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2007年01月31日

秘密さえ設定しときゃ、あとは勝手にドタバタしだすんだよ、バカヤロー その三

前回の続き。

秘密を抱える人間が、一人の場合と複数の場合を比較したときのいちばん大きな違いは登場人物の心理です。

これは、一般的な心情としてよく理解できるとは思いますが、秘密を共有している人間のあいだでは、「心理的な連帯感」が生まれます。

「実は、誰々のことが好きなんだ」
「実は、最近チロルチョコ万引きしちゃってさ」
「実は、わたしって慢性的なイボ痔なの」

等々。その秘密がいかに下らないものであったとしても、秘密を共有しているという感覚が互いの信頼関係を強固にするのは誰でも経験があることでしょう。

マンガで具体例をあげると、桜蘭高校ホスト部です。
このマンガの主人公の藤岡ハルヒというのは、男装していますが、実は女という設定であり、この秘密を知っているのはホスト部の面々だけです。
ホスト部の結束は非常に強い。
その原因のすべてが、「秘密を共有していること」にあるとは言いませんが、その一因であることは確かです。

それに、「共有されている秘密」の存在は、物語空間上に「内部」と「外部」の境界を作るので、余計、結束の強さが強調されます。
たとえば、このマンガにはホスト部以外にも色々なキャラが出てきますが、それらは全部十把ひとからげ的な扱いです。
だれもホスト部の結束のなかに入ってくることができません。


で、本題のフルーツバスケットです。
最初に私は、秘密の存在は意識のズレを生むので、ラブコメに向いているということを言いましたが、この点ではフルバは失敗作でした。
ですが、この「秘密の共有による心理的連帯感」という観点から見ると、まったく違って見えてきます。

草摩の人間たちは、それぞれ心の傷を負っています。
寓話化されているので、一見荒唐無稽な話に思えますが、彼らの苦悩というのは、だれにでも共感しうるものです。
(個人的には、はとりと楽羅のエピソードに泣きました)
そして、その傷は草摩の秘密と密接にかかわりあっているわけです。

その秘密を「外部」の人間ながら知ってしまっているのが、主人公の本田透です。
ラブコメの主人公って「なぜこんなヤツがモテてるのかわからない」場合が多いですが、この本田透は違います。
彼女の性格というのは、
「愛を与えられることよりも、ただ愛を与えることを望む」という、ほとんど宗教的といってもよいような性格です。
まあ、彼女のような人間が近くにいたら、それが恋愛感情につながるかどうかはわかりませんが、とにかく「好き」になるのは確かでしょう。

それで、草摩の秘密を媒介にして、透が草摩の人たちの心を融かしていく、というのがこのマンガの骨子です。
透というのは、他人に共感する力の強い人間で、自分のことじゃなく他人のために涙するシーンがいくつもあります。
はとりの悲恋を聞いたときも泣いてましたし、紅葉の母親の話を聞いたときも泣いてました。
それは、彼女の宗教的なキャラクターゆえでもあるのですが、「秘密を共有している連帯感」のゆえ、でもあるのです。
読んでいる我々も、秘密の存在によって透のことを草摩の「内部」の人間である、と無意識に想定してしまっているので、彼女の共感ぶりがそれほど不自然に思いません。

「秘密を共有している連帯感」というものを、ここまで極端な方向に使い、しかもそれが成功しているのがフルバの魅力です。

で、ここからは勝手な想像になるのですが、フルバって最初は普通のドタバタラブコメの方向を目指していたのではないのか、と思うのです。
だけど、それが十二支という設定にしたため、登場人物が増えてしまい、「認識のズレ」によるドタバタが生まれにくくなってしまった。
それで、「秘密を共有することによる連帯感」という方向に舵をとったんじゃないか、と勝手に推理してるんですが。
ま、違うかも。


さて、複数の人間に秘密が共有している状態は心理的連帯感を生むという、当たり前っちゃ当たり前な話を続けてきたわけですが、ここで話は「みゆき」に戻ります。
このマンガの場合、秘密を知っているのが一人であるため、心理的連帯感は生まれません。
しかし、実は生まれているのです。
その連帯感の相手は、マンガ上の登場人物ではなく、「読者」です。

この「みゆき」は、前に触れたとおり、「タッチ」とほぼ同じ時期に連載されていたマンガです。
同じ漫画家によって同じ時期に描かれたマンガなのですが、読んでもらえばわかるように、この二つには大きな相違点があります。
それは「主人公の独白」の数です。
独白ってのは、主人公の内面の心理をナレーションみたいな感じで言葉にしたやつです。
(あれって、なんかちゃんとした呼び方ありましたっけね?)

タッチでは、達也が独白する場面はあまりありません。
たまに出てくる程度です。
このマンガのなかでは、達也の心理描写というのは直接的な言葉で表現されるよりも、マンガ的な身振りで表されることが多い。

たとえば、弟の和也が甲子園への地区予選の試合をしていて、それを喫茶店の店番を任せられた達也がテレビで見ているというシーン。
この喫茶店に数人の客がやってきて、和也の悪口を始めます。
その客に達也はいろいろな意地悪をしたりして対抗するのですが、このシーンで達也の心理を言葉で表現しているところは一つもありません。
それなのに、達也が弟の和也を大事に思っていること、そして、内心では和也に嫉妬している部分があることをちゃんと描き出しています。

一方、みゆき。
これは全編にわたって、真人の独白で埋めつくされています。
たとえば、6巻の最初を抜き出してみます。

『咲いた、咲いた、桜が咲いた』(ナレーション部分)

若松真人「おはよう、みゆきちゃん」

鹿島みゆき「おはよう」

『わが青華高校、ありがたいことに2年から3年へのクラスがえなし』(ナレーション部分)

『これでみゆきちゃんとは3年間いっしょ!!』(ナレーション部分)

『修学旅行もいっしょ、同窓会もいっしょ!!クラス会もいっしょ!!』(ナレーション部分)

『切るに切れないかたァいきずな!!』(ナレーション部分)


こうやって書き出してみると、ナレーション部分の異常な感嘆符の多さが気になりますが、まあ、それはともかく、このナレーション部分が誰の内面心理を表したものなのかというと、真人なわけです。
このマンガでは、ずっとこんな感じで真人の内面のセリフがナレーション代わりに使われています。
タッチでは、こんなふうに、主人公の内面をそのまま文字にしたものはほとんどありません。

このナレーション部分で、真人が誰に語りかけているのかってぇと、それは読者なのです。
真人は一人で秘密を抱えている人間だから、こうして主人公が読者に語りかけるという、連帯感が生まれている。
つまり、秘密の存在が、タッチとみゆきのあいだに表現手法での相違点を生じさせているわけです。


今回はこれで終わりです。
あと一回、蛇足のような話(涼宮ハルヒ)を書こうと思ってますが。

あ、それから蛇足ついでに、タッチの実写映画の話をしときます。
少しまえにタッチの実写映画をテレビで見ました。
が、これヒドい出来でした。

タッチがなぜ優秀なのかってぇと、「重い話を軽い手法でやってる」ところだと思うのです。
あだち充ってもともと、表現方法が軽い人です。
登場人物が泣きわめいたりすることって、ほとんどない。
感情の表しかたがいつも、軽くコミカルなものに抑えられています。
ああいう軽さって、ほんとにすごい才能だと思うのです。
なかなか真似できるもんじゃない。

あだち充のマンガはテーマ自体も軽いものが多いわけですが、タッチだけは重い話です。
なにしろ、双子との三角関係ってだけでドロドロ感が強いのに、そのうえ和也が死んじゃうわけですから。
和也が死んだときのシーンでスゴいなと思うのは、あのシーンで泣き声が隠蔽されていることです。
達也のほうは、南にイタズラし、そのイタズラに自分がひっかかるという手法で悲しみが描かれるし、南が泣くシーンはあるのですが、その泣き声も電車の轟音にかき消されるという念のいれよう。
抜群にセンスがいい!

たとえば、冬のソナタでは、ヨン様が死んだ(と思われていた)ときに、友人たちが海に向かって

「チュンサーン(ヨン様の役名)、なんで死んじまったんだよぉ!」

と叫ぶシーンで悲しみを表現してましたが、こういうドロ臭さと比較するとタッチの上品さは図抜けています。

そういうセンスの良さが、タッチの実写版から微塵も感じられることができません。
達也も南も終始、泣き叫んでいるし、達也の苦悩というのも、全部セリフで表現されます。
一体、この監督は、あれだけ優れたマンガから何を汲み取ったのかさっぱり理解できません。
この監督にイタ電かけてぇ、「タッチ、タッチ、ここにタッチ」ってエンドレスで流れるやつ、
って切実に思いましたね、これ。

あ、だけど長澤まさみは可愛かった。
いままで、ぜんぜん興味なかったんですが、この映画見るとたしかに可愛く感じますね、長澤まさみ。


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