藤原紀香とテレサ・テスタロッサ藤原紀香さん、陣内智則さん、入籍おめでとうございます!!!
お二人の幸福が永久にあらんことを、心より願っております。
心のなかに、これっぽっちもない感情をこめて、文章を書き始めてみたんだけど、どうだろう?
ま、どうだろうってこともないんですけど。
とりあえず、めでたいことですよ。
うん。
二人に特別、良い感情も、また悪い感情も持ってないけど、とりあえず幸せになってほしいです。
二人が結婚するっていうのが分かったのって、いつでしたっけ?
去年くらいだったかな?
いや、あまり興味ないもんで、ちゃんと思い出すことができないんですけど、
結婚するっていうことが判明してから、しばらくたって、バラエティ番組に陣内智則が出てるのを二回くらい見ました。
一つがめちゃイケで、恋のかま騒ぎのヤツ。もう一つの番組はなんだか忘れた。
私は、最近テレビをとんと見ないもんで、結婚後の陣内智則を二回も見るっていうのは何気にスゴいことです。
で、その二回とも陣内智則は同じような話をしてた。
当然といえば当然なんですが、藤原紀香とのなれそめを、周りの芸人たちから根掘り葉掘り聞かれてた。
他の芸人たちは、「うっわ!藤原紀香みたいないい女と結婚できるなんてうらやましい」っていうスタンス。
その羨望のまなざしを浴びながら、幸せそうに藤原紀香とのなれそめを語る陣内という構図。
なんか、これが妙に面白かった。
というのも、私のなかでは、最近の藤原紀香って、
「K−1で、妙なテンションで的外れなコメントを残す女」
という認識しかなかったから。
まあ、藤原紀香がまだテレビに出たてのころは、多少は可愛いなと思ったり、多少の劣情を催したり(ぅが)はしましたよ。
しかし、そういう時期っていうのは、とうの昔に過ぎていて、今では藤原紀香の存在意義なんて、自分のなかではほとんどなかったわけです。
世間の認識も、私のそれとそう大差ないだろう、と思うんですけど、そこらへんはどうなんでしょ?
まあ、そういう私個人の認識とは裏腹に、バラエティ番組のなかでは、藤原紀香っていうのは、「憧れの存在」であり、彼女と結婚できるなんて、「男として最高の喜び」である、として遇されている。
結婚っていうのは思いっきり下世話な言い方をすると、「藤原紀香とヤレる」ってことです。
(ま、下世話すぎますが、これじゃ)
だから、陣内の周りで羨ましがっている他の芸人たちは、「オレも藤原紀香とエッチしたい」と言外に語っているのと同じことです。
もっともバラエティ番組というのは、ある属性を極端に扱うという特性を持っています。
たとえば、ブスとして認識されている女芸人は、必要以上にブスとして邪険に扱われる。
美人とされている、アイドル、女優などは、これまた必要以上にチヤホヤされる。
こうやって、ブスと美人の落差をつけたほうが、笑いがとれる、というような構図ができあがっている。
だから、陣内の周りでしきりにうらやましがっている芸人たちも、実はそううらやましくはないのかもしれない。
けれども、それが羨ましがっている演技であろうとなかろうと、バラエティ番組としての総体として見た場合、藤原紀香というのは「男なら誰でも抱きたいと思う最上の女性」として扱われているわけです。
そして、芸人たちの「エッチしたい」という欲望が藤原紀香に向かっているという画面を我々は見せられている。
彼らの欲望の総体が「藤原紀香=いい女」という、共通理解を作り上げていることになります。
もうすでに述べたように、私は藤原紀香なんてどうでもいい。
ほとんど興味ないです。
だから、「藤原紀香とエッチしたい」とも思わない。
私の場合、藤原紀香よりも、フルメタル・パニックのテッサのほうがいい。
藤原紀香とはヤリたいと思わない私ですが、テッサとだったらヤリたいです!

NO

YES

YES!!!
今、男として・・・・・・というか人間として、「この人、もう終わっちゃってるね」的発言をしてしまいましたが、まあ、いいじゃないですか。
正直な気持ちを述べただけの話なんだから。
しかし、ただ正直に心のうちを綴っただけなのに、「テッサとヤリたい」なんてことを言うと、たぶん、世間は私のことを白い目で見るでしょう。
「アニメキャラとエッチしたい、だなんて、この人だいじょうぶ?」みたいな、不憫な動物を見るような目で、私のことを見るに決まっている。
これ、考えてみると不思議なことです。
(「ぜんぜん不思議じゃねーよ。不思議なのはお前の頭んなかじゃねぇか」
とかいう興ざめなことは言わないように)
というのも、前述したように、「藤原紀香とエッチしたい」と公言することを世間は許している。
もちろん「エッチしたい」なんていう直接的な物言いは、風紀上、許されてはいませんが、めちゃイケの例を見れば分かるように、「エッチしたい」という欲望は言外の意として表出されている。
つまり、あまりに下品な物言いは世間の顰蹙を買うけれども、欲望をオブラートに包んでさえいれば、それを世間は批判しない、どころか、積極的に容認しさえする。
私も今、私の欲望を述べました。
テッサとエッチしたい、って。
しかし、その欲望を世間は容認してくれない。
これは、おかしい。
おかしい。
私の欲望は、それほど公序良俗に反したものでしょうか?
たとえば、私が近所に住む、香奈ちゃん(5歳)とエッチしたい、などということを言ったら、確かにこれは大問題です。
香奈ちゃんはまだ年端もいかない女の子なので、彼女との性交など、道徳的に許されることではありません。
もし、本当にこんな鬼畜なことを言う輩がいたら、強制的に去勢でもしてやったほうが、世のため人のためになる、というものでしょう。
一応、私にも道徳的観念のなんたるかは多少なりともわかっているつもりなので、こうした反道徳的な欲望が許されないことは理解出来ています。
だから、こういう(幼女と性交したいという)欲望を、世間が白い目で見るのは至極当然なことだと思う。
で、「アニメキャラとエッチしたい」という欲望は、果たして反道徳的なものでしょうか?
結論から先に言えば、ぜんぜん反道徳的ではない。
というか、実在の女性に性欲を催すよりも、はるかに道徳的である、とすらいえます。
なぜか?
それは「アニメキャラとは実際にエッチできないから」です。
実際にエッチできないのだから、頭のなかで何を考えようとこっちの勝手です。
言ってみれば実害がない。
乱交パーティを夢想しようが、レイプを夢想しようが、どんな破廉恥なことを考えようとも、それが実際に行為されることがない。
そもそも行為に移すことが不可能なんだから、行為しようがない。
これが、現実の女性に対して、こうした破廉恥な夢想をしている場合だと話が違ってきます。
「藤原紀香とエッチしたい」と欲望している人間は、そうした夢想を実際にしてしまう可能性がある。
藤原紀香そのものではなくとも、彼女によく似た女性を見た瞬間、レイプ魔と化している可能性もある。
危ない危ない。
なんたら危ない連中だろう。
こうした、素の性欲よりも厄介な欲望が、恋愛というやつです。
はっきり言って、この恋愛というものはただの性欲なんかより何倍も厄介な代物。
性欲なんていうのは、風俗にでもいけば解消できるもんですが、恋愛となるとそうはいかない。
そもそも、一人の人間を所有することなんてできやしないのに、意中の人を自分だけのものにしたくなるのが、恋愛というものですから、こりゃ危険極まりない行為と言ってよい。
洋の東西を問わず、昔から痴情の縺れからくる刃傷沙汰なんてのはありふれた出来事です。
ストーカーなんてのも、最近できた言葉ではありますが、じゃあ昔はストーカーなんてなかったのか?って言えばそれは違う。
昔から、こんなことはあったわけです。
ざらにあったし、ありふれたことだった。
ただ、だれもそれが犯罪的な行為だと思っていなかっただけの話だ。
つまり、性欲にしろ、恋愛願望にしろ、現実の女性に欲望を感じている人間というものは、このように世間に迷惑をかける公算が非常に高い。
それに比べれば、テッサに欲望を感じている私なぞは、世間に迷惑をかけることなんてありえません。
迷惑をかけようがない。
キリストという人は、
「いやらしい目で女性を見たというだけで、姦通したのと同じことだ」
なんてことを言いましたが、そのキリストだって、私のことを非難できやしないでしょう。
だって、どうやったってテッサと姦通なんてできやしねぇんだもの。
こういうことを考えてみれば、世間は私のことを人畜無害な人間である、聖人君子であるとして尊敬の眼差しで見てもよいくらいだと思われます。
しかし、実際には、そうなっていない。
誰も誉めてくれない。
いや、誉めるどころか、すんごい冷たい目で見られてる。
もうね、痛い、痛い、視線が痛い。
こうした不条理をただ「世の中バカばっかだから仕方がねぇよ」で済ますこともできるんですけど、ここはあえてもう少しばかり考えてみることにします。
なぜ社会は私を白眼視するのでしょうか?
それは「私の欲望が犯罪に近いものだから」ではありません。
アニメキャラとエッチしたい→ロリコンの気がある→性犯罪を起こす可能性がある
こういう思考回路をとって、私のことを白眼視する人もいるかもしれない。
しかし、それは成り立たないことは既に書きました。
ここで一つ例を出してみたいと思います。
たとえばここに「オレは50以上の女にしか欲情しない」という(若い)男がいたらどうでしょう?
おそらく、社会はその男のことを奇異の目で見ることだろうと思います。
たぶん、こうした視線は「アニメキャラとエッチしたい」という私に向けられた視線と同一のものです。
これが「オレは小学生の女子にしか欲情しない」という男であれば、社会が白眼視するのも理解できます。
なぜなら、それは犯罪ですから。
しかし、彼は老女(50以上を老女と呼べるかどうかはわかりませんが、ここでは老女としておきます)に欲情している。
これは明らかに犯罪ではない。
それどころか、その男が韓流スターのような容姿をしていた場合、これはその老女たちに喜ばれることはあっても非難されることはまずない。
ある意味、人助けのような側面すらある。
それなのに、彼は周囲からは奇異の目で見られてしまう。
これはひょっとしたら、「小学生にしか欲情しない男」よりも理解を得られないかもしれません。
小学生に欲情する男はたくさんいますが、老女に欲情する男はそうはいない。
これ、世間の評価基準が明らかにあべこべです。
なぜ、私やこうした老女萌えに対する社会的な評価があべこべなのか?
冒頭の藤原紀香に対する世間の欲望と考え合わせてみると、このように考えられます。
つまり、「アニメキャラに欲望を感じている」私や、「老女に欲望を感じている」男が奇異の目で見られる理由というのは、
『我々の欲望が一般的な欲望とかけ離れているからだ』
ということです。
逆の側(社会一般)から言えば、
「お前たちの欲望は私達のものと違う」
と言って、一般人は私たちに白い目を向けていることになる。
つまり、「藤原紀香に欲望を感じる」のは一般的なことなので、そう奇異には見られない。
しかし、その欲望の対象が「アニメキャラ」だったり、「老女」だったりと、世間一般の欲望とかけ離れているときには、人々はそれを不審に思う。
まあ、こういうことがいえます。
欲望は共鳴しあう「道徳」「倫理」といった言葉と、「欲望」という言葉を並べたとき、我々はなんとはなしにこのようなイメージで捉えるのじゃないか、と思います。
道徳・倫理 = 社会的なもの
欲望 = 個人的なもの
たしかに道徳、倫理といったものは、社会に共有されているのがふつうです。完全に個的な道徳、というものはあまり存在しない。
周りがそれを正しいと思っているからこそ、自分もまたそれを正しいものだと感じる。これが道徳のありかたです。
道徳が社会的な共通理解であって、倫理がキリスト教的(一神教的)な垂直的価値観である、という使われかたが一般的なようですが、その倫理とて、まったく個的なものとはいえない。
だいいち、周りにクリスチャンが多いからこそ、自分もクリスチャンになっているという筋道をとるのが、ふつうの宗教の姿です。プロテスタントのほうが、集団的ではなく、個的であるらしいですが、そのプロテスタントだって、ある程度の集団をなしている。
結局、道徳、倫理ともに社会という存在から湧き出てくる価値観であって、それが個人の行動を縛っているのだというふうに、ふつうは考えます。
その縛りというものを、良いものと感じるか、悪いものと感じるかは人それぞれですが。
そして、そうした社会の縛りである、道徳、倫理とときに対立するものとして、個人の欲望というものがある。
欲望というのは、ふつう個的なものとして考えられています。
たしかに「テッサとエッチしたい」という私の欲望は、まぎれもなく私個人のものなので、欲望が個的なものである、というのは正しい。
しかし、欲望が純粋に個的なものかというと、それは違う。
欲望もまた、道徳、倫理と同じく社会化されていると私は思うのです。
子供のころに、友達の持っているおもちゃが、「自分も」欲しくなる、という経験は誰もが思い当たるところがあるでしょう。
友達がそのおもちゃを持っていなければ、自分も欲しいとは思わなかったかもしれない。
これは他人の欲望に、自分も共鳴しているということです。
人の欲望が自分に伝染し、また自分の欲望が他の誰かに影響を及ぼす。
こんなふうにして、欲望というものは社会化していく。
一つ例を挙げると、ある集団のなかでは、欲望が共有化されている、というのはよくあることです。
たとえば、ヤンキー。
ヤンキーの人たちは、みんな車の趣味が似通っている。
セルシオ(今はもうないのか)とかマジェスタとかの、国産の高級車がヤンキーは好きです。
これはヤンキーという集団のなかで、欲望が共鳴しあい、そして共有化されたものだと見ることができる。
また、学園ものの恋愛ドラマなんかではよくこんなシーンが出てくる。
A男とB女は軽口を言い合ったりする友達ではあるが、二人のあいだに恋愛感情はまったくない。
そこにA男の親友であるC男が、実はB女のことが好きなんだと、A男に告げる。
A男は動揺する。
それまで、友達としてしか見ていなかったB女のことを急に恋愛対象として認識しはじめる。
こういうシーンでは、「もともとA男はB女のことが好きだった(恋愛感情を持っていた)のだけれども、その胸の奥に秘められた感情がC男の告白で、はっきりと認識されたのだ」みたいに解釈するのが普通です。
まあ、確かにこれはこれで正しいとは思いますが、こんなふうにも考えられる。
「C男のB女に対する欲望がA男の欲望を呼び覚ましたのだ」
というふうに。
つまり、それまでA男はB女のことを恋愛対象(もしくは性的対象)として見ていなかった。しかし、C男の恋愛欲望(または性的欲望)がA男にB女を恋愛対象として見るという欲望を発見させた、というように考えることもまた可能です。
もしC男がいなければ、A男はB女を性的欲望の対象としてみなかったかもしれない。
誰かの欲望を自分の欲望とし、自分の欲望が誰かの欲望となる。
これをどっちが先かというのは、鶏と卵のはなしと同じになってしまいますが、とにかく社会的な欲望と、個的な欲望というのは互いに共鳴しあいながら、増幅していったり、しぼんでいったり、ということを繰り返す。
そうしてみると、「純粋に個的な欲望」などというものは、そう多くはないと思われます。
「私の欲望」は「誰かの欲望」と多かれ少なかれ重なっているもんです。
「みんなが欲しがるから、自分も欲しくなるもの」の代表例が「お金」です。
お金というものは、よくよく考えると不思議なものです。
というのも、お金は「みんなに欲望されるから」お金としての役割を果たしている。
みんなに欲望されなければ、お金というのはお金としての役割をはたせない。
もし、日本人全員がある日突然、「日本円」を欲しがらず、ユーロなりドルなりを欲しがり始めた、としたら、日本円の価値はまったくなくなってしまう。
1ドル10000円くらいの価値に暴落してしまい、また日本国内で円は流通しなくなります。
代わりにドルだのユーロだのが流通し始める。
はっきり言ってお金というものは所詮ただの紙切れなので、「みんなが欲しがっている」という幻想さえなくなってしまえば、まったく価値はなくなってしまう。
お金をお金たらしめているのは、みんなの欲望そのもなのです。
ニーチェという人は「世界とは欲望の総体である」ということを言いました。
このニーチェの言に従ってみると、人間というものは世界(欲望の総体)を自分の欲望とし、また自分の個的な欲望が表出されて世界となる。
こうした欲望のうねりのなかで、人間は世界というものを理解していくわけです。
そして、その理解をもとに行動に移す。
このように考えてきたときに、藤原紀香に欲望を感じず、テッサに欲望を感じている私に対する社会の白眼視というものがより理解しやすくなる。
つまり、私は「社会的な欲望に共鳴していないから」白眼視されているわけです。
ある意味では、社会的な欲望を私は強制されている、と言ってもいいかもしれません。
そして、それを私が拒否していることで、社会は気味悪がっているという話。
ニーチェ的に言えば、私は「世界を拒否している」ということです。
(おお!無駄にカッコいい言い回しだ)
ちょっと蛇足ではあるんですが、私のバージョンとは全く逆のパターンを描き、近年大ヒットした物語があります。
「社会的な欲望を拒否」するのではなく、「社会的な欲望を受け入れる」ことで、人々を感動させた物語です。
この物語は様々な形でメディアミックスされ消費されました。
わかります?これ。
それが何かっていうと「電車男」です。
この物語は一人のオタクが、「一般女性」に欲望を感じ、その欲望を成就させる、という話です。
私はドラマでちょっと見ただけなんですが、ドラマだと、そのヒロインが伊東美咲でした。
正直なところ「伊東美咲が好き」だという男が私の周りにいないので、彼女がどういう層から支持を受けているのだかわかりませんが、とりあえず彼女は美人でスタイルもいい、おまけに性格もいいお嬢さまとして描かれています。
私が見た限りでは、彼女のキャラというのは何とも表層的で、人格的な深みというものがあまり感じられなかった。
たとえば、彼女はあるトラウマから「嘘をつかれるのが異常に嫌い」なのですが、それがなんとも薄っぺらい。
それが脚本のせいなのか、それとも彼女の演技力のなさに起因しているのかは分かりませんが、とにかく彼女は生き生きとした一人の人間であるよりも、むしろある種の記号として存在しているように感じられる。
つまり、このドラマでの伊東美咲というのは、「一般人の女性(しかもハイスペックの)」という記号の役割を与えられています。
その「ハイスペックな一般女性」に欲望を感じるのが電車男なわけです。
紆余曲折はあるものの、彼はその欲望を信じ、その欲望を成就させることで物語のクライマックスとなる。
はっきり言って、私はこの物語のどこが感動的なんだかさっぱりわからん。
しかし、この物語に感動を覚えている人たちもたくさんいるわけです。
この落差というものを考えるに、上で書いた欲望の共鳴ということがポイントになる。
要するに、電車男で感動している人たちというのは、
「オタクという自分達には理解できない欲望を持つ人間が、一般的な欲望(伊東美咲に欲情する)に寄り添っている」
ということに感動しているわけです。
もちろん、それだけの理由で感動しているわけではないけれども、こういうところが一つの感動要素になっている。
この物語の最初のほうで面白いシーンがあります。
初てのデートの準備として、電車男がお洒落な服を買いにいくところです。
これなんかは「ファッションへの欲望」という一般的な欲望を電車男が積極的に受け入れる過程として見ることが出来る。
今までフィギュアとガンプラとかに向かっていた電車男の欲望が、ファッションという一般的な消費形態へと向かっていくという意味合いなわけです。
この「服を買う(消費する)」という以外にも、「お洒落な居酒屋で食事する」なんていうシーンもありました。
いずれも、「消費」することで、一般的な欲望を受け入れるという過程をとっている。
これのどこが感動的なんだかわけがわかりません。
たしかに、オタクというのもマンガやアニメを消費することで自己表現している存在である、ということは言えるでしょうが、オタクなんて別に感動的なもんじゃないですから。
だとしたら、こうしたファッションへの消費、もしくは一般女性への欲望もまた感動的なわけがない。
そう思うんですが、実際は多くの人を感動させてるんですよね、この三流の物語が。
電車男っていうのは、多くの人に承認された欲望に付き従う人間を見て感動しているわけで、この構造って藤原紀香と結婚した陣内智則に対する世間の関心と同じようなもんだということがいえます。