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2007年03月03日

蟲師ともののけ姫

前の記事で2006年の一位に選んだ蟲師ですが、今日はちょっと詳述。






最初にこのアニメのDVDを一枚だけ借りて見たときは、そんなに強い印象はありませんでした。
「風景が綺麗で、神秘的な雰囲気のアニメだなー」くらいにしか思わなかった。
だけど、それから順に見ていくと、やっぱこれすごい。
こりゃ傑作でしょ。間違いなく。


まず、このアニメで描かれている日本の四季が異常なほど美しい。


春、桜がはらはらと散るさまは芳香がこっちまで匂ってきそうだし、
冬の雪が降り積もった景色は、しんとした静けさで満ちている。


その美しさはほとんどファンタジーの域。


かつては普通にあった日本の景色だけれども、今じゃ失われてしまったもの。
それが切ないような、哀しいような、ノスタルジックな情感をもたらします。


このアニメには様々な人々が登場するのですが、彼らに共通するのは、


「なにかを失った人たち」


であるってことでしょうか。


で、その喪失の直接的な、もしくは間接的な原因として「蟲」と呼ばれる、不思議な生命が関わっています。
彼らはその喪失を嘆いたり、悲しんだりするのですが、不思議なことに、その喪失の原因である「蟲」に彼らが怒りを見せることはほとんどありません。
たとえば、「自分をこんな酷い目にあわせた蟲を、おれは許せない」というような形での感情の表れがない。


彼らは蟲師であるギンコに喪失したものの回復を懇願したり、またはギンコに諭されて、自分が喪失を受け入れられるよう悲しい努力をしたりします。
自分たちとは異なる存在でありながら、それでも共に生きていかなければならない「蟲」に対する、こうした諦念とそれに伴うやるせなさはとても感動的なものです。


上の文章の「蟲」を「自然」と読みかえれば、これが日本人の持つ自然観にとても近いことが分かると思います。


つい日本人と書いちゃったけれども、こういう自然観は汎アジア的な広がりを持つ、かなり原初的なものなんじゃないでしょうか。
話の風呂敷を広げすぎちゃうと収拾がつかなくなるから、アジア的云々の話は止めときますが。
(第一、そんな文明論的な話をできる教養がない)


「自然と人間」というテーマといえば、だれでもジブリのアニメ、特に宮崎アニメを想起すると思います。
ですが、私は宮崎アニメよりも蟲師のほうがずっと日本人の感性にあった自然観(または宗教意識)だと思うのです。


宮崎駿のアニメのなかで、自然をテーマにしたものといえば、


風の谷のナウシカ  もののけ姫  となりのトトロ


あたりが思い浮かびます。


とりあえずトトロは横に置いておくことにして、他の二作品を見ていくことにします。


ナウシカともののけ姫はとても似通った作品です。
自然と科学技術の対立、そしてそれに伴う惨劇が描かれています。
まあ、ナウシカの漫画のほうは、後半そういう対立の構造とは離れていくので、ここではもののけ姫に焦点をしぼることにします。


もののけ姫のなかで、科学技術の側に立っているキャラクターはエボシです。


彼女は知的な上に勇敢で、しかも慈悲深さもあわせもっているという、まさに英雄と呼ばれるにふさわしい人物です。
彼女の人生哲学というのは、


「どんな困難な障害でも、人間の意志と行動によって打ち勝つ(征服する)ことができる」ということ。


彼女はとても「西洋的」な人物として造形されています。
不合理なもの、超自然的なものを彼女は信じない。
自然という対象物を、自分の知性の理解下におくことができるし、そしてそれ故に自然を征服することもできるという信念をもった人物、それがエボシです。


しかし、ある対象を自分の知性の光で照らし出すということは、不合理で不可解な闇の部分を切り捨てることに他なりません。
というのも、知性であったり理性というものは、整合性のないものを毛嫌いする性質があるから。


で、そうした知性、理性の光の届かない不合理で不可解な闇の部分を象徴するのが、もののけ達の住む暗い森です。
この森のなかでは、不可解な生き物が生息していたり、シシ神のような神秘が存在している。


ここでは、なにかを対象化し、その知識を系統化し、論理という名のフィクションへ放りこみ理解を得る、という我々が普段慣れ親しんでいる知的咀嚼は成り立ちません。
それよりも、不可解なものにたいする恐れや畏怖、またそれに伴う原初的な宗教的意識が醸成されている空間です。


この不可解で畏れを抱かせる「自然」の側に立っているキャラクターがサン、なわけですが彼女はエボシに比べるとキャラが立ってないような気はしますね。
というのも、原初的な「森への畏れ」を具現化したキャラクターが「美少女」というのはどうもしっくりこないから、なのかもしれません。
まあ、日本人の原初的な宗教観というのをどうやってキャラクター化(擬人化)すればいいのかってのは私にも全然分かりませんが。
ただ、そうした宗教観のなかでは、性的なものと自然の営みがシンクロしてるように感じられるはずで、性的な部分がどうしても必要になるような気はします。


そういえば、昔の猟師というのは、森に入るときに自慰をした、という話をなんかの本で読んだことがあります。
なんでも、森を女の神さまに見立てて、神さまの機嫌をとるために自慰をするらしいです。


あ!それを考えれば、森を象徴するのが、美少女であっても全然不思議ではないのか。
成程。
もっとも、男の自慰を見て喜ぶような神さまなら、サンのような処女(おそらく)ではなくて、もっと男を知った年増のほうがいいような気もしますが。


まあ、「サンが男の自慰を見て喜ぶか云々」という話はともかく、もののけ姫の世界では、二つの対立した空間が存在しています。
たたら場ともののけの森と。


この対立は空間的な対立であるだけでなく、人間の意識の階層としての対立でもあります。
もののけの住む森が神話的、古代的なものであるのに対して、たたら場は理性中心主義的、近代的なものとして描かれています。


で、この両者の対立は次第に激しくなり、ついには「戦争」が起こるわけです。


で、この映画の主人公である、アシタカの役割ってのは何なのでしょう?
どちらとも利害関係を持たないアシタカは両者の立場にそれぞれ一定程度の理解を示しますが、どちらかに肩入れするわけではありません。
彼は恐ろしい破滅が起きないように、両者のあいだを奔走します。
つまり、アシタカの役割というのは「調停者」です。


これは、ナウシカ(映画)の役割とまったく同じです。
ナウシカも王蟲の暴走を止めることで、調停者としての役割を果たしていました。
ただ、ナウシカ(映画)が調停者としての役割を立派に果たしたのに対して、もののけ姫のアシタカは失敗しているという違いはありますが。


風の谷のナウシカももののけ姫も、


相容れない両者の対立 → 調停(成功または失敗)


という物語展開は似通っています。


で、私は、ここらへんのストーリー展開って、「西洋的だなあ」と思っちゃうのです。
(西洋的というのは別に悪い意味で言ってるんじゃないですが)


まず自然と人間を対立するものとして構想している点。
もちろん、「時として」自然と人間は対立するという意識があり、その対立に焦点をあてて作った映画だということは分かります。
しかし、そういう製作者の意図を汲んだうえでも、こちらは対立の図式を見せられてるわけですから、それについて何か言ってもかまわんだろうと。


それに、たたら場ともののけの森は、意識の階層性を表わしているという話をしましたが、これなんかはとてもフロイト的です。
下のほうの意識(もののけ、サン)を上の意識(たたら場、エボシ)が押さえつけようとして、破滅を迎えるという図式です。


人間の意識というのは、階層になっていて、その底にはドロドロとした欲望が渦巻いている。
で、その欲望をあまりに強い倫理性で押さえつけていると、精神を壊してしまう、ということをフロイトは言いました。
(用語は違いますが、内容はだいたいこんなもんです)


フロイトはその著書のなかで、くりかえし


「下の意識にある欲望を患者が認識すれば、病気(ヒステリー)は必ず治る」


ということを言っています。


精神分析学入門や、夢判断を読んだことのある人なら分かると思いますが、これ何回も出てきます。


余談ですが、私はこれを読んだとき、こう思いました。


「プッ、このオッサン、必死だな(失笑)」って。


フロイトは、「患者がちゃんと認識すれば、必ず治るんだから、私の理論は正しい」ということを言いたいのですね。


もしフロイトの言った事実自体が正しいとしても、違う角度から見ればフロイトの理論を論破できちゃうんですけどね、これ。
まあ、今は関係ないので置いときますが。
(なんかフロイトを馬鹿にしてるように見えますが、確かに半分は馬鹿にしてます。だけど、やっぱ、なんだかんだでスゴい人です、フロイトは)


で、話を戻すと、もののけ姫では、自然と人間(もしくは科学技術)というのは対立した関係として表現されていました。
それは、意識の階層性の対立も含んだ形として、です。


では蟲師はどうでしょう?


このアニメのなかで、蟲という存在は一般の人間には見えないものとされています。
特殊な性質を持つ人間(たとえばギンコ)にしか蟲を見ることは出来ません。
つまり、目に見えない存在なので対立が生まれないのです。
違う言い方をすれば、蟲というのは意識化されない存在だということになります。


ナウシカにおける「蟲」が、目に見えるばかりでなく、凶暴な佇まいで、時に人間を襲う存在であったのと比べてみると面白い。
蟲師における蟲も、人間に悪影響を及ぼすのですが、その在りかたは前述したように、隠微で意識化されるかされないかの微妙なところに留まっています。


昔の日本人にとって、いや今の日本人にとってもそうかもしれませんが、自然とは蟲師における蟲のような存在だったのではないでしょうか?
普段は意識せず、対象化もしないけれども確実に側に在るもの。
時に悪影響を及ぼすけれども、それを恨んだりはしないもの。


蟲師のストーリーが派手さはないにもかかわらず、物哀しくも惹きつけられるものがあるのは、こういう理由もあるような気がします。












この文章書くの、すんごい苦労したんですけど、苦労のわりに出来が悪いです。
実はトトロについても書くつもりでいたんですが、それが上手くいかなかった。
トトロにおける子供観、自然観はルソー由来のものじゃないかっていう意味合いで書こうと思ったんですけど、「やっぱ違うな、これ」と思って止めちゃった。
まあ、そういう理由もあって、あんま面白くないですね、これ(言い訳)。


だったらボツにしろよって話ですが、どれだけ酷くても基本的にボツにすることはないので。
そういえばホスト部について書いたときも酷かったな。
典型的な駄文。


話はずれますが、これ書いてるときにナウシカのこととか調べてたら、久しぶりにナウシカ見たくなった。
思えば何年見てないんだろ、ナウシカ。
平気で10年は見てない。


こことか見てたら「ナウシカは巨乳」って書いてるんだけれども、ナウシカってそんなに胸デカかったっけ?
なんかあまり印象がない。
いや、でもね、今は平気でEカップとかがそこらへんを闊歩してるご時勢ですから、ナウシカの巨乳っつったってそんな大したことないはず。
ほら、高田が北尾を倒したときのハイキックは凄かったっていう記憶が残っていても、実際に見てみたら全然凄くない、これミルコのハイキック見たあとじゃ蠅が止まるようなキックだなってのと同じですよ、多分。
まあ、確認の意味もこめて、ちょいとばかし映像ソフトをレンタルしてくる。
ナウシカが本当に巨乳なのかどうかを確かめるために。


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