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2007年04月30日

自分のアホさ加減に愛想がつきたよ・・・・

先日、私はDarker than BLACKの略称として「ダカダン」ってのを提唱しました。


ところが他の人のブログを読んでいたら、あることに気づいた。


「ダーカー・ザン・ブラック第三話を見た感想としては・・・・・」



え?ダーカー・ザン・ブラック!?




ダーカー・ザン・ブラック!?



・・・・・・・・・・・そうだった・・・・・。


thanって普通は「ザン」って読むんだった・・・・。
これを「ダン」とは言わない。
だったら、これ私のように略したとしても「ダカザン」になっちゃうじゃないか。
うげ。


もちろん、「ザン」も「ダン」も日本語的な発音なので、どっちも間違いと言えば間違いなんだけども、thanをカタカナにするときって、やっぱり普通は「ザン」って書く。


いやー、まいったね。
私は昔から、このthanを「ダン」と発音する癖があって、それをまったくもって失念していたのであった。


どうして、私はこのthanを「ダン」などと発音しているのであろう?
何故?


気になったので試しに、他の「th」音の単語も発音してみた。


then 「ゼン」


them 「ゼム」


thus 「ザス」


うーん、ここらへんは普通だ。


they 「デイ」


!!!!これだ。


そう、このtheyを私は「デイ」と発音していたのである。
英語で言うと「day」の発音と全く同じ。
だから、私が「They are・・・」という文章を口にすると、たぶん「Day are・・・・」という風に聞こえると思う。
おそらく、このtheyを「デイ」と発音することが、thanを「ダン」と発音することの原因になってる。


うーん、なんでまたこのtheyを「デイ」と発音してるのかな、私は?
ということについてつらつら考えていたら、中学時代の記憶が浮かび上がってきた。


中学の時分、「They are(ゼイ・アー)・・・・」という文を習ったとき、
私はこの発音が妙に聞き苦しく感じてしまったのである。


「ゼイ・アー」「ゼイ・アー」って十回ぐらい発音してみてください。
なんか、空手の演舞でもやっているような気分にならない?
いや、そもそも「They are」を十回も繰り返す会話なんてありえないわけだけど、それはそれとして。


で、なんかこの発音が嫌だったんで、自分勝手にこの「They are」を「デイ・アー」と変えて発音していたんである。
(ここらへん、自分勝手に物事を解釈する、という現在の性格が年若いころから発現していることに嘆かざるをえない)
そしたら、それが癖になって、今の今まで自分が普通とは違う発音をしていることを全く失念してしまっていた、という話。


うーん、なんたらこった。
Darker than BLACKの略称として「ダカダン」ってのを、世間一般に広めようというひそかな野望を持っていたのに、こんなところで頓挫するとは・・・・。
なんか意気揚々と歩いていたら落とし穴にはまった気分。
その落とし穴が、自分の掘ったものだってとこが間抜け極まりないが。


「ダカダン」という呼び名を世間に広めようとしていた矢先だったんですが、上記のような理由により、Darker than BLACKを「ダカダン」と呼ぶのは世界中で私一人だけ、という事態に相成りました。
無念。


しかし、一度つけた呼び名を変えるのも男らしくない気がしないでもないので、ここは意地でも「ダカダン」と呼び続けたいと思います。
このブログ内で「ダカダン」と言ったら「Darker than BLACK」を指していますので誤解なきよう。


そのうち、googleで「アニメ ダカダン」で検索すると、このブログが一位表示されることになるでしょう。
いやー、いつ一位になるんだろう?
楽しみ。


ま、問題はそんな語句で検索してくるヤツは一人もいない、ってことなんだけど。



2007年04月28日

Darker than Black


一話目を見た段階で、何をとち狂ったのか「応援宣言」してしまった、
Darker than Black 黒の契約者。


応援するとかいった割りには、その後、特に触れることもなく、
ナニワ金融道だとか、「藤原紀香よりテッサとエッチしたい」とかいう、
妙な文章を書いてるだけだったんですけど、
Darker than Black、一応見てますよ、ちゃんと。


しかし、Darker than Blackって、タイトルが長い。
いちいち、Darker than Blackって書くのもメンドいです。
略称って既にあるのかどうかわからんけど、ここは一つ私が略称を考えてみた。
「ダカダン」ってのはどうだろう?
ドリカム方式の略称ってことで。


しかし、このアニメを応援宣言したのは間違いだったかもしれん。
ちょっと後悔してる。


こんなことを書くと、


「あ、ダカダン(←もう浸透してる)って詰まらないんだ」


とか思われるかもしらんけど、それは違います。


普通に面白いです、このアニメ。
(まあ、主人公の名前を未だに覚えてなかったりはするけど)


アクションシーンとかもそれなりに見応えあるし、雰囲気とかもいい。
ストーリーに関しては、まだ面白いのかどうかの判断がつかないけども、まあ、とんでもない駄作になることはなさそう。


今のところは普通に良作っぽいんだけど、なぜ、私が応援宣言を後悔してるのかっていうと、このアニメには「どっちに転ぶかわからないドキドキ感がない」から、なわけですよ。


たとえば、エヴァンゲリオンをリアルタイムで見ていたとする。
そうするってぇと、その間のエヴァというアニメに対する感情の振幅ってスゴいもんがあると思う。


最初のころは面白かったのに、後半になって、あの自己啓発セミナーみたいな展開に唖然として、「庵野死ね」って思ったり、劇場版第一作目を見ては、「うっわ、なにこの戦闘シーン、神」って興奮してたら、二作目でろくでもないもんを見せられて「庵野死ね」に逆戻りしたり。


なんかこういう、一歩先は傑作か駄作か、神か悪魔かっていう、デッドオアアライブ感が欲しい。
「どっちに転ぶんだろう?」っていう切羽つまった感じが、このダカダンにはない。
それほど酷いことにもならないだろうし、かといって、こっちの予想を上回るものも、また出てこなそう。
ふつーに地味ながらも良作というところに落ち着きそうな感がある。


「どっちに転ぶんだ?」っていう切羽詰った感覚を味わいたくて、あえて一つのアニメを応援してみたのに、なんだか思いっきり選択ミスしてるかな、こりゃ。


そういえば、このアニメの前にやってたコードギアスなんかは、そういう意味では「応援しがいのある」アニメだったわけだけど。
ああ、近頃見終わったラーゼフォンなんかもそうです。
デッドオアアライブ感がありありのアニメだった、あれも。
って、なんだかロボットアニメばっかだけど。


まあ、そんなわけで「地味な良作」というところに落ち着きそうな、Darker than Blackではあるけれども、これからは気が向いたときにでもレビューしてみます。
たぶん、そのころには主人公の名前も覚えているはず。



2007年04月25日

オタクと性欲@

藤原紀香とテレサ・テスタロッサ


藤原紀香さん、陣内智則さん、入籍おめでとうございます!!!
お二人の幸福が永久にあらんことを、心より願っております。








心のなかに、これっぽっちもない感情をこめて、文章を書き始めてみたんだけど、どうだろう?
ま、どうだろうってこともないんですけど。


とりあえず、めでたいことですよ。
うん。
二人に特別、良い感情も、また悪い感情も持ってないけど、とりあえず幸せになってほしいです。




二人が結婚するっていうのが分かったのって、いつでしたっけ?
去年くらいだったかな?
いや、あまり興味ないもんで、ちゃんと思い出すことができないんですけど、
結婚するっていうことが判明してから、しばらくたって、バラエティ番組に陣内智則が出てるのを二回くらい見ました。
一つがめちゃイケで、恋のかま騒ぎのヤツ。もう一つの番組はなんだか忘れた。
私は、最近テレビをとんと見ないもんで、結婚後の陣内智則を二回も見るっていうのは何気にスゴいことです。


で、その二回とも陣内智則は同じような話をしてた。
当然といえば当然なんですが、藤原紀香とのなれそめを、周りの芸人たちから根掘り葉掘り聞かれてた。
他の芸人たちは、「うっわ!藤原紀香みたいないい女と結婚できるなんてうらやましい」っていうスタンス。
その羨望のまなざしを浴びながら、幸せそうに藤原紀香とのなれそめを語る陣内という構図。


なんか、これが妙に面白かった。


というのも、私のなかでは、最近の藤原紀香って、

「K−1で、妙なテンションで的外れなコメントを残す女」

という認識しかなかったから。


まあ、藤原紀香がまだテレビに出たてのころは、多少は可愛いなと思ったり、多少の劣情を催したり(ぅが)はしましたよ。
しかし、そういう時期っていうのは、とうの昔に過ぎていて、今では藤原紀香の存在意義なんて、自分のなかではほとんどなかったわけです。
世間の認識も、私のそれとそう大差ないだろう、と思うんですけど、そこらへんはどうなんでしょ?


まあ、そういう私個人の認識とは裏腹に、バラエティ番組のなかでは、藤原紀香っていうのは、「憧れの存在」であり、彼女と結婚できるなんて、「男として最高の喜び」である、として遇されている。
結婚っていうのは思いっきり下世話な言い方をすると、「藤原紀香とヤレる」ってことです。
(ま、下世話すぎますが、これじゃ)
だから、陣内の周りで羨ましがっている他の芸人たちは、「オレも藤原紀香とエッチしたい」と言外に語っているのと同じことです。



もっともバラエティ番組というのは、ある属性を極端に扱うという特性を持っています。
たとえば、ブスとして認識されている女芸人は、必要以上にブスとして邪険に扱われる。
美人とされている、アイドル、女優などは、これまた必要以上にチヤホヤされる。
こうやって、ブスと美人の落差をつけたほうが、笑いがとれる、というような構図ができあがっている。


だから、陣内の周りでしきりにうらやましがっている芸人たちも、実はそううらやましくはないのかもしれない。
けれども、それが羨ましがっている演技であろうとなかろうと、バラエティ番組としての総体として見た場合、藤原紀香というのは「男なら誰でも抱きたいと思う最上の女性」として扱われているわけです。
そして、芸人たちの「エッチしたい」という欲望が藤原紀香に向かっているという画面を我々は見せられている。
彼らの欲望の総体が「藤原紀香=いい女」という、共通理解を作り上げていることになります。


もうすでに述べたように、私は藤原紀香なんてどうでもいい。
ほとんど興味ないです。
だから、「藤原紀香とエッチしたい」とも思わない。
私の場合、藤原紀香よりも、フルメタル・パニックのテッサのほうがいい。
藤原紀香とはヤリたいと思わない私ですが、テッサとだったらヤリたいです!



NO






tessa1.jpgYES


tessa2.jpgYES!!!






今、男として・・・・・・というか人間として、「この人、もう終わっちゃってるね」的発言をしてしまいましたが、まあ、いいじゃないですか。
正直な気持ちを述べただけの話なんだから。
しかし、ただ正直に心のうちを綴っただけなのに、「テッサとヤリたい」なんてことを言うと、たぶん、世間は私のことを白い目で見るでしょう。
「アニメキャラとエッチしたい、だなんて、この人だいじょうぶ?」みたいな、不憫な動物を見るような目で、私のことを見るに決まっている。


これ、考えてみると不思議なことです。
(「ぜんぜん不思議じゃねーよ。不思議なのはお前の頭んなかじゃねぇか」
とかいう興ざめなことは言わないように)



というのも、前述したように、「藤原紀香とエッチしたい」と公言することを世間は許している。
もちろん「エッチしたい」なんていう直接的な物言いは、風紀上、許されてはいませんが、めちゃイケの例を見れば分かるように、「エッチしたい」という欲望は言外の意として表出されている。
つまり、あまりに下品な物言いは世間の顰蹙を買うけれども、欲望をオブラートに包んでさえいれば、それを世間は批判しない、どころか、積極的に容認しさえする。


私も今、私の欲望を述べました。
テッサとエッチしたい、って。
しかし、その欲望を世間は容認してくれない。
これは、おかしい。
おかしい。
私の欲望は、それほど公序良俗に反したものでしょうか?


たとえば、私が近所に住む、香奈ちゃん(5歳)とエッチしたい、などということを言ったら、確かにこれは大問題です。
香奈ちゃんはまだ年端もいかない女の子なので、彼女との性交など、道徳的に許されることではありません。
もし、本当にこんな鬼畜なことを言う輩がいたら、強制的に去勢でもしてやったほうが、世のため人のためになる、というものでしょう。


一応、私にも道徳的観念のなんたるかは多少なりともわかっているつもりなので、こうした反道徳的な欲望が許されないことは理解出来ています。
だから、こういう(幼女と性交したいという)欲望を、世間が白い目で見るのは至極当然なことだと思う。


で、「アニメキャラとエッチしたい」という欲望は、果たして反道徳的なものでしょうか?


結論から先に言えば、ぜんぜん反道徳的ではない。
というか、実在の女性に性欲を催すよりも、はるかに道徳的である、とすらいえます。
なぜか?
それは「アニメキャラとは実際にエッチできないから」です。
実際にエッチできないのだから、頭のなかで何を考えようとこっちの勝手です。
言ってみれば実害がない。
乱交パーティを夢想しようが、レイプを夢想しようが、どんな破廉恥なことを考えようとも、それが実際に行為されることがない。
そもそも行為に移すことが不可能なんだから、行為しようがない。


これが、現実の女性に対して、こうした破廉恥な夢想をしている場合だと話が違ってきます。
「藤原紀香とエッチしたい」と欲望している人間は、そうした夢想を実際にしてしまう可能性がある。
藤原紀香そのものではなくとも、彼女によく似た女性を見た瞬間、レイプ魔と化している可能性もある。
危ない危ない。
なんたら危ない連中だろう。


こうした、素の性欲よりも厄介な欲望が、恋愛というやつです。
はっきり言って、この恋愛というものはただの性欲なんかより何倍も厄介な代物。
性欲なんていうのは、風俗にでもいけば解消できるもんですが、恋愛となるとそうはいかない。
そもそも、一人の人間を所有することなんてできやしないのに、意中の人を自分だけのものにしたくなるのが、恋愛というものですから、こりゃ危険極まりない行為と言ってよい。
洋の東西を問わず、昔から痴情の縺れからくる刃傷沙汰なんてのはありふれた出来事です。
ストーカーなんてのも、最近できた言葉ではありますが、じゃあ昔はストーカーなんてなかったのか?って言えばそれは違う。
昔から、こんなことはあったわけです。
ざらにあったし、ありふれたことだった。
ただ、だれもそれが犯罪的な行為だと思っていなかっただけの話だ。


つまり、性欲にしろ、恋愛願望にしろ、現実の女性に欲望を感じている人間というものは、このように世間に迷惑をかける公算が非常に高い。
それに比べれば、テッサに欲望を感じている私なぞは、世間に迷惑をかけることなんてありえません。
迷惑をかけようがない。
キリストという人は、

「いやらしい目で女性を見たというだけで、姦通したのと同じことだ」

なんてことを言いましたが、そのキリストだって、私のことを非難できやしないでしょう。
だって、どうやったってテッサと姦通なんてできやしねぇんだもの。


こういうことを考えてみれば、世間は私のことを人畜無害な人間である、聖人君子であるとして尊敬の眼差しで見てもよいくらいだと思われます。
しかし、実際には、そうなっていない。
誰も誉めてくれない。
いや、誉めるどころか、すんごい冷たい目で見られてる。
もうね、痛い、痛い、視線が痛い。


こうした不条理をただ「世の中バカばっかだから仕方がねぇよ」で済ますこともできるんですけど、ここはあえてもう少しばかり考えてみることにします。


なぜ社会は私を白眼視するのでしょうか?
それは「私の欲望が犯罪に近いものだから」ではありません。


アニメキャラとエッチしたい→ロリコンの気がある→性犯罪を起こす可能性がある


こういう思考回路をとって、私のことを白眼視する人もいるかもしれない。
しかし、それは成り立たないことは既に書きました。


ここで一つ例を出してみたいと思います。


たとえばここに「オレは50以上の女にしか欲情しない」という(若い)男がいたらどうでしょう?
おそらく、社会はその男のことを奇異の目で見ることだろうと思います。
たぶん、こうした視線は「アニメキャラとエッチしたい」という私に向けられた視線と同一のものです。


これが「オレは小学生の女子にしか欲情しない」という男であれば、社会が白眼視するのも理解できます。
なぜなら、それは犯罪ですから。
しかし、彼は老女(50以上を老女と呼べるかどうかはわかりませんが、ここでは老女としておきます)に欲情している。
これは明らかに犯罪ではない。
それどころか、その男が韓流スターのような容姿をしていた場合、これはその老女たちに喜ばれることはあっても非難されることはまずない。
ある意味、人助けのような側面すらある。


それなのに、彼は周囲からは奇異の目で見られてしまう。
これはひょっとしたら、「小学生にしか欲情しない男」よりも理解を得られないかもしれません。
小学生に欲情する男はたくさんいますが、老女に欲情する男はそうはいない。
これ、世間の評価基準が明らかにあべこべです。


なぜ、私やこうした老女萌えに対する社会的な評価があべこべなのか?
冒頭の藤原紀香に対する世間の欲望と考え合わせてみると、このように考えられます。
つまり、「アニメキャラに欲望を感じている」私や、「老女に欲望を感じている」男が奇異の目で見られる理由というのは、


『我々の欲望が一般的な欲望とかけ離れているからだ』


ということです。
逆の側(社会一般)から言えば、

「お前たちの欲望は私達のものと違う」

と言って、一般人は私たちに白い目を向けていることになる。


つまり、「藤原紀香に欲望を感じる」のは一般的なことなので、そう奇異には見られない。
しかし、その欲望の対象が「アニメキャラ」だったり、「老女」だったりと、世間一般の欲望とかけ離れているときには、人々はそれを不審に思う。
まあ、こういうことがいえます。





欲望は共鳴しあう


「道徳」「倫理」といった言葉と、「欲望」という言葉を並べたとき、我々はなんとはなしにこのようなイメージで捉えるのじゃないか、と思います。

道徳・倫理 = 社会的なもの

欲望 = 個人的なもの


たしかに道徳、倫理といったものは、社会に共有されているのがふつうです。完全に個的な道徳、というものはあまり存在しない。
周りがそれを正しいと思っているからこそ、自分もまたそれを正しいものだと感じる。これが道徳のありかたです。


道徳が社会的な共通理解であって、倫理がキリスト教的(一神教的)な垂直的価値観である、という使われかたが一般的なようですが、その倫理とて、まったく個的なものとはいえない。
だいいち、周りにクリスチャンが多いからこそ、自分もクリスチャンになっているという筋道をとるのが、ふつうの宗教の姿です。プロテスタントのほうが、集団的ではなく、個的であるらしいですが、そのプロテスタントだって、ある程度の集団をなしている。


結局、道徳、倫理ともに社会という存在から湧き出てくる価値観であって、それが個人の行動を縛っているのだというふうに、ふつうは考えます。
その縛りというものを、良いものと感じるか、悪いものと感じるかは人それぞれですが。


そして、そうした社会の縛りである、道徳、倫理とときに対立するものとして、個人の欲望というものがある。
欲望というのは、ふつう個的なものとして考えられています。
たしかに「テッサとエッチしたい」という私の欲望は、まぎれもなく私個人のものなので、欲望が個的なものである、というのは正しい。


しかし、欲望が純粋に個的なものかというと、それは違う。
欲望もまた、道徳、倫理と同じく社会化されていると私は思うのです。


子供のころに、友達の持っているおもちゃが、「自分も」欲しくなる、という経験は誰もが思い当たるところがあるでしょう。
友達がそのおもちゃを持っていなければ、自分も欲しいとは思わなかったかもしれない。
これは他人の欲望に、自分も共鳴しているということです。
人の欲望が自分に伝染し、また自分の欲望が他の誰かに影響を及ぼす。
こんなふうにして、欲望というものは社会化していく。


一つ例を挙げると、ある集団のなかでは、欲望が共有化されている、というのはよくあることです。
たとえば、ヤンキー。
ヤンキーの人たちは、みんな車の趣味が似通っている。
セルシオ(今はもうないのか)とかマジェスタとかの、国産の高級車がヤンキーは好きです。
これはヤンキーという集団のなかで、欲望が共鳴しあい、そして共有化されたものだと見ることができる。


また、学園ものの恋愛ドラマなんかではよくこんなシーンが出てくる。

A男とB女は軽口を言い合ったりする友達ではあるが、二人のあいだに恋愛感情はまったくない。
そこにA男の親友であるC男が、実はB女のことが好きなんだと、A男に告げる。
A男は動揺する。
それまで、友達としてしか見ていなかったB女のことを急に恋愛対象として認識しはじめる。


こういうシーンでは、「もともとA男はB女のことが好きだった(恋愛感情を持っていた)のだけれども、その胸の奥に秘められた感情がC男の告白で、はっきりと認識されたのだ」みたいに解釈するのが普通です。
まあ、確かにこれはこれで正しいとは思いますが、こんなふうにも考えられる。

「C男のB女に対する欲望がA男の欲望を呼び覚ましたのだ」
というふうに。
つまり、それまでA男はB女のことを恋愛対象(もしくは性的対象)として見ていなかった。しかし、C男の恋愛欲望(または性的欲望)がA男にB女を恋愛対象として見るという欲望を発見させた、というように考えることもまた可能です。
もしC男がいなければ、A男はB女を性的欲望の対象としてみなかったかもしれない。



誰かの欲望を自分の欲望とし、自分の欲望が誰かの欲望となる。
これをどっちが先かというのは、鶏と卵のはなしと同じになってしまいますが、とにかく社会的な欲望と、個的な欲望というのは互いに共鳴しあいながら、増幅していったり、しぼんでいったり、ということを繰り返す。
そうしてみると、「純粋に個的な欲望」などというものは、そう多くはないと思われます。
「私の欲望」は「誰かの欲望」と多かれ少なかれ重なっているもんです。


「みんなが欲しがるから、自分も欲しくなるもの」の代表例が「お金」です。
お金というものは、よくよく考えると不思議なものです。
というのも、お金は「みんなに欲望されるから」お金としての役割を果たしている。
みんなに欲望されなければ、お金というのはお金としての役割をはたせない。
もし、日本人全員がある日突然、「日本円」を欲しがらず、ユーロなりドルなりを欲しがり始めた、としたら、日本円の価値はまったくなくなってしまう。
1ドル10000円くらいの価値に暴落してしまい、また日本国内で円は流通しなくなります。
代わりにドルだのユーロだのが流通し始める。
はっきり言ってお金というものは所詮ただの紙切れなので、「みんなが欲しがっている」という幻想さえなくなってしまえば、まったく価値はなくなってしまう。
お金をお金たらしめているのは、みんなの欲望そのもなのです。



ニーチェという人は「世界とは欲望の総体である」ということを言いました。
このニーチェの言に従ってみると、人間というものは世界(欲望の総体)を自分の欲望とし、また自分の個的な欲望が表出されて世界となる。
こうした欲望のうねりのなかで、人間は世界というものを理解していくわけです。
そして、その理解をもとに行動に移す。


このように考えてきたときに、藤原紀香に欲望を感じず、テッサに欲望を感じている私に対する社会の白眼視というものがより理解しやすくなる。
つまり、私は「社会的な欲望に共鳴していないから」白眼視されているわけです。
ある意味では、社会的な欲望を私は強制されている、と言ってもいいかもしれません。
そして、それを私が拒否していることで、社会は気味悪がっているという話。
ニーチェ的に言えば、私は「世界を拒否している」ということです。
(おお!無駄にカッコいい言い回しだ)


ちょっと蛇足ではあるんですが、私のバージョンとは全く逆のパターンを描き、近年大ヒットした物語があります。
「社会的な欲望を拒否」するのではなく、「社会的な欲望を受け入れる」ことで、人々を感動させた物語です。
この物語は様々な形でメディアミックスされ消費されました。
わかります?これ。






それが何かっていうと「電車男」です。


この物語は一人のオタクが、「一般女性」に欲望を感じ、その欲望を成就させる、という話です。
私はドラマでちょっと見ただけなんですが、ドラマだと、そのヒロインが伊東美咲でした。
正直なところ「伊東美咲が好き」だという男が私の周りにいないので、彼女がどういう層から支持を受けているのだかわかりませんが、とりあえず彼女は美人でスタイルもいい、おまけに性格もいいお嬢さまとして描かれています。
私が見た限りでは、彼女のキャラというのは何とも表層的で、人格的な深みというものがあまり感じられなかった。
たとえば、彼女はあるトラウマから「嘘をつかれるのが異常に嫌い」なのですが、それがなんとも薄っぺらい。
それが脚本のせいなのか、それとも彼女の演技力のなさに起因しているのかは分かりませんが、とにかく彼女は生き生きとした一人の人間であるよりも、むしろある種の記号として存在しているように感じられる。
つまり、このドラマでの伊東美咲というのは、「一般人の女性(しかもハイスペックの)」という記号の役割を与えられています。


その「ハイスペックな一般女性」に欲望を感じるのが電車男なわけです。
紆余曲折はあるものの、彼はその欲望を信じ、その欲望を成就させることで物語のクライマックスとなる。


はっきり言って、私はこの物語のどこが感動的なんだかさっぱりわからん。
しかし、この物語に感動を覚えている人たちもたくさんいるわけです。


この落差というものを考えるに、上で書いた欲望の共鳴ということがポイントになる。
要するに、電車男で感動している人たちというのは、

「オタクという自分達には理解できない欲望を持つ人間が、一般的な欲望(伊東美咲に欲情する)に寄り添っている」

ということに感動しているわけです。
もちろん、それだけの理由で感動しているわけではないけれども、こういうところが一つの感動要素になっている。


この物語の最初のほうで面白いシーンがあります。
初てのデートの準備として、電車男がお洒落な服を買いにいくところです。
これなんかは「ファッションへの欲望」という一般的な欲望を電車男が積極的に受け入れる過程として見ることが出来る。
今までフィギュアとガンプラとかに向かっていた電車男の欲望が、ファッションという一般的な消費形態へと向かっていくという意味合いなわけです。


この「服を買う(消費する)」という以外にも、「お洒落な居酒屋で食事する」なんていうシーンもありました。
いずれも、「消費」することで、一般的な欲望を受け入れるという過程をとっている。


これのどこが感動的なんだかわけがわかりません。
たしかに、オタクというのもマンガやアニメを消費することで自己表現している存在である、ということは言えるでしょうが、オタクなんて別に感動的なもんじゃないですから。
だとしたら、こうしたファッションへの消費、もしくは一般女性への欲望もまた感動的なわけがない。
そう思うんですが、実際は多くの人を感動させてるんですよね、この三流の物語が。


電車男っていうのは、多くの人に承認された欲望に付き従う人間を見て感動しているわけで、この構造って藤原紀香と結婚した陣内智則に対する世間の関心と同じようなもんだということがいえます。










2007年04月23日

ミルコ負けちゃった・・・。

ミルコ2度目の屈辱…まさかKO負け
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070423-00000012-spn-spo


ミルコ負けちゃいましたね。


試合見たんですけど、なんで負けたんだかさっぱりわからん。
相手は柔術の選手らしい。
試合の序盤に、その相手の選手がワンツーを何回か出すんですけど、それがぜんぜん大したことのないパンチ。


「あー、ぜんぜん打撃できないんだ、この人」
とか思ってたら、1ラウンド終わりかけに、相手の右ハイキックが決まって、ミルコがKO。


こんなグラップラー相手に打撃でKOされるとは思わんかった。
どうしちゃったの?ミルコ。


思えばミルコが総合の試合で判定以外で負けたのって、
1ノゲイラに腕ひしぎで一本負け
2ランデルマンに右パンチでKO
3今回の右ハイキックでKO


スタンドでの打撃でのKOのほうが多いんですけど・・・・。
しかも、そのKO負け喰らった相手ってのが二人ともグラップラーじゃないですか。


もともと、打撃のスペシャリストだけに、
「グラップラー相手に打撃では負けるわけがない」
という思い込みがあるのかもしれない。


ミルコってヒョードル、ノゲイラと比べると、
精神的に弱いというかあやういところがあるからなあ。
ヒョードル、ノゲイラはどんな窮地に追い込まれても、平静な顔を保ってるけど、ミルコって一端ピンチになると、まるで暗闇のなかの小動物みたいにおびえた顔するし。


まあ、そういう危うさが魅力でもあるわけですが。

2007年04月14日

ゼーガペインを見た、見た、見た!

とある知人から、


「ロボットアニメ好きなんでしょ?だったら、これ見てみたら」


なんて言われて、ラーゼフォンとゼーガペインを貸してもらった。


ロボットアニメかぁ。ふーん。







・・・・別段、興味ないんですけど、ロボットアニメ。


なんでか知らんが、その知人は私のことを「無類のロボットアニメ好き」として認識してたらしい。
なぜ?
今まで、ロボットアニメが好きだなんて、一言も発したことがないんですけど。


まあ、確かに、ブログ村ってのには、「ロボットアニメ」のカテゴリーで登録している。
だけど、それはただ単に他に適当なジャンルがなかったから、
「エウレカセブンの記事も書いてるし、どっちかって言えばロボットアニメかなぁ」
くらいの気持ちで登録しただけ。
だって、他のジャンルって、
「オリジナルアニメ」「萌えアニメ(ノンアダルト)」「美少女アニメ」「BLアニメ」とか、こんなのしかないんだもの。
このブログがどこのジャンルに属しているのか、私自身にもよくわからない。
まあ、BLアニメじゃないことだけは確かだけど。
だいいち、このジャンル分け、変じゃないか?
「オリジナルアニメ」ってのが。
この「オリジナルアニメ」に登録している人たちは、
「原作付きアニメなんて好きじゃない。やっぱ、オリジナルアニメが最高」
とか思ってる人たちなのか?
そんな人はまずいないと思うんだけど。


別にロボットアニメが嫌いというわけではもちろんないんだけど、
特にロボットアニメが好きってわけでも、またない。
どのジャンルのアニメが好きとかいうのが、私の場合あまりないので、
「ロボットアニメ好き」とか言われると戸惑うのである。


そんな私の手元に、「ロボットアニメが好きなら」という知人の勘違いによって、
ロボットアニメが二つも!もたらされたわけである。


んー、どうしよう。
まだ、コードギアスすら見終えていないってのに(いいかげん見ろ)、
ギアスよりも遥かにマイナーなラーゼフォンとゼーガペイン。
これは処理に困る。


しかし、人の好意を無碍にもできまい。
(ロボットアニメ好きじゃないけど)

とりあえず、ゼーガペインを少しだけでも見てみるか。
(なんかロボットがかっこわるいけど)

とりあえず数話だけでもいいかな。
(あーあ、26話までありやんの)



ということで、ゼーガペインを見た。






見た。



見た。



見た。





うっわ!!!なにこれ(驚)。
スゴいんですけど、ゼーガペイン!!!!




このアニメ、欠点を探そうとすればいくらでも見つけられる。
既に書いたロボットがかっこ悪いとか、
美人という設定なのに、全然美人に見えないシズノ先輩とか。
作画だって、そんなにいいとは思えないし、
戦闘シーンにも光るものがない。


だけど、そんな幾多の欠点を補ってあまりある、飛びぬけていい一つの特質がある。


自分で説明してもいいんだけれども、ネットを徘徊してたら、
こちらのブログで、その特質が見事に言い表されていたので、
それを紹介します。


http://telfiy.seesaa.net/article/20060788.html


(前略)
ぐあーホントやってられない。
救いようの無い設定の中で、
救いようの無い物語ばかりやられるとホント心にキますわ。
ホント、「ココロを擦り減らしながら見るアニメ」です、これ。
(「心」じゃなくて「ココロ」ね)

ここまでココロをすり減らしつつ、
正直見てるのがツライ物語なんだけど、
客観的に、冷静に、
やっぱりこのアニメのシナリオ、設定、演出、お話の構成、シーンの繋ぎ方、流れ、台詞回し、etc…
いわゆる演出?コンテ?よくわかんないので、とりあえずまとめて「ストーリー構成力」とでも言いましょうか?
言っときますか。

悔しいですが、今まで見て来たアニメの中で最高クラスだと思うです。

面白いアニメは他にも沢山ありましたが、
ここまで「ココロ」に「クる」アニメは初めてだ。
ストーリー(お話のシナリオ)、設定、物語、キャラデザ、動きetc…
正直、それぞれは全然そんな大した事は無いと思います。
ウン、結構ふつーのSFアニメ。

が、やはり「ストーリー構成力」が異常。
他のアニメの2歩、3歩上を行ってる。
ちゃんと見続けていると、ココロが強引に引き込まれる。

ロボットはかっちょ悪いし、世界の設定だってなんだかんだで結構ありがちだし、とことんまで不幸なお話と涙を誘う演出で視聴者の心を揺さぶろうとしているのが見え見えなお話。
な・の・に、見てると演出のせいで「強引にココロが引き込まれる」感覚。



そう、ストーリー構成力。
ゼーガペインを他のアニメと比較したときに、ずば抜けてるのがこれなんです。
そして、この方が書いている「ココロにクる」っていうのも重要。


ここの部分をちょっと説明してみたい。
で、説明するには、比較対照するアニメがあるとやりやすいので、
攻殻機動隊(テレビアニメ版、特に最初のシリーズ)とゼーガペインを比較してみることにします。
多分、攻殻と比較するとわかりやすいと思うから。



まず、攻殻機動隊とゼーガペインの共通点が何かっていうと、
その世界観設定。
どちらもSFインテリ臭い世界観を持っている。
ここらへんは見る人を限定するところですかね?
やっぱり、こういうちょっと難しい世界観ってのはなかなか一般人には理解されにくいだろうし。
だからこそ、マニア受けする、ということもいえるけど。


で、世界観設定は似通っているんだけど、その世界観とストーリーをどう絡めていくか、という点ではぜんぜん違う。


攻殻のほうでは、この世界観を上手く利用して、伏線を張ったり、どんでん返しを作ったり、と言った、ある意味、ミステリ的な使いかたをしている。
たとえば、笑い男事件のとこで、笑い男が、人々の視覚すら操作できる凄腕ハッカーだというイメージを視聴者に持たせておいて、その後で、同じようなことを、少佐にやらせて、真相発覚みたいなとことか。
ある種の既成概念を見る側に持たせておいて、それを覆してみせることでカタルシスを得るなんてのは、いかにもミステリ的である。
SF的な世界観ってのは、このミステリ的どんでん返しを上手く行うための道具として使われていて、これはミステリがそうであるように、一種の知的遊戯なのである。
そこが攻殻を見ていて楽しいところ。


ゼーガペインにも、そうしたミステリ的な仕掛けは出てくる。
というか、出まくっている。
だけど、攻殻がそうした仕掛けと戯れるような知的遊戯であったのとは違って、
ゼーガペインの場合、その仕掛けによって、主人公の感情が揺さぶられる。
揺さぶられまくる。
その感情の振幅というものに、焦点があたっている。


真だと思っていたものが偽であり、
偽であったものが真であり。


そうした、認識の転覆という事態に主人公は思い悩み、絶望し、また希望を取り戻し、といった具合に感情を変化させていくんだけれども、この部分が秀逸。


SF的な世界観設定という意味では、このゼーガペインは決して斬新なわけじゃない。
特に目新しい世界観とは思えない。
だけど、その世界観と主人公の心理描写を絡めるという一点においては、
ゼーガペインってアニメのみならず、他のSF映画と比較しても一級品だと思う。


上で紹介したブログで書かれている「ストーリー構成力が異常(に良い)」ってのは、ここらへんのことをさしている。
そして、どういう部分でストーリー構成力が良いのかというと、それが「ココロにクる」というところ。


SF的な世界観設定っていうのは、色々あるけれど、
その世界観設定と主人公の感情を上手く絡めているのって、意外とそう多くはない。


たとえばエヴァ。
あれのなかでシンジは常に思い悩んでいるけれど、それは周囲と上手く人間関係が作れないとかの、誰でも持ちうる悩み思い悩んでいるのであって、エヴァのSF的な設定とはそんなに関係していない。
セカンドインパクトって何?とか、エヴァンゲリオンってなにから出来てるの?とかのSF的設定でシンジは悩んでいるわけじゃない。
だから、もし仮に、舞台を太平洋戦争真っ只中の日本にして、シンジをゼロ戦乗りとかの設定にしたとしても、シンジの悩みというものは、変わらないだろう。
つまり、SF設定とシンジの個人的心情ってぜんぜんリンクしていないのである。


たとえば、2001年宇宙の旅。
この傑作SF映画のなかで、主人公は宇宙の知的生命体と融合し、人間以上のものへ進化してしまう。
最後のほうが、なにやらよくわからない映像で埋められているので、不可思議な畏れを感じさせる映画なんだけど、この映画の主人公の心理描写ってのは、案外あっさりしたものであって、まあ言ってみればあまりウエットではない。
もっとも、エヴァとは違って、SF的な設定と主人公の心理というものはリンクしている。
けれども、その感情の表現ってのがベタベタしてない。
SF映画における主人公の心理描写って、この手のドライな感じで描くものが結構多くて、こういう個人的な心理との距離感をとったほうが格好いいとでもいうような価値観があるのかもしれない。
まあ、よく知らんけど。


で、ゼーガペインなんですけど、既に書いたように、
このアニメではSF設定と主人公の心理ってのが思いっきりリンクしてる。
そして、主人公の感情の表現の仕方が思いっきりベタなものだったりする。
ある意味で、冬ソナのようなメロドラマを想起させるようなベタさ加減。
これがスゴい。
SFインテリ臭漂う、この世界観設定が、主人公の感情をかき乱すという目的のために思う存分使われている。
そして、それに応えるかのように主人公も感情を思うままにあらわにしている。
ドライな感じっていうのはそこには微塵もなくて、ただただウエット。
言ってみればSFメロドラマなんですよ、ゼーガペインって。
SF設定が、主人公の感情をぶるんぶるん振り回すっていうのは、
交通事故で恋人が死んでしまうとかのメロドラマと同じ強度のドラマ性を持ってる。
しかし、メロドラマと違うのは、SFだけに、まるで哲学の思考実験みたいな、
特殊な状況を作り出せるというところ。
その特殊状況下で主人公の感情が変容していくのが、とても見応えがある。


このSFメロドラマを可能にしている要因の一つだと思われるのが、
主人公のソゴル・キョウとヒロインのカミナギ・リョーコのキャラ(性格)設定。


主人公のソゴル・キョウっていうのは、直情径行の熱血漢タイプ。
自分の感情のままに行動するタイプ。


ヒロインのカミナギ・リョーコっていうのは典型的な幼馴染キャラ。


ちょっと「元気で明るい幼馴染の女の子」を想像してください。
想像出来ましたか?
うん。
それが、カミナギ・リョーコ。
いや、本当ですよ。
見ればわかるけど、
幼馴染の最大公約数的イメージがカミナギ・リョーコ。


なんか、ここらへん、キャラ設定にぜんぜん頭を使ってないような気がしないでもないが、実はこれがイイ。
世界観がちょっと入り組んだ設定なので、
主人公とヒロインが、思いっきり単純に作られているのが、
かえって物語に入り込みやすくしている効果をあげている、と思う。
ここで、主人公の男がシンジみたいなウジウジ系だったら、もううんざりすることこの上ないし、ヒロインの設定に萌え要素を散りばめられていたりしたら、これもうざかったろうと思う。




コードギアスの陰に隠れて、存在すら忘れられている観のあるゼーガペインですが、
突出したところのあるアニメであることだけは間違いないです。


だけど、コードギアスが人気出て、ゼーガペインがあまり人気がないってのは、
まあ、正直なところわからないでもない。
ゼーガペインはとっつきが悪いですからねぇ。
コードギアスって、ちょっとバカにしたくなるようなところが多々あって、
そういう嘲笑も含んだうえでの人気だと思う。
言ってみればアントニオ猪木みたいな。
バカさ加減もふくんだ上で懐深く構えてみせるっていうか。
いや、実際ギアスの懐が深いのかどうかはわからんけど。
しかし、ゼーガペインって、そういうバカっぽさっていうのがあまりない。
嘲笑されるのを拒否してる感じがある。
実際、私がゼーガペインで嘲笑できるのは、
「シズノ先輩がブサイク」なとこだけですし。
ゼーガペインが再評価されることはこれからあるのでしょうか?
うーん、なんかこのままマイナーなアニメで終わってしまいそうな気がするけど・・・・。



*なんかネタバレすることなく、ゼーガペインの感想を書き終えることができました。
これネタバレしちゃったら、見る価値のないアニメですから。
いやー、よく頑張った、オレ。
さて、次はラーゼフォンか。
見る前から、こんなこと言うのもなんですけど、どうも厄介な匂いがぷんぷんするんだけども、ラーゼフォン。
なんせ、ボンズ製作のロボットアニメと言えば、エウレカセブンっていう問題児を既に知っているわけで、しかも、そのエウレカより数段ラーゼフォンのほうが手ごわそう。
うーん。
無事ラーゼフォンを見終えることができるのでしょうか、私。
まあ、とりあえず、ゼーガペイン、ラーゼフォン、コードギアスとロボットアニメが3つも手元にあるので、ラーゼフォン見たら感想書いて、またその後にでもコードギアスの感想書いて、っていうふうにしようかな、と思ってます。
ロボットアニメという以外は、あまり共通点なさそうな3つだけど、そこをあえて比較してみようかな、と。

[このブログ内の関連記事]
ラーゼフォンは失敗作か?
コードギアスはなぜ売れたのか?1



タグ:アニメ

2007年04月12日

絵が下手なマンガ

絵が上手いか下手かってのは、
主観に依存するところ大なんで、
そう明確に線引きすることって難しい。


たとえばネギま!の赤松健って上手いの?これ。
上手いといえば上手いんだろうし、
線に色気がなくて嫌だな、と思ったりもする私のような人間もいたりするわけで。


まあ、そこの線引きってのは微妙なものがあったりする。


ただ、なかには、「おそらく大多数の人が下手と認めるであろう絵柄」を描くマンガ家もいる。
で、私が思いついたのは、ここらへんのマンガ。



ナニワ金融道




ミナミの帝王




カイジ





これ以外にもたくさん「絵の下手なマンガ」ってのはあるんだろうけど、
私の頭に浮かんできたのはこの3つだった。


このなかでいちばん絵の下手なのはどれかっていうと、
こりゃ間違いなく、「ナニワ金融道」。
このマンガのなかでは時々、セックスシーンが出てくるんだけど、
これ、ぜんぜん色っぽくない。
というか、セックスしてる感じがまったくしないのがスゴい。
なんか、裸の人形がただ絡みあっているだけ、に見える。
おそらく、血気盛んな中学生であっても、
この絵でヌくことはできないだろーな。
もし、ナニワ金融道でヌくことが出来た中学生がいたら、ご一報ください。
そんなあなたには細木数子のヌード画像を進呈したいと思います。


比較的、絵が上手いのは、ミナミの帝王、ですかね?
ただ、これはナニワ金融道に比べると通俗的ではある。
どっちも金貸しのマンガなのに、「どうしてミナミの帝王のほうをとりわけ通俗的とみなすんだ、お前は?」とおっしゃる御仁もあるかもしらん。
うーん。
何て言ったらいいんだろう?
ここで言う通俗的というのは、
「物語のなかにわかりやすいカタルシスがあるかどうか」っていう意味合いかなあ?


ミナミの帝王って、勧善懲悪的な度合いが強いマンガで、主人公の萬田銀次郎はトイチの金貸しの割りには、妙に正義の味方っぽいところがある。
言ってみれば水戸黄門的な安心感があって、それゆえにVシネマであれだけの人気があるんだろうけど、そこが通俗的に見えてしまう原因。
この3つのなかだと、いちばん通俗的なのは、このミナミの帝王だと思う。



ところで、この3つのマンガ、ナニワ金融道、ミナミの帝王、カイジにおいては、
絵が下手なことが、あまりマイナスになっていない、っていう感覚は、
たぶん、共有してもらえるんじゃないでしょうか?


絵が下手だから、最初から見る気がしない、っていう人もいるかもしれないけど、
実際に読んでみると、絵の下手さがそう気にならない。
それどころか、絵が下手なことがかえって良い効果を生み出しているような感じさえする。
これ不思議。


というのも、たとえば「NANA」の絵がナニワ金融道のそれだったとしたら、
どうだろう?


nana.jpg「シンちゃん、会いたかった・・・・」
レイラ





ありえない。
激しくありえない。
すぐさまこの女(レイラ)をロシアンフックでぶん殴ってしまいたくなるくらいありえない。
これを見た皆さんも、すぐさま、このレイラを脳細胞からデリートしたいと願ったであろう。


ということは、青木雄二の絵柄でNANAのストーリーを描くことは不可能ということなのである。
ま、当たり前だけど。


で、NANAのストーリーって何なの?と言えば、
それは恋愛とか恋愛とか恋愛とか、ま、そういうもん。
つまり、恋愛ものでは、この絵柄は受け付けない。


それじゃ、これらの「絵が下手なマンガ」が許容されるストーリーとはいかなるもんなのか?
まあ、それはこの3つのマンガのストーリーの共通点を探ればいいだけの話。


その共通点ってのがなにか、っていうと、それが「金」。
金貸しが主人公である、ナニワ金融道、ミナミの帝王、
それにギャンブルをテーマにしている、カイジ。
みんな金がテーマになっている。
金にまつわる人間の悲喜劇を描いているのが、これらのマンガである。


つまり、金にまつわるストーリーなら、絵が下手でも気にならない、ということが言えそうであるが、これはどうした理由によるものであろう。


人間にはさまざまな欲望がある。
その欲望を心のおもむくままに叫びたてると、破廉恥な人間だと思われる。
恥知らずだと後ろ指をさされる。
よって、真っ当な社会生活を送れなくなる。
だから、常識のある人は、心のなかの欲望を、そのまま表に出したりはしない。


しかし、人に言えない欲望を心のなかに溜め込んでおくというのは、
意外にこれがしんどいものであって、
あまり溜め込んでおくと、それが爆発してしまう。
爆発してしまうと、これがまた大惨事なので、一層困った事態と相成る。


しかし、世間というものは、案外上手く出来ているもので、
そうした欲望に綺麗な名前をつけて昇華してしまう、という機能を持っている。
たとえば、それが如実に現れるのが、
映画、ドラマ、小説、マンガ等のフィクションの世界なのであるが、
これらの作り物の世界で、登場人物たちは、おのれの欲望を発散し、がなりたてる。
人々はそれを見て、読んで、うさを晴らす。


欲望が、どのように美化されているのかの例を一つ二つ出してみる。



性欲。

人間にとって根源的な欲望でありながら、この欲望を思う様に吐き出すと、警察のご厄介になったり、村八分にあったりしてしまう、という厄介な代物。
極めて即物的に言えば、男と女が出会って、肉体を結合しあい、体液を交換する、というそれだけのことである。
ただ、その行為自体を見れば、別に恥ずかしいことでもなければ、また、とりたてて、美化すべきものとも思われない。
が、しかし、この性交を、恋愛などという言葉で呼ぶと、なにやら風雅なものに思えてくるから、不思議なもんである。
そして、恋愛という名前で美化された性欲を人々は消費していく。
男と女の惚れたはれたを見て、やきもきしたり、はらはらしたり、しまいには泣き出したり。
冬ソナとかね。
ところが、冬ソナ見て感動しているおばちゃんに、もし、ぺ・ヨンジュンとチェ・ジウのセックスを見せたらどういう反応するだろう?
まず、感動はしないだろう。
それどころかあべこべに劣情を催したりするのだから、人間って不思議なものである。



権力欲

ただ単に「権力欲」なんていう言葉を見ると、いかにも胡散臭い感じがする。
ハゲ上がった頭に脂汗を滲ませた政治家が、裏で権謀術数の限りをつくし、それをもっておのれの権力の拡大浸透を企図し、多数の人間からペコペコされて、ご満悦。
こういういかがわしい趣きがある。
が、しかし、この欲望とて、フィクションのなかではちゃんと美化されている。
それが英雄と呼ばれる存在を描いたもの。
たとえば、本邦で言えば織田信長などの戦国武将であったり、中国でいえば三国志であったり。
こうした題材を描いた書物などに出てくる英雄というのは、畢竟、「巨大な権力欲に突き動かされた人間たち」である。
大勢の人間を自分につき従えたい、領土があれば、それを寸毫でもいいから拡張したい。
そうした、人並みはずれた欲望を持った人間が英雄と呼ばれる。
町内会の会長の座を虎視眈々と狙っている、近所のジジィすら、私には不快に感じられるので、そんな欲望丸出しの英雄はさぞ不快であろうと思われるのだが、実際にそうした類のフィクションを見ると、そんな不快感は微塵も感じない。
それどころか、爽快感すら感じる。
これまた不思議な人間心理というべきものであって、どうしてちっぽけな権力欲を持った人間を見ると不快で、人並みはずれた権力欲が爽快なのか、わけがわからん。
わけがわからんが、ともかく、こうした形で、権力欲というものも、またフィクションのなかでは美化されているといえる。



で、問題の「金銭欲」。

フィクションのなかで、この欲望は、美化されることが明らかに少ない。
たとえば、本田宗一郎のような、事業を起こし、成功し、そして富を得た成功者の伝記というのは読んで面白いものだろうと思う。
しかし、本田宗一郎は、「金が欲しくて頑張った」のではなく、「頑張ったら金がついてきた」という形のものなので、本田宗一郎の伝記が金銭欲を美化している、とはいえない。
もちろん、最初から「金を得ることだけを求めて、結果、金を得た」式の成功者もたくさんいるのだろうけれど、そういう人の話ってあまり聞かない。
というか、人々はそうした話をあまり聞きたがらない。
それどころか、そういう「成金」は、とっとと失敗して破産でもすればいいのに、くらいに思っている。
結局、尊敬される経済的成功者というのは、松下幸之助、本田宗一郎、井深大などのように、「金以外のなにか」を求めて、結果、金持ちになった人々であり、金銭欲しかない人間は軽蔑される、と相場が決まっている。


人間の持っているもろもろの欲望のうちでも、金銭欲というのはなかなか美化されにくいものである。
これは、ちょっと考えてみるとなかなか不思議ではある。
たとえば、権力欲と比較してみるとよくわかる。
「自分の領土をとにかく広げていこう」とする、アレキサンダー大王やチンギス・ハーンに我々はロマンを感じる。
一方、「自分の金を無限に増やしたい」という金銭欲を持った人間には不快感を感じる。
しかし、アレキサンダー大王やチンギス・ハーンがやったことは、戦争であり、言ってみれば人殺しである。
それにくらべ、ただ自分の金を増やしていこうとするのは、それなりの迷惑を蒙る人間が出てくるのは確かではあるが、それでも戦争に比べたら、ずっと被害者は少ない。
それなのに、我々の感情は真逆の方向へ向かう。


うーん、なんでだろう?
人間、お金がなきゃ生きていけないのにね。
ベルマークをいっぱい集めても生きていけないんだよ、知ってた?
なんでだかは分からないが、まあとにかく金銭欲というのは、卑近な欲望であるとみなされていて、そうそう美化されるもんではない。


で、マンガの絵柄の話。


マンガの絵柄というのは、そのストーリーの種類別に異なっていて、たとえば、少女マンガは少女マンガに特徴的な絵柄というものがあるし、格闘マンガには格闘マンガに特徴的な絵柄がある。
上で、ナニワ金融道風のレイラを出してみたけれども、これがもし鳥山明の描いたレイラだったとしても、それなりに違和感は出てくるはずである。


要するにストーリーに適した絵柄がある、という当たり前のことを言いたい。
じゃあ、ここで一歩踏み込んで「金にまつわるストーリー」に適した絵柄ってのも当然あるんじゃないのか?


既に書いたように、金銭欲というのは卑近な欲望とされていて、美化されるところの少ない。
だったら、その絵柄だって、見目麗しい美少年の登場してくる少女マンガ系の絵柄じゃだめだろうし、鳥山明のような肉体の線をシンプルにした絵柄なのも変。
結局、金銭欲という、汚い(と見なされている)欲望を描くには、それなりに汚い絵のほうが向いてるんじゃないか、と思う。


2007年04月09日

DARKER THAN BLACK -黒の契約者-

実はいまだに、撮りだめしといたコードギアスを見終えてなかったりするんですけど。


あと何話残ってたっけかな?
たしか、シャーリーの記憶を消したところまでは見たんだけども。
どうでもいいことだけど、シャーリーがいちばんかわいいなあ。
いちばん好きなのはC.C.なんだけど、シャーリーのほうが色っぽいしな。
あのなかで、シャーリーってのは凡庸なキャラなんだけど、
なぜか(性的な意味で)ツボにはまる。
なぜだろ?
コスプレ度が低いからかな?シャーリー。
他のC.C.、カレン、ユフィとかって、コスプレ全開すぎて、
さすがに性的興奮を覚えない。
そんななかシャーリーって、あの普通っぽさがかえってそそる。
こんなふうに感じてるの私だけ?
って、そんな無駄な感想を言ってる暇あったら、とっとと最後まで見ろって話ですが。


そんなスローライフ送ってる私のことなんかほったらかして、春の新番組始まってた。
しかし、どんな番組があるのかすら、ちゃんとチェックしてなかったりするんですけど。


そんななかでも、一応、見てみようかな、と思ってたのが、
「精霊の守り人」と「Darker than BLACK -黒の契約者」。


で、精霊の守り人。
ぼーっとしている間に、いつのまにか一話目終わってました。
土曜日の7時?だか8時?から、とかいう情報はなんとなく頭に入ってたんだけど、
8時は8時でも朝の8時だとは思わんかった。
トラップ?これ。
今度からはちゃんと見ますよ。
トラップにもめげず。



で、Darker than BLACK、こっちは見れた。
一話目見たかぎりでは、結構いい感じ。
バイオレンスシーンもそれなりに残虐だし、ちょっとだけだけどブレードランナー的な退廃的な雰囲気も漂ってるし。
作画もちゃんとしてた。


ということで、いきなりですが、これから、このDTBを応援しようかな、と思います。


まあ、一話目を見た段階で、応援するってのも変な話なわけだけど、もちろん。
なにしろ、ストーリーがどうなるのかも全然わかっちゃいないわけだし、
一話目ってのは、だいたい作画に力入れるもんなんで、
これからの作画のレベルがどうなるかも、ぜんぜんわからない。
応援するというにはあまりにも不確定要素が多すぎて、応援しようがない。
だけど、そこをあえて応援してみる。
あえて応援してみせる。


いやー、アニメのブログとかで、「○○(アニメの名前)を応援してます」とかいうのがあるじゃないですか。
あれに憧れてたんで、それを私もやってみようかな、と思って。
いままでこのブログで何かを応援したことがあったでしょうか?
いや、ない。
これっぽっちもない。
だったら、応援してみるのもいいんじゃね?
実のところ、何を応援してみても良かったんですけど。
まあ、とりあえず目についたものを応援してみようかな、と。




ということで、このブログはDARKER THAN BLACK -黒の契約者-を応援してます。



で、応援するのはいいんだけど、応援って具体的に何をすればいいの?
うーん、なんかよくわかんないんで、バナーをサイドバーに貼ってみた。
お。
応援してる感がでてますね、こりゃ。


ところで、応援するのはともかくとして、
肝心のアニメのほうはこれからどうなるんでしょうか?
これから、どんどん駄作への道を転がり落ちていったらどうしよう。
なにしろ、私はコードギアス一話目を見て。

「あ、これ詰まんねぇ」

と思って一度切っちゃったくらい、予想をはずす人間なんで、
このDTBが面白そうに感じるということは、
その逆を行く可能性大。


まあ、作ってるのがボンズだし、それほど酷いことにはならないとは思うんですけど。


エウレカセブンのことを悪く言ったせいで、そうは思われてないでしょうけど、
実は私は製作会社のなかでボンズがいちばん好きです。


京アニがオタクの欲望に忠実に寄り添ったアニメを作る会社だとしたら、
ボンズって、オタクの欲望をいい意味でも悪い意味でもオタクの欲望を裏切る会社だと思うんですよ。


悪い意味で裏切った例がエウレカセブンだとみなされてるんでしょうけど、
私はエウレカが好きですしね(その割にぜんぜん誉めてないですけど)。
なんか私は、自分の予想を裏切ったものを見たいという欲求が強いのかもしれない。
だから、京アニも好きなんだけど、それ以上にボンズのほうが好きなのかもしれんなあ。


ということで、
このブログはこれからDTBの応援ブログと化しましたので、
これからはDTBのことしか書きません(嘘)。


2007年04月05日

Airと一本勝負

[対戦者] Air 対 私(西園寺)

[試合形式] アニメ「Air」を見て、私が泣いてしまった場合、Airの勝ち。
私が泣かなかった場合、私の勝ちとする。


[判定基準] 実際に涙が流れなければ、「泣いた」と判定しない。「感動した」「じーんときた」程度の感情の揺れでは、「泣いた」とはみなされない。


[試合時間] 12話分の視聴時間とする。


[反則] 感情を無理に押さえつける、意図的に感情をあらぬ方向にそらせる、等の行為はこれを反則とする。
たとえば、感動しそうな場面に差し掛かったとき、
「草薙素子@うさ耳メイドバージョン」
「草薙素子、SOS団に入部希望」等の無意味なギャグを頭に思い描き、これをもって自然な感情を阻害することを禁ずる。
これらの反則行為が発覚した場合、一年間のアニメ視聴禁止処分に加え、一ヶ月間の「Air」Tシャツの強制着用を課す。





さて、唐突にも程があるって感じですが、上記の内容どおり、今回は、


Air(製作 京都アニメーション) 対 私(無職同然)


の異種格闘技戦です。


そもそも異種格闘技戦のルールとして、もっとも多くの人たちを納得させるものとして始まったはずの総合格闘技が、いまや「総合ルールに最適化された格闘家」たちによる戦いへと進化した現在、異種格闘技戦なんてのは「かみあわない戦い」としてしか認識されていません。
だけど、やっぱ昔の異種格闘技戦ってワクワクしたもんだよなあ。
血沸き、肉踊る興奮っての?
「一体、どの格闘技が最強なんだ!?」っていう素朴にして好奇心かきたてられる疑問。
試合が始まるまでのワクワク感だけは、今の総合格闘技よりもはるかに上だった。
もっとも、試合が始まると、案の定すんごく詰まらなかったりするんですが。


そんな異種格闘技戦の昭和臭あふれるドキドキ感を現代によみがえらせてしまおうという素晴らしいこの企画。
なんてったって、「アニメ」と「人間」を戦わせてしまおうというんですから、発想の規模がデカい。
梶原一騎でも新間寿でも、こんな無謀な企画は考えつかなったに相違ない。
まあ、あえて比肩することができるものを探し出してみれば、

「ウィリー・ウイリアムス(極真空手) 対 熊」

くらいのもんでしょうか。



しかし、この突飛な企画とて、「人間対猛獣」という古代ローマの昔から延々と続けられてきた、人間の一般的な想像の範疇に収まってしまう企画。
それに比べてみれば、私の考え出した「アニメ対人間」という企画の斬新さには遠く及ばない。
そもそも戦う必然性が毛ほどもないところに、むりやり戦いを持ち込む、このシュールレアリズム的発想。
我ながら自分の頭の良さにほれぼれする。


さて皆さんも、「いったいどっちが勝つんだ?」と期待に胸をドキドキさせて心臓発作起こしかけている頃合いだとは思いますが、ここで残念なお知らせです。
この勝負、おそらく私の圧勝で終わると思います。
つまり、Airを見て私が泣くなんてことはありえないでしょう。


というのも、この前、Kanonっていうアニメを見たんですが、ぜんぜん感動しなかった。
詳細はこちら。

http://animemangarobox.seesaa.net/article/36055035.html

KanonとAirって、

Key原作のギャルゲー

放映したのがBS-i

製作が京都アニメーション

監督が石原立也


と、ほとんど同じ背景を持ったアニメなのです。


はっきり言ってKanonは楽勝だった。
なにしろ、美坂栞という難病の少女の話で腹を抱えて爆笑してた私です。
まあ、沢渡真琴のエピソードと、最終回あたりはちょっと胸にこみ上げるものがあったものの、涙を流すなんてところまでは全然いかない。


Kanonに圧勝してしまった私が、ほぼ同じ条件のAirに負けるなんてことが考えられるでしょうか?
ははは。ありえない。
たとえて言うならば、ヒョードル(私)と、初期UFCで片手だけボクシンググローブつけて出てきたボクサー(Air)が戦うようなもの。
こんなの試合の前から勝負はついていると言っても過言ではない。
Airファンの皆さんには大変申し訳ないのだけれども、スーパードライな感性を持った私がAirで泣くなんてことはありえませんから。


と、試合前から興を削ぐようなことを言ってしまったんだけれども、とうとう試合開始。



[前半戦]

国崎住人(ゆきと)という青年が、ふらりと海沿いの田舎町にやってくる。
神尾観鈴という女の子と知り合い、彼女の家に居候することに。
最初は、春子(観鈴の母)に反対されていたが、なんやかんやで住み着くことに。
で、この町で幾人かの女の子と出会い、それぞれのエピソードが語られるという形でストーリーが進む。


最初の数話を見た感じでは、どうやら、AirもKanonと同じく、「ちょっとファンタジー風味の感動話」の様子。


この辺りは、こちらの予想通りの試合展開。
なにしろKanonを前もって見ている、という経験値はでかい。
なんとはなしに、このストーリーのあらましが前もって予測できる。


ストーリーが予測できる、ということは試合が進むにつれ、私の最大の武器になるであろう。


というのも、昔、ホーストがボブ・サップと二度目の試合をやったときがあった。
この試合、結局、ホーストはサップに負けてしまうのだけれど、試合中、ホーストのたった一発のボディブローを喰らって、サップがダウンしてしまう、ということがあった。
私は、これが見ていて不思議でならなかった。
それ以前に、ボディにダメージを受けていないのに、なぜたった一発のボディブローが効いてしまうのか?
後日、格闘技雑誌を読んで、その疑問が氷解した。
これを言ったのが、竹原だか大橋だか、誰だったのかは忘れてしまったんだけれど、とにかくボクシングの元世界チャンプが語るところによると、

「あのボディブローは『見えなかった』から効いた」

というのである。


つまり、ホーストのボディブローを、もしサップが見えていれば、その衝撃を予測して、腹筋を引き締めるなりして、予防動作がとれる。
パンチが見えていれば、そのようにしてダメージを軽減できる。
ところが、サップはボディブローが見えていなかったから、その予防動作がとれず、不意打ちのような形でダメージを喰らい、ダウンしてしまった。


この法則は、今回の試合でも有効であろう。
私が、もしAirのストーリーをあらかじめ予測できれば、そのダメージ(感動)を軽減することができる。
人間というものは、予想通りのストーリーが眼前で繰り広げられたところで、そうそう感動できるものではない。
まあ、中には、前もって「泣く」つもりで、そうした映画を見にいく変態的な人もいるにはいるが、幸いなことに私はそうした変態ではないので、そのへん安心である。


うむうむ、これは思っていた以上に楽勝かもしれない。
やっぱAirごときで私を倒せるはずもなかろう。
すちゃっと勝っちゃおうかなー、すちゃっと。



ただし、ここでちょっと予測しきれなかったことが一つ。


このアニメのヒロインは、

神尾観鈴

霧島佳乃

遠野美凪

と3人いるのであるが、そのうち霧島佳乃、遠野美凪のエピソードが早々に(確か五話くらいで)終わってしまったのである。


このアニメ全12話だから、3人で四等分して、4話ずつくらいで回していくのだろうと思っていたのだが、二人の分は案外とあっさりしていた。
これが予測とは少しばかり違っていた。
まあ、そうたいした誤差ではないので焦ることもないのだが。


しかし、二人のエピソードが既に終わってしまったということは、残りのストーリーは神尾観鈴で占められるということ。
このアニメのメインヒロインは観鈴。
つまり私の敵は、今ここではっきり「神尾観鈴」にしぼられたわけである。


霧島佳乃、遠野美凪の二人のエピソードでは、涙が出てこなかった、というか、胸に込み上げてくるものすらほとんどなかった。
神尾観鈴に感情移入さえしなければ、私の勝ちは揺るぎないものとなるだろう。


果たして、私は神尾観鈴に感情移入できるのであろうか。
ところが、ここでまたAirファンの皆さんに残念なお知らせです。


別に神尾観鈴に限ったことではなく、このアニメ全般に言えることなんだけど、キャラデザインが妙にロリっぽい。

misuzu.jpg


特にこの観鈴はときどき「がお」なんて言ったりして、子供っぽい。


こんなことを書くと、ちょっと羨望と嫉妬のまなざしで見られるかもしれんのだけど、私にはロリ属性があまりないんだな、これが。
たとえば、

「高町なのは、小学3年生」



「淫らな人妻、32歳」

が並んでいたら、迷わず、「淫らな人妻、32歳」を取る。
そこに寸毫の迷いもない。
今まで、アニメを見ていてロリキャラに萌えられたのは、
唯一、フルメタル・パニックのテッサだけ。
ま、私はこういうタイプの人間なんで、
そうそう神尾観鈴に萌えることもなさそうな予感がする。
もちろん、それはこれからのストーリー展開にも拠るのだけれど。
萌えさえしなければ、感動することもないだろうし、この点でもまた、試合展開は私に有利な方向で進んでいると言ってよい。



[中盤戦]


で、神尾観鈴を中心に話は進んでいくのであるが、彼女はどうも精神を病んでいるらしい。


高校生にも関わらず、「がお」を語尾につけるという、その言動だけでも、精神に異常をきたしているのは明らかなのであるが、

「空にもう一人の自分がいるような気がする」などと妄言を吐いたり、

誰かと仲良くなりかけると、泣き出してしまう、といった異常行動が目立つ。


ここらへん、あくまで少しだけ、あくまで少しだけではあるけれども、同情を禁じえない。
しかし、精神を病んでいる女の子がメインヒロインなのか。
ヒロインが精神病というと、私なんかは「ノルウェイの森」くらいしか頭に浮かんでこないんだけれども、このアニメもその手の話なんであろうか?


と観鈴とこの後のストーリー展開に対して、シンパシーと疑念を抱いていたのだが、ここで驚くべきことが起こる。


なんと、物語がいきなり平安(らしき時代)へとタイムスリップ。


おりょ?!


あまりに急激なストーリー展開に、頭がついていかない。
なんだ、これは?!
いったい、どうなっている。


私は動揺を隠せない。
ちょっとしたパニック状態。


しかし、落ち着け。
これはあれだ。
観鈴の数々の異常行動がどこから来ているかという、謎解きの部分のはず。
このアニメはちょっとしたファンタジー風味で出来ているから、この平安時代の話と、現代の話がどこかで繋がっている、っていうオチだろう。
そう考えれば、この程度の話の逸脱はなにも心配することじゃない。


結局のところ、私の読みは当たっていた。
ここの平安時代の話部分でのヒロインは観鈴と関係があるらしい。
らしい、ってのは随分と適当な言葉使いではあるが、この部分は具体的に示されるわけではないので、「なんとなく、こういうことなんだろうなー」という程度しかわからないのである。
もっとも、主人公の国崎住人が何者であるかは、ここで分かったんだけど。


と、なんやかんやで平安時代部分は終了。


うーん、中盤にきての、このストーリー展開の急変には焦らされた。
まあ、もちろん、ここでも涙は流してはいないんだけれど、自分の予想と大幅にずれてストーリーが進むとさすがに精神に動揺をきたす。
正直なところ、この中盤戦は、「Air」に押されていた。
だが、まだまだ大丈夫。
私はいまだに観鈴に萌えてはいないし、涙がでる予兆もない。
気を引き締めて、終盤戦にのぞみたい。




[終盤戦]


観鈴がなぜ「変」なのか、ということは、おぼろげながら分かった。
そして、その理由によって、観鈴は病んでいく。
徐々に歩けなくなっていくし、徐々に記憶を失くしていく。
そういうことらしい。


あー、これはアレか。
アレですね、アレ。


いきなり平安時代にタイムスリップしたり、「空を飛ぶ少女」というイメージに惑わされていたりしたけれども、結局のところ、このストーリーって、「難病もの」なのだ。
基本的に、病気によって死んでいく少女、という要素が骨格であって、そこにもろもろのファンタジー的なイメージを絡めているだけ。
そうと分かれば、そんなに臆するほどのこともない。
たぶん、このアニメの最後は、主人公の国崎住人の腕に抱かれて死んでいく観鈴、といったシーンで、視聴者の涙を誘おうという算段なのであろう。


なはは。
私は極めて頭がいいから、こういうことにまで気が回るのであるけれども、ちょっと頭の出来がよろしくない大衆の皆さんなどは、こういう製作者の意図にまんまと乗せられて涙を流してしまったりするのであろう。
哀れ。


まあ、その点、私はこのアニメの結末を予想しきってしまったから、その心配もない。
中盤戦では、少し焦らされたが、こうと決まれば、あとは安心して試合にあたるだけ。
楽勝ムードかな。こりゃ。


などと、余裕ぶっこいていたのであるが、ここでまた予想外の展開。


なんと主人公の国崎住人が消えてしまったのである。


いや、正確に言うと、消えてはいないのだけれども、まあ、消えてしまったのと同じ。
これ以降、ストーリーに絡んでこない。


うげげ!?


なんだこの展開?
まさか、ギャルゲー原作の萌えアニメで、主人公の男が消えるだなんて思いもよらなかった。


だって、そうでしょ?
ギャルゲーと言ったら、どういうわけか主人公の男がもてまくり、複数の女を攻略できる、という類のゲーム。
まったく違う性格の女の子だというのに、みんな、なぜか主人公を好きになってくれる、というゲーム。
「お兄ちゃん」とか呼んでくる女がいるから、妹だと思ってたら、後に血が繋がっていないということが判明して、妹とまでエッチしちゃえる素晴らしいゲーム。


言ってしまえば、ギャルゲーにおける男主人公っていうのは、
複数の女の中心に位置する太陽なわけ。
その太陽が消えちゃってどうすんだよ、これ?


???????????????????????????


無数の?が頭の中を駆け巡る。
やばい。
さすがにこれはやばい。


死んでいく(消えていく)観鈴と、その喪失を嘆き悲しむ国崎住人、というラストシーンを思い描いていた私は、自分の予想が完全に外れてしまった。
なにしろ、後に残されるはずの国崎住人が、観鈴の前に消失してしまったのであるから。
動揺しまくって、煙草の吸い口のほうに火を点けてうっかり有毒ガスをあびてしまったりしている私ではあるが、ここはそれでも建て直しを図らなければならない。
つまり、このストーリーがどっちに転ぶのかを予想しなければならない。
それが、今の私のやらなければならないこと。


住人が消えたあと、ストーリーは観鈴と春子の人間関係を描写していく。
細かいことは省くけれども、春子は観鈴の実の母親ではない。
実の親は別にいるのだけれど、複雑な家庭の事情によって、観鈴は春子に預けられている。
春子は思うところあって、観鈴に素直な感情を表わすことができないし、
観鈴も観鈴で、春子に甘えることができない。
こうした感情の機微、すれ違いを丹念に描いていく。


ふむふむ、なるほどね。
要するに、これは家族愛をテーマにしているわけだ。
今まで、いびつな家族だった、観鈴と春子が心を通わせあっていく過程を、
観鈴の死を絡ませながら、感動的に描こうとする腹積もりであるか。
おっと、おあつらえむきに、観鈴の実の父親という人物が登場してきたよ。
なはは。
笑止。
恋愛ものだと思ってたら、いきなり家族ものに変わってしまったので、
ちょっと焦りはしたが、そうとわかれば、怖くはない。


今は最終回の一話前であるが、実の父親が観鈴を返せと言ってきた。
それを拒否する春子であるが、今までの感情のすれ違いから、
観鈴との繋がりを信じきることができない。
結局、観鈴を実の父親に渡すことに。
舞台は夕日に染まった浜辺。
眠っている観鈴を抱いて、遠くへ去っていく父親。


あー、このあとは、アレが来るんだな。
眠りから覚めた観鈴が、ばたばた暴れて、
春子のところに泣きながら駆け寄ってくるっていうシーンだろう。
おっと、やっぱり予想どおりの展開。
どうせ、そんなことだろうと思ったよ。
それで、遠くのほうから、
「ママーっ」って叫んだり、ね。
あはは。
予想どおり、予想どおり。
こんなお約束で、私が泣くはずが、・・・・
泣くはずが・・・・・・





泣いていた。
気づくと泣いていた。
両の眼から、とめどなく溢れる熱い涙。涙。涙。


よかった。
本当によかった、と心の底から思う。
もうすぐ消えてしまう観鈴だが、その前に二人の心が通じ合って、本当によかった。
今まですれ違っていた母娘の感情が通じ合った瞬間。
ダメだ。
これは耐えられぇ。
感動で涙がとまらない。
あまりにも泣けたので、画面がぐしゃぐしゃに歪んで視認できなかった。




このようにして、私はAirに敗北した。
しかし、後悔の念はそこにはない。
いい勝負だった、と心の底からそう思う。
それから、私が敗北したのは最終回の一話前だったので、蛇足ながら、
最終回のことにも触れておきたい。


まあ、当然、最終回がどうなるか、なんてのは予想がつく。
観鈴の運命がどうなるのか、ってことも、また。
予想がつきさえすれば、感動なんてしないだろうと思っていた私だが甘かった。

haruko.jpg



これ、クライマックスシーンでの春子なのであるが、
この画像だけ見ると、あまりにも涙の量がすさまじく、
なんか眼球が溶けてゲル状になって零れ落ちているようにも見える。
常の私であれば、爆笑しているところなんであるが、そんな無体なことはできなかった。
というのも、私もまた、眼球がゲル状になるくらい号泣してたからである。
挿入歌の「青空」とかいう曲が流れているころには、眼球ゲル状態。
いや、もうギブ、ギブ。
これ以上泣いちゃったら、もう干からびちゃうから。



[試合結果] Airの一本勝ち。



[敗戦者インタビュー]

(インタビューブースに現れた西園寺のまぶたは赤く腫れ上がっていた)
(試合の感想は)思ってたよりAirは強かったよ。今回は負けちゃったけど、今度の試合に期待してほしい。
(Airの感想は)まあ、国崎住人が消えてしまったのが、オレの誤算だったね。あの展開がなければ、勝てたかもしれない。
(ファンに向けて一言)日本のファンは世界一さ。オレはそう思ってる。今回の結果は残念なものだったけど、また応援してほしい。


タグ:アニメ

2007年04月02日

血まみれのナウシカ

この前、風の谷のナウシカのこと調べてて、
まあ、当然のごとく、ウイキペディアにも目を通していたんですけど、そこにちょっと面白い記述が。


「風の谷のナウシカ」 ウイキペディア


ゲーム

劇場アニメ版とのタイアップで、当時の8ビットパソコン用にナウシカを素材としたコンピュータゲームが作られた。1984年に徳間書店がテクノポリスソフトのブランド名で出したMSX用ゲームソフト「忘れじのナウシカ・ゲーム」、PC-6001用ゲームソフト「ナウシカ危機一髪」、PC-8801用ゲームソフト「風の谷のナウシカ」の3作である。アドベンチャーゲームだったPC-8801用のものはともかく、PC-6001用とMSX用はシューティングゲームであり、特にMSX版はナウシカが腐海の蟲たちを撃ち殺してスコアを稼いでゆくという、作品の内容や主題をまったく理解していない代物であった。これ以降、宮崎作品・ジブリ作品を題材としたコンピューターゲームが一切現れていない(例外として未来少年コナンのゲームソフトがNEC PCエンジン用とソニーPlayStation2用に発売されている)。その原因を作ったのはこのゲームであり、このゲームに宮崎や高畑が激怒したためとファンの間では語られる。また宮崎駿がゲーム嫌いになったのはこのゲームが原因という記述が井坂十蔵の「宮崎駿のススメ。」にもある。しかしいずれも明確な出典が確認されないため、噂の域を出ないのではないかとの指摘もある。




・・・特にMSX版はナウシカが腐海の蟲たちを撃ち殺してスコアを稼いでゆくという・・・・





・・・・・ナウシカが腐海の蟲たちを撃ち殺して・・・・・・・






プッ。ナウシカが蟲を撃ち殺していくゲームだなんて笑える。


うん、まあこりゃあ宮崎駿が怒るのも無理はない。
蟲を虐殺していくナウシカってそりゃねえ。


そういえば、たしかにジブリ原作のゲームって見たことがない。
それは、こういう理由があったのか。
(まあ、下のほうに、本当かどうか疑わしい、とは書いてますけど)


しかし、そもそもジブリ作品ってゲームにしにくいような気がする。
もし、もののけ姫のゲームなんてのがあって、でっかいイノシシ(あれはなんていう名前なんだろ?)、犬神をばっさばっさと切り殺していくアシタカ、なんてのも蟲を殺すナウシカ、と同じく変だし。


もし、ありうるとしたら、アレか。
キキや千尋を主人公にして、プリンセスメーカーみたいな育成ゲームを作るとか。
それだったらアリかもしれない。
ま、宮崎駿が許すわけもないでしょうけど。




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