かしい勝利の証なのです。
しかし、ここまで彼我の意識の差があるとはね。
まあ、こういうことを考えていくとジョンさんの仮説も結構いいとこいってるのかもしれません。
(正直、最初読んだときは牽強付会にすぎる感じがしてましたが)
えー、話は脱線しましたが、たしかにロボットに対する愛着の度合いというのは、日本とアメリカで大きく違ってるのはたしかでしょう。
日本人はロボットが好きです。
アニメでもスーパーロボットものとかリアルロボットものとか、主人公がロボットに乗り込んで戦うというジャンルの作品が数多くありますし。
なぜ日本人がロボット好きかということに、ジョンさんのように「テクノロジーへの愛憎入り混じった執着」という理由をつけることもできますが、私は別の角度から理由づけしてみたいと思います。
はっきり言って、かなりいいかげんな論考ですが、まあいいのです。
私のはいつだっていいかげんですから。
細かいことを気にしてるとハゲるか、胃潰瘍になります。
ハゲにも胃潰瘍にもなりたくないのなら細かいとこはつっこまないようにしましょう。
それが身のためです(なんだこの変な脅迫)。
えっと、ここではロボットアニメにおける疑問点をいくつか出して、その疑問にまとまった答えを出すというかたちで文を書いていきます。
まず最初に、ロボットアニメの主人公の年齢を問題にしてみたいと思います。
これらのアニメに出てくる主人公はだいたい中学生、高校生ぐらいの年齢が多いですね。
ぞくに言う思春期とだいたい年齢が重なってます。
アムロがガンダムに乗って戦ってたのが15歳。
Zガンダムのカミーユは劇中の年齢は17歳のようです(意外に年齢が高い。あのキレっぷりを考えると中学生くらいだと思ってました)。
エヴァンゲリオンの碇シンジは14歳。
それから、エウレカ鑑賞記もやってるので一応いれておくと、エウレカセブンのレントンは14歳だそうです。
ロボットアニメのなかには、軍事的細部までリアルに設定されているものが多くありますが、それなのにロボットに乗り込んで戦う主人公が中学生、高校生くらいの年齢ってのはおかしくはないでしょうか?
ロボットを使いこなすには、相当の練度と経験が必要とされるはずで、年端もいかない子供が他よりも優秀なパイロットだってのは明らかに無理があります。
この無理を押し通すために、「ニュータイプ」とか「シンクロ率がどうこう」とか言った設定がつくられてます。
しかし、こんな変な設定つくるくらいだったら、最初から主人公を20代くらいの青年にしておけば話が早い。
そのくらいの年であれば、職業軍人であることも普通なわけで、学生しながら戦ってるエヴァみたいな不自然さを免れることもできますし。
なのに、どうしてこれらのアニメの主人公は年齢が若いのでしょうか?
その理由のいちばんは、もちろん「ロボットアニメの視聴者の年齢に合わせてる」ってことです。
自分と年齢の近い主人公であれば感情移入しやすいですしね。
しかし、私はこれだけの理由ではないと思うのです。
14〜17くらいの年齢って人生のなかで最も感情の起伏が激しい時期です。
もう、子供のように無邪気ではいられないし、かといって、大人のように自分というものに折り合いをつけられるわけでもない。
自分という存在が世間からどの程度、必要とされているのかわからない。
それに加えて、日々刻々と変化しつづける自分の体が不安をあおる。
結果、この時期の感情は極端な自己賛美と、これまた極端な自己卑下を行き来します。
レディオヘッド
「オレは特別な存在になりたい。だけど、オレはダメ人間さー。居心地悪くてたまんねーんだよ」
ってなことを歌ってるのがありますが、まさにこれです。
「自分は特別な存在ですごい才能を持ってる」という根拠のない自信と、
「自分はダメな人間で、どうしようもねーよ」という無駄にネガティブな自己否定。
この時期の子供にはこうした両極端な自己認識をいったりきたりすることがよくあります。
次に「なぜロボットアニメに出てくるロボットは人型なのか?」ということについて。
ロボットといえば、人間と同じ形としているものだと我々はなんとなしに思っていますが、ロボットが人型でなければならない理由はありません。
たとえば、自動車工場で自動車を組み立てる機械もロボットと呼ばれていますし、回転寿司で人間の代わりに寿司を握るのもロボット、そうそう、インターネットの検索エンジンで自動で情報収集するプログラムもロボットと呼ばれています。
軍事のことに話を移すと、アメリカ軍ではロボット兵器の開発をしてます。
が、このロボット兵器とはモビルスーツ、アーマードトルーパー、レイバー、アームスレーブのように人が乗り込んで操縦する人型ロボットのことではなく、無人で偵察、索敵、戦闘を行う機械のことです。
私は軍事関係の知識にはあまり強くはありませんが、常識的に考えても、軍需産業が人型ロボットを開発する理由ってほとんどないはずです。
まず人型のロボットが突っ立ていれば、敵から簡単に標的にされてしまう。
戦争映画なんかを見ると、匍匐して相手の弾があたらないようにしてますもんね。
悪路をいくときに、戦車などに比べて人型のほうが有利ということもあるかもしれませんが、それなら四本足の動物に似せたほうがいいでしょう。
そもそも人間のような二本足歩行というのは、バランスの悪い極めて不自然な格好なのであって、もし二本足歩行が優れているのだとしたら、他の動物も二本足歩行できるように進化したはずです。
兵器が人型をしていなければならない理由というのは見つからないにもかかわらず、ロボットアニメでは人型ロボットに主人公が乗り込んで戦うという物語を紡ぎ続けます。
なぜでしょう?
それは、人型ロボットのほうが「カッコいい」からです。
私は人型よりも、クモ型ロボットのほうが実用性があるような気がしてますが、いくらそっちのほうが実用的だからといって主人公がクモ型ロボットに乗って戦争するアニメ作っても人気でません。
格好悪いですから。
し・か・し、ここでは人間とクモのフォルムを比べて、人間のほうがカッコいいとしましたが、人間のフォルムというものが世の中で一番カッコいいというわけではないはずです。
たとえば、人間型ロボットよりも、戦闘機などの流線的フォルムのほうがカッコよく感じる人もたくさんいるでしょうし、他の動物にも人間よりカッコいいフォルムを持ったのはたくさんいるように思います。
それなのに、なぜロボットを人間の姿に似せなければいけないのでしょうか?
それは後で述べます。
次の疑問点は「なぜ主人公ののるロボットは量産型ではないのか?」です。
だいたいのロボットアニメにおいて、主人公の乗る機体はワンアンドオンリーです。
ファーストガンダムにおいて、アムロが乗るガンダムは非常な高性能で、敵方のシャアから
「連邦のモビルスーツは化け物か」
などと言われ恐れられていますが、このガンダム、劇中ではアムロの乗る一機しか登場してきません。
それほど高性能なら、ばんばん量産してしまえばいいのに、と誰もが思います。
戦場に出てきた瞬間にやられてしまう、ジムやボールなんて雑魚を作ってるヒマがあったらガンダムをもっと作るべきです。
しかし、連邦の上層部にはガンダムを量産する気はぜんぜんないようです。
ガンダムを作るのにはコストがかかるからという理由でしょうか?
しかし、機体を一機だけ作るのと量産するのではコストがぜんぜん違ってくるのですが、それを理解してるのでしょうか?
たとえば、ここにトヨタの工場があるとします。
ここで、カローラを10台だけ限定生産すると、このカローラの値段はめっちゃ高くなります。
というのも、カローラを開発するのにかかった開発費、生産ラインを構築するのにかかったコストなどを、この10台だけで回収しなければならないからです。
つまり、開発費等をこの10台の価格に上乗せしなければならないんですね。
次に、この工場でクラウンマジェスタを10万台作ると仮定しましょう。
マジェスタは高級車ですが、この場合、開発コストなどを10万台で回収すればいいので、カローラの場合よりも値段を抑えることができます。
つまり10台だけの限定生産カローラよりも、10万台作ったマジェスタのほうがはるかに安く売ることができるのです。
自動車産業は、売り上げが大きくなればなるほど、こうした作用によって利益率があがっていきます。
このことを、スケールメリットなんていう言い方をしたりします。
余談ですが、ホンダがトヨタになかなか勝てないのは、売り上げが違うからです。
トヨタの売り上げは、だいたいホンダの二倍近くあります。
こうした売り上げの差というものが一度ついてしまうと、これを覆すのはなかなかできることではないのです。
量産すればそれだけ一体あたりのコストが下がることを考えれば、ロボットアニメにおいて主人公の乗る高性能機体も当然、量産すべきです。
しかし、そうはなっていません。
ボトムズのように、主人公が機体を次々と乗り換えていくタイプのアニメもあるにはありますが、これはあくまで少数派です。
だいたいのロボットアニメにおいて、主人公と、主人公の乗るロボットのあいだには、「分かちがたい運命」のような結びつきをもっているかのように描写されます。
主人公の乗るロボットは、「特別な存在」であり、その世界ではその一体しか存在しない(かのように描かれている)のが普通です。
主人公はその「特別な存在」であるロボットに乗り込んで、戦い、味方から賞賛されたり、敵から恐れられたり、します。
なぜ主人公の搭乗ロボットが量産されないのかというのは、純粋に作劇上の心理的要因からです。
私は上のほうでこう書きました。
「自分は特別な存在ですごい才能を持ってる」という根拠のない自信と、
「自分はダメな人間で、どうしようもねーよ」という無駄にネガティブな自己否定。
この時期の子供にはこうした両極端な自己認識をいったりきたりすることがよくあります。
ロボットアニメにおける主人公の搭乗ロボットというものは、思春期の子供が普通に持っている感情である「自分は特別な存在ですごい才能を持ってる」という根拠のない自信を体現するための装置なのです。
だからこそ、それはワンアンドオンリーでなければならないし、量産されるなんてことは絶対あってはならない。
もし量産されてしまえば、自分が特別な存在であるという根拠を失ってしまいます。
そして、だからこそ、ロボットは人型でなければならない。
ロボットは主人公と、視聴者の誇大妄想的な自我の反映なのだから、人型以外のフォルムというものはありえません。
ロボットアニメのなかでは、主人公に対する賞賛と、ロボットに対する賞賛がごっちゃになってることがよくあります。
たとえば、上記のシャアのセリフ
「連邦のモビルスーツは化け物か?」
なんかがそうです。
これは、アムロの操縦技術を誉めてはいない。
ガンダムという機体に対する賞賛です。
しかし、なぜか、アムロ自体も誉めているような響きがあります。
それは、ガンダムというロボットがパイロットであるアムロの分身であるかのように(視聴者に)感じられているからです。
アムロがジムに乗り込んで戦って、
「ジムみたいなヘボいモビルスーツであそこまで戦えるとは、あのパイロットはタダ者じゃない」
みたいに、ロボットのほうはダメだけど、パイロットの腕は素晴らしいというような文脈で誉められることは、ロボットアニメではあまりありません。
さて、ロボットが思春期における誇大妄想的な自我を体現したものである、ということはそれでいいとして、ではもう一つの感情である「自分はダメな人間で、どうしようもねーよ」という無駄にネガティブな自己否定はどこで表現されているのでしょう?
ファーストガンダムの場合、それは明白です。
アムロという少年自体が、内気でロボットいじりの好きなオタク的人物として描かれています。
そのうえ、アムロはしばしば引きこもり的症状に見舞われ、艦長であるブライトから鉄拳制裁をくらったりして、みじめきわまりない。
このように主人公自身がみじめで暗く女々しい性格として描かれているので、劇中では思春期的な二つの引き裂かれた感情が両方描かれていることになります。
つまり、日常の場面では、主人公のネガティブな自我が描かれ、戦闘場面では誇大妄想的な自我が表現され、その二つの極端な自己認識を交互にはさむことで、この年頃の少年がもつ感情の揺れを描き出しているのです。
ガンダムの続編のZガンダムでも、こうした感じは同じです。
カミーユというのは、ちょっとしたことでキレてしまう情緒不安定な少年です。
いちばんイジメにあいやすいタイプですね、これ。
典型的ないじめられっ子タイプのカミーユですが、いったん戦闘シーンになれば、搭乗するZガンダムの性能もあいまって、超人的な活躍をみせます。
やはりここでも、場面ごとの落差というものが、生かされています。
ガンダム以降、優れたロボットアニメは数多くあれど、社会現象とまでなったのはエヴァンゲリオンだけです。
このエヴァの主人公である碇シンジもアムロ同様、人付き合いが苦手な暗い少年として描かれています。
エヴァの場合、戦闘シーンで描かれるのは誇大妄想的な自我というより、自分の内面に巣くってるどろどろした攻撃衝動っていう感じがしますが、それはともかく、日常と戦闘シーンでの揺れ幅の大きさで、思春期的感情の揺れを描いてるというところでは同じです。
ロボットアニメの主人公はなぜ、思春期の少年なのか?という疑問を最初にだしましたが、ここまでくれば簡単に答えることができます。
それは
「ロボットアニメが思春期的感情を描くのに適した表現手段だから」です。
ロボットというものが、「強くて、皆から賞賛されるもう一人の自分」というイメージを投影したプラスの擬似人格なので、主人公の性格をマイナス方向の、社会に適応するのに難儀を感じる少年として設定すれば、それだけで思春期的感情の揺れ幅を表現できるからです。
ガンダムシリーズのなかで、ファーストガンダムとZガンダムの人気が高いこと、そしてガンダム以外のロボットアニメで大ヒットしたのがエヴァだということの理由もこうしてみれば明白ではないでしょうか?
これらのアニメの共通点は、「主人公の性格が陰鬱だ」ってことですから。
えっと、ここでは現在からの視点でロボットアニメを俯瞰してみましたが、歴史を順に追っていくという手法をつかうと、また違う見方が出てくると思います。
誇大妄想的自我を表現する手段、つまりヒーロー的アニメとしてのみあったロボットアニメを、根暗で内気な主人公という設定を使うことによって、思春期的感情を表現するメディアに変えたのがガンダムなんでしょう、たぶん。
私はあんまり詳しくないので、こういう視点からは語りませんでしたが。
しっかし、くそ長い文章になっちまいました。
ここまでちゃんと読んでいただいた方には、感謝感謝です。
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