前回の続き。
世の中には名ゼリフと呼ばれるのがある。
たとえばシェイクスピアの「生か死か、それが問題だ」みたいなやつ。
シェイクスピアの戯曲には他にもたくさん名ゼリフがあって、たとえば、あんなのとかこんなのとか、、、、えっと、、、、えっと、、、、、
あれ?出てこない・・・・・。
おっかしいなー。
なんたることだ。
この他の名ゼリフというと、「おおロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」しか私の頭のなかには浮かんでこなかった。
自分のバカさ加減にちょっと愕然とする。
まあ、愕然としているだけでは話が進まないので、ちょっとgoogleさんの力を借りてみると、他にはこんなのがあるらしい。
「人間は泣きながらこの世に生まれてくる。阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな」
「シーザーを愛さなかったわけではない、シーザーよりローマを愛したのだ」
「弱きもの、汝の名は女なり」
おお!最後のは、なんか聞いたことがある。
やっぱ、シェイクスピアはスゴいなー。
こんな名ゼリフをたくさん残してるなんて(読んだことないけど、シェイクスピア)。
「生か死か、それが問題だ」みたいなのが名台詞と呼ばれるのには、なんの疑問もない。
聞いた瞬間に、記憶に残るし、格好いい言い回しだな、と思う。
しかし、こういう名台詞って普段の生活で使い道があるんだろーか?ってのは甚だ疑問。
たとえば、私が「生か死か、それが問題だ」などとしかめっ面でつぶやいていたとしたら、周りの人間からどう思われるだろう?
気がふれていると思われるか、バカだと思われるか、それとも気がふれたバカだと思われるのがオチである。
要するにこういう名ゼリフというものは、我々の暮らしている日常に属した言葉ではない。
もっと非日常的でけれんみのある言葉なのであって、だから日常で使うと妙な感じが発生してしまう。
(もっとも英語のなかにはシェイクスピアから派生した言葉が無数にあるらしいけれども、それとはまた別の次元の話をしてる)
シェイクスピアが書いてたのは何かっていうと「戯曲」である。
「戯曲」っていうのは、要するに「演劇」の台本。
実は、この文では「名ゼリフ」というものについて考えてみたい、と思っているんだけども、ためしにシェイクスピアの「戯曲」とディケンズの「小説」を比べてみると、「名ゼリフ」と呼ばれるものは、圧倒的にシェイクスピアのほうが多いと思う。
当然、私はディケンズだってまともに読んだことはないんで、そんな人間が言うのも何だけど、これは絶対そう。
なぜ、そんなことが言えるのかっていうのは、「戯曲」と「小説」というものの表現手段に差があるためだ。
戯曲、つまり演劇というのは登場人物の意思、行動を台詞で直接、お客さんに伝えなきゃいけない。
だから、インパクトのある言い回しが多用される。
一方、小説は地の文がメインになりがちである。だから、戯曲に比べると一つ一つのセリフはそう重視されなくなる。
その代わり、地の文でも、登場人物の心理描写を細かくすることができるので、小説のほうが細かな心裡描写はやりやすい。
次に、演劇と映画を比べてみる。
ここでの差異というのは、すぐに気づくものだろうけど、その発声の仕方。
演劇出身の役者が映画に出たりすると、すぐ「発声の仕方が変」と文句を言われるのはよくあることだけど、たしかに演劇の発声の仕方というのは、普通じゃない。
すごくハキハキと喋るし、声を常に張り上げている。
多分、舞台で末席にまで声を通すために、ああいう発声の仕方というのが編み出されたのだろうけれども、やっぱり最初はちょっと違和感を感じる。
それに比べると、映画のなかでの役者の演技というのは、我々の日常にずっと近いものである。
まあ、多少の違いはあるけれども、概して、普通の喋り方をするし、聞いていてあまり違和感を感じない。
大雑把に、戯曲ー小説、演劇ー映画、を比べてみると、
戯曲・演劇 非日常的 けれんみのあるセリフ回し 大げさな身振り
小説・映画 日常的(リアル) 一般的なセリフ 普通の身振り
ということが言えると思う。
SF小説とかファンタジー映画のどこが日常的なんだ、とか言われるかもしれないけれども、そういう世界観設定での奇抜さ云々ではなくて、表現方法とか演技の面での話をすると、こんな感じになるんじゃないかってことです。
要するに演劇というのは、歌舞伎にしろ何にしろ、我々の日常とはちょっとずれた表現方法であって、名ゼリフを吐く登場人物たちもまたどこか非日常的であったりする。
さて、ここらへんからが本題なんですが(コードギアスのコの字も出てこないんで、もう大半の人が読むのやめちゃってるでしょうけど)、アニメのなかでも名台詞と呼ばれるのがたくさんある。
今まで散々ネタにされた名ゼリフの宝庫といえば、やっぱガンダムですよ。
ということで、ガンダムから名セリフと呼ばれるものをいくつか抜き出してみる。
「親父にもぶたれたことないのにっ!」(アムロ)
「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」(ランバ・ラル)
「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを・・・」(シャア)
確かに印象に残るセリフである。
これらのセリフを読むと、そのシーンがすぐ頭に浮かんでくる。
そういう意味では、確かに名ゼリフと呼ばれてもおかしくない。
しかし、これ純粋に言葉だけ見てみると、あることに気づく。
なんというか・・・・、案外「ふつー」な感じがしないだろうか?
シェイクスピアの「人間は泣きながらこの世に生まれてくる。阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな」みたいな気取った感じ、ちょっとこの日常とはずれた感覚ってのがない。
たとえば、ランバ・ラルの「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」。
これなんかは、ただ単に自分の乗っているグフがザクとは違うという事実を述べているにすぎない。
次にアムロの「親父にもぶたれたことないのにっ!」。
このセリフにも気取ったところがぜんぜんない。
シェイクスピア的な名ゼリフとは質が異なっている。
ただ、このアムロのセリフっていうのは分析してみると、ちょっと面白い。
というのも、このセリフは「親父にもぶたれたことがない」という事実を示すことによって、アムロが父親と疎遠であったことを示しているからである。
つまり、このセリフは、アムロという少年の内面描写を行っていると考えることができる。
ランバ・ラルとアムロのセリフって、どちらかと言えば日常寄りの言葉であって、上記の戯曲ー小説の対比で言うと、小説よりの言葉である。
小説というものが、内面描写に優れたメディアであることを考えると、アムロのセリフは特に「小説的」だ。
(今ふと思ったのだけれども、小説的っていうのは大雑把すぎてわかりにくいかもしれないです。自然主義文学的とか私小説的とでも言ったほうがいいのかもしれない)
と、ランバ・ラルとアムロのセリフが案外「日常的」であるということを書いたんだけれども、ここで一人だけ異質な人がいる。
そう、シャアである。
「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを・・・」
これ、ランバ・ラルとアムロのセリフとは明らかに異質。
ひねくれた言い回し、どこか自分の言葉に酔っているかのような響き。
言ってみれば、シャアのほうは、言葉が「戯曲的」なのである。
考えてみれば、シャアというキャラクター自体がまったくもって「日常的」ではない。
自分の父親が殺されたことへの復讐心に燃え、仮面をかぶって素性を隠し、憎むべき怨敵の部下となって働いている。
どこをどうとっても「非日常的な」キャラである。
それと比較して、主役のアムロはどうだろう?
たしかに、彼には「ニュータイプ」という、わけのわからん特殊能力がつけられているけれども、それを除きさえすれば、その性格、言動を見るに、そこらの少年とまったく変わらない「日常的」キャラである。
とりあえず、ガンダム、Zガンダムを見てみると、主役の少年(アムロ、カミーユ等)は「小説的」キャラが多く、敵キャラ(シャア、ギレン、シロッコ、ハマーン・カーン)に「戯曲的」「演劇的」キャラが多いように感じる。
シロッコにしろ、ハマーン・カーンにしろ、身振りが大仰だしね。
私は以前、
「人型ロボットに思春期の少年が乗り込む理由」この文章のなかで、ロボットアニメは思春期の感情の揺れを描き出すのに適したメディアなんじゃないか、みたいなことを書いた。
それが正しいのかどうかはいまだにわからんけれども、とりあえず、今まで私が見たロボットアニメのなかの主人公というのは、「小説的」なキャラが多いような気がする。
エヴァの碇シンジにしろ、ラーゼフォンの神名綾人にしろ、ゼーガペインのソゴル・キョウにしろ。
彼らはすべてがすべて、とんでもない運命に叩き込まれるわけで、シャアと同じく「非日常的」なキャラじゃないか、と言われるかもしれない。
それは確かにその通りなんだけれども、彼らロボットアニメの主人公たちの描かれかたって、内面描写に特化してる感がある。
まあ、簡単に言えば、うじうじ悩んでいるところを延々と描写していく、ってことなんだけれども。
ここらへん分かりにくいかもしれないので、違う言い方をすると、「アムロ、カミーユ、シンジが自分と同じだ」と考える少年少女はたくさんいるだろうけど、「シャア、シロッコと自分が同じだ」と考える少年少女はまずいないだろう、ってこと。
シャアというのは、憧れの対象にはなっても、共感の対象にはならない。
さて、やっとこさ、コードギアスの話。
この文では名ゼリフというものを中心に話を進めてきたので、ルルーシュのセリフをいくつか抜き出してみる。
「それとも気づいたか?撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるヤツだけだと」
「おれはおまえに会うまでずっと死んでいた。無力な屍のくせに生きてるってうそをついて。何もしない人生なんて、ただ生きているだけの命なんて、緩やかな死と同じだ」
「我々は、力あるものが、力なきものを襲うとき、再び現れるであろう。たとえその敵がどれだけ大きな力を持っているとしても。力あるものよ、我を恐れよ。力なきものよ、我を求めよ。世界は我々黒の騎士団が裁く」
どうだろう、このセリフの数々。
気取っていて、大仰で、非日常的で演劇的で。
「親父にもぶたれたことないのにっ!」よりも「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを・・・」に明らかに近い。
というよりも、ルルーシュはシャアよりもずっとシャアだと言える(この言い回し、わけわかんね)。
ルルーシュって、よく夜神月と比較される。
まあ、当たり前っていえば当たり前の話だけど。
だけど、もう一人とてもよく似ているキャラがいて、それがこのシャアだと思うのだ。
妹がいて、肉親を殺されたことへの復讐心を持ち、強固な意志と行動力を有し、そして二人とも仮面を被っている。
これだけ共通点があれば、夜神月よりもシャアのほうがずっとルルーシュに似ているんじゃないかと思うんだけどどうだろう?
シャアが演劇的なキャラだ、ということを書いたんだけれども、そういう意味でルルーシュというのもまた演劇的なキャラである。
というより、シャアよりも遥かに演劇的なキャラだ。
「ルルーシュに自分が似てる」と思う人はまさかいないだろう。
ルルーシュの大仰な身振り手振り、気取ったセリフ回しなんてのは、「リアルであること」を求める人たちから見れば噴飯物でしかないのかもしれないけれども、あれは「演劇」だと思ってしまえば、別にそう気になることでもない、と思うのだ。
演劇での非日常的な演技も、一回その世界に没頭してしまいさえすれば、「リアル」と「リアルでないもの」の線引きってのはぼやけてしまうのだから。
私がコードギアスを面白いと思ったのは、「主人公の内面描写による視聴者の共感」というロボットアニメでよく使われる手法をばっさり切り捨てているところ。
いや、もちろんコードギアスでも内面描写はあるんだけれども、それがまったく現実感がない。
「現実感がない」なんてことを書くと、悪口のようにとられるかもしれないけれども、全然そうではなくて、むしろ誉めている。
自分とまったく共通点がない、異能の人物の活躍劇は見ていて胸が躍る。
しかし、ここで一つ疑問というか違和感を感じるところがあって、それが監督の谷口悟朗のこと。
私は谷口監督の作品って、無限のリヴァイアスとプラネテスしか見たことがなかったんだけど、この二つを見る限り、この監督って「リアル志向」なんだとばかり思っていた。
「リアル志向」という言葉は、「自然主義文学的な内面描写に特化している」とかいう言葉に置き換えてもいいんだけれども。
コードギアスみたいな現実離れしたものを作りそうな人には思えなかった。
ところが、谷口監督のインタビューを読んでみたら、こんな箇所が。
谷口悟朗監督インタビュー 第1回 役者志望から日本映画学校へ
(大学時代、進路に迷ったことに関して)
――ドキュメンタリーの道も候補のひとつだったんですか?
谷口 当時私は、大衆演劇の人たちを追いかけてドキュメンタリーを撮っていたんです。その人たちの考え方には影響を受けました。彼らは、芝居小屋に足を運んでくださった人にどう楽しんでもらうかをとても大切にしていたんです。それは特にアニメを演出する側になってから意識するようになりました。 第7回 『無限のリヴァイアス』から『コードギアス 反逆のルルーシュ』へ
――監督が示すべきは「幹」ということですが、今考えていることが「幹」たり得るかどうか、などはどう判断するのでしょうか?
谷口 うーん、具体的に言いづらいんですが、頭のまわりに各バラバラのパーツが浮いているイメージなんですよ。そのパーツのだいたい3割ぐらいが、こう中心に固まってくると、幹が出来てきたっていう感じがします。
――立体イメージなんですか?
谷口 そうですね。キャラクターのパーツから伸びていくベクトルがいろいろなところで交差していく感じなんです。それで、そのベクトルからはずれたものが出てくると、これはベクトルに合わせたほうがいいか、はずれっぱなしにしたほうがいいか検討すると。目先のことしか考えずにやると、必ずこのベクトルがブレてくるんですよ。ちなみに、立体的なイメージで思い浮かべているのは、これはなにもキャラクターに限っただけでなく、メーカーとかタイアップ先企業とか、そういうビジネス的な要素も入っているんです。
――ビジネス的要素というのも入るのですか。
谷口 そうですね。私が、大衆演劇の人に影響を受けたというのはお話しましたよね。やはり私たちの仕事というのは、基本的にお客さんよりも目下にいて、お客さんからおひねりをいただいて暮らしているということを忘れてはいけないように思うんですよ。芸術家だなんて堕落した言葉は自分で使うべきではない。あれは他人に対しての、評価・感想としてのみ使うものです。
――『プラネテス』(※1)で谷口監督を知った視聴者にとっては、谷口監督は「リアル志向」というイメージがあると思うのですが。
谷口 『プラネテス』はああ作ったというだけです。実は『ガン×ソード』(※2)を監督した一つの理由は、そういうイメージで縛られたくなかったので、もっと良い意味でB級テイストな作品をやって、イメージの固定化を避けたかったんですね。私もプラネテスの印象が強かったので、谷口監督のことを誤解していたのかもしれないなあ。
もっと、大衆演劇的なサービス精神に溢れた人だったのか。
しかし、この人は優秀な監督だと思う、ホントに。
21話、22話、23話なんて、すごく面白かったし。
*しかし、演劇の例でシェイクスピアを出したのは、はっきり間違いだったかもしれない。もっと、大衆演劇的なもの、たとえば歌舞伎とかを例に出せばよかったのかもなー。
しかし、歌舞伎なんてろくに知らないし。
ここらへん、自分の無教養を深く反省する次第。
*ここであげてる戯曲ー小説の対比って、すごく分かりづらいかもしれないですが、三島由紀夫の小説と戯曲を読み比べると、そこらへんの差異というのがわかるんじゃないかと思います。
三島由紀夫の小説はひどく退屈ですが、戯曲のほうはとても面白いです。
コードギアス関連記事のまとめ[参考サイト]シェイクスピア戸所研究室ガンダム名台詞コードギアス名言集