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2007年07月06日

「時をかける少女」原作小説とアニメの相違点

時に縛られた少女は時をかける夢を見る

前回の記事で、

「原作小説の「時をかける少女」はつまらないけど、アニメ映画「時をかける少女」は面白かった」

みたいな趣旨のことを書いた。

この記事を書いたあとで、筒井康隆が「時をかける少女は書きたくて書いた作品ではない」という発言をしていることを知ったんだけど、やっぱ、筒井自身も、この小説がそう大したもんじゃない、と思ってるんだなと思った。
だいいち、筒井康隆という小説家のスゴさってのは、「時をかける少女」の中にはぜんぜん現れてないわけだし。

で、私は、小説「時をかける少女」が×で、アニメ「時をかける少女」を○と評価したわけだけども、それじゃあ、具体的にどこがどう違っているんだろう?
どうして、こんなに真逆の評価になるのだろう。

ということで、今回は、小説とアニメの相違点を検証してみることにします。
プロット部分での比較が多めかもしれないです。


まず、最初に書いておかなければならないことがあって、小説とアニメじゃ登場人物の名前が違っている。

小説(アニメ)

芳山和子(紺野真琴)
深町一夫(間宮千昭)
浅倉吾朗(津田功介)

これは、単に登場人物の名前が変わっているということではなくて、アニメは、小説の世界から20年後という設定になっているらしく、小説のヒロインの芳山和子は、アニメのほうでは、真琴のおばさんとして登場している(このこと自体は作中では触れられてない)。
個々のキャラの性格もかなり違う。

しかし、基本的な役割は小説もアニメも変わらない。
芳山和子(紺野真琴)は、ひょんなことからタイムリープの特殊能力を身に付けた女の子だし、深町一夫(間宮千昭)は未来人という設定も同じ。
なので、これらの対応する人物は同じキャラとみなして話を進めます。


相違点@「自分の意思でタイムリープできるかどうか」
jump.jpg

真琴(アニメ)は、カラオケをしまくりたい、とかの下らない目的でタイムリープを何度も使うわけだけど、和子(小説)はそういう目的のために使わない。
というか、和子が自分の意思でタイムリープするのは、最後の一回だけ。
それまでは、自分の意思でタイムリープすることはできず、事故にあうとか、または事故にあいそうだ、という緊急事態にしかタイムリープすることができなかった。

アニメでは、自由自在に自分の意思でタイムリープできるという可能性を示すことによって、今生きている「時」が取り返しのつかない「時」であることを逆照射する形になっていることは前回述べたんだけど、こういう構造は小説にはない。


相違点A「秘密を知っている人間の数」
obasan.jpg

小説では、タイムリープしてしまった後に、和子が自分の秘密を深町一夫、浅倉吾朗の二人の友達に打ち明けている。
また、その後、福島先生という理科の先生に相談するシーンもある。
アニメだと、真琴が相談するのはおばさん(和子)ただ一人。

テンポの良さであまり気にならないけど、よくよく考えてみると、アニメで真琴が千昭、功介に何も相談しない、っていうのはかなり不自然。
あれだけ仲が良いんだから、普通だったら相談するはず。
別に他の人間にタイムリープの秘密を知られたらいけないとかの禁止事項があるわけじゃないんだから。
ここらへんはストーリー展開に不要なものをあえて省いてる感じがする。


相違点B「小説では深町一夫(千昭)の告白シーンがない」
yuuhi.jpg

いや、あるんだけどね。
一応、あるんだけど、これはラストシーンで、深町一夫の正体がわかった後での和子への告白という形。
それまでは、この二人の間に恋愛感情があるんだかないんだか、かなり微妙な描かれ方をしてる。
これが、小説「時をかける少女」を淡白にしてるところ。


相違点C「ラストシーンに至る流れ」
jikkensitu.jpg

小説では、タイムリープ能力を得ることになった時間まで遡ってきた和子が、実験室で待ち構えていたところに、深町一夫が登場。
真相がわかる、という流れ。

アニメだと、真琴が実験室に隠れてるところまでは一緒だが、そこから、功介を探し出す、千昭からタイムリープのことを問いただされる、そして功介の事故シーン、という流れで真相発覚。

こうしてみると、アニメ版は二重、三重に手が加えられてるなー、という印象。
小説は、ここでもそうなんだけど、淡白すぎるんだな、これ。
あっさりしすぎてる。


他にも、タイムリープの引き金になったのが、ラベンダー(小説)とくるみ(アニメ)とかの相違点はあるけど、そこらへんは瑣末なことじゃないかと思います。

こうやって一覧にしてみると、アニメは小説に何を付け加え、また何を省いたのかが見えてくる。

まず最初に省いたものから言うと、タイムリープに関するウンチク。
小説のほうでは、タイムリープとは何か、みたいなウンチク話が結構あるんだけど、アニメ版では秘密を知っている人間の数を減らすことによって、ウンチク話を回避してる。
おばさん(和子)は、かつてのタイムリープ経験者という裏設定があるので、タイムリープに関するウンチク話をしそうなもんであるが、それは必要最小限にとどめられている。
ここらへんは、話のテンポを上げるために、わざと省いたところなんじゃないか、と。

それで、付け加えられたもののほうは簡単で、まあ、恋愛。
真琴の恋愛感情の芽生えみたいなのはかなり詳細に描かれている。

それと、タイムリープできる回数。
小説のなかでタイムリープするのって、たしか三回だけだし。
アニメでいったい何回タイムリープしたのかは覚えてないけど、まあ、とにかくいっぱい。
くよくよ悩んだりするよりも、体で行動するのが真琴というキャラクターなんで、それを表現してるのか、と思う。
それと何度もタイムリープすることによって、繰り返しのギャグを作ってるのは、見た人ならご存知の通り。


これで終わりなんだけど、蛇足ながら、小説のヒロイン、芳山和子のキャラにも触れておきたい。
昔の小説、ということもあってか、この芳山和子の言葉遣いが古い。
とても古い。
これは四の五の言うより先に、実例を見ていただければわかると思うので、以下は小説「時をかける少女」からの抜粋。


和子はふと不審なことに思いあたり、一夫に尋ねた。
「あなたは、どうしてわたしに、こんなにいろんなことを説明してくださるの?」
一夫はしばらく考えてから、答えた。
「そりゃ、きみがいろいろなことで悩んでいたから、説明する義務があると思ってさ」
「だって、あなたにとって、わたしは過去の人間でしょう?あなたが未来へ帰ってしまえば、あなたとわたしの間には、何のつながりもなくなるのに・・・・・・・」
一夫は、しばらく、困ったような表情で、下を向いていたが、やがて和子の顔をまともに見ると、思い切ったように、こういったのである。
「じゃあ、いってしまおう。きみが好きになったからさ」
「まあ!」
和子はあきれてしまった。なんておませなんだろう!


なんておませなんだろう!なんておませなんだろう!なんておませなんだろう!


萌えーーー

られない。

時をかける少女 限定版

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時のオカリナってやったことがないんだよなー。
やってみたいけど、それだけのために64買うのもね。

2007年07月03日

時に縛られた少女は時をかける夢を見る

ホントに今さらなんだけども、つい最近、アニメ映画の「時をかける少女」を見たんで、今回はその感想です。

時をかける少女 通常版

「時かけ」観てきました(たけくまメモ)
アニメ「時をかける少女」海外批評 海外アニメサイトレビュー(誤訳御免!)

もともと、これらの記事を読んでいたんで、評判がいいのは知っていましたけど、実際に見ると案外、期待はずれだったりするんじゃないの、とか思いながら見たんですが、実際に見てみると、実際に見てみたら、、、、、これ、すごく良かったです。

たしかに、とんでもない傑作ってわけではないんだけども、たけくまメモに書かれているとおり、「爽やかな青春映画」って感じで、見終わったあと、やたらにすがすがしかった。
今度、テレビ放映があるらしいんで、見たことのない人はぜひ見てください。
すごくイイです。



おしまい。



・・・・・・・・・・・じゃなくて、ここからが本題。

時をかける少女って、今まで、ドラマ、映画、今回はアニメ映画といろいろな形で映像化されてる。
たしか内田有紀主演のドラマとかもあったっけ。
私は、今回のアニメ映画以外、それらを見たことがない。

しかし、筒井康隆の原作小説のほうはかなり前に読んだことがある。
ずいぶんと昔の話なんで、記憶が曖昧だったりするんだけど、この「時をかける少女」という小説は、ひどく退屈だった。
今回、この記事を書くにあたって、さっと読み返してみたんだけど、やっぱりその印象は変わらなかった。

これがジュブナイル小説であることを差し引いても、はっきり言ってそう大したもんじゃない。
だれでも思いつくようなプロットではあるし、登場人物の感情も、あまり上手く描かれているとは思えない。
やっぱ、退屈。

パプリカ、時をかける少女と、筒井康隆原作のアニメが良出来だったので、

「筒井は神!」

みたいな言い方を目にしたりするけど、これ実際に小説を読んで言っているのだろうか。

私は筒井康隆の大ファンというわけではないけれども、そこそこ彼の小説は読んでいて、そのうちのいくつかはかなり好きだったりする。
(もっとも、パプリカは読んでないけど)
だから、筒井康隆が才能のある小説家であることはわかっているけど、時をかける少女に関しては駄作としか言いようがない。

それじゃ、そんな不出来な小説がなぜ、こう何度も映像化されるのか?
それは「時をかける少女」というネーミング、そして、そこにこめられたイメージによるものじゃないか、と思うのだ。

考えてみれば、「少女」ほど「時」に縛られている存在もまたない。
「少女」と呼ばれる「時」は、ほんの一瞬に過ぎず、また、その「時」が一度、過ぎ去ってしまえば、もう二度と取り返すことはできない。

たとえば、男に向かって「あの人はいつまでも少年の心を忘れない人だ」みたいなことを言えば、これは誉め言葉になる。
インディジョーンズのハリソン・フォードみたいなイメージがある。

ところが、「いつまでも少女の心を忘れない」女というのはどうだろう?
どうにも、グロテスクじゃないだろうか。
ロリータファッションに身を包んだ、40くらいのおばさんが頭に思い浮かんで、ちょっと欝な気分になる。

男というものが、茫洋とした時のなかでのんべんだらりと生きているのに対して、女の人は「時」に急かされて生きている。

これは、容色の衰えだったり、社会から精神的な成熟を要求されるとかの複数の意味をこめて言っているんだけど、「時」というものに対する女の人の切実感というのは、男のそれの比ではないだろう。

少女はやがて、女にならざるをえないし、女はやがて母になる。
母になることを拒否した女は、また別の何かになるだけだ。

女は「時」の速さにおびえ、化粧にこったり、エステにいったり、またあるときはヒアルロン酸を注入するといった荒業に出るが、「時」そのものを止めることは決してできない。
(ちなみに、「時」の移ろいに身を任せた女は「おばさん」という名称で呼ばれたりする)

「少女」なんてのは、人生のうちでほんの一瞬でしかない。
「少女」は「時」に縛られていて、それはもうどうすることもできないのだから。
しかし、そうであるがゆえに、女ってのは「今ある一瞬」が取り返しのつかない、大事な「時」であることに自覚的なのかもしれない。


こう考えたときに、「時をかける少女」ってのはとても逆説的なネーミングだ。
「時」に束縛される存在である「少女」が「時をかける」。

それは現実とは逆さまであるがゆえに、ひどく甘美なファンタジーだ。
この逆説的なネーミング、そして、その切ないイメージゆえに、「時をかける少女」ってのは、人を惹きつけてきたんじゃないかな、と思ったりする。


で、この「時をかける少女」というアニメ映画のなかでは、「今あるこの一瞬がリセット不可能な取り返しのつかない『時』である」ということがテーマになっているんだけど、実は、このテーマは原作小説のなかでは、あまり現れていない。

読んでもらえばわかるけど、原作小説のなかではそもそも「タイムリープ」は、主人公が自分の意識で発揮できる能力ではなくて、なにか危機が起こったときに、自然に発動してしまう特殊能力なんである。

だから、アニメで真琴が自由自在にタイムリープしている、ってのは、原作からの改変部分になってるわけだ。
この「自由にタイムリープできる」という能力を持っていることによって、「この一瞬がかけがえのない『時』である」という事実を逆照射していく構造になっているわけだけど、これはホントに見事だな、と思った。

このまえ、放映していた、アニメ夜話のなかで、岡田斗司夫は、

「どうやってもね、この『時をかける少女』って、映画化するとき、みんなアイドル映画として作りたくなっちゃうんですよね」

なんてことを言っていた。

アイドル(特に女の)というものは、「少女」という「時」を商品化したものだから、「時をかける少女」とよく合うのは、当然なのである。
男のアイドルというのは、スマップみたいに息が長かったりするけれども、女のアイドルなんてのは旬の時期は3年くらいのもんだろう。
喋りが上手ければバラエティで、演技が上手ければ女優として延命することはできるけれども、アイドルとして持つのは、ほんのわずかな期間でしかない。
そういう期間限定商品としての、切なさみたいなのが、「時をかける少女」と上手くあっていたんじゃないだろうか。

そういうアイドルという存在に頼らず、プロットで、「時」の過ぎ行く切なさを描いた、このアニメ映画ってのは、やっぱ大したもんだ、と思いますよ。いや、マジで。

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*あ、そうそう、地上波の放送予定はこちら。
「時をかける少女」地上波テレビ放送決定ふぇいばりっとでいず経由)

2007年07月01日

ドラゴンボールのキャラが強くなりすぎてしまう理由

北斗の拳 12 遠い誓いの巻 (12)


北斗の拳というマンガのなかで、敵キャラであるラオウの肉体はかなりデカく描かれている。
主人公のケンシロウと並ぶと、中学生と大人くらいの体格差がある(ひょっとしたら、もっとかも)。

これが兄弟にはとても見えないというか、そもそも人種自体が違うように見えるというか、もっといえば、動物の種類からして異なっているようにさえ見えるというか。

ラオウはデカい。
すごくデカい。

北斗の拳に限らず、敵キャラの体を大きく描くというのは、かなりありふれた現象である。

たとえば、あしたのジョー。

もともと原作者の梶原一騎は、力石をジョーの終生のライバルとして考えていた。
ところが、漫画家のちばてつやは、力石が単なる雑魚キャラなんだと思っていて、初登場シーンで、力石の体を大きく描いてしまった。
どう見ても、力石の体格はジョーよりも一回りほどデカイ。
つまり、ボクシングで言えば、二、三階級上の体である。
なので、力石をジョーと戦わせるために、あの過酷な減量のシーンが挟まれた。

という、有名なエピソードがあるけれども、漫画家っていうのは、やっぱり敵キャラの体をデカく描きたいもんなんだと思う。

何故っていえば話は簡単で、「そのほうが強く見えるから」。
そして、敵キャラが強そうに見えたほうが、話が面白いから。

人々がバトル漫画に求めるのは「逆転」の物語だ。
最初から、メチャ強い主人公が危なげなく、敵を倒していく。
こんな話が面白いわけがない。
ヒョードルみたいなのが主人公で、当然のように勝ち進んでいく話なんて詰まらない。
(ヒョードルはたしかリングスで一回、判定負けしただけ。それもバッティングによる出血が原因という不慮の事故)

それよりも、一見弱そうに見えたり、もしくは落ちこぼれだったりする主人公が、努力と根性で強くなっていく物語のほうが、ずっと面白い。
そのほうが共感できる。
興奮できる。
燃えられる。

だから、漫画家は敵キャラの体を大きく描きたがるのだと思う。
敵キャラを大きく、そして主人公の体を小さく描くことによって、視覚的に強弱関係をアピールしているわけだ。
「この敵キャラは強いですよ」ってことを絵で示そうとしている。
そして、同時に「主人公は不利な状況に置かれてますよ」ということも示している。


と、こうして考えてみたときに気になる漫画が一つある。

ドラゴンボールである。

ドラゴンボール―完全版 (11)

(以下からドラゴンボールの話になるのですが、あいにく手元にドラゴンボールの単行本が全部揃っているわけではないので、ほとんど、私の記憶を頼りに書いてます。だから、記憶違いもあるかもしれませんが、そこらへんは容赦してください)


ドラゴンボールの前半部分では、敵キャラの体は主人公の孫悟空よりもデカい。
ヤムチャ、桃白白(タオパイパイ)、天津飯。
彼らの肉体は悟空よりも大きく描かれている。

もっとも、これは、敵キャラの体がデカいというよりは、この時点では悟空が子供だったために、相対的に敵キャラのほうが体がデカかった、という感じである。

悟空が成長して、大人の体で描かれるようになったのって、たしかピッコロと二度目に戦うとき、だったと思う。
あのマジュニアとの戦いのとき。

ここらへんは記憶が曖昧なんだけど、この時点でも悟空の体はピッコロよりも、多少小さかったように思う。

ピッコロ編までは、こういう、悟空(小)<敵キャラ(大)という不等号が基本的になりたっている。
北斗の拳でラオウの体が大きく描かれるのとまったく同じ原理なわけである。
もっとも、ドラゴンボールの場合は敵キャラが大きいというより、悟空が小さいわけだけど。

ところが、悟空が大人の体になってしまったピッコロ編以降はこの不等号が逆転してしまう。

ピッコロの次の敵キャラは、ベジータであるが、ベジータの体は悟空よりも小さい。
これは悟空が成長したので、悟空との比較で相対的にベジータの体が小さいというだけでなく、ベジータは他のピッコロ、天津飯とかと比べても明らかにチビである。
敵キャラといっても、脇役的存在のラディッツは悟空と同体格だし、ナッパは悟空よりも一回り体がデカかったりするが、肝心のボスキャラのベジータはチビ。

この時点で、

悟空(大)>敵キャラ(小)

という不等号に変わっているわけであるが、ベジータが他のキャラと比較してもチビであることを考えると、この不等号は、もっと、

悟空(大)>>>>敵キャラ(小)

みたいに、ベジータの小ささを強調しているようにも感じる。

この不等号は、次のフリーザ編でもまったく同じで、部下の脇役にデカいキャラはいるけど、肝心のフリーザはチビ。

魔人ブウはチビではないけど、悟空よりは少し背が低い。
そして、そんな身長がどうこうよりも「デブ」である。
見た目はぜんぜん強そうじゃない。

ところで、皆さんはこいつのことを覚えているだろうか。

cell.jpg

私はこのセルのことをまったく忘れていた。

フリーザ編のあとに、レッドリボン軍と戦う、ということは覚えていたんだけど、このレッドリボン軍のボスキャラがどうしても思いだせなかった。

いやー、クリリンの嫁とかは、ちゃんと覚えてたんだけどなー。
なかなか、このセルが出てこなかった。

ベジータ以降の、ボスキャラのなかで、このセルだけが「見た目が強そう」なキャラ。
たしか、このセルは体も悟空より一回りほど大きかったはずだし、見た目もなんか強そうである。

とにかく、このセルを除けば、ベジータ以降のボスキャラはすべて「見た目が弱そう」なキャラということになる。

ベジータ(チビ)
フリーザ(チビ)
魔人ブウ(デブ)

こんなふうに。

悟空の体が大きくなってから以降、ボスキャラの見た目が弱そうになっている。
「一見、弱そうだけど、実はすんごく強い」というふうに、見た目と実力のギャップを出すことによって、インパクトを出す方向にキャラ造形が変わっているのは明らかなように感じる。

悟空の体が大きくなったんなら、敵キャラはもっと大きくすればいいんじゃないか、という考え方も当然ありえた。
たとえば、フリーザ編のあとに、フリーザの父というのが出てくるが、こいつなんかは見た目が強そうだ。
体が尋常じゃなくデカいし。

dragonball.jpg

しかし、ご存知のとおり、こいつは登場したと思った瞬間に、トランクスに殺されている。

こういうキャラ造形が、意図的にやったものか、無意識的にやったものかはわからないけれども、とりあえず、読者にインパクトを与えたのは確かじゃないだろうか。
ベジータもフリーザも印象に残ってるし。
それに比べると、通常のキャラ造形の発想でつくられた、セルはどうも陰が薄いような気がする。

まあ、これはただ単に私が忘れてただけかもしれないけども。
ただ、試しに知人にドラゴンボールのボスキャラの名前をあげてもらったら、

「ベジータ、フリーザ、、、、、、、魔人ブウ?」

って答えてたので、セルを忘れてたのは私だけではないらしい。

ただ、こうしたキャラ造形はドラゴンボールに一つの欠点を与えたような気がしないでもない。


スーパーマンvsサイヤ人で議論白熱! メジャーリーガー大塚選手の日記から窺い知れる日本アニメの海外浸透度

いや、スーパーマンと比べられても…と思ったけど、そういやドラゴンボールでもしまいにはみんな普通に空飛んでましたね。亀仙人が結構最初の方でかめはめ波で月を一撃で吹っ飛ばしてましたけど、最後にはみんな成長しすぎて、強さでいえば亀仙人がドラクエのスライム並の雑魚キャラになっちゃってて、強さのインフレ化の頂点を極めたような作品でしたし。

最後のほうでは、雑魚キャラじゃなければ、地球の一つくらい余裕で壊せる、くらいまで強さのインフレ化が進んだわけだけど、やっぱ、このインフレ化は異常。

バトル漫画においては、

強敵を倒す→その強敵よりももっと強い強敵が現れる→もっと強い強敵を倒すと、もっともっと強い強敵が現れる

というふうに、強さのインフレ化というのは避けられないものではあるけれども、それでも、他のバトル漫画と比較してもドラゴンボールのインフレ化は群を抜いている。

いくら強いといっても、ケンシロウが地球を壊せるだろうか?
ナルトの螺旋丸は地球を壊せるだろうか?
ルフィは地球を壊せるほど強いだろうか?

ドラゴンボールで、この強さのインフレ化が加速したのは、ベジータ編以降のように思う。
たしかに、最初のほうで、亀仙人が月をかめはめ波でぶっとばすシーンがあるけれども、これはドラゴンボールのなかでは「無かったこと」にされてる感がある。

ピッコロ編までは、

「動きが速過ぎて、体が分身して見える」

とかの、ある程度常識の範囲に収まる程度の強さだった。
(あくまでバトル漫画での常識だけど)

それがベジータ編以降、「地球をぶっこわせる」くらいまで強さがインフレーションしてしまうのは、やっぱ、これはボスキャラの「見た目が弱そう」であることと無縁ではないんじゃないだろうか。

見た目で「こいつは強そう」と読者に思わせることができないため、別の方法で強さをアピールせざるを得ない(地球を壊せるとか)という事情があったんじゃないか、と思ったりする。

そういえば、ナルトもまた、孫悟空と同じで体が成長しているけれども、ナルトはまだ敵キャラと比べると小さいような感じがする。
イタチとかよりも小さいし。

私はここで予言しておく。
ナルトの体がこれからさらに成長して、体の小さい敵キャラが出てくるようになったとしたら、ナルトの螺旋丸は地球を壊せるようになるだろう、と。

*どうでもいいことなんだけど、螺旋丸って必殺技としてはショボくないですか?
螺旋丸を飛ばせたりするわけでもないし。
相手に直接触れなきゃ意味ないんだから、あんなの簡単にかわせそうなもんだ。
まあ、そのうち飛ばせるようになっちゃったりするんだろうけど、螺旋丸。
しかし、飛ばせるようになった螺旋丸はかめはめ波と同じような気がする。

[関連記事]
「不当な評価」からの逆転で物語は面白くなる
この記事ではコナンのことが取り上げられてますが、そういえばコナンも体が小さいです。
漫画、アニメの主人公の体が小さいのは、「子供向けだから」という意味だけでなく、「逆転させるため」でもあるってことですかね。

韓国実写版ドラゴンボール
韓国実写版北斗の拳





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