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2007年03月31日

プライドとUFCの合体

PRIDEとUFCが史上最大の合体
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070328-00000007-dal-fight

重大発表公開記者会見/3・27PRIDE六本木ヒルズアリーナ速報まとめ

http://kakutolog.cocolog-nifty.com/kakuto/2007/03/327pride_2a39.html



プライドがUFCに身売りかぁ。
ほぉ。


例のヤクザがらみの事件が発覚してフジテレビが撤退したころから、こうなるだろうことは予想してはいたけれども、やっぱ切ないものがあるなあ。
なんせ数年前はUFCが低迷してて、プライドは絶好調だったし。
あのころは世界最高の総合格闘技イベントといえば、間違いなくプライドだったんだけど。
あの時は、「プライドがUFCを飲み込む」ことは想像できても、その逆は想像できなかった。
今のアメリカでは、UFCの人気がすごいらしいですしねえ。
うーん、変われば変わるもんだな。


プライドのファンって、日本人選手を必要以上にケナすわりに、「プライドは世界一だ」と信じているような、妙にアンビバレントなナショナリズムを持っているんだけれど、彼らはどう反応してるんだろう?
最近、格闘技熱が下がってしまっている状態で、ネットで格闘技関連の情報収集とかもぜんぜんしてないのでよくわからないんだけど。


プライドがアメリカ資本に飲み込まれたのは残念ではあるけれども、格闘技観戦としてはこれからかなり面白いことになるでしょう。
なにせ、プライドとUFCと言ったら、総合格闘技の二大ブランドだし。
その二つの間で交流戦が行われるとなれば、これは見逃せない。
ここ一年くらい、格闘技に対する情熱がクールダウンしてた状態だったんで、また見始めてみようかな?


ついでなので、UFCとプライドの話をちょっとだけします。
これは格闘技ファンには今さらこんなこと、、、、ってな話ではありますが。


UFCとプライドって、選手の格闘技術には多少の特色がある。
大雑把に言うと、
UFCが、レスリングとボクシングを組み合わせた選手が多く、
プライドには、柔術とキックボクシングの組み合わせが多い。


UFCはアメリカの格闘技イベントなんで、当然、アメリカ人選手が多い。
で、もともとレスリングをやってた選手が打撃技術(ボクシング)を習ってUFCに出てくるっていうパターンになる。
アメリカにおけるレスリングって、ちょうど日本における柔道みたいなもんですかね。
アメリカでは、レスリングとボクシングの存在感は大きいですから。


日本では、もともとリングスやK1の招聘ルートがあったので、それを利用する(横取りともいうけど)形でプライドは発展してきた。
ブラジル、オランダ、ロシアあたりの選手がそうした形で、プライドのリングにあがっている。
K1経由でキックボクサー(ミルコ、マーク・ハント)、
リングス経由で柔術家(ノゲイラ、アローナ)って感じですかね。
あとは同じくリングス経由で、サンボ(ヒョードル)ってのもあるけど。


で、こういう背景があると、プライドのほうでは関節技による一本勝ちがでやすく、UFCのほうではパウンドによるKO勝ちが出やすくなる。
まあ、ちゃんと調べてないんで、違うかもしれませんけど、印象としてはこうです。


日本人のファンはパウンドよりも関節技を好むという、嗜好性もあるとは思いますが。


とは言っても、結局のところ、プライドとUFCというのは対立する技術思想を持っている、というわけではないんで、この両団体の交流戦というのは、「看板をかけた戦い」ではない。
交流戦の初期段階では「看板をかけて戦っている」感が、多少はするかもしれませんが、それも徐々に薄れて、混交していくと思います。
技術的な面ではどうなるのかっていうと、これはちょっと予想が難しいなあ。
打撃優位の時代がまだまだ続くのかな?


と思ってたら、東スポにロレンゾ(UFCを主催してるズッファ社のオーナー)のインタビューが載ってた。
それによると、


「PRIDEのルールはラスベガスでやったルール(4点ポジションでの頭部蹴りなし、1ラウンドすべて五分)になるでしょう」


とのこと。
このルール変更はどちらかというと、打撃系に不利かな?
1ラウンド5分というのは、打撃系に有利ですが(テイクダウンしてから関節技を極めるまでには多少の時間が必要)、4点ポジションでの頭部蹴りなし、というのは、シウバ等のシュートボクセ勢にとっては、かなり不利に働くし。
総合格闘技が発展するにつれて、徐々に少なくなっていった「関節技での一本勝ち」ですが、もしこのようにルール改正されたら、関節技優位の方向に多少なりともゆり戻しがあるかもしれない。
それからフリースタイル出身のレスラーも少しだけ有利になる。


知らない人のために説明すると、レスリングにはフリースタイルとグレコ・ローマンっていう二種類がありまして、グレコ・ローマンってのは足に触れてはいけない、というルール。
フリースタイルは、足に触れてもいい、というルール。
だから、グレコ・ローマンの選手はタックルするときは、相手の胴体に組み付くようにタックルする(相撲のさしあいみたいな感じで)んだけれども、フリースタイル出身の選手は、相手の足にタックルするわけです。
で、4点ポジションでの頭部蹴りありのルールだと、足にタックルしたときに、相手にがぶられた(覆いかぶせられる)場合いちばん危険な状態になる。
がぶられた状態でヒザ蹴りをくらってしまうから。
有名なフリースタイル出身のレスラーというと、桜庭とかKIDとかがそう。


プライドの初期は4点ポジションでの頭部蹴りなしのルールだったんで、フリースタイル出身のレスラーがかなり活躍してた。
マーク・ケアー(当時は最強と呼ばれてた)、藤田(ヘビー級の日本人で最も成果を出した選手)、マーク・コールマン(初代プライド王者、今じゃ誰も思い返さないけど)などなど。
あ、それにもちろん桜庭も。
ところが、プライド13で4点ポジションでの頭部蹴りありにルールが変更されると、その勢力図が一変。
足タックルという、それまでとても有効だったテイクダウン技術が、「もし失敗してがぶられるとそのまま膝蹴りを喰らう」という、かなり危うい技術になってしまった。
それを象徴するのが、このプライド13で初めて負けた桜庭(相手はシウバ)でした。
この試合で、桜庭は4点ポジションからの膝蹴り、サッカーボールキック等によって、惨敗。
以降、勝ち星に恵まれなくなる。


ちょっとしたルールの変更で、有効な技術体系というものが変わってしまう、ってことを実感しました。


ちなみに、私が総合格闘技に面白さを感じていた理由というのは、こういうところです。
可変性と言ったらいいのか、進化していく過程といったらいいのか。


歴史が浅い格闘技であるだけに、総合格闘技というのは常に変化し続けていた。


たとえば最初は打撃技術なんて、総合格闘技では無意味だと思われてました。
重要なのは、タックルによるテイクダウン技術(主にレスリング技術)と、寝技におけるポジショニングと関節技の技術(柔術)だけ。
みんな、そう思っていたし、私もそう思っていた。


佐山という日本の格闘技の歴史を語るうえでは欠かせない人がいるんですけど、彼がかなり早い段階で、

「これからの総合格闘技では打撃の時代がくる」

と言っていたときには、その意味が理解できなかった。
その時の私は、総合格闘技は「グラップラー(組み技系の格闘家)」のもので、打撃系の選手なんて総合で大成できるわけがない、と思ってた。
本当に強いのは寝技の出来るやつで、ボクサーやキックボクサーなんて、所詮は限定されたルールのなかでだけ、「強さ」を発揮できるにすぎない。
そう思ってた。


それが、まさか佐山の予言どおりに打撃優位の時代がくるなんて思ってなかった。


シウバの活躍もそれなりに既成概念を揺さぶられましたが、やっぱりショッキングだったのはミルコ。
純粋な打撃系選手が総合であそこまで通用するとは思ってなかった。


やっぱり天才(佐山)と凡人(私)では見えてる風景が違うんだなあ、と実感させられました。


まあ、こんなふうに総合格闘技というのは、常に変化しつづけ、また進化しつづけてきたわけで、そこが私が魅力を感じてきた理由です。
ボクシングのような歴史のある格闘技では、こういう「競技自体の変化(進化)」っていう現象はほとんど見られないですから。


ただ、ボクシングには「競技としての進化」がないかわりに、「昔の試合でも内容が充実している」という良さがある。
たとえば、80年代の中量級って、レナード、ハーンズ、ハグラー、デュランと、すごいボクサーがそろっていて、「黄金の中量級」なんて呼ばれていたんだけれども、彼らの試合を見ると今でも十分面白い。
というか、今のボクシングよりも面白く感じるくらい。
一方、プライドのいちばん最初の大会って、1997年なんだけど、これは今じゃとても見られたもんじゃない。
あまりのレベルの低さに唖然とする。
進化する、ということは、直近の過去を陳腐化していく、ということでもあるので、こういうことになる。


総合格闘技を見る面白さとボクシング等の歴史のある格闘技を見る面白さというのは、面白さを感じるポイントがちょっとずれてるんです、私の場合。
逆に言うと、最近、私が総合に興味を失くしてたのは、総合の進化ってのが止まったように見えたからなんですけど。
言い換えれば、総合格闘技というものが、ボクシング化している、っていうことかもしれない。


UFCとプライドの交流戦で、私の総合熱も蘇るのでしょうか?
個人的な希望でいえば、関節で一本とるタイプの試合が増えてくれるといいかな?
たとえば、この青木真也みたいな。




しかし、上手いなあ。
フットチョークなんて初めて見たよ。
タグ:UFC 格闘技 PRIDE

2007年03月27日

エウレカ総評<2> レントンとエウレカのセックス

前回の記事で、


「エウレカセブンには、まともな大人が登場してこないので、レントンの成長物語がうまく機能してないんじゃないか」


みたいなことを書きました。


が、こんなことを書いておいてから言うのもなんですが、
これって、人の好き好きじゃないか、と思います。
(ってなんだ、そりゃ)


子供っぽい大人しか登場してこないエウレカセブンですが、
この部分を私は結構面白く感じてました。


たとえば、最初のほうでは、ホランドってレントンの憧れの人、つまりヒーローだったんですが、
物語が進むにつれ、そのホランドがとても子供っぽい、ただの凡人であるように思えてくる。
自分がヒーローだと思っていた人物が、実は多くの欠点を抱えながら、みっともない生を生きざるを得ない、自分と同じただ一人の人間である、という理解。
そして、その卑小さゆえにこそ、その人を許せるような気持ちになれるという感情の展開って、だれもが経験することです。
というのも、子供の親に対する感情って、まさにそうした経路をたどるものですし。


ただ、このホランドの、ヒーローだと思ってた人物が実は凡人、っていう見る側の認識の変化っていうのが、製作者の意図したものであるかどうかが、どうも微妙。
なんか偶然そう見えてしまっているだけ、のような気もしてしまいますが。


ということで、<1> レントンという少年の成長物語というストーリーは、そんなに悪い出来ではないと思います。
実際、この部分(26話まで)を好きだという人は多いみたいですし。


で、今回は

<2> スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生

この部分の話です。


<1> レントンという少年の成長物語が、ロボットアニメのセオリーに則った部分が非常に多い、言ってみれば見ていて安心感を与える要素の集合(つまりパクリ要素)で出来ていた部分だとすれば、この部分はロボットアニメのセオリーを大きく踏み外した物語が展開されていきます。


まず、この物語が繰り広げられていた惑星が実は「地球」だった、という衝撃的展開。
地球を覆っていた生物とエウレカが同じという事実の発覚。
そして、最終回でレントンとエウレカが合体して月へ昇っていくという、わけのわからなさ。


これでは確かに面食らうのも無理はない。
私も、後半部分はあまりの展開の奇妙さに、首をかしげっぱなしでした。
あまりにも首かしげてたんで、首がいてぇ。
エウレカセブンの前半を見て、後半にこんな展開が待っているなんて、ふつう思いません。


<1>の部分が他のロボットアニメのパクリで出来ている、という話をしましたが、実はこの<2>の部分も同じく、他の作品の引用で成り立っています。
この惑星がじつは地球、ってのはまんま猿の惑星ですし、人間が群生意識へ進化する、という設定は多くのSF小説で繰り返し、語られてきたテーマです。
つまり、ここらへんって、昔のSF小説のパクリで出来上がってます。


なんか、パクリパクリ言ってると、松本零士みたいにパクリに怒っているみたいにとられるかもしれませんが、全然そんなことないです。
そもそも私はパクリって悪いことだと思ってないですから。
ただ、結果が面白いかどうかが問題なんであって、オリジナルがどこにあるかっていう問題って、そんなに重要なことですかね?
作る側からすれば、問題かもしれませんが、見る側からすれば、オリジナルであろうとなんだろうと、どっちでもいいですけど。


で、話を戻すと、この<2>の部分って、平たく言ってしまえば、「自然と人間」をテーマにした部分なわけでです。


エウレカセブンのなかで「自然と人間」というテーマが上手く表現されてるか、もしくは、このテーマ自体が適宜なものかどうか、っていう話はしません。
というのも、私はこのまえ「自然と人間」っていうテーマで蟲師を語ろうとして、ろくでもない文章を書いてしまい、見事に玉砕した過去を持ってますので。
また身の程弁えず、玉砕したくないしね。


ここで問題にしたいのはただ一つ。
それは
<1>レントンの成長物語と、
<2>スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生、っていう物語、
この二つが明らかに齟齬をきたしてる、ってことです。


地球の地表を覆っているスカブという生物(エウレカもこの一種)は、全にして一、一にして全、という群生意識をもった生物です。
で、レントンはこの生物と同一化し(見た目はエウレカと同一化してる)、月に昇っていく。
こういう物語展開を見せて、エウレカセブンって終わるんですけど、これが全然カタルシスを得られない。
それが何故か?
まあ、唐突すぎるストーリーに頭がついていかないっていうこともありますけど、私が考えるにこんな理由なんじゃないかと思う。



最近、この本を読み返してました。



澁澤龍彦「エロティシズム」


で、この本のなかに「存在の不安」っていう一章があります。
フロイトなんかの精神分析学やバタイユを引用して論を展開してるんですけど、ここをちょっと見ていきたいと思います。




胎児期から幼児期にかけて、子供はいくつかの「分離」を経験します。


「子宮のなかの胎児は母親と一体になって生きている。これこそ絶対的ナルシシズムのユートピア、まだあらゆる分離を知らない以前の、自然と一体になった人類の黄金時代ともいうべき、幸福な時期である」


しかし、当然のごとく、やがて子供は子宮から出なければなりません。


「誕生するということは、子宮から自分を切り離すということである。臍の緒を切られて、母親の身体とは別の存在になるということである」


今まで温かい羊水のなかで母親と一体化していた子供にとって、冷たい外気にさらされた外の世界というものは恐怖と不安に満ちている。
これが一つめの分離です。


母親との幸福な一体感を断ち切られた子供が、また一体感の対象として見出すのが、母親の乳房です。
フロイトはこの時期を、しゃぶることが快感をなす「口唇愛期」と名づけました。


「小児がしゃぶる行為をおぼえるのは、栄養物を摂取する際であるが、そのうち、しゃぶる行為それ自体によって、快感がえられることを知るようになる。乳房のみならず、自分の指をしゃぶるようになる。母親がこれを禁止すれば、そこにフラストレーション(欲求不満)が起こるのは当然だろう。欲求不満と満足が代わる代わるにやってきて、やがて離乳の時期になる。
今まで子供にとっていちばん大事だった乳房が、彼の口から残酷に引き離されるのである」


こうして、二つめの分離が行われます。
子供は「母親と繋がっていたい」と願うのですが、それは無残にも打ち砕かれ、自分というただ一つの存在へ分離されてしまいます。
この存在の孤独への絶望と、それを克服したいという欲望が、「誰かと繋がりたい」というエロスの働きを呼び覚ますのだ、と澁澤は書いています。


「たぶん、人間の最も深い欲求は、この分離をなんとか克服し、存在の宿命的な孤独地獄から逃れようという欲求なのであろう」


簡単にまとめてみると、最初は世界というものを自分と繋がった連続性のあるものとして、子供は感じています。
自分と世界というものは未分化であって、自他の区別がない。
それは安心できて居心地のいい感覚です。
しかし、子供は徐々に世界から切り離されていく。
その苦痛に満ちた分離の経験、自分が自分でしかないという不安、それらが人間存在の根底にあるやみがたい不安だ、ということです。


もちろん、誰かと性交して、一時的に繋がったとしても、それは根源的な不安の解決には至らない。
ただ、つかのまのユートピアをのぞき見るだけです。
子供でなくなった人間は、満ち足りた一体感に満たされることはかなわず、自分という孤独な存在を持て余しながら生きていくしかない。


で、エウレカセブンに戻ります。


このアニメの冒頭で、レントンは故郷を捨てます。
つまり、自分という存在を住み慣れた町から分離することで、レントンの成長物語は始まるわけです。
(もっとも、乳幼児の分離と思春期の少年の分離を同列に並べるのには無理がありますけど)


そういえばレントンには母親がいません。
えっと・・・・、なぜ母親がいないんだったかは忘れてしまった、というかその理由が語られてないような気もするんだけれども、まあ、とにかく母親がいない。
それで、母親代わりにレントンを育てた姉のダイアンとかいう女性がいるんですけど、彼女も失踪しちゃっていない。
つまり、レントンというのは、物語の冒頭から、「母から分離された子供」としての側面が強調されているわけです。


そんなレントンが故郷を捨て、月光号に乗ることを決意した理由というのが、

「エウレカに恋をした」から。

言葉換えれば、「エウレカと繋がりたい」と願ったから、ということです。


エウレカという他者と繋がろうとすることで、分離された孤独と不安を埋めようとするのです。
そうしたなかで、レントンはホランドと衝突したりしながら、成長していく。


成長というのは、まず自分を確立させていくことです。
最初はホランドに憧れているだけで、ホランドを妄信していたレントンが、
自分の頭で考え行動するようになっていく。
次に、確立した自分というものを周囲に認めさせなくてはならない。
ホランドや他の月光号のメンバー、そしてもちろんエウレカにも、自分という存在を認めさせていく。


これが<1>レントンの成長物語 なんですけど、ここまではいいのです。


ところが、<2>のほうのストーリーの終盤、レントンはスカブと融合してしまう。
もう書きましたが、このスカブというのは、群生意識をもった生物。
その内部ではさまざまな意識が渦巻いていて、自他の区別が混淆している。
このなかでレントンは常に誰か(エウレカとも)と繋がっているし、また誰かもまたレントンに繋がっている。


もう何が言いたいんだか分かってもらえたと思うんですけど、
これって、母親と一体化している胎児の状態に似ているわけです。
ご丁寧にも、「母」代わりであった姉のダイアンもまた、このスカブに取り込まれていることを示すシーンがあったりします。
で、レントンはダイアン(母)とスカブのなかで再会する。


ここまであからさまだと、明らかに製作者は意図してやっているんだと思う。
つまり、エウレカセブンは、「母と分離されたレントンが、母を捜し、そして母の体内に取り込まれる」という物語として作られています。
ここで言う「母」は、姉のダイアンとコーラリアンであるエウレカを指しています。


しかし、これは違和感がある。
というのも、前半のエウレカセブンというのは、レントンの自己確立の過程として描かれているわけです。
そこが好きだという人もかなりいる。
私も好きです。
なのに、終盤でレントンは「胎児」にまで戻ってしまう。
母と未分化な状態、母とずっと繋がっている白痴的な幸福。
最後の最後で胎児に戻るなんて、それじゃ前半の少年から大人へ成長していく過程ってのは何なの、って思いません?


人間が群生生物へ進化するというSF小説はいくつかありますが、私が読んだ限りでは、それらの主人公はすべて成熟した「大人」です。
もうすでに、自分の殻というものがかっちりと定まってしまっている大人だからこそ、その殻を破り、他者と融合することに対する不安、恐怖、そしてまだ見ぬユートピアへの憧れを描くことが出来るのだと思います。
たとえば、攻殻機動隊(映画)の草薙素子もプログラムと融合して、群体へと進化しますが、彼女のキャラは、必要以上に「大人」として強調されています。
胸が大きいとかの肉体的特徴もそうですが、喋り方とか声とかも成熟した大人のそれです。
草薙素子はもう成長しきってしまった大人であり、これから大きな変化は望めません。
だから、他者との融合というテーマが光彩をはなつ。


ところが、エウレカセブンのように、前半で少年の成長を描いているような場合、こうした群生生物との融合を最後に持ってくるのはやっぱり間違いだと思う。
そんなことしたら、前半の成長物語が台無しになってしまう。
エウレカセブンの後半があまり人気がないのって、そういう理由なんじゃないか、と思うのです。


まあ、後半の人気のなさってのは、ここでグダグダ書いた理由よりも、「ロボットアニメなのに途中からレントンがぜんぜん戦わない」っていう理由によるもののような気がしないでもないですけど。




これエウレカセブンDVDの最終巻なんですけど、
ジャケットに二人は子供の姿で描かれています。

2007年03月22日

エウレカ総評<1> ガンダムとの比較

今回は、エウレカセブンの総評です。


そもそも、エウレカレビューをやり始めた理由って、

「エウレカセブンは糞アニメという世評があるが、それが本当なのか確かめる」

という目的意識があったからでした。


ブサレカ、ブサレカ、とか言って無駄にうかれ騒いでたせいで、すっかり忘れてたんですけど、
もともとはこうして世のため人のために役に立つ有意義な目的があったのです。


で、エウレカセブンは糞アニメなのかどうか?


最初にさらっと、その結論だけ述べておきますが、
私は糞アニメだとは思いません。
見るべきところのあるアニメだと思うし、レベルとしても一定以上の水準はクリアしてます。


エウレカセブンは、様々な試みをしたアニメです。
実のところを言うと、その試みが、失敗に終わってるところも多々あるのですが、
それでも、なんの冒険もしない、ただアニメオタクの狭い欲求にだけ応えようとするアニメよりは、
こういう冒険を試みようとする意思のほうが、ずっと好感が持てます。
ま、このアニメが傑作かと問われれば、ちょっと答えに窮してしまうのも事実ですが、
それでも、私はエウレカセブンを、それなりに支持したい、とは思ってます。


こんなふうに、絶賛とまではいかなくても、私はそれなりに好評価なんですが、
実は「エウレカは糞アニメ」と言う人の気持ちも分からなくはない。


エウレカセブンというのは、製作者の意図が空回りしてる部分が、いろいろとあって、
そこが「糞アニメ」という有難くない称号を与えられる要因です。
ということで、今回は敢えてエウレカセブンの欠点を書いてみます。
「それなりに好評価」なのに、わざわざ欠点をあげつらうってのは、なんか感じわるいですが、
そこらへんは勘弁してください。
リアルに私の性格が悪いだけ、ですので。
好きなものを誉めるのが、なんか苦手で・・・・・・。
嗚呼、本田透みたいな性格になりたいな・・・・・。



エウレカセブンのストーリーの要素を抜き出してみると、この二つになると思います。


<1> レントンという少年の成長物語

<2> スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生


大雑把に言えば、この二つの要素でこのアニメは成り立ってます。
「え?エウレカセブンって、エウレカとの初恋がテーマなんじゃないの?」って言われるかもしれませんが、ここではあえて省いてます。
ま、恋愛話なんてできやしませんから、私。
ちなみに、エウレカとの恋は、上記の<1><2>両方にかかってるテーマです。
レントンの成長の過程が、エウレカとの恋愛の進展でもあるし、
異生物との共生ってのは、エウレカとレントンの恋で象徴されてます。


それから、スカブ・コーラルって名前ですが、このアニメのなかでは「スカブ」と呼ばれたり、「コーラリアン」って呼ばれたりして、その二つの違いがよく分からないんですけど、面倒なんで、ここではスカブってことで、話を進めます。
(なんかスゲー適当)


それで、大雑把に言うと、1話から26話までが<1>の要素、つまりレントンの成長物語を描いていて、
27話から50話までが<2>の要素、つまりは異生物との共生をテーマにしたエコ思想的な話になっています。


エウレカセブンの評判って、ちょっと不思議なところがあって、それは、

「エウレカはパクリアニメ」という悪評と、

「エウレカは奇をてらって失敗したアニメ」という悪評がごっちゃになってるところです。


悪評であることはどっちも同じなんですが、真逆の評価ですからね、これ。
「パクっててムカつく」っていうのと「パクらなすぎでわけわかんね」っていうことですから。
パクリの元ネタとして指摘されるのは、ガンダム、エヴァあたりなんですが、上の<1><2>に照らし合わせてみると、
パクリとされるのは、主に<1>レントンの成長物語のほうにかかってます。



それで、まずは<1>の要素から話を進めたいと思います。
つまり、レントンの成長物語、というテーマを表現した部分です。


ここでは元ネタのガンダムと比較することで、話を進めます。


確かにエウレカとガンダムってよく似てるところがあって、
たとえば、ホワイトベースにはなぜか3人の子供が乗ってましたが、
月光号にも、これまたなぜか3人の子供が乗ってます。
戦争しているのにも関わらず、子供が乗っているという不自然な設定からも明らかなように、この二つのアニメでは、「船」が擬似家族として描かれている。


たとえば、ガンダムの場合が、

ブライト(父)
ミライ(母)
アムロ(子供)

だとしたら、

エウレカセブンでは、

ホランド(父)
タルホ(母)
レントン(子供)


こういう図式が成り立っています。


そして、こうした擬似家族のなかで成長物語を紡いでいくという手法も同じです。
たとえば、アムロは父(ブライト)と衝突して「家出」してしまうシーンがありますが、
エウレカセブンでも全く同じ図式で「家出」のシーンがあったりします。
もっとも、レントンがエウレカとの恋を中心にして、成長を見せるという細部の違いはありますが、かなり似通った展開を見せてます。


で、似ているのは似ているんですが、
こうして「アムロの成長物語」と「レントンの成長物語」を比べたとき、とても大きな違いがそこにあります。


それが何かっていうと、二つのアニメに登場してくる「大人」の質です。


まず、ガンダムに出てくる「大人」の目ぼしいキャラを列記してみます。
年齢的には、「大人」というよりまだ青年といったほうが適切な人もいますが、
少年の目から見た「大人」ってことで。



ブライト・ノア


このブライトってのは、ホワイトベースの艦長だか、船長です。
本当はまだ年も若く、艦長になるにはまだ早いブライトなのですが、
戦時中の混乱のなかで、なしくずし的に艦長をやってます。


今ちょっと調べてみたら、一年戦争時のブライトの年齢は19歳!だとのこと。
ぷぷっ(失笑)。
いくらなんでも若すぎません?これ。
なんとなく20代後半かと思ってたんですけど。


年齢も若く、経験もまた浅い彼ですが、
それでも与えられた責務を果たそうとがんばります。
その責任感の強さから、時に生真面目になりすぎてしまい、
よくアムロと対立する様が何度も出てきます。


既に述べたように、ブライトはホワイトベースのなかでは、
「擬似的な父」の役割なのですが、
そういう文脈に沿って言えば、
厳格な父たらんとし、己を律し、また他を律する、それが彼の生き方です。


年が若いということもあって、時に感情的になってしまいますが、
それでも、こうした生真面目さ、規律を重んじる軍人意識が、
彼のなかの「大人」であり、その「大人」の形へ自分をはめ込んでいくことで、
社会性を獲得していこうとする青年。
それがブライトです。



シャア・アズナブル


アムロの最大のライバルのシャア、ですが、
彼はどんな形の「大人」なのでしょう?


シャアははっきりとした目的を持ち、世間に迎合する振りをしつつも、
決して、心のなかでその目的を見失ったりしない、強固な意志を秘めた人物です。


ま、その目的ってのは「ザビ家への復讐」なわけですが、
最後の最後まで、その目的を果たそうとする。


ここらへんの執拗さってのは、「大人」の分別などとは無縁です。
むしろ、青年期に特有の性格と言ったほうが良いのかも。
ブライトが「大人になろうと努力し続ける青年」だとしたら、
シャアの場合は、「青年であり続けようとする青年」なのかもしれません。


アムロはシャアと反発しあい、「シャアの青年臭さ」を否定することを契機にして、
「大人」としての自分を見出します。
(まあ、ここらへんはファースト・ガンダムの話ではなく、逆襲のシャアのほうですが)


少年のアムロにとって、シャアというのは、少年と大人のあいだの青年という存在であり、ある意味で、成長の道しるべ的な存在といえます。



ランバ・ラル


アムロが「家出」中に出会ったのが、このランバ・ラル。


ブライトが「大人」になろうとして無理をしているせいで、少しばかりヒステリックなのに対し、ランバ・ラルは常に落ち着いています。


それがなぜかというと、彼は既に成熟した「大人」だからです。
世の中が理不尽なことで埋め尽くされているのを知っているし、そのことに関してはある程度の諦念を持っている。
そして、その理不尽さのなかでも身近な誰か(妻だったり部下だったり)のために、自分の能力を使おうとする。


彼が、自分の職務を全うしようとするのは、身近な人間を幸せにするためであって、
決して、歴史を変革しようなどという大それた野望を持ったりしません。
地に足のついた、魅力的な「大人」なのです。


アムロはラルに憧れの念を抱くとともに、「あの人に勝ちたい」という欲望を得ます。
この出来事が「家出」中の出来事であるところが面白い。
というのも、ホワイトベースという「家」を一時的に捨てたアムロにとって、
家の外の世界での「大人」の見本となったのが、このランバ・ラルだからです。


アムロという少年の成長物語を見るとき、このランバ・ラルはとても重要な人物です。
彼は登場回数は少ないですが、かなり印象に残ります。




さて、ガンダムに出てきた「大人」を見てきましたが、
エウレカセブンに出てくる「大人」をこれと比較してみましょう。


まず、ランバ・ラルにあたる人物。
これは、もちろんチャールズです。


レントンがチャールズと出会うのって、ガンダムと同じく、「家出」してるとき。
チャールズというのは、とても愛妻家で、まあ、ちょっと愛妻家すぎるきらいもなくはないですが、
見ててほほえましいです。
ここらへんの「嫁を大事にする」ところもランバ・ラルに似ています。


もっともチャールズには、ラルのような、汚泥のなかにあえて踏みとどまる、
といった、人間臭さはありません。
そこらへんが、チャールズという人間が、ランバ・ラルよりも人間的深みを感じさせないところではあります。


が、しかし、レントンにとって、チャールズというのが、
「こうあるべき大人」としての、指標のような存在であることは間違いなく、
レントンの成長物語のうえにおいて、チャールズは欠かすことのできない存在です。


で、チャールズはいいのですが、ここからが問題です。
つまり、ブライト役、シャア役はいったい誰になるのか?


まず、シャアに相当する人物、つまり、主人公のライバルであり、
ものの考え方において対立する人間は、このアニメには出てきません。
あえて言えば、ドミニクになるのでしょうが、実はレントンとドミニクの間には、
あまり対立が生まれてないです。
少年の成長物語を描くときに、ライバルの存在は必要だとは思うのですが、
ドミニクはロボットにすら乗れないですから。


次が一番、重要なところなんですが、ブライトの役割を果たしている人物です。
つまり、擬似的な父であり、主人公を叱るなどして、大人の自覚を持たせる、という重要な役割です。


これ、うっかりして、もう書いちゃってますが、ホランドです。
で、このホランドが困ったヤツなのです。


ガンダムのなかで、アムロはブライトに殴られるシーンがあります。


「ぶったな。父さんにもぶたれたことないのにっ」っていう、アレです。


えっと、アムロがブライトに殴られたのが一回だったか、それとも数回あったのかは忘れましたが、
ま、とにかくこういうシーンが出てくる。


それで、エウレカセブンでもホランドがレントンを殴るシーンが出てきます。


ところが、これ、ガンダムとエウレカでは全然意味合いが違います。
ブライトというのは、上で書いたように、
「大人の役割を果たそうとしている青年」です。
だから、ブライトがアムロを殴るのは体罰の一種。
つまり、大人として聞き分けのない子供を律しようとしているわけです。


ところが、ホランドってのは、ブライトとは違って、「子供」なのです。
アニメのなかでも、他のメンバーから、

「お前は本当に子供だな」

なんて呆れられるシーンが実際あります。


レントンを殴るのも、本当に感情的にムカついているから殴っているだけであって、
大人としての立場から殴ってるわけではありません。


だから、思いっきりやりすぎてる。
レビューでも書いたんですが、殴る蹴るの暴力沙汰です。


本来、擬似的な父の役割を果たさなければいけないホランドが、とんでもなく「子供」だという事実。
ホランドのなかには、ブライトにあった、自分を律する心がありません。
その証拠に、船のなかを半裸で歩いてる。
ブライトの場合、「自分は大人でなければならない」という信念があって、
それが上手くいかなかったりして悩んだりするわけですが、
ホランドはただ感情のままに行動しているだけです。


つまり、ブライトーアムロってのは上下関係なんですが、
ホランドーレントンってのは上下関係になってません。
二人が同じレベルで争ってるっていう感じ。
成長ってのは当然、下から上へ行くもんなんですが、
そもそもエウレカセブンでは、上下がないんで、
下から上へ行きようがない。
ここらへんが、エウレカセブンの変わっているところです。


ついでに、「母」のことにも触れておきます。


ホワイトベースのなかでの擬似的な母は、ミライなんですが、
彼女はいつでも冷静沈着で、とても頼りになる女性です。
武士の妻、的な凛とした佇まいがあります。


ちょっと話は脱線するんですが、ミライって「モテすぎ」じゃないですか?
どう見ても、セイラさんのほうが美人です。
ところが、セイラさんに言い寄ってくる男はいないのに、ミライは3人ぐらいから求愛されてる。
んー、納得いかない。


で、脱線が終わったところで、エウレカセブンにおける「母」の話。
ミライの役割を果たしているのが、タルホです。
今、気づきましたが、ミライが艦の操縦士だったのと同じく、タルホもまた操縦士です。


ところが、このタルホ、ホランドと同じく、とんでもないヤツです。
ホランドがエウレカのことなかり気にかけているのが、余程気に食わないらしく、
始終、ヒステリーを起こしています。
タルホのイメージっていうと、腕組みして、眉を八の字にして、
こっちを睨んでる姿がすぐに思い浮かぶんですが、
彼女はミライのような女らしい気遣いとかが全然ない。


以前、テレビで「片付けられない女」っていうドキュメンタリー見たんですけど、
この女の部屋はゴミで足の踏み場もない。
たぶん、タルホもそういうタイプの人間です。


まあ、ホランドがレントンを敵視してる理由も、またタルホがいつもヒステリー状態なのも、
いちおう、理由は語られるんですが、これ聞いてもぜんぜん腑に落ちません。


結果、ホランド(父)、タルホ(母)、レントン(子供)という、擬似家族は、
とてもすさんだ、崩壊家庭のような様相を呈してます。


エウレカセブンをレントンの成長物語、としてみた場合、いちばんの問題点がそこです。
つまり、このアニメのなかには「まともな大人が登場してこない」のです。


唯一まともと言えるチャールズは、感動の26話のあと、あっさり殺されちゃいますし。
しかも、レントンに殺されるのではなく、ホランドに殺されます。
ここ、あまりにあっけなく死んでしまうんで、唖然としてしまいました。


やっぱり、成長物語を描くときに「目標となるべき大人」ってのは必要じゃないか、と思うんですけど。
チャールズもいい人ではあるんですが、少年の目標となる存在としては、
人物の陰影が足りないような気がします。


思えばランバ・ラルが、気が進まないながらも軍に「所属」していたのに対し、
チャールズはフリー・ランサー、つまりは根無し草でした。
ここらへんでも、ちょっとした差がありますね。
嫌なことでも、周囲のためを思って、任務をこなすランバ・ラルと、
自由気ままに自分の思うことをなすというチャールズと。
どっちが大人かっていうと、言わずもがなです。


まだ、このエウレカ総評は続くんですが、なんか長くなったんで、
続きは次回にします。


次回は、<2> スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生
これに焦点を絞って書いてみます。


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2007年03月20日

エウレカセブン 27話〜50話、、、、って、オイ!

エウレカセブンレビューって、一番最初にやった企画なんですけど、
26話までやったところで、いつの間にかストップしてました。


で、久しぶりに再開してみようかと思って、
過去の記事読んだらこれがスゴい。


いやー、びっくりしました。
あまりに詰まらなくて。


まあ、他の記事も酷いといえば酷いんですけど、
エウレカがずば抜けて酷い。
正視に耐えないってやつ?


たとえば、エウレカって途中でスカブとかいう変な生き物に取り込まれて、
髪が短くなり、眉毛もほとんどなくなってしまうんですけど、
その不憫な有様を見て、

「キャハハ、ブサレカ、ブサレカ」

って喜んでるやつがいる。


誰だ、この馬鹿。
知能が低いにも程がある、
いやねぇ、ゆとり世代ってのは学がなくて、
などと眉をひそめておりましたら、


あ、これ書いたの私だ!!!

っていう衝撃の事実に思い至って、
愕然とし、
意気消沈し、
いっそこの記事全部削除してやろうかしら、
なんて思ったんですけど、
生き恥を全世界に発信し続けるのも、
また一興かと思いなおしまして、
ま、そのままにしてます。


「エウレカレビューって、なんでアクセス少ないんだろう?」

ってずっと疑問に思っていて、

「やっぱ、エウレカセブンってマイナーなアニメなのかな」

とか、傲岸不遜なことを考えていたんですけど、
実は、ただ単に私の文章が詰まらないだけだった、ってのはこれ、
灯台もと暗しってやつ。


いやぁ、灯台の下って思ってた以上に暗いよ。
みんなも気をつけて。


まあ、詰まらないのを承知のうえで、
根性を出して、エウレカレビューを最後まで書く、
ってのも選択肢の一つではあるけれども、
そんな誰も望んでいない根性をここで発揮することもないだろうし。


ただエウレカの総論みたいのは、前から書きたいな、と思っていたので、
それだけはちゃんと書こうと思います。
実は、このエウレカ総論を書きたくて、
書いていてたいして面白くも無かったエウレカレビューをずっと続けてたんですけど。


ということで、一気にエウレカセブン27話から50話までレビューしてみたいと思います。
これを済ませてからじゃないと、エウレカ総論も書いちゃいけないような気が勝手にしてるから。


出来るだけ、短く済ませよう。
どうせ面白くないんだから。
さて、どれだけ短くできるだろうか。




実はエウレカはスカブ・コーラルの一種でした。

スカブというのは、この惑星の地表を覆っている正体不明の生物のことです。

スカブに覆われていたので、分からなかったのですが、この惑星はなんと「地球」だったのです。

悪い人はスカブを絶滅させて、本来の地球を取り戻そうとしていました。

その悪巧みによる混乱のなか、レントンとエウレカは合体して、月に昇っていきました。

おわり。



お、五行で終わった。
いやー、すっきりしたな。こりゃ。
これで、やっとエウレカ総論を書ける。


ということで、次回はエウレカの総評です。
今回はこんなだけど、次回はちゃんと書きますんで、
どうか見捨てないでください。

2007年03月18日

正義と文学 エヴァとフルメタのあいだ

この前、某ブロガーのAさん(仮名)をさんざん馬鹿にした記事を書いたんですけど、
その後、Aさんのブログを読んでいたら、ある発見があったので書いてみます。


これは発見というか、私の思考に盲点があったのに気づいたといったほうがいいのかもしれない。
新鮮な驚き、目から鱗がばりばり音をたてて落ちていくような。


なので、どうしてもこのことを書きたくなった。
だれのことだか分からない人のことを書いても、読んでいて面白くないだろうけど、勘弁してください。


Aさんってのは、文面を読む限り、大学生らしい。
文章にニーチェだとか、構造主義などの語句も出てくるところから見るとインテリの様子。
ニーチェかぁ、だれだそれ。
フルーチェだったら知ってるんだけど。


私がAさんのことを可笑しく思っていた理由は、

「自分はテーマ性を重視して作品を評価する」

とか、その他もろもろ偉そうなことを言ってるにも関わらず、「好きなアニメがローゼンメイデン」だったりしたから。
前回は書かなかったけれども、Aさんは、

「最近の仮面ライダーはなっとらん」と偉くご立腹。
そのほかにも子供向けのアニメなどを熱く語ったりしている。


それが妙に可笑しくてたまらなかった。

「テーマ性を重視している人」がなんで、ローゼンメイデンを絶賛したり、仮面ライダーを熱く語ったりしているのだろう、と思って。


私の目から見れば、あきらかに主張と好みがチグハグで、整合性がないような気がしてた。


しかし、Aさんのブログを読んでいるうちに、私はあることに気づいた。
たとえば、この文章。



「なぜシャドームーンは
仮面ライダーシャドーと言われないのか?

それは、仮面ライダーと言うのは正義のシンボルであり
暴力に苦しむ人々の代表者だからです。」


「良い作品は、何度でも読める。
再確認の感動、発見の感動がある。

(中略)

どうも、自分をアッといわせる意見や内容には
感動するらしい。ただし、これには注意が必要だ。

基本的にモラルが根本にある。

どんなに美辞麗句、キレイ事を並べ立てても
それが他者を傷つけること、他者を攻撃することを
促す文章ならば、まったく感動せず、また疑ってしまう。」





Aさんにとって、「テーマ性」というのは、「正義」であったり、「弱者を救うこと」だったり、「モラル」だったりするらしい。


驚いた。
マジで驚いた。
何が驚いたかっていうと、
「テーマ性」という言葉をこういう意味で使う人がいることに、私は思い及ばなかったのである。


たとえば、子供向けのアニメ、特撮ものなんかには、

「正義のために、悪と戦うヒーロー」

といった感じのストーリーがよくある。


こういう勧善懲悪ものって、「テーマ性がないストーリー」の最たるものだと、私は無意識的に観じていたのである。
別にこういうものを嫌っているわけではない。
けれども、私は、この手のものに総じて無関心だったので、大して思考することなく、なんとはなしにそう思っていたのである。


ところが、Aさんはこういうものこそが、「テーマ性」のあるものだと見なしていたんである。


つまり、「テーマ性」というカテゴリー認識がAさんと私では、真逆だったわけ。
そりゃAさんの主張がチグハグに見えるわけだわ。


いやー、しかし、これは驚いたな。


なぜ、こんなふうに同じ言葉に真逆の意味を見出してしまっていたのか、っていうと、
これも無意識的なんだけれども、「テーマ性」という言葉を私は、「文学」的な文脈で捉えていたから。


「文学」ということについてさらっとだけ触れておくとこんな感じ。
(とは言っても私はあまり文学に詳しくないし、情熱もないんで詳述はできませんが)


これは前にも触れたことがあるような気がするけれども、
日本の近代文学において、「文学とは人間を描くものだ」という意見は大勢を占めていた。
これに反対する意見も色々あって、たとえば小林秀雄という人なんかは、これに異議を唱えていたし、
また、最近の純文学では、かえって人間を表面的に描くことが流行っているらしい。
(最近の純文学にはぜんぜん興味がないのでよくわからないけど)


構造主義なんていう、なにやら難しい思想が入ってきてからは、
「構造まで還元してしまえば、クソ難しい文学もドラゴンボールも一緒じゃねぇの?」
みたいな考えも生まれてるし。


とはいうものの、「文学とは人間を描くもの」という意見は根強いし、
あんまり文学に詳しくない私も、なんとなくそう思ってる。
「文学とはなにか?」なんていう命題には、毛ほども興味ないんだけどね。


で、この「文学とは人間を描くもの」という言葉は何を意味しているのか。
なんか、このまんまじゃよく意味が分からない。
これは、言葉を継ぎ足してやると、わかりやすい。


「文学とは人間の『内面』を描くもの」


そういう考えを土台として私小説なんてものは成り立っている。
私小説ってのは、小説家の日常をただ、そのまま書いただけのもの。
つまり、自分よく知っているはずの自分の内面を描けばそれで文学になるんじゃねぇの?って発想。



だけど、これだけではまだ不十分で、もっと言葉を継ぎ足してやる必要がある。


「文学とは人間の『醜い内面』を描くもの」


これが日本の近代文学の底流に流れている思想(というか気分)。


人間の内面を深く見つめてみた。
すると、そこには醜いドロドロとした欲望、怨念があった。
だったら、それを克明に書いてみせれば、素晴らしい文学になるのではないか。


こういう気分が日本文学の底流にそこはかとなく漂っている。
だから、日本の近代文学では、「ろくでなし」が勢ぞろいしているのである。

変態(谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫)

麻薬中毒(坂口安吾、太宰治)

自殺者(芥川龍之介、川端康成、太宰治)


こんな感じで、文学の世界というのは、ろくでもない人間のオンパレード。
これとはちょっと違う方向性として「病弱」なんてのもある。
たとえば、梶井基次郎とか。


要するに近代の日本文学なんてのは、健全なものじゃない。
ろくでもなかったり、不健康だったり、ま、そういうもん。


それがいいことなのか悪いことなのかは、私にはよくわからない。


しかし、そこの価値判断はさておいて、私は「テーマ性」なんていう言葉を聞いたときに、こうした文学的な意味合いに近いところで、言葉の意味を捉えていたんである。
そして、「テーマ性」なんていう言葉を使う人も、こうした文脈に則っているのだと、なんとはなしに思っていた。


人間精神の深いところまで、潜行し、人間の救いようの無い愚かさを描くのがテーマ性の高い作品である、と思ってたわけ。
たとえば、ドストエフスキーとかドストエフスキーとか、そういうやつ。


ここで断っておくけれども、別に私は、こういう基準で作品を判断してるわけではない。
テーマ性の高い作品じゃなければ、クズだ、とか言うわけでもない。


そもそも、もしそんな価値判断をしていたら、ホスト部やハルヒが好きだ、なんて言うわけないし。
私の場合はただ単に、自分の面白いと思ったものを誉めてるだけ。
テーマ性だとかはあまり考えない。
ま、ある意味すんごい無節操だけど、それは。


ただ、「テーマ性の高い作品」なんて聞くと、こうした形の文学的な価値基準か、それに準じたものに則った評価をしているのだろう、と思ってたわけである。


それがAさんの場合は、ぜんぜん違った。
まさか、「正義が悪を挫く」という形式の作品を、「テーマ性が高いもの」と見なしている人がいるだなんて、私には想像もつかなかった。


というのも、「正義」なんてのは、日本の近代文学でもっとも縁遠いものだから、である。


そもそも、日本文学のお手本になっている、ヨーロッパの近代文学では、神という絶対正義を失った人々のお話を紡いできた。
たとえばドストエフスキーがその筆頭なんだけれども、彼の小説のなかでは、神という垂直的な倫理機構を失ったとしたら、何を支えにして生きていけばいいのか、という執拗な問いで埋め尽くされている。


神さまってのは、もちろんフィクションなんだけれども、同じように、モラル、倫理というのも、またフィクションである。


西洋の場合、神さまという根拠からモラル、倫理を導いていたので、近代になって、

「神は死んだ」

なんていう事態に陥ってしまって大変だった。
ま、大混乱ってやつ。
なにしろ、神さまという絶対的な根拠を失ってしまえば、それぞれの人間がそれぞれのモラルを打ち立てなきゃいけない。


しかし、前述したように、モラルってのもまたフィクションだから、そう簡単に作れるもんじゃない。
たとえば、「人を殺しちゃいけない理由」なんてのを、論理的に語ることなんてできないし。


結局のところ、モラルの根源には、また神さまに似たフィクション(嘘)が必要になる。
で、ヨーロッパ人のインテリは、そういうフィクションとして「理性」ってのを考え出した。
人間はだれしも理性という、「正しく物事を判断する力」を持っていて、その理性を根拠にして、人間は正しく生きることができる、っていう理屈を考え出した。


こんなの普通の生活をしていれば、だれだって嘘だって分かるような代物。
私の知り合いにはヤクザな連中が多いから、「明らかに理性を持っていない人間」をたちどころに十人はあげられる。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。あひゃひゃ。
こんなの神さまを信じるのと何ら変わりない。
むしろ、神さまのほうが、大嘘だということがすぐばれるだけマシなくらい。


まあ、馬鹿といえば馬鹿なんだけれども、こういう考えかたが民主主義とか人権思想の土台の一部となっていたりするんで、笑うに笑えない事情があったりもする。


ヨーロッパ文学のなかにも、日本と同じように「ろくでもない人間」がたくさん出てくる。

「自分は優秀な人間だから、金持ちの強欲婆ァを殺して金奪っても、ぜんぜんかまわねーじゃん?」
なんて考える大馬鹿者とか、
自分の母親が死んだのが、昨日なのか一昨日なのかわからない若ボケとか、
始終、吐き気に襲われているスカトロ野郎とか。


こうやってみると、日本の場合と事情は同じように思えるけれども、
西洋の場合、神さまという絶対倫理を失ったあとの悪あがきだから、
これ、とても真実味がある。


しかし、日本の場合、もともと、その絶対倫理がなかった。
だから、それを失う喪失感もまたない。
だもんで、西洋文学の形を真似た、日本文学のなかの堕落というものは、なにやら得体の知れぬカオスでしかないのである。
高みから堕ちていく身を切り刻まれるような辛さもなければ、
たとえ、それがかりそめのものに過ぎぬと分かっていながら、
また高みを目指す虚しさもない。
ただ、なんとはなしに堕落してるだけ。
「ぼんやりとした不安」から自殺した小説家がいるけれども、
彼らには敵の姿が見えていないとともに、
愛すべき神の姿も見えてはいなかった。


なんか話がひどく脱線したような気がするので、
話を元に戻すと、文学的価値観から言えば、
「正義が悪を討つ」という形式の作品は、
普通「テーマ性が高い作品」とはみなされない。


たとえば、エヴァンゲリオンとフルメタルパニックという二つのロボットアニメを比べてみる。
この二つのどっちが文学的と見なされやすいでしょう?
どっちのアニメが個人的に好きか?ということではなくて、文学的価値観に則ってみると、どっちが重要度の高いアニメとみなされやすいか?っていう質問です。





これはエヴァということで衆目が一致すると思う。
まずエヴァのほうが登場人物の内面描写が多い、ってのが理由としてあげられるけれども、とりあえず、それは横においておく。
文の趣旨にあっていないので。


この二つのアニメを比べてみると、正義と悪の扱いが全く違う。


フルメタのほうでは、悪という存在は明確である。
このアニメのなかでは、ガオランだかガオルンだかいうテロリストが登場してくるんだけれども、こいつ、まったくもって正義というものを持ち合わせていない。
実際のテロリストというものは、ビン・ラディンなんかがそうであるように、テロという非情な手段を使うものの、その主張には幾分なりとも正義が含まれているのが普通。
もちろん本人が正義だと信じているだけで、周りから見れば正義でもなんでもないっていうのも多いけれども、「自分が正義だ」と信じられない人間はテロリストなんていう難儀な職業に就かないもんである。
ところが、このガオランとかいうテロリストは、自分が正義だとはぜんぜん思っていない。
実は彼には何の主張もないのである。
ただ単に、自分の破壊衝動を満足させたいだけ。
何かを壊す、誰かを殺すことに無常の喜びを感じる。
それでテロやってる。
いわば純度100パーセントの悪人。


だから、彼に対立する側の主人公たちも、「実は彼の言い分にも理があるんじゃないか?」と悩んだりはしない。
主人公は、「上手く戦えない」とか「千鳥と会えなくなった」とかいうことでは悩むけれども、自分が正義の側にいる人間であることには、まったく疑念を抱かない。
つまり、絶対的な悪が存在しているので、それと戦う相良たちは、自分が正義であることを確信できるのである。


次にエヴァ。
このアニメのなかでは、使徒とかいう変な化け物が襲ってくる。
実は使徒がなぜ襲ってくるのか、いまだに私は理解してなかったりするんだけれども、ま、それは置いといて。


使徒を撃退するのが主人公である碇シンジの役割。
だから、彼は自分のやっていることが正義であることを確信しているはず。
なにしろ、人類を救うという、正義の味方としては、このうえないシチュエーションなんだから。
ところが、このシンジとかいうガキは、くよくよ悩むことが趣味という、厄介な14歳なので、自分がやっていることが正しいと感じられない。
それで何度も逃げ出しては周囲を困らせる。
シンジが自分のことを「正義の味方」である、と確信できる状況は整っているはずなのに、シンジは執拗にそれを拒否する。
その代わりに、自分のやっていることの意味を幾度も問い直す。
ま、ここらへんは問うている振りをしているだけに見えないこともないけれども。


さて、上のほうで、文学について書いているんだけれども、
それに照らし合わせてみると、シンジの態度って、まさしく文学的である。
自分の拠って立つ倫理が見出せない、という不安。
それゆえに、自分の行動に確信が持てない、という絶望。
神を失ったあとのヨーロッパ文学、もしくはそれを真似した日本文学のかたちによく似ている。


あ、一言申し添えておくと、ここではエヴァの内容が深いか浅いかは問うてはいない。
ただ、形のうえで文学的かどうかを書いてるだけなので。


つまり、正義というものが確固として存在しているフルメタル・パニックと、
正義だけでなく、倫理すら不確かなエヴァンゲリオン。
ものすごく簡単に言っちゃえば、正義を確信できない状況で、あれこれ悩んでいるほうが文学的とみなされる。
つまり、確固とした正義が存立している物語のなかでは、主人公は根源的な悩みに陥らない。
ところが、正義があやふやな状態だと、主人公は深いところで悩みだす。
もしくは、深いところで悩んでいるかのように見える。


こうやって比べてみると、「確固たる正義のあるなし」が文学的か否かを分けるポイントの一つだということがよくわかる。
そして、それを逆に言えば、「絶対的な悪」が存在しているかどうかという点もまたそうである。
というのも、絶対的な悪というものがあれば、人々はたやすく自分を正義だと思い込めるからである。


正義が悪を誅す、という形式の小説はふつう文学とはみなされない。
そういう小説は「大衆小説」なんてよばれたりする。
前回、触れたようにAさんは、「大衆批判」をよくするんだけれども、
その当の本人が好きなアニメ(勧善懲悪もの)って、こういう価値観からすれば、大衆的作品そのものなわけ。


これが面白い。
というのもAさんは、自分ではインテリのつもりらしいのだが、こうしてみると明らかなように、「文学的教養がまったくない」。
そもそも、そういうタイプの教養があるのだということにすら気づいていない様子。
だから、とても独特な言葉の使いかたをする。


もちろん、私だって、人のことをとやかく言えた身分じゃない。
本を読んでる時間よりも、ネットでエロ画像を収集している時間のほうが長いくらいだし、
月極駐車場の読み方を先月知ったくらい教養が無さ過ぎるくらいな人間なんだけれども、上記のような事情はいわば常識として頭に入っている。


なぜAさんにこういう知識がないのかっていうと、80年代に広まった
「すべての文化は等価値である」という言説によるものなんだろうなあ。
それまでの文化って階層性のものだったから、私のような無教養な人間でも文学的価値観ってのがどんなものか、ってことくらいはなんとはなしにわかってた。
文化の下っ端にいる人間でも、上のほうでどういうことを言っているか、みたいなことは漏れ聞こえてたわけだ。
ところが、文学もマンガもギャルゲーも等価値である、ということになり、わざわざしちめんどくさい文学を嗜む必要もない、ってなことになると、それぞれの小さな文化集団で集まりをなし、周りの言葉遣いとかには全く無関心という状況が生まれてくる。
それで、小さな集団ごとに固まる。
ときに隣接する集団と反目する。
そういえば、Aさんも、ローゼンを誉める一方で、ハルヒをけなしてたっけ。
それ、似たようなもんなのに。




なんか、ひょんなことから文学を語ってしまったりしたんですけど、ま、こんなのもたまにはいいでしょう。
というのも、インテリとかは、この文章みたいな基本的なことをあまり書かないので。
インテリってのは、ちょいと小粋なことを言って自分の頭の良さをアピールしたい、というムカつく連中なので、私みたいに「知ってて当たり前のこと」は書かないもんなのです。
そんな当たり前のことを、つらつらと書いていたら馬鹿に思われると思っているんですね。ムカ。


まあ、私は人から馬鹿と思われることなんて恐れてやしないので、これからも、バシバシ馬鹿なことを書いてやろうと思っております。
バカバカと。
そもそも、このブログのテーマが「当たり前のことをあえて書いてみる」ってことだし。
だから、当分ネタ切れはしないと思います。


最近、更新が滞りがちなのは、私が電車で手鏡使ったらちょいと面倒なことになった、という下らない理由によるものなので、ま、あまり気にしないでください。

2007年03月13日

面白いブログ

最近、面白いアニメ、マンガブログはないかと探してました。
ここ何年か、他人のブログを色々読んではいたんだけれども、アニメとかじゃなくて他ジャンルだったので。


しかし、いろんな人がいるもんだ。
デカルトからひも理論まで語れるくらい博識なのに、「ネギま!」とかの萌えマンガが大好きな人とか。
大して頭が良くない私でもネギま!読むのはちょっと苦痛なんだけどなあ。
あのあざとさがどうも苦手で。
パンチラとか入浴シーンとか、ちょっとうんざりする。
目の前に、「ほら、これが欲しいんだろ?」ってエサをチラつかせられている気がして。


それなのに、その人は無邪気にネギま!を楽しんでる様子。
ネタとして見てるとか、そういうひねくれた感じでは全然ないのがすごい。
作品世界に没頭して、純粋にネギま!を楽しんでいる。
なんというか、すごいな、と思った。
人間の可能性が無限だということを思い知らされる。


で、そうやって探した結果、いくつかのブログ、サイトをブックマークしたんだけれども、そのうちの一つのアニメブログが面白い、というか異彩を放っているので紹介したいと思います。
(上のネギま!好きの人とは別人物です)


そのブログの主を仮にAさんとしましょう。


Aさんはとても硬派な人です。
いまどき珍しいくらい硬派。
もうね、頭とか石で出来てるんじゃねーの、ってくらい硬派な人なのです。


硬派な人らしく、アニメ作品に対する評価基準にも一家言ある。
それがこんな感じ。


<1>「自分がアニメを評価するときに重要視するのは、テーマ性の有無と普遍性があるかどうかである」


「普遍性」というのは難しい言葉です。
私にはちょっと言葉の意味がはかりかねたのですが、Aさんによれば、

「あらゆる時代の、あらゆる立場の人々に愛される作品」

だとのこと。
成程。
そういう基準を満たした作品でなければ、Aさんの眼鏡には適わないということです。


しかし、自分なりの評価基準をちゃんと持っているというのは凄いなあ。
このまえ、私は2006アニメベスト5という記事を書きましたが、これなんかただ単に「自分の好きなアニメ」を列挙しただけですから。
何の考えもなかった。
猿のように、犬のように、ただ自分の感情を表わしたに過ぎなかった。
ちょっと反省。


さて、Aさんが硬派な人であるというのは、ただ単に「自分なりの評価基準を持っている」というだけでなく、その警醒家のような佇まいもあります。


Aさんは、よく「大衆批判」を行います。
こんな感じで。


<2>「大衆というのは、物を考えるのが苦手である。だから、中身のない娯楽作品に飛びつくのである。まったくもって嘆かわしい。我々、視聴者は良い評価を下すために、モラル、倫理の研鑽に努めなければならない」


どうでしょう?
シビれませんか?
ただアニメを見るだけのために、モラル、倫理を磨かなければならない、だなんて今まで考えたことありますか?
普通、そんなこと考えないでしょ?
ここらへんが、Aさんの常人離れしたところ。
格好いいです。


「大衆批判」なんていうと西部邁を想起しますが、Aさんは西部のような保守主義者とは違って、左寄りの思想を持っているようです。
「戦争を賛美した作品は普遍的とは思わない」という趣旨のことを書いてますし。
しかし、「戦争を賛美した作品」って具体的になんかありますかね?
うーん、なんだろう?
ナルトとか、かな。
それともバガボンドとか。
だけど、これらは戦争とはよべないか。
「戦い」を賛美したものなら思い浮かぶけど、「戦争」を賛美してるとなると、なかなか思い浮かばないかも。
しかし、たとえ具体的な作品がなくても、Aさんの警醒の言はナイフのように突き刺さります。
あたりかまわずに。
無差別爆撃みたいなもんです。


ある「中身のない娯楽アニメ」をAさんが批判したときに、そのアニメの支持者から、「あのアニメにはこういういいところがある」という反論を受けたらしいですが、それに対してAさんは、

「しょせん、そのアニメが好きだということにすぎないのである」と一刀両断に切り捨てています。侍。



さて、かようにAさんは「中身のない娯楽作品」を忌み嫌っているわけですが、それじゃ、この「中身のない娯楽作品」というのは具体的に何なのでしょう?
Aさんは、はっきりその作品名を書いています。
ここらへん、人に嫌われることを毛ほども恐れないAさんらしいです。



<3>「涼宮ハルヒの憂鬱は音楽でいえば、アイドルポップスである。このアニメに芸術性なんてものはない」


私は、2006アニメベスト5で、この「ハルヒ」を4位に挙げましたが、正直、この意見には同意できます。
私は「ハルヒ」が好きですが、それは「アイドルポップス」を好きだというようなタイプの好きですから。
だから、こういうことを言われても、腹が立たないです。


しかし、Aさんは昨今のハルヒブームがよほど腹に据えかねたのか、こんなことまで口走っています。


<4>「作画なんてどうでもいい。結局、作画が気になるということは、キャラクター目的で見ているということなのだから。それよりもストーリーのほうがずっと大事である」


ストーリーが大事だというのはその通りでしょうが、作画なんてどうでもいい、っていう意見はどうかと。
「作画がいい=良い作品」という式は確かに成り立ちませんが、作画がいいに越したことはないはず。
私はあまり作画を気にするほうじゃありませんが、それでも作画が酷すぎるアニメは見る気になれないです。
そのアニメがいいものかどうかを判断するときに、作画というのは一つの判断材料になるはずなので、Aさんの意見は明らかに行き過ぎです。
しかし、こういう「勢いあまって要らんことまで言う」のがAさんの醍醐味。


勢いあまったついでに、音楽のことまで口を出しています。


<5>「アニメと違って音楽(ロック)の世界は健全である。サイモンとガーファンクルのような「本物の音楽」がちゃんと支持されているのだから。ヒップホップやノイズなんてのは音楽じゃない」


「音楽じゃない音楽」を目指しているノイズを「音楽じゃない」というのはわかります(というか、そのまんまじゃ?)が、「ヒップホップが音楽じゃない」ってのはどうでしょう?
私はあまり詳しくはないですが、ヒップホップのなかにも素晴らしい音楽はたくさんあるように思うんですけど。
ローリン・ヒルとかカニエ・ウエストとか。
自分が好きなサイモンとガーファンクルを「本物の音楽」と呼び、自分に理解できないものを「音楽じゃない」って言いきってしまう、Aさんの「やりすぎ感」が私は好きです。




さて、ここまでAさんの笑えるところ、、、、、、じゃなかった、シビれるところを紹介してきたわけですが、ここで一つ疑問が浮かびませんか?


それは、ここまで硬派なAさんが、『好きなアニメは何なのか?』ということです。
気になるでしょ?
「大衆はものを考えるのが苦手だから、中身のない娯楽作品(ハルヒのような萌えアニメ)に飛びつくのだ」と言い切っているAさんです。
その「大衆ではない」Aさんがチョイスするアニメともなれば、高い芸術性と深いテーマ性を兼ね備えたアニメに違いない。


さて、どんなアニメが思い浮かぶでしょう?
上記の<1><2><3><4><5>を勘案してください。



こういう意見を持った人が好きそうなアニメ。
いろいろと思い浮かぶんじゃないか、と思います。
私も思いあたるアニメがいくつかあります。
ということで、「Aさんのおすすめアニメ」を発表する前に、
私がこのアニメなんじゃないか、と思うものをいくつか挙げてみたいと思います。




「イノセンス」

私の頭に最初に浮かんできたのは、これでした。
なにしろ、このアニメ、見始めると30分で眠ってしまう、というラリホーのような魔力を持っています。
「大衆には理解できないアニメ」ということで言えば、これ以上のものはなかなか見当たらないでしょう。
萌え要素も全然ないですし。


しかし、このアニメに「テーマ性」というのはあるのでしょうか?
いや、なにかしら「テーマ性」はありそうには思うのですが、そもそも私には「ストーリー自体がよく理解できていない」ので、テーマ性なんていう上級なものが分かるはずがないのです。
なんか「悪いヤツ(犯人)を捕まえようとしている」ことだけはわかるんですけどねぇ。
一応、最後まで見てるんですけど、これ。
もっとも見始めると寝てしまうので、見終えるのに4日ぐらいかかりましたけど。




「プラネテス」

高いテーマ性を持ったアニメと言えばこれなんかどうだろう。


「絶えず新しい地平を切り開いていかなければ満足できないという人間の業」


「国ごとの経済格差が怨念を生み、テロへつながるという、現実の描写」


プラネテスは極めてAさん好みのような気がする。
ストーリーもちゃんとしてるし。


しかし、このアニメは娯楽作品としても、なかなか優秀なものがあります。
最初のほうなんか、楽しいし、笑えるし。
そこらへんがAさんの好みにあうかどうか。


それに加えて女性陣もキャラが立ってるしなあ。
それを考えると、萌え要素も皆無とは言えない。


もっとも、萌え要素とは言っても、


「元気いっぱいの女の子、だけれども目が小さい、胸も小さい田名部愛」


「デレ部分が全くないツンデレ、クレア」


とか、萌えキャラとしてみた場合、欠陥商品みたいなのばっか、ではありますが。


「ハルヒはアイドルポップス」と言い切っているAさんの好みにあわせて、最後の一つは萌え要素がまったくないアニメを選んでみよう。







「ジパング」

ってことで、これなんかどうだ!
ジパングはどうだ!(なぜ連呼する?)



実はこのアニメを見たことはなく、マンガのほうしか知らないんですけど、
萌え要素なんてものは、ジパングには微塵もない。


というか、萌え以前に「女性自体がほとんど登場してこない」。
登場してくる女性といえば、衛生兵(だったと思う)のおばちゃんのみ。


これだけ、男のみで占められた作品もなかなかないでしょう。
男、男、男。
イージス艦のなかは一面、男だらけ。
それがジパング。


ま、逆にイージス艦のなかが萌えキャラだらけだったら、それはそれで圧巻かもしれませんが。


艦長 涼宮ハルヒ
船務長 沢近愛理
砲雷長 惣流・アスカ・ラングレー 
航空要員 シャナ

とかね。
って、これじゃツンデレ艦だけど。
しかし、ツンデレがここまで多いと、さすがにちょっとゲロ吐きそう。おえ。


萌えオタに媚びへつらわないという一点において、ジパング以上の作品はないはず。
もっとも、軍事オタクには媚びてるかもしれませんが。





さて、ここらへんが私が思う「Aさんが好みそうなアニメ」です。
「大衆に媚びないアニメ」というジャンルで考えると他にもいっぱいありそうではありますが、私の頭のなかに浮かんできたのはここらへんでした。
アニメに詳しい人だったら、もっとたくさんの作品を挙げられるでしょう。
Aさんは、私よりもアニメの知識が豊富なようなので、私の知らないアニメを推奨してくれるかもしれません。
さて、Aさんのオススメアニメはいったい何なのか?
実は、このアニメです。






















え?












ろ、ローゼンメイデン?



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・驚・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・呆






いやいやいや、それはないない。
ありえないでしょ。


ロリ専メイデン、、、じゃなくてローゼンメイデンは好きだし、これがただの萌えアニメでないということは分かります。
感動もできるし、いいアニメなのは確か。


しかし、良いと認めたうえで聞きますが、ローゼンが「あらゆる時代の、あらゆる立場の人々に愛される作品」ですか?
むしろ、「あらゆる時代の、あらゆる立場の人々に愛される作品」ではないからこそ、ローゼンってカルト的な人気があるように思えるんですけど。


たとえば、西郷隆盛みたいな人が、


「おいどんはローゼンメイデンがいちばん好きでごわす。翠星石、萌え萌えでごわす」


なんてことを言うのはとても想像できない。


「涼宮ハルヒがアイドルポップス」というAさんの言に従えば、ローゼンメイデンって、
「アイドルポップスなのに、意外と感動できる」とか
「アイドルポップスなのに、意外と深い」という、先入観と実際に見たときのズレで、感動を生み出すタイプだと思う。
結局のところ、「ハルヒ」も「ローゼン」も大きな括りで言えば、アイドルポップスなわけで、そんな狭いジャンルのなかで、一方だけを「所詮アイドルポップス」という貶し方をしてもしょうがないんじゃないでしょうか?
どっちもアイドルポップスに違いはないわけだから。


たとえば、上であげたプラネテスが好きな人が、「所詮、ハルヒはアイドルポップス」だと切り捨てるのは理解できるんですけどね。
ここでの理解ってのは、その人の感情に同意できる、という意味じゃなく、その人の主張に論理的一貫性があることを認めることができる、っていう意味ですけど。
しかし、ローゼン好きな人にそういうことを言われても、、、、、。
やっぱ説得力ってものがさ、、、。


まあ別に私はAさんに腹を立てているわけではないのです。
正直な感想を言えば、

「面白いなあ」

って思う。
まあ、興味深いと言ったほうがいいかもしれないけど。


オタク同士の対立(というかケンカ)って、ジャンルが遠いところにあるものの間ではあまり起こらなくて、こういうふうに近接している(ように見える)アニメ間で起こりやすいものなのかもしれない。
部外者からすれば、似たものどうしのあいだで、小さな差異をことさらに強調する。
それが時に感情的になったりする。
まあ、そういうことなんだろうなあ。


私も議論したりするのは好きなほうなんで、どしどし議論すればいいとは思うし、嫌いなものを嫌いとはっきり言える人間のほうが好きでもある。
ただ、それでもローゼンとハルヒの差異なんていう、しょぼいところで議論する気にはなれないけど。




ところで、私自身はハルヒとローゼンを比べるとどっちが好きだろう?
うーん。
よくわからない。
あんまり比較したことがないので。


しかし、マーロン・ブランドにこめかみに銃を突きつけられて、

「ハルヒとローゼンのどっちが好きか、答えろ。さもないと、その目の前にある平野綾のCDにお前の脳みそがつくことになるぞ」

なんて脅されたら、

「ど、どちらかといえばローゼンメイデン」

って答えるかも。


2007年03月08日

変な検索語

アニメ関係の検索ワードで来る人よりも、アーノルド坊やで来る人のほうが2倍くらい多いこのブログ。
アーノルド坊やなんて一つしか記事がないんですけど。


それに比べて9つも記事書いてるエウレカセブンでは全然来ない。
どういうこっちゃ。


そもそも、検索エンジン経由のアクセスがかなり少ないような気がする。
しかも、その検索ワードが、全然こっちが書いてないような語句だったりして不可解。
他のところもこんな感じなんですかね?
こんなワードで上位表示されてるわけはないと思うんだけど。
まあ、今はブログ検索とかもあるから、それでなのかもしれませんけど。


前から変なワードでここにたどり着く人が結構いたんだけれども、エロゲーの記事買いてからは、それが特に増えた。
やっぱエロ関係だと人は必死になるんだろうな。


ということで、今回はちょっと変わった検索ワードを紹介。



「やまがたのありとも切腹桜」

なんだろう、これ?
そもそも山縣有朋は切腹してないんですけど。
ひょっとして乃木希典と混同してるんでしょうか?
山縣と乃木じゃ、朝比奈みくると草薙素子くらいキャラが違うんですけど・・・・・。



「十二支がでてくるアニメ」

これはフルーツバスケットのタイトルが出てこなかったんでしょうか?
お役に立てて嬉しいです。



「男子の前で潮吹き」

お役に立てなくて申し訳ありません。
というか、今まで潮吹きなんて言葉は一度も使ったことないです。
そもそも、加藤鷹とかで検索したほうが有意義なんじゃないかと思いますが。



「『キョンの中の人の声で』とかにしようと思った..」

これは不可解。
この人はいったい何を思ってこんな語句で検索かけてきたのか。
そして、なぜ私のブログがヒットしてしまったのか。



「イリヤのブルマに触れる」

まあ気持ちは分かりますが・・・・。



「叶姉妹のエロ小説が読みたい」

気持ちがぜんぜん理解できませんが・・・。



「可能姉妹とセックス」

ためしにグーグルで検索してみたら、近親相姦のサイトがズラッとでてきてビビった。
成程。
「姉妹とセックス」「可能」ってことね。



「エロ涼宮透」

エロはともかく、涼宮透ってだれ?



「エロアメリカ人ゲーム」

どんなゲームなんだか。



「スカトロ少女マンガ」

そんな下品な少女マンガはない・・・・と思う。



「須王環ん玉」

下ネタの駄洒落で検索してくるのはやめてください。



「得ろ得ろエロエロエロエロエロエロエロエロ」

なにも、そこまで連呼しなくても・・・・。



「税理士のエロい人」

なぜ税理士限定?



「女の人はどこまでが股間」

うーん、どこまでだろう?
よくわかりません。
そんなことよりも、こんな微妙な問題をグーグルで解決しようとした、あなたがすごいと思う。

2007年03月03日

蟲師ともののけ姫

前の記事で2006年の一位に選んだ蟲師ですが、今日はちょっと詳述。






最初にこのアニメのDVDを一枚だけ借りて見たときは、そんなに強い印象はありませんでした。
「風景が綺麗で、神秘的な雰囲気のアニメだなー」くらいにしか思わなかった。
だけど、それから順に見ていくと、やっぱこれすごい。
こりゃ傑作でしょ。間違いなく。


まず、このアニメで描かれている日本の四季が異常なほど美しい。


春、桜がはらはらと散るさまは芳香がこっちまで匂ってきそうだし、
冬の雪が降り積もった景色は、しんとした静けさで満ちている。


その美しさはほとんどファンタジーの域。


かつては普通にあった日本の景色だけれども、今じゃ失われてしまったもの。
それが切ないような、哀しいような、ノスタルジックな情感をもたらします。


このアニメには様々な人々が登場するのですが、彼らに共通するのは、


「なにかを失った人たち」


であるってことでしょうか。


で、その喪失の直接的な、もしくは間接的な原因として「蟲」と呼ばれる、不思議な生命が関わっています。
彼らはその喪失を嘆いたり、悲しんだりするのですが、不思議なことに、その喪失の原因である「蟲」に彼らが怒りを見せることはほとんどありません。
たとえば、「自分をこんな酷い目にあわせた蟲を、おれは許せない」というような形での感情の表れがない。


彼らは蟲師であるギンコに喪失したものの回復を懇願したり、またはギンコに諭されて、自分が喪失を受け入れられるよう悲しい努力をしたりします。
自分たちとは異なる存在でありながら、それでも共に生きていかなければならない「蟲」に対する、こうした諦念とそれに伴うやるせなさはとても感動的なものです。


上の文章の「蟲」を「自然」と読みかえれば、これが日本人の持つ自然観にとても近いことが分かると思います。


つい日本人と書いちゃったけれども、こういう自然観は汎アジア的な広がりを持つ、かなり原初的なものなんじゃないでしょうか。
話の風呂敷を広げすぎちゃうと収拾がつかなくなるから、アジア的云々の話は止めときますが。
(第一、そんな文明論的な話をできる教養がない)


「自然と人間」というテーマといえば、だれでもジブリのアニメ、特に宮崎アニメを想起すると思います。
ですが、私は宮崎アニメよりも蟲師のほうがずっと日本人の感性にあった自然観(または宗教意識)だと思うのです。


宮崎駿のアニメのなかで、自然をテーマにしたものといえば、


風の谷のナウシカ  もののけ姫  となりのトトロ


あたりが思い浮かびます。


とりあえずトトロは横に置いておくことにして、他の二作品を見ていくことにします。


ナウシカともののけ姫はとても似通った作品です。
自然と科学技術の対立、そしてそれに伴う惨劇が描かれています。
まあ、ナウシカの漫画のほうは、後半そういう対立の構造とは離れていくので、ここではもののけ姫に焦点をしぼることにします。


もののけ姫のなかで、科学技術の側に立っているキャラクターはエボシです。


彼女は知的な上に勇敢で、しかも慈悲深さもあわせもっているという、まさに英雄と呼ばれるにふさわしい人物です。
彼女の人生哲学というのは、


「どんな困難な障害でも、人間の意志と行動によって打ち勝つ(征服する)ことができる」ということ。


彼女はとても「西洋的」な人物として造形されています。
不合理なもの、超自然的なものを彼女は信じない。
自然という対象物を、自分の知性の理解下におくことができるし、そしてそれ故に自然を征服することもできるという信念をもった人物、それがエボシです。


しかし、ある対象を自分の知性の光で照らし出すということは、不合理で不可解な闇の部分を切り捨てることに他なりません。
というのも、知性であったり理性というものは、整合性のないものを毛嫌いする性質があるから。


で、そうした知性、理性の光の届かない不合理で不可解な闇の部分を象徴するのが、もののけ達の住む暗い森です。
この森のなかでは、不可解な生き物が生息していたり、シシ神のような神秘が存在している。


ここでは、なにかを対象化し、その知識を系統化し、論理という名のフィクションへ放りこみ理解を得る、という我々が普段慣れ親しんでいる知的咀嚼は成り立ちません。
それよりも、不可解なものにたいする恐れや畏怖、またそれに伴う原初的な宗教的意識が醸成されている空間です。


この不可解で畏れを抱かせる「自然」の側に立っているキャラクターがサン、なわけですが彼女はエボシに比べるとキャラが立ってないような気はしますね。
というのも、原初的な「森への畏れ」を具現化したキャラクターが「美少女」というのはどうもしっくりこないから、なのかもしれません。
まあ、日本人の原初的な宗教観というのをどうやってキャラクター化(擬人化)すればいいのかってのは私にも全然分かりませんが。
ただ、そうした宗教観のなかでは、性的なものと自然の営みがシンクロしてるように感じられるはずで、性的な部分がどうしても必要になるような気はします。


そういえば、昔の猟師というのは、森に入るときに自慰をした、という話をなんかの本で読んだことがあります。
なんでも、森を女の神さまに見立てて、神さまの機嫌をとるために自慰をするらしいです。


あ!それを考えれば、森を象徴するのが、美少女であっても全然不思議ではないのか。
成程。
もっとも、男の自慰を見て喜ぶような神さまなら、サンのような処女(おそらく)ではなくて、もっと男を知った年増のほうがいいような気もしますが。


まあ、「サンが男の自慰を見て喜ぶか云々」という話はともかく、もののけ姫の世界では、二つの対立した空間が存在しています。
たたら場ともののけの森と。


この対立は空間的な対立であるだけでなく、人間の意識の階層としての対立でもあります。
もののけの住む森が神話的、古代的なものであるのに対して、たたら場は理性中心主義的、近代的なものとして描かれています。


で、この両者の対立は次第に激しくなり、ついには「戦争」が起こるわけです。


で、この映画の主人公である、アシタカの役割ってのは何なのでしょう?
どちらとも利害関係を持たないアシタカは両者の立場にそれぞれ一定程度の理解を示しますが、どちらかに肩入れするわけではありません。
彼は恐ろしい破滅が起きないように、両者のあいだを奔走します。
つまり、アシタカの役割というのは「調停者」です。


これは、ナウシカ(映画)の役割とまったく同じです。
ナウシカも王蟲の暴走を止めることで、調停者としての役割を果たしていました。
ただ、ナウシカ(映画)が調停者としての役割を立派に果たしたのに対して、もののけ姫のアシタカは失敗しているという違いはありますが。


風の谷のナウシカももののけ姫も、


相容れない両者の対立 → 調停(成功または失敗)


という物語展開は似通っています。


で、私は、ここらへんのストーリー展開って、「西洋的だなあ」と思っちゃうのです。
(西洋的というのは別に悪い意味で言ってるんじゃないですが)


まず自然と人間を対立するものとして構想している点。
もちろん、「時として」自然と人間は対立するという意識があり、その対立に焦点をあてて作った映画だということは分かります。
しかし、そういう製作者の意図を汲んだうえでも、こちらは対立の図式を見せられてるわけですから、それについて何か言ってもかまわんだろうと。


それに、たたら場ともののけの森は、意識の階層性を表わしているという話をしましたが、これなんかはとてもフロイト的です。
下のほうの意識(もののけ、サン)を上の意識(たたら場、エボシ)が押さえつけようとして、破滅を迎えるという図式です。


人間の意識というのは、階層になっていて、その底にはドロドロとした欲望が渦巻いている。
で、その欲望をあまりに強い倫理性で押さえつけていると、精神を壊してしまう、ということをフロイトは言いました。
(用語は違いますが、内容はだいたいこんなもんです)


フロイトはその著書のなかで、くりかえし


「下の意識にある欲望を患者が認識すれば、病気(ヒステリー)は必ず治る」


ということを言っています。


精神分析学入門や、夢判断を読んだことのある人なら分かると思いますが、これ何回も出てきます。


余談ですが、私はこれを読んだとき、こう思いました。


「プッ、このオッサン、必死だな(失笑)」って。


フロイトは、「患者がちゃんと認識すれば、必ず治るんだから、私の理論は正しい」ということを言いたいのですね。


もしフロイトの言った事実自体が正しいとしても、違う角度から見ればフロイトの理論を論破できちゃうんですけどね、これ。
まあ、今は関係ないので置いときますが。
(なんかフロイトを馬鹿にしてるように見えますが、確かに半分は馬鹿にしてます。だけど、やっぱ、なんだかんだでスゴい人です、フロイトは)


で、話を戻すと、もののけ姫では、自然と人間(もしくは科学技術)というのは対立した関係として表現されていました。
それは、意識の階層性の対立も含んだ形として、です。


では蟲師はどうでしょう?


このアニメのなかで、蟲という存在は一般の人間には見えないものとされています。
特殊な性質を持つ人間(たとえばギンコ)にしか蟲を見ることは出来ません。
つまり、目に見えない存在なので対立が生まれないのです。
違う言い方をすれば、蟲というのは意識化されない存在だということになります。


ナウシカにおける「蟲」が、目に見えるばかりでなく、凶暴な佇まいで、時に人間を襲う存在であったのと比べてみると面白い。
蟲師における蟲も、人間に悪影響を及ぼすのですが、その在りかたは前述したように、隠微で意識化されるかされないかの微妙なところに留まっています。


昔の日本人にとって、いや今の日本人にとってもそうかもしれませんが、自然とは蟲師における蟲のような存在だったのではないでしょうか?
普段は意識せず、対象化もしないけれども確実に側に在るもの。
時に悪影響を及ぼすけれども、それを恨んだりはしないもの。


蟲師のストーリーが派手さはないにもかかわらず、物哀しくも惹きつけられるものがあるのは、こういう理由もあるような気がします。












この文章書くの、すんごい苦労したんですけど、苦労のわりに出来が悪いです。
実はトトロについても書くつもりでいたんですが、それが上手くいかなかった。
トトロにおける子供観、自然観はルソー由来のものじゃないかっていう意味合いで書こうと思ったんですけど、「やっぱ違うな、これ」と思って止めちゃった。
まあ、そういう理由もあって、あんま面白くないですね、これ(言い訳)。


だったらボツにしろよって話ですが、どれだけ酷くても基本的にボツにすることはないので。
そういえばホスト部について書いたときも酷かったな。
典型的な駄文。


話はずれますが、これ書いてるときにナウシカのこととか調べてたら、久しぶりにナウシカ見たくなった。
思えば何年見てないんだろ、ナウシカ。
平気で10年は見てない。


こことか見てたら「ナウシカは巨乳」って書いてるんだけれども、ナウシカってそんなに胸デカかったっけ?
なんかあまり印象がない。
いや、でもね、今は平気でEカップとかがそこらへんを闊歩してるご時勢ですから、ナウシカの巨乳っつったってそんな大したことないはず。
ほら、高田が北尾を倒したときのハイキックは凄かったっていう記憶が残っていても、実際に見てみたら全然凄くない、これミルコのハイキック見たあとじゃ蠅が止まるようなキックだなってのと同じですよ、多分。
まあ、確認の意味もこめて、ちょいとばかし映像ソフトをレンタルしてくる。
ナウシカが本当に巨乳なのかどうかを確かめるために。


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