2007年01月31日

秘密さえ設定しときゃ、あとは勝手にドタバタしだすんだよ、バカヤロー その三

前回の続き。

秘密を抱える人間が、一人の場合と複数の場合を比較したときのいちばん大きな違いは登場人物の心理です。

これは、一般的な心情としてよく理解できるとは思いますが、秘密を共有している人間のあいだでは、「心理的な連帯感」が生まれます。

「実は、誰々のことが好きなんだ」
「実は、最近チロルチョコ万引きしちゃってさ」
「実は、わたしって慢性的なイボ痔なの」

等々。その秘密がいかに下らないものであったとしても、秘密を共有しているという感覚が互いの信頼関係を強固にするのは誰でも経験があることでしょう。

マンガで具体例をあげると、桜蘭高校ホスト部です。
このマンガの主人公の藤岡ハルヒというのは、男装していますが、実は女という設定であり、この秘密を知っているのはホスト部の面々だけです。
ホスト部の結束は非常に強い。
その原因のすべてが、「秘密を共有していること」にあるとは言いませんが、その一因であることは確かです。

それに、「共有されている秘密」の存在は、物語空間上に「内部」と「外部」の境界を作るので、余計、結束の強さが強調されます。
たとえば、このマンガにはホスト部以外にも色々なキャラが出てきますが、それらは全部十把ひとからげ的な扱いです。
だれもホスト部の結束のなかに入ってくることができません。


で、本題のフルーツバスケットです。
最初に私は、秘密の存在は意識のズレを生むので、ラブコメに向いているということを言いましたが、この点ではフルバは失敗作でした。
ですが、この「秘密の共有による心理的連帯感」という観点から見ると、まったく違って見えてきます。

草摩の人間たちは、それぞれ心の傷を負っています。
寓話化されているので、一見荒唐無稽な話に思えますが、彼らの苦悩というのは、だれにでも共感しうるものです。
(個人的には、はとりと楽羅のエピソードに泣きました)
そして、その傷は草摩の秘密と密接にかかわりあっているわけです。

その秘密を「外部」の人間ながら知ってしまっているのが、主人公の本田透です。
ラブコメの主人公って「なぜこんなヤツがモテてるのかわからない」場合が多いですが、この本田透は違います。
彼女の性格というのは、
「愛を与えられることよりも、ただ愛を与えることを望む」という、ほとんど宗教的といってもよいような性格です。
まあ、彼女のような人間が近くにいたら、それが恋愛感情につながるかどうかはわかりませんが、とにかく「好き」になるのは確かでしょう。

それで、草摩の秘密を媒介にして、透が草摩の人たちの心を融かしていく、というのがこのマンガの骨子です。
透というのは、他人に共感する力の強い人間で、自分のことじゃなく他人のために涙するシーンがいくつもあります。
はとりの悲恋を聞いたときも泣いてましたし、紅葉の母親の話を聞いたときも泣いてました。
それは、彼女の宗教的なキャラクターゆえでもあるのですが、「秘密を共有している連帯感」のゆえ、でもあるのです。
読んでいる我々も、秘密の存在によって透のことを草摩の「内部」の人間である、と無意識に想定してしまっているので、彼女の共感ぶりがそれほど不自然に思いません。

「秘密を共有している連帯感」というものを、ここまで極端な方向に使い、しかもそれが成功しているのがフルバの魅力です。

で、ここからは勝手な想像になるのですが、フルバって最初は普通のドタバタラブコメの方向を目指していたのではないのか、と思うのです。
だけど、それが十二支という設定にしたため、登場人物が増えてしまい、「認識のズレ」によるドタバタが生まれにくくなってしまった。
それで、「秘密を共有することによる連帯感」という方向に舵をとったんじゃないか、と勝手に推理してるんですが。
ま、違うかも。


さて、複数の人間に秘密が共有している状態は心理的連帯感を生むという、当たり前っちゃ当たり前な話を続けてきたわけですが、ここで話は「みゆき」に戻ります。
このマンガの場合、秘密を知っているのが一人であるため、心理的連帯感は生まれません。
しかし、実は生まれているのです。
その連帯感の相手は、マンガ上の登場人物ではなく、「読者」です。

この「みゆき」は、前に触れたとおり、「タッチ」とほぼ同じ時期に連載されていたマンガです。
同じ漫画家によって同じ時期に描かれたマンガなのですが、読んでもらえばわかるように、この二つには大きな相違点があります。
それは「主人公の独白」の数です。
独白ってのは、主人公の内面の心理をナレーションみたいな感じで言葉にしたやつです。
(あれって、なんかちゃんとした呼び方ありましたっけね?)

タッチでは、達也が独白する場面はあまりありません。
たまに出てくる程度です。
このマンガのなかでは、達也の心理描写というのは直接的な言葉で表現されるよりも、マンガ的な身振りで表されることが多い。

たとえば、弟の和也が甲子園への地区予選の試合をしていて、それを喫茶店の店番を任せられた達也がテレビで見ているというシーン。
この喫茶店に数人の客がやってきて、和也の悪口を始めます。
その客に達也はいろいろな意地悪をしたりして対抗するのですが、このシーンで達也の心理を言葉で表現しているところは一つもありません。
それなのに、達也が弟の和也を大事に思っていること、そして、内心では和也に嫉妬している部分があることをちゃんと描き出しています。

一方、みゆき。
これは全編にわたって、真人の独白で埋めつくされています。
たとえば、6巻の最初を抜き出してみます。

『咲いた、咲いた、桜が咲いた』(ナレーション部分)

若松真人「おはよう、みゆきちゃん」

鹿島みゆき「おはよう」

『わが青華高校、ありがたいことに2年から3年へのクラスがえなし』(ナレーション部分)

『これでみゆきちゃんとは3年間いっしょ!!』(ナレーション部分)

『修学旅行もいっしょ、同窓会もいっしょ!!クラス会もいっしょ!!』(ナレーション部分)

『切るに切れないかたァいきずな!!』(ナレーション部分)


こうやって書き出してみると、ナレーション部分の異常な感嘆符の多さが気になりますが、まあ、それはともかく、このナレーション部分が誰の内面心理を表したものなのかというと、真人なわけです。
このマンガでは、ずっとこんな感じで真人の内面のセリフがナレーション代わりに使われています。
タッチでは、こんなふうに、主人公の内面をそのまま文字にしたものはほとんどありません。

このナレーション部分で、真人が誰に語りかけているのかってぇと、それは読者なのです。
真人は一人で秘密を抱えている人間だから、こうして主人公が読者に語りかけるという、連帯感が生まれている。
つまり、秘密の存在が、タッチとみゆきのあいだに表現手法での相違点を生じさせているわけです。


今回はこれで終わりです。
あと一回、蛇足のような話(涼宮ハルヒ)を書こうと思ってますが。

あ、それから蛇足ついでに、タッチの実写映画の話をしときます。
少しまえにタッチの実写映画をテレビで見ました。
が、これヒドい出来でした。

タッチがなぜ優秀なのかってぇと、「重い話を軽い手法でやってる」ところだと思うのです。
あだち充ってもともと、表現方法が軽い人です。
登場人物が泣きわめいたりすることって、ほとんどない。
感情の表しかたがいつも、軽くコミカルなものに抑えられています。
ああいう軽さって、ほんとにすごい才能だと思うのです。
なかなか真似できるもんじゃない。

あだち充のマンガはテーマ自体も軽いものが多いわけですが、タッチだけは重い話です。
なにしろ、双子との三角関係ってだけでドロドロ感が強いのに、そのうえ和也が死んじゃうわけですから。
和也が死んだときのシーンでスゴいなと思うのは、あのシーンで泣き声が隠蔽されていることです。
達也のほうは、南にイタズラし、そのイタズラに自分がひっかかるという手法で悲しみが描かれるし、南が泣くシーンはあるのですが、その泣き声も電車の轟音にかき消されるという念のいれよう。
抜群にセンスがいい!

たとえば、冬のソナタでは、ヨン様が死んだ(と思われていた)ときに、友人たちが海に向かって

「チュンサーン(ヨン様の役名)、なんで死んじまったんだよぉ!」

と叫ぶシーンで悲しみを表現してましたが、こういうドロ臭さと比較するとタッチの上品さは図抜けています。

そういうセンスの良さが、タッチの実写版から微塵も感じられることができません。
達也も南も終始、泣き叫んでいるし、達也の苦悩というのも、全部セリフで表現されます。
一体、この監督は、あれだけ優れたマンガから何を汲み取ったのかさっぱり理解できません。
この監督にイタ電かけてぇ、「タッチ、タッチ、ここにタッチ」ってエンドレスで流れるやつ、
って切実に思いましたね、これ。

あ、だけど長澤まさみは可愛かった。
いままで、ぜんぜん興味なかったんですが、この映画見るとたしかに可愛く感じますね、長澤まさみ。


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2007年01月28日

秘密さえ設定しときゃ、あとは勝手にドタバタしだすんだよ、バカヤロー その二

ラブコメの作り方 その一
具体例「フルーツバスケット」




前回は、主人公が一人だけ、秘密を抱えているパターンでした。
今回は、複数の人間が秘密を抱えている(共有している)パターン。


ってことで、フルバです。


このマンガをラブコメにいれてしまっていいのかは正直、疑問です。
フルバを読んだことのある人なら、このマンガを「単なるラブコメ」とはみなしてはいないでしょうし。
ですが、ラブコメ要素もたしかにあるわけで、そこらへんには目をつぶってやってみたいと思います。


あ、本題に入る前にちょっと一言。
フルバはアニメ化されているのですが、このアニメは非常に素晴らしいです。
原作のもつ雰囲気をちゃんと大事にしながら、アニメ独自の味わいも出している。
特にオープニングのあの音楽がいいんですよね、マジで。
過度に叙情的にならず、さらりとしているのに泣かせるっていう。
マンガのアニメ化が成功した例としては、最上級に入る出来だと思うのですが、なぜか続編の話がありません。
最近のアニメ製作バブルでコンテンツの不足からエロゲーの類まで、アニメ化されてるってのになぜフルバの続編が作られないのか不思議でなりません。
需要は確実にあるはずです。
ここを読むとアメリカでも人気らしい。
しかも、アニメ化されていない原作部分も腐るほどあるってのにいったいなぜ?
切実に見たいんですけど、続編。



ってことで、本題です。
このマンガには、草摩という一族がでてきます。
この草摩一族というのは、異性に抱きつかれると十二支に変身してしまうという「秘密」を持っています。
草摩由希だったら鼠、草摩紫呉だったら犬といった具合にです。
この秘密は一族以外には他言することのできない秘密なのですが、この秘密を偶然知ってしまったのが、主人公の本田透というわけで、ここからストーリーが始まっていくわけです。


前回、「秘密を抱えた人間は他の人間と認識のズレが生じるので笑いが生まれやすい。だからラブコメには秘密を抱えた人間がよくでてくるのだ」という話をしました。
「みゆき」では、秘密を抱えた人間が真人ひとりだけ、でした。
それではフルバはどうでしょう?


フルバでは、同じ秘密を共有している人間は複数います。
草摩一族の秘密を知っている人間ってことですね。


今、私の手元にフルバ18巻があるので、この巻頭にある「フルーツバスケット キャラクター紹介」に則って話を進めます。
巻頭で紹介されるくらいですから、ここに載ってるのが主要キャラクターってことです。
まず、この見開き2ページの、右半分は本田透、草摩由希、草摩夾、草摩紫呉の四人が載ってます。
1ページを4人で占領してしまうくらいですから、このなかの透、由希、夾の三人は主役級です。


次に、見開きの左側の上部には草摩一族が載ってます。
十二支の面々に、神さまである慊人です。
この草摩一族で左ページの上3分の2くらいが占められています。
それで、この下部3分の1くらいのスペースの右側に生徒会のメンバー4人がいます。
そして、その生徒会の左に「透の親友」ってことで魚谷ありさ、花島咲の二人。


えー、それでは、このなかで「草摩の秘密」を知っている人間はどれだけいるでしょう?
まず右ページの主役級の4人は、当然知っています。
次に、左ページ、上部3分の2を占める草摩一族の11人、これも草摩の人間なので当然知っています。
ということは、見開き2ページの下部に追いやれれている生徒会の面々と透の親友二人だけが、「秘密を知らない人間」だということです。


この見開きページに載っている主要キャラクターは全部で21人います。
このうち、「秘密を知っている人間」は15人です!
パーセント表示にすると、主要キャラクターのうち、なんと71パーセントが「秘密を知っている人間」だということになってしまうのです。


「みゆき」の場合は、秘密を知っている人間が一人だけ、でしたが、フルバの場合はすんごい多いわけです。
ってことは、「みゆき」の場合とは、異なった力学が働くのです。


その力学を説明する前に、常識とは何か?ということを問題にしなければなりません。
常識というのは平たく言えば、「多くの人に常識だとみなされている事柄」のことです。
こういう言い方には、異論のある人もいるでしょう。
エドモンド・バーク由来の保守主義者なんかにはこっぴどく叱られてしまいそうですが、確かに常識というのはこういう側面をもっています。
カラスが白いと信じる百人のなかでは、カラスが白いのが常識ですし、中世に地動説を唱えたガリレオは、そういう意味合いでは常識のない人間とみなされて当然です。
つまり、常識というのは「多数派の意見」のことであり、それが真実であるかどうかとは無関係なのです。


「みゆき」で、若松みゆきと若松真人は本当の兄妹ではありません。
それが真実です。
しかし、他の連中はそのことを知らないので、「二人が本当の兄妹でない」ということは常識とはみなされません。
「みゆき」では、真人ひとりだけがいわば「常識のない人間」だったので、ドタバタも生まれやすかったのです。

みゆきに誰かが求愛する。
それを見ていた真人が嫉妬する、不安になる。
といったかたちでのドタバタです。
ここでは、真人とその他の人間の内面心理が異なっているからドタバタシーンが生きてくるんですね。
なぜ、内面心理が異なるかといえば、それは真人が「秘密を抱えている」からです。


で、フルバ。
このマンガにも、初期のころにはそうしたドタバタシーンが出てきます。
たとえば、「秘密を知らない」魚谷ありさと花島咲が紫呉の家に遊びに行くところとかがそうです。
「秘密を抱えた人間」と「秘密を知らない人間」との内面心理の格差によってドタバタ感がでてます。
しかし、次第にそうしたかたちのドタバタは、ほとんどなくなってしまいます。


いや、中盤、後半になってもドタバタシーンはあるにはあるんです。
紅葉(もみじ)や綾女(あやめ)がでてきたときは、ほぼ例外なくドタバタしてますし。
しかし、紅葉、綾女のドタバタというのは、彼らのキャラクターに拠るものであって、秘密の内部の人間と外部の人間によるドタバタ劇ってのはほとんどなくなってしまう。
それがなぜかっていうと、上で触れたように、「秘密を抱えた人間が多すぎる」からなのです。


常識ってのは「多数派の意見」のことだ、と書きましたが、フルバのなかでは「草摩の秘密」がすなわち常識と化してしまっているからです。
つまり、秘密の内部にいる人間が多すぎて、秘密の外部にいる人間がかすんでしまっている状態です。
ここまで秘密を知っている人間が多ければ、「みゆき」のように、「意識のズレ」なんてものは起こりません。
なにしろ、主要キャラクターの71パーセントが、秘密の内部者なのですから、むしろズレているのは、外の人間だとさえ言えてしまえます。
だから、秘密にまつわるドタバタが生まれにくくなっているのです。


それじゃ、ドタバタを作るときは、秘密を抱えた人間を必ず一人にしなきゃいけないのかってぇと、それはもちろん違います。
要するにこれはバランスの問題なので、たとえば主要な登場人物が20人だったとしたら、そのなかで秘密を知っている人間を2、3人にしてしまえば、秘密の内部と外部におけるドタバタを作りやすくなるでしょう。
とにかく、秘密を知っている人間をマイノリティーにしてしまえばいいのです。
そうすれば、意識のズレがおきやすくなります。


ある意味、フルバというのは、ドタバタラブコメの失敗例といえるでしょう。
その失敗の原因は、いままで書いてきたように「秘密を知っている人間が複数いて、しかもすごく多い」ってことです。
しかし、フルバは「秘密を知っている人間を複数」にしたことで、ドタバタとは別のところで成功した例でもあります。
それが次回書くことです。
つーか、本当は次回書くべきことを先に書くべきだったんだな、間違えた。
ま、いっか。



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2007年01月25日

秘密さえ設定しときゃ、あとは勝手にドタバタしだすんだよ、バカヤロー! その一

具体例「みゆき」
ラブコメの作り方 その一



登場人物がなんらかの秘密を抱えている、ってのはラブコメによくあるパターンのひとつです。
ほら、あんなのやこんなのとか、いろんなマンガ、アニメが頭に浮かんできたでしょ?


「秘密を抱えている」という設定は、「他人にその秘密をしられてはいけない」という登場人物のなかでの行動規範と、またその秘密がバレそうになって、登場人物があたふたする、というドラマ上のドタバタを簡単に演じさせることができるので、すごく便利です。
便利だからこそ、ラブコメにはよく「秘密を抱えた登場人物」がでてくるのです。


「秘密を抱えている登場人物」が一人である場合と複数である場合があります。
その両パターンを具体例をあげながら、見ていきましょう。


1 秘密を抱えているのが一人な場合 「みゆき」


あだち充の書いたこのマンガは1980年から1984年にかけて連載されていました。
「タッチ」が1981年から1986年に連載ですから、ほぼ同時期の作品です。

ストーリーをかいつまんで説明すると以下のとおり。

鹿島みゆきは、成績優秀、料理裁縫の腕前も優れ、おしとやかで何の非の打ち所もない美少女。
ところが、どうした風の吹き回しか、何のとりえもない主人公の若松真人に惚れている。
で、この二人は付き合っているのだが、真人はなかなか彼女との仲を進展させることができない。
というのも、彼には同じ名前のみゆきという妹がいるから。
この若松みゆきは実は血のつながっていない、戸籍上だけでの妹で、真人さえその気になれば恋人にだってできる存在だからである。


この、「みゆきが実は血のつながらない妹である」という秘密は真人しか知りません。
(その秘密を妹のみゆきも知っていたということが最後で明らかにはなりますが)
で、若松みゆきも、鹿島みゆきに負けず劣らずの美少女なので、他の男に言い寄られるわけです。
それで、兄の真人はやきもきしたり、悶々としたりしますが、最終的に若松みゆきは真人のことをいちばん大事に思ってるというエピソードが挟まれて終わる、っていうパターンが何回もでてきます。


この秘密を知っているのは、真人だけということになっているので、当然、真人と他の登場人物のあいだには「認識のズレ」が生じています。
若松みゆきは、複数の男から同時にアプローチされています。
だから、その複数の男たちは互いをライバル視しているのですが、そのライバルの輪のなかに真人は入っていません。
彼はみゆきの兄であるとみなされているので、恋のライバルとはみなされないわけです。
なので、竜一や安二郎といった、みゆきへの求愛者は、真人の機嫌をとろうと猫なで声で近づいてきたりするのです。
ところが、真人は自分自身を、彼らと同じ「若松みゆきへの求愛者」になりうる存在である、と認識しているので、彼らのことをこころよくは思いません。
若松真人という存在は、他から見たときと、真人本人から見たときでは認識にズレがあるわけです。


たとえば、漫才というものはボケとツッコミに分かれています。
ボケの人間が、常識はずれなことを言ってみせて、それをツッコミが常識に則った観点からその常識はずれを矯正するというのが、漫才の基本パターンです。
つまり、漫才のボケというものは、「認識のズレ」を無理やり作り出す存在だということです。
そして、漫才を見れば分かるように、認識のズレた人間というものは笑いの対象に他なりません。


「秘密を抱えている」人間というものは、他の人間とは異なった世界認識をします。
つまり、登場人物になんらかの秘密を持たせておけば、それだけで笑いが起こる土壌ができあがってしまうというわけなのです。
そして、できればその秘密は物語を根本から変えうる秘密であることが望ましい。

たとえば、「成績優秀、運動神経抜群、どこから見ても欠点のない美少女だが、実は悪性の水虫に犯されていて、いかなるときでも靴を脱ぐことができないヒロイン」なんてものがいたとしても、ラブコメ要員にはなりません。
そりゃ確かに彼女の「水虫」は秘密には違いないし、水島まこと(あ、これはいま私がつけた彼女の名前です)もその秘密をバレないように必死でしょうが、水虫を必死に隠し続けようとする水島まことの話だけでは、ストーリーが持ちません。


いっぽう「みゆき」では、ラストで真人が「実はみゆきが実の妹でない」ことをみんなに告白し、みゆき(妹のほう)と結ばれます。
これは物語の根本のところに秘密を設定していたから、こんなふうに物語を大きく動かすことができるのです。
水虫を隠すことだけに必死だった、水島まこととはえらい違いです。

やっぱり、「みゆき」のように物語の深いところまで食い込む秘密を設定しなきゃいけないのです。

次回は「秘密を複数で共有している場合」です。



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2007年01月24日

ラブコメの作り方 はじめに

萌える名前の作り方も終わったことだし、続きものの企画をもう一つやってみようかなと思って考えていたところ、こんなのを思いつきました。


ラブコメマンガにおけるパターンを抽出し、それを詳細に論理構築し、これさえ読めばたちどころに素晴らしいラブコメが書けるようになる、というブリリアントな企画です。


・・・・・・ってウソです。


いや、この企画を書こうと思ってるのは本当ですが、こんなの読んでもラブコメは書けません。
これから、私が書くことを踏襲して書けば、きっとクソつまらないラブコメが出来上がることは必然でしょう。


「ラブコメによく出てくるパターンをバカにする」ってのがこの企画の意図するところの半分です。
べつに今さら言い立てることもないですが、ラブコメなんてのはくだらないものです。
ただ単に「ほれたはれた」に過ぎない男女間の感情をドタバタにしたてあげる、ただそれだけのジャンルです。
だけど、そんな悪口をたたきながらも、私はこの「ラブコメ」ってものが嫌いじゃありません。
というか、積極的に好きなほうです。


愛が深いからこそ憎しみが掻き立てられ、憎しみが強いからこそ愛が引き立てられる。
そんな感じの、昼ドラ的愛憎をラブコメにこめて、これから書いてみようかと思っています。
って、ただ単に「ちょっとバカにしながらも、楽しんで読んでいる」ってだけの話なんですがね、ラブコメ。


ところが、この企画をやるにあたって一つ困ったことがあるのです。
それは、私がラブコメに詳しくないってことです。


たとえば、ネギま!、スクランの二つを私は読んだことがありません。
まあ、どんな話かくらいは知ってますが、ちゃんと目を通したことがないのです。


私が知ってるのは80年代のラブコメマンガの多少と、現代のラブコメのいくつかに過ぎません。
つまり、無知な人間があたかも知ったかぶって語るというソフィスト的振る舞いをしてしまうわけですが、そんなのはノーフィアー!(なんかノーフィアーの使いかた間違ってる)
パトレイバーすら見たことないのに、無謀にもロボットアニメを語ってしまった前科がすでについているので、そんな些細なことは気にしません。


だいいち、私なんてアニメじたいに全然詳しくないんだから、関係ねーっす。


というわけで、この企画は気が向いたときにでも書いてみようと思ってます。
たぶん5回分くらいはできるような感じですかね、なんとなく。




2007年01月21日

フロントミッション サード




最近、このゲームやってました。
このFM3ってかなり前のゲームなんで、今さらって感じですが。


このゲームはロボット物のシュミレーションRPGです。
自分の好きなように、ロボットをカスタマイズできるところが売りかな。
各部位ごとに自分の好きなパーツを組み合わせることができます。
武器も、メリケンサック、打棒等の格闘武器、
マシンガン、ショットガン等の中距離武器、
誘導ミサイル、グレネードランチャー等の遠距離武器など、色々とそろっており、そのなかから、自分好みの組み合わせを選ぶことが可能。


このフロントミッションシリーズって、私は初めてやるのですが、「難易度が易しすぎる」という世評があるみたいです。
たしかに、ゲームをあまりやらない私ですら、ほとんど苦労することなく進められます。


たとえば、敵の巨大移動要塞を撃破するミッションのとこで、イマジナリー・ナンバーという人間たちがでてきます。
このイマジナリー・ナンバーってのは、「遺伝子操作によって生み出された、知性、感情面において完璧な人間」だそうです。
そんな完璧な人間が操るロボット部隊に、ごくごく一般人である私が太刀打ちできるのでしょうか?ぶるる。
きっとロボットも強力なやつがでてくるだろうし。
ボコられたらどうしよう?
怖いです。


ところが、そんな私の緊張感とは裏腹に、なぜかイマジナリー・ナンバーたちは左手にメリケン・サック(みたいな武器)だけの軽装備で登場。
こちらの装備はというと、マシンガン、ショットガン、ミサイルランチャー等の重装備。
離れてマシンガンとかを撃てば反撃されることもありません。
イマジナリー・ナンバーたちの特殊能力には多少てこずったものの、難なく撃破に成功。


イマジナリー・ナンバーというのは、「知性、感情の両面において完璧」な人間のはずですが、どうしてこんな軽装備で出撃してきたのか、その意図が図りかねます。
凡庸な知性しか持ち合わせてない私ですら、マシンガン相手にメリケンサックで立ち向かっては勝ち目がないことくらいわかります。
知性の使い方を根本的なところで間違えてるような気がしてなりません。


それから、このゲーム、ストーリーがすんごい変です。
最初のところで、アリサ編とエマ編に分岐するらしいのですが、私がやったのはエマ編のほう。


ストーリーの冒頭で日防軍の基地で爆破事故が起こります。
主人公の妹はその基地で働いていたらしいです。
それで、主人公は心配して、基地に行って妹の安否を問い合わせたりするのですが、基地の守衛がつれない奴で「とりつぐことはできない」とかなんとか言って拒否。
怒り心頭に達した主人公は、スパイらしき女の口車に乗って、ロボットに乗り込み、基地に潜入。
当然のように、基地の兵士に見つかった主人公たちは、日防軍部隊と戦闘に。
もちろん、バンバン兵士たちを殺していきます。
・・・・・。


妹が心配なのは分かりますが、これいくらなんでもやりすぎでしょ?
軍の基地にロボットで潜入しちゃいけないくらい、常識のない私にだってわかります。
軍も新型爆弾の実験をしてたらしく、落ち度はたしかにありますが、この潜入時点で、主人公はその話を知りません。


このゲームのオープニングに


「人間の愚かさは変わらない」


とかいう、教訓めいた文言がでてきます。
人間という存在自体が愚かかどうかは私には分かりませんが、この主人公が愚かだということだけは断言できます。
愚かすぎます。
私はこの主人公に毛ほどの共感も得ることはできませんでした。
だって、バカなんだもん。

2007年01月18日

萌える名前の作り方番外編 桜蘭高校ホスト部



このアニメは私のお気に入りです。
かなりのフェイバリットですね、これ。

アニメが良かったので、マンガも少し読んではみたのですが、個人的にはアニメのほうがずっと好きです。

庶民の出ながらも成績優秀な藤岡ハルヒが特待生として、金持ち学校の桜蘭高校に入りホスト部と出会う、そこでのドタバタがこのアニメの見せ所です。

実はこのアニメのギャグ自体はそれほど面白いものではありません。
まず金持ちの世間ズレを笑う、というギャグは、おぼっちゃまくん、白鳥麗子でございます、等々、いくつものマンガで散々やられてきたことですし、目新しさがないです。
こんなこと言っちゃなんですが、どういう方向性で笑わせたいのかということを考えると、その方向性は極めて平凡なものだと思います。
(いつもギャグがスベってる私に言われたかないでしょーがね、ホスト部も)

しかし、このアニメは見せ方がとても上手いのです。
なんといっても登場人物がよく動くし、色彩もカラフルだし、ただ見ているだけでわくわくして楽しい。
ギャグの質が平凡という欠点も、こういう質の高いアニメでやられると、かえって長所に見えてくるから不思議です。
センスの高いギャグよりも、ある程度ベタなほうが、安心して楽しめますしね。

見たことのない人は、この「桜蘭高校ホスト部」という名前で妙な嫌悪感を持ってしまうと思います。
実は私もそうでした。

ホスト部って・・・ナニこの名前、いかにも下らなそう、とか思って。

しかし、このアニメを見終えたあとは、あなたもきっと、ハルヒと一緒に
「自分はホスト部が大好きです!」
と叫んでいるはず(たぶん)。

疲れて難しいことを何も考えたくないってなときには、このアニメをオススメします。
(なんか私は誉めるのが下手ですね。大好きなアニメでも半分ケナしてるし)


一応、これは萌える名前の作り方の一環として書いているので、ホスト部のメンバーの名前も取り上げます。

藤岡 ハルヒ
須王 環
鳳 鏡夜
常陸院 光
常陸院 馨
埴之塚 光邦
銛之塚 崇


やった!!!
奇跡的にレアな名字がそろい踏みしてます。
これならなんとかなりそうかも?
(自分でこのアニメを選んだくせにこんな言い方もどうかと思いますが)

前の文章ですっかり書き忘れていたのですが、レアな名字をつけられているということは「非日常憧れ型」のキャラクターであることを意味します。

当たり前といえば当たり前なのですが、作者が読者と近い「共感型」のキャラクターを作ろうと思ったときに、常陸院なんていう名字をつけたりしません。
どこにでもいそうな少年を描こうと思ったら、ごく普通の名字をつけるのが当たり前ですよね。

ホスト部のメンバーは、
須王、鳳、常陸院、埴之塚、銛之塚と変わった名字ばかりです。
この6人はみんな、金持ちのぼんぼんです。
そして、それぞれにマンガ的なキャラづけがされています。

たとえば埴之塚 光邦(ハニー先輩)のロリショタ系とか、
鳳 鏡夜の「いつでもクールで金に細かい」とか、
常陸院ブラザーズ(あ、これ双子です)の「他人をオモチャにして楽しむ快楽主義者」とか。

こうした、「変わった名字+キャラ重視」の登場人物のなかに、一人だけ、普通の名字の登場人物がいます。

「藤岡」ハルヒです。

このごくごく平凡な名字をもった少女は、ホスト部のなかで一人だけ庶民、しかも女という役回りを与えられています。

このように「ホスト部」のなかでは、「非日常憧れ型」と「共感型」の二つの手法で名前がつけられています。

須王 環ら金持ち集団が「非日常憧れ型」、藤岡ハルヒが「共感型」です。

なぜ、このように異なる性質の名前が混在しているのかという理由は二つ考えられます。


一つは、金持ちと庶民の境界線を名前で分けているということです。

このアニメには「金持ちの世間ズレを笑う」というタイプのギャグがよく出てくるのは上で書いたとおりです。
世間ズレした金持ちは、「非日常的」なものです。
それで、このキャラクターは「非日常的」なんだということが、一目で分かるように、埴之塚、常陸院という変わった名字がつけられているわけです。
こうした、非日常的なキャラクターのなかに入れられた、「藤岡」ハルヒの役割は、これらのキャラをツッコむことにあります。

もっともツッコむとは言っても、漫才でのそれのように、声を張り上げて相手の間違いを訂正するということをハルヒはあまりしません。
だいたい、呆れたようにぼそっとつぶやくことが多い。

しかし、ツッコミの役割というものを「非日常的なボケを常識的な日常へ観客を戻すこと」だと考えれば、ハルヒがツッコミを担ってると

いう話も理解してもらえると思います。
そういう役割だからこそ、ハルヒには藤岡なんていう、われわれの日常に近しい、普通の名前がつけられているのです。


次の理由なんですが、この桜蘭高校ホスト部はもともと少女マンガが原作なわけです。
とすると、読者が自分をかけあわせてみるのは、当然唯一の女であるハルヒです。
だから、感情移入しやすいように、普通の名字をつけていると考えられます。
ホスト部は、女一人の美少年複数という、逆ハーレム状態なんですが、主役のハルヒは恋愛事にとことん鈍い、冷めたキャラとして設定されています。
彼女には女らしい媚びがほとんどありません。
それなのに、ホスト部の面々からはもてまくっています。
ある意味、これって女の理想なのかもしれません。
男には媚びないけど、男(それも複数の美少年)からちやほやされるってのは。

ところで、このアニメを一話からずーっと見たことのある人なら分かると思いますが、このアニメは前半と後半ではかなり趣きが違います。

前半は、純然たるコメディで、ホスト部の面々もいかにもキャラクター的な振る舞いをします。
ハルヒ以外のホスト部のメンバーがそれぞれ好き勝手に振る舞い、ハルヒがそれに呆れるというパターンが多い。
前半部分での彼らは、その名字のとおり、「非日常的な」キャラクターです。
別の言いかたをすれば、内面性を感じさせないということです。
普通に生きている人間なら、だれもが多少の悩みや心の痛みを感じていますが、ホスト部の面々はそういう内面があるのだとは感じさせません。
悩みなんてなにもないかのように、カラフルな画面のなかで、彼らははしゃいだり、おどけたりしています。

ところが、後半になると、いかにもマンガ的なキャラクターであった彼らも、それぞれに実は心に傷を負っていたことが描かれます。
もっとも、そうした内面のトラウマの描写があるのは須王 環、鳳 鏡夜、常陸院 光、常陸院 馨の四人で、ハニー先輩とモリ先輩は、ずっと「非日常的な」キャラクターのままですが。

非日常的なキャラにも「実は内面の葛藤や苦しみがあるんだよ」という物語上の流れがあって、そこが視聴者を感動させるポイントになってます。
つまり、最初は「非日常憧れ型」であったものが、「共感型」に変容していくわけです。
須王、鳳、常陸院というレアな名字が、藤岡という普通の名字に近づいていくような感じです。
ホスト部の連中は、ハルヒと出会うことで、心を開いたり、心の傷を癒したりしていくわけですが、これを考えると妙にシンクロしてますね。


これと同じようなパターンのアニメって他にもたくさんあって、たとえば、ハルヒつながりということで「涼宮ハルヒの憂鬱」なんかもそうです。



涼宮ハルヒは、最初、傍若無人で、しかも電波がはいってるとんでもない女として登場してきます。
彼女の気ままな行動に、キョンは振り回されまくるわけですが、後半になると、ホスト部と同じように、彼女の内面描写がなされます。
「非日常的」なキャラクターの、内面描写による「共感型」キャラへの変容という意味では、これも同じパターンです。

アニメでは、そのシーンがなかったのですが、小説のほうを読むと、他の朝比奈みくる、長門有希も、まったく同じ変容が見て取れます。
とくに、長門有希。
知らない人のために説明すると、この長門というのは、宇宙人につくられたアンドロイドなのです。
だから、感情なんてないのがとうぜんですが、この長門でさえ、「実は内面があって、ちゃんと感情がある」ように描かれています。
そして、その感情があるという部分に、キョンは惹かれていくのです。


桜蘭高校ホスト部、涼宮ハルヒの憂鬱、この二本のアニメは、2006年にとても人気があったアニメですが、ある角度から見るとどちらも同じパターンを持っています。


それで、今度はこれの逆バージョン、つまり、最初は内面描写が優っているのに、次第にキャラクター化していく、マンガ、アニメはなにかないかと考えたのですが、ちょうどいいのが見つかりませんでした。
いや、一つ思いついたのが、「エンジェル・ハート」だったのですが、「非日常憧れ型」と「共感型」という仕分けでは、上手くいかないのです、これ。
まあ、いつか書いてみたいと思ってるんですけど、シティ・ハンターとエンジェル・ハート。

これで萌える名前の作り方は終わりです。
こんなくだらない企画をここまで長くやることになるとは思いませんでした。
だけど、書いてて楽しかったかも。
かなり、こじつけが多かったですが。

2007年01月13日

萌える名前の作り方番外編その2

[前回の続き]

探偵小説のなかで、もっともキャラ萌えさせてくれるのは「シャーロック・ホームズ」シリーズです。
シャーロック・ホームズというのは、誰もが認める「世界一有名な探偵」です。
探偵小説にまったく興味のない人だって、この人の名前を知らないなんてことはありません。

しかし、それほど有名な探偵だというのに、ホームズの手がけた事件というのは、はっきり言ってトリックがしょぼい!

実例をあげましょう。
「まだらの紐」という短編小説があります。
これは、作者のコナン・ドイルがホームズ・シリーズの短編小説ナンバー1に選んだくらいの小説です。
よっぽどの自信作なんでしょう。

では、それほどの自信作のストーリーをちょっと紹介してみましょう。
(トリックもばらしてしまうので、定年退職したらマレーシアにでもショートステイして、ホームズシリーズをじっくり読破するのが夢、なんていう人は読んじゃいけません)


英国サリー州のロイロット家に住む双子のストーナー姉妹の姉ジュリアが、結婚前に謎の死を遂げる。死の間際に「まだらの紐(原語ではband)」という言葉を発したとのことだ。妹ヘレンがホームズに事件の解決を依頼する。というのも、屋敷の改築で、ヘレンがジュリアが使っていた部屋を利用することになり、夜中に不穏な物音を聞いたためである。

ホームズとワトスンはその部屋に入り、呼び鈴の紐が鳴らないこと、通風口が外ではなく義父のロイロット博士の部屋に向けて開けられていること、ベッドが固定されていることなど不審な点に気づく。


どうも、あからさまに通風口が怪しいです。
なにしろ隣の部屋には義父がいるわけですから。
しかし、この通風口は人間が通るには狭すぎて、義父が直接ジュリアを殺したということではなさそう。
さて、どうやって殺したのでしょう?


答え
義父が毒蛇を使って、ジュリアを殺した。


え?毒蛇?・・・・なんじゃ、そりゃああ?!


義父は、殺人のために毒蛇を訓練していたらしいです。
通風口を通って、呼び鈴の引き綱を伝って上り下りすように。
そうした訓練が実ってジュリア殺害を成し遂げたというわけです。

・・・・なんか書いてて虚しくなってくるような、しょぼいトリックです。
私がこの小説を読んだのはまだ子供のころだったのですが、子供の未成熟な頭をもってしても、このトリックのしょぼさには唖然とさせられました。

死人に鞭打つようで心苦しいのですが、ジュリアもジュリアです。
なぜ、毒蛇に咬まれたってのに、「まだらの紐」なんていうわけのわからないことを言うのでしょうか?
普通、蛇に咬まれたら
「うっわ、蛇に咬まれたぁ、やべーよ、これぇ!」
って言いませんか?
それが「まだらの紐」なんていう、意味不明なことを口走るとは、ドジっ娘ぶりにも程があります。

こんな小説がコナン・ドイルにとっての自信作なんだから、あとも推して知るべしといったところでしょう。

それでは、こんなしょぼしょぼトリックが満載のホームズシリーズがなぜこれだけ人気があるのでしょう?
その理由がキャラ萌えなのです。

ホームズのキャラクター設定は、たしかによくできています。
ホームズのキャラ設定のなかで、もっとも秀逸なのが
「初めて会った人の素性を言い当てる」という特技です。

この特技によって、ホームズはその人物の経歴だったり、利き手だったりを瞬時に見抜いてしまいます。
こうした常人離れした特技がホームズをとても魅力的な人物にみせています。

もっとも、この特技自体も冷静に考えればおかしいところだらけですが。
たとえば、依頼者の左手にヤニの黄色いしみがついていることから、左手でパイプを持っている、つまり利き手は左手だと推論するシーンがあります。
しかし、たとえば私は利き手は右手なのですが、煙草は左手で持っていることのほうが多いです。
なにか書きものをしているときなんかは、右手がふさがっていますから左手で煙草をもったほうがいいですし、逆に、右に灰皿があるときなんかは右手で煙草を持ちます。
要するに煙草を持つ手というのは利き手とまったく関係ないんです。

まあ、そんなツッコミはともかくとして、ホームズに対する人気は、マンガのキャラクターに対する人気とかなり似かよったものです。

なんと言ったらいいのかな?
フィクションのなかに出てくる登場人物に対する読者の欲望というものには二つあると思うのです。

一つが自分に似通った人物に感情移入してみたい、という欲望です。
自分と同じように、日常に溺れるようにして生きている人物が苦悩したり、またその苦悩から解放されたりするところを見て共感するというタイプの欲望です。
夏目漱石、村上春樹の小説はこっちのタイプですね。
だから、変な名字の主人公なんてのはでてこないのです。
鈴木とか、田中なんていう普通の名字のほうがしっくりきます。
こうした欲望のことを、便宜的に「共感型」とでも呼ぶことにします。

もう一つが、自分とはまったくかけ離れた、浮世離れした人物を見てみたいという欲望です。
われわれ凡人というものは、日常のくだくだしい事柄から抜け出すことができません。
世間のしがらみや、つまらない自意識や、生きていくにはどうしたって必要な金や、そうしたもろもろの日常的な事柄にとらわれて生きていくしかないのが、われわれ凡人のつらいところです。
だから、せめてフィクションのなかでだけは、そういうわずらわしいこととは無縁な人物を見てみたいと思うのは自然な感情だといえるでしょう。

たとえば、主人公が時代がかった大恋愛をしていたりとか(冬ソナ)、
主人公が木の葉の里を救うために、他の里の忍者と戦っていたりとか(NARUTO)、
まったく仕事をしているそぶりがないのに、なぜか家出少女を一人やしなうだけの甲斐性があったりとか(銀魂)、
そして、民間人にもかかわらず、なぜか殺人事件の解決を警察から依頼されたり(名探偵)とか、
そういうわれわれの日常とは隔絶したところで、われわれとは違う特殊な人間を見てみたいと思っているのです。

冬ソナには超人的な人物は出てこない、とか言われそうですが、ヨン様はあのドラマのなかで、交通事故に二回もあっています。
普通の人間は人生で二回も交通事故にあったりしません。
つーか、どこまで不注意なんだよ、ヨン様。
もっと左右確認して歩けよ。

こういう、日常から遠く離れた人物を見てみたいという欲望のことを、「非日常憧れ型」と呼ぶことにしましょう。
(うーん、ネーミングセンスが悪いな、これ。まあ、いいや)


名探偵というものは、こういう欲望のもとに生み出されたキャラクターです。
仕事内容が、謎に満ちた殺人事件を解決すること、だという物語上における役割は、NARUTOにおけるうずまきナルトの役割が「木の葉の里を救うこと」だということと似通っています。
どちらもその役割に現実感がまるでありません。
そして、ナルトが螺旋丸などの超人的な活躍を見せて混乱した物語を収束させるのと同じく、名探偵も超人的な推理能力で混乱した殺人事件を終結させるのです。

ただし、ここで面白いことがあります。
物語上での超人的な活躍というところでは、ナルトも名探偵も似てはいるのですが、一つ決定的に違うところがあるのです。
それは、「物語のなかで個人的な悩みを見せるかどうか」ということです。

まずはナルトから見ていきましょう。
ナルトは九尾の狐を、体内に封印されたという設定になっていて、それが原因で小さなころから他のガキどもにいじめられています。
ナルトという少年はよく言えば竹を割ったような性格、悪く言えば単純バカで、あまりそうしたイジメをトラウマとして抱えてはいません。
しかしガアラと戦ったときのセリフ

「一人ぼっちはさびしいよな」

などで見られるように、孤独に苦しむ一人の少年としての素顔が物語のなかでなんどかあらわになっています。
こういう孤独がつらいという感情はだれにでもある、ごく普通の感情です。

次に名探偵です。
まあ、名探偵といっても色々あるわけで、これはすべての名探偵にあてはまることではないのですが、なんというか私のなかにある抽象的な名探偵像ってことですね。
名探偵が自分のトラウマだったり、個人的な悩みを語ることはあまりありません。
物語のなかで名探偵が悩むのは、たいてい殺人事件が上手く解決できないということであり、個人的なトラウマで苦悩することはまずありません。
たとえば、子供時代にイジメにあって、それが原因で対人恐怖症に悩まされている名探偵というのがいるでしょうか?
いません。
名探偵はそういう個人的な悩みからは超越した人物として描かれるのが普通です。


それでは、上の「共感型」と「非日常憧れ型」にナルトと名探偵を当てはめていきましょう。

まず、能力面ですが、これはナルト、名探偵ともに「非日常憧れ型」です。
両者とも常人にはとても不可能な特殊な能力をもっています。

次に、性格面です。
これはナルトのほうが「共感型」なのに対し、名探偵のほうは、ここでも「非日常憧れ型」です。


こうしてみると、名探偵というものが、いかに極端なものかがよくわかります。

たとえば、「文学的」という言葉があります。
なにを文学的だとみなすのかは人それぞれでしょうが、「文学とは人間を描くものだ」という言い方がありますね。
人間の精神の内部を詳しく描写していくのが文学だという考えかたです。
(今では古い文学観なのかな?まあ、どうでもいいけど)
そういう意味で「文学的」という言葉を使うとき、うずまきナルトと名探偵のどちらが「文学的」でしょう?
これ、あきらかにナルトのほうが文学的なのです。

まあ、ナルトの内面描写というのは子供向けあって稚拙なものですが、人格まで超絶的な名探偵と比較すると、ナルトのほうが文学的になっちゃうのですね、これが。

ここで注意が必要なのですが、探偵小説自体がNARUTOよりも非文学的だということではないのです。
探偵小説のなかの登場人物(除名探偵、含犯人)が、それぞれの内面を吐露する場面はよくあります。
そういうことを考えると、探偵小説自体が非文学的とはいえません。
ここで私が言ってるのは、名探偵というキャラクターが非文学的なものだということです。

ある意味で、名探偵というのは、そこらのマンガ、アニメキャラクターよりずっとキャラクター的なのです。
キャラクター化が極限までいった存在、それが名探偵なのです。
昔から中国では仙人伝説というものがありますが、名探偵というのは仙人に近い存在なのかもしれません。
超人的な力を持っている、世事には拘泥しない、などの意味において。
(本当はもう一つの共通点があるのですが、面倒なので省きます)

と、ここで萌える名前の作り方を終わってもいいのですが、せっかくなので、この「共感型」と「非日常憧れ型」を使って、一つアニメを語ってみたいと思います。

ふと気づいたのですが、新年明けてから、アニメのことについてほとんど語ってないし。
年明け後の記事の内容を記すと、
ぬるぬる、ぬるぬる+小梅、エウレカ、アーノルド坊や(ぷっ、なんだこれ?)、ゲーム、ゲーム、ぬるぬる、名探偵。
こんなんじゃ、アニメのブログとはとても呼べません。

まあ、このアニメは、あまり萌える名前とは関係なかったりするのですが、それでも無理やりにでも語ってみましょう。
いつかは、このアニメについて書くつもりでもいたことだし。

ということで、次回は「桜蘭高校ホスト部」の話です。



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2007年01月12日

萌える名前の作り方番外編その1

[実は、この萌える名前の作り方で書いてきた、「名前のつけ方」と同様の手法を使って主人公の名前をつけている小説のジャンルがあるのです。
その小説のジャンルとはなんでしょう?
ってのが次回書くことです。]

これが、前回の最後の文でした。

さて、この小説のジャンルを言うまえに、この小説ジャンルに含まれる主人公たちの名前を書き出してみましょう。


金田一耕助
明智小五郎
法水麟太郎
浅見光彦
神津 恭介
御手洗潔
神宮寺三郎(これはゲームですが)


私は、萌える名前を作るには、レアな名字のほうがポイントが高いと書きました。
どうでしょう?
レアな名字のオンパレードです。
普通の名字を探すのがむずかしいくらい。

もうお分かりいただけたかとは思いますが、その小説のジャンルとは「探偵小説」です。
(他にも推理小説といったり、ミステリと呼ぶこともありますが、私は探偵小説っていう言い方がいちばん好きです。なんか、胡散臭いでしょ?探偵小説って呼び方)

マンガ、アニメと近いライトノベルを除けば、こうした名前のつけ方をしているのは、たぶん探偵小説だけだと思います。

たとえば、夏目漱石や村上春樹の小説に、こんなけったいな名字の主人公が出てくるでしょうか?
漱石の小説の主人公が金田一とか法水とかいった名字だったりしたら、あからさまに「変」だと思いませんか?
「明暗」の主人公が金田一とかだったりしたら
「プッ、なにその変な名字(失笑)」と思ってしまうはずです。

村上春樹の小説にいたっては、ほとんどが一人称で書かれているせいもあって、主人公の名字すら覚えてません。
というか、主人公の名字自体が出てこないことが多いです。

「金田一君って、独特のユーモアのセンスがあるのね」

なんてセリフが「ノルウェーの森」に出てきたとしたら、ノルウェーの森に佐清(すけきよ)が徘徊しはじめてしまいます。
そんなの断じて許しません!(ノルウェーの森ってそういうことじゃないですけどね)

なぜ探偵小説だけが、萌える名前の作り方と同じ手法で名探偵の名前をつけているのでしょう?
それには探偵小説がどういう小説ジャンルなのかを知らなければいけません。

探偵小説の最大の魅力というのはなんでしょうか?
それはもちろん、「謎解き」です。

どう考えても解決不可能に見えた難事件が、名探偵の卓越した知性によって見事解決する。
そこが探偵小説の最大の見せ場です。

この見せ場というものには、二つの意味あいがあります。

一つは小説家と読者の知恵比べという意味合いです。
探偵小説のなかには、「読者への挑戦状」なんてものが挟まれていることもあります。
あれを最初にやったのは、エラリィ・クイーンでしたかね。
小説家が、物語のなかに色々な謎、伏線をしかけておいて、読者がそれを見破って真相に近づけるかどうかという、一種の知的遊戯です。

ちなみに私はこれが嫌いです。
なぜって、小説家が勝手に決めたルールで、相撲をとらされてるわけですから。
登場人物が右利きか左利きかなんて覚えてねーよ。こちとら、そんな細かいところまで覚えられる繊細な脳みそ持ってねーんだよ!
なんてふうに憤りを感じてしまうのです。
自慢じゃありませんが、私はいままで探偵小説を読んで、推理があたったことなんて一度もありません。あはは。


・・・・あ?そーいえば私もいちおう名探偵でした(つーか、この設定、もはやぜんぜん意味ないんですけど・・・)。
ですが、実際の事件は小説とは違いますから(まだ、その設定まもるつもりらしい、がんばれ、ふぁいと・おー)。


見せ場のもう一つの意味合いは名探偵の活躍を楽しむ、というものです。
難事件というのは、カオス(混沌)です。
普通じゃ考えられないことが起こります。

密室殺人だったり、登場人物すべてにアリバイがあったり、ものすごく変な死に方をしたり(逆さまになっている、首がちょん切られている等々)。
ふつうの常識ではありえないことが起きて、人々は困惑し、混乱します。
どうしたって、この謎は解けそうにないからです。
人間というものは、目の前でわけのわからないことが起こると不安になります。
しかも、この場合は殺人事件なのだからなおさらです。
殺害方法が謎に包まれたままの状態であるということは、「自分だっていつ殺されるのかわからない」ということですから。
だから、登場人物(それに読者)は、不条理な死の不安におびやかされています。

しかし、心配はいりません。
そのうち、名探偵が登場してくるからです。
まあ、名探偵が登場してきたところで、2、3人の追加死人がでることは覚悟しなきゃいけませんが、名探偵というのは必ず事件を解決してくれます。
まったく解決不能にみえていた数々の謎を、名探偵たちは超人的な推理で解き明かし、そのうえ懇切丁寧な解説までつけてくれます。
いままで、カオスが渦巻いていた無秩序な物語空間は、ごく普通の物理原則が通用する、われわれの見慣れた日常へ回帰するのです。

こうした離れ業をやってのけるくらいですから、名探偵というものは「超人的」でなければなりません。
年金の受取額の大小に頭を悩ます、普通のおっさんであっては困るのです。
カオス(非日常)を収束させ、平穏な日常を取り戻す役割が名探偵なわけです。
つまり、非日常と日常の境目に、名探偵は立っているわけです。
そのような特殊な立ち位置の人間が、どうして平凡でいられるでしょう。

ここでは「平凡」という言葉を使いましたが、これは、「ごく普通に生きている我々のような存在」というくらいの意味です。
普通の日常にどっぷりとつかりながら生きている我々とは質的に異なる特殊な人間、それが名探偵なのです。

なんか抽象的すぎてわかりづらいので、もっと簡単に言うと、名探偵というのは「架空の物語のなかでだけ存在しうるキャラクター」だということです。
探偵小説というのは、形式的にはその名のとおり「小説」なわけですが、こういう視点から見ると、夏目漱石とか村上春樹の小説とはかなりかけはなれた存在です。
むしろ、ドラゴンボール、ナルトとかのマンガのほうに近い。
孫悟空やナルトが、「選ばれた特別の存在」であるように、名探偵というのも選ばれた特別な存在なのです。

漱石の小説を読んで、「キャラ萌え」という感情が発動されることはまずないですよね。
だけど、マンガ、アニメなら「キャラ萌え」は発動します。
では、探偵小説は?
ばりばりにキャラ萌えします。
探偵小説にでてくる探偵は、すべてがそうだとは言えませんが、変人奇人ぞろいです。
もし、こんなやつが実在してたら、きっと生活するの大変だよ、と思わせてくれる濃いキャラクターの持ち主が多い。
奇人変人タイプでない場合は、浅見光彦のように、お洒落でハンサムという、女にキャーキャー言われるタイプなんてのもあります。
これなんか、アニメ用語に変換すると、腐女子むけってことですね。

長くなったので、続きは明日にでもアップします。



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2007年01月11日

ぬるぬるの果てにあるもの(ってなんだ、このタイトル?)

本当は別の記事アップしようかと思ってたんですけど、これがあったので・・・。

秋山は反則行為で失格、秋山vs桜庭はノーコンテストに=Dynamite!!
http://sports.yahoo.co.jp/hl?c=sports&d=20070111&a=20070111-00000014-spnavi-fight

しかし、スキンクリームなら大丈夫だと思っていたってのは苦しい言い訳ですね。
本当にスキンクリームだったのかどうかも怪しいもんだと思いますが。

それから、これノーコンテストになってますが、秋山の反則負けじゃないんですか?
なんでノーコンテストなんだろ?

しかし、秋山って柔道時代もぬるぬる問題起こしてるのに、なんでまた同じことをするんでしょう?
普通の感性だったら、一度そういう不正をして問題になったら、二度と同じことをしようとは思わないもんでしょ?
なにしろ一度ならまだしも、二度も不正をしたということなら、世間が許すはずもありません。
特に、今の秋山はプロの格闘家なわけで、ファンの人気というものを無視することなんてできないはず。
それなのに、平気でこういうことをできる秋山は本当に不思議です。

裏で卑怯な手を平然と使う一方で、試合前にセコンドたちと一緒に、正座して一礼するクサいパフォーマンスしたり、試合後のマイクパフォーマンスで、清原相手に泣かせるようなことを言ったり。
どうも、ちぐはぐな感じがするというか、私は秋山という人間がよく理解できません。
秋山本人の意識のなかでは、これらの相反する行動がどう折り合いつけられてるんでしょーかね?
ただ単に、秋山が偽善者だから、という理由も考えられるのですが、私は違うと思うのです。
裏では平気で汚いことをやっていながら、社会的な利便を考えて表面を綺麗にしておくというタイプの「悪人」だとは思いません。
というか、そういう悪人でいられるほど、秋山って頭が良さそうには思えないのです。

なんというか、秋山って、非常に自己愛が強い感じがしますよね?
たとえば、秋山は「柔道を愛してる」的な発言をしたり、パフォーマンスをしたりしますが、それは吉田の「柔道ラブ」とは微妙に違っているように思えます。
今まで自分がやってきた格闘技に、誇りを感じたり、愛着を感じたりというのは人間として当たり前のことであって、吉田の「柔道ラブ」もそうした自然な感情の表れでしょう。
ですが、秋山の場合はそれがちょっと違うものに感じられてしまう。
秋山は柔道そのものを愛してるというより、柔道をやってきた「自分」が好き、というふうに感じられてしまうのです。
もし柔道そのものを愛していたんだったら、道着をぬるぬるさせるなんていう行為は絶対しないでしょう。
それは柔道を汚す行為だから。

筋トレにこだわって、ムキムキボディを誇示してみたり、クサいパフォーマンスをしてみたりと、秋山がナルシストであることは明白なように思えるのですが、ならどうして汚い手を使うのかということは、正直よく分からないのです。
汚い手を使うということと、自分が大好きという意識は衝突しないんでしょうか?
卑怯者と世間から罵られるのは、ナルシストにとってすごく嫌なものだと思うんですが。

ひょっとしたら、秋山の意識のなかでは、自己愛が肥大してしまっていて、自分と他者との区別がついていない状態なのかもしれません。
「自分のやることは周りから許してもらえる」という根拠のない思い込みが秋山のなかにあって、それで多少の卑怯なら平然としてしまえるのかも。
もし、そうだとしたら、秋山というのは非常に興味深い人物です。
普通、こうした幼児的な考えは成長していく過程でいろいろな壁にぶつかって、消え去ってしまうものです。
この「甘え」がいまだに保全されたまま、大人になるってのはかなり珍しい。


前にも書いたように私は秋山が嫌いなんですが、こうやって考えてみるとちょっと面白く思えてきました。
少なくとも、これからウォッチングしていく価値はあるかなあ、なんて感じがしてます。

それからぬるぬる問題の詳細を知りたいひとはここへどうぞ。

カクトウログ
http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2007/01/post_6b39.html




2007年01月10日

メタルギアソリッド3

二 度 と 戦 い た く な い ボ ス
http://www.kajisoku.com/archives/eid931.html


私の場合、いちばん苦労したのは
メタルギアソリッド3のラスボスですかねえ。



このラスボスは名前もザ・ボスというのですが、なぜこいつを倒すのが難しいかというと、戦場が花畑だからです。

むせ返るほどの大量の白い花が咲いている花畑。
そこで最後の戦闘が行われるのですが、敵のザ・ボスも白い服を着て、しかも白髪。
白い背景に、白い標的がいるわけですから視認できません。うぐぐ。
周りを見渡しても、ザ・ボスがどこにいるんだかわかりゃしないのです。
きょろきょろあたりを見回しているうちに、いつのまにか近づかれて攻撃されてます。
しかも、攻撃する際に、こっちの持っているマシンガンとかショットガンを解体していきやがる。

コルァァァ!

そういう中学生のイジメみたいな姑息な手はやめろやぁ。
「先生、西園寺くんの上履きが見つからないそーでーす」的なの嫌いなんだよ。

このザ・ボスというのは、主人公であるスネークのかつての師匠で、とある事情によりスネークとわかれて戦っているのです。
その理由というのが最後であかされて、かなり感動的です。
この最後の戦闘でも、途中からとても感動的な音楽が流れます。
この音楽が素晴らしくよいのですが、さすがにどんな素晴らしい音楽であっても3時間も聞かされりゃ、うんざりするってなもんです。

ええ、このラスボス攻略には負けたらロード、負けたらロードを繰り返して、3時間もかかっちまいました。
はてしない苦労のすえに、やっとラスボス倒したときには、達成感というより、「ああ、やっとこの苦労から解放される」という安堵の気持ちのほうが強かったかも。


メタルギアソリッド3では、他にも色々苦労しました。

途中の中ボス、ジ・エンドという爺さんのスナイパー。
こいつと戦う直前にスナイパーライフルを手に入れるのですが、手に入れたばかりだから、私は使い方がわかりませんでした。
スコープの覗きかたを知らなかった。悲。
この爺さんとの戦闘は広いフィールドでのスナイパー合戦なのですが、こっちもスナイパーライフル持ってはいるものの、あからさまに宝のもちぐされです。
なにしろスコープの覗きかた知らないんだから、そんな状態で撃ってもあたるわけない。
(たぶんスコープ覗かなきゃ、ゴルゴ13だって当てることができないでしょう)
結果、逃げ回る爺さんを必死で追いかけ接近戦に持ち込むしかありませんでした。
ところが苦労してダメージ与えてもこの爺さんは、天気が晴れると光合成して体力回復してしまうのです。
光合成って・・・なんじゃそりゃ?
ここは2時間くらいかかりました。
だれか教えてほしかった、スナイパーライフルの使い方。


いちばんムカついたのは、ザ・ソローです。
この死者と交信する霊能力をもつという敵との戦闘(?)はわけがわかりません。
ソローは既に死んでいるらしいので、戦う場所もこの世ではありません。
三途の川みたいなところをえんえん歩かされたあげく、最後にザ・ソローと出会って、接触すると死んでしまいます。えごご。
銃を撃っても、意味ありません。
なにしろ相手は死人ですから。
何度やっても結果は同じ。
長々と川を歩いて、最後にソローに触れてあの世行き。。
どうすりゃいいんだかわかりません。
2時間、この不条理きわまりない三途の川に苦闘したあげく、知り合いのチンピラ(ゲーム好き)に聞いてやっとわかりました。
これ、死んだあとに回復する注射だか、薬だかを飲めばいいとの事。
そうすれば、再生できるのです。


・・・それ戦闘じゃないじゃん?
私はこのメタルギアソリッドシリーズが大好きなんですが、この不条理さかげんには、ホント頭きました。
三途の川を歩き続けた私の二時間を返してください。


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