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2007年03月18日

正義と文学 エヴァとフルメタのあいだ

この前、某ブロガーのAさん(仮名)をさんざん馬鹿にした記事を書いたんですけど、
その後、Aさんのブログを読んでいたら、ある発見があったので書いてみます。


これは発見というか、私の思考に盲点があったのに気づいたといったほうがいいのかもしれない。
新鮮な驚き、目から鱗がばりばり音をたてて落ちていくような。


なので、どうしてもこのことを書きたくなった。
だれのことだか分からない人のことを書いても、読んでいて面白くないだろうけど、勘弁してください。


Aさんってのは、文面を読む限り、大学生らしい。
文章にニーチェだとか、構造主義などの語句も出てくるところから見るとインテリの様子。
ニーチェかぁ、だれだそれ。
フルーチェだったら知ってるんだけど。


私がAさんのことを可笑しく思っていた理由は、

「自分はテーマ性を重視して作品を評価する」

とか、その他もろもろ偉そうなことを言ってるにも関わらず、「好きなアニメがローゼンメイデン」だったりしたから。
前回は書かなかったけれども、Aさんは、

「最近の仮面ライダーはなっとらん」と偉くご立腹。
そのほかにも子供向けのアニメなどを熱く語ったりしている。


それが妙に可笑しくてたまらなかった。

「テーマ性を重視している人」がなんで、ローゼンメイデンを絶賛したり、仮面ライダーを熱く語ったりしているのだろう、と思って。


私の目から見れば、あきらかに主張と好みがチグハグで、整合性がないような気がしてた。


しかし、Aさんのブログを読んでいるうちに、私はあることに気づいた。
たとえば、この文章。



「なぜシャドームーンは
仮面ライダーシャドーと言われないのか?

それは、仮面ライダーと言うのは正義のシンボルであり
暴力に苦しむ人々の代表者だからです。」


「良い作品は、何度でも読める。
再確認の感動、発見の感動がある。

(中略)

どうも、自分をアッといわせる意見や内容には
感動するらしい。ただし、これには注意が必要だ。

基本的にモラルが根本にある。

どんなに美辞麗句、キレイ事を並べ立てても
それが他者を傷つけること、他者を攻撃することを
促す文章ならば、まったく感動せず、また疑ってしまう。」





Aさんにとって、「テーマ性」というのは、「正義」であったり、「弱者を救うこと」だったり、「モラル」だったりするらしい。


驚いた。
マジで驚いた。
何が驚いたかっていうと、
「テーマ性」という言葉をこういう意味で使う人がいることに、私は思い及ばなかったのである。


たとえば、子供向けのアニメ、特撮ものなんかには、

「正義のために、悪と戦うヒーロー」

といった感じのストーリーがよくある。


こういう勧善懲悪ものって、「テーマ性がないストーリー」の最たるものだと、私は無意識的に観じていたのである。
別にこういうものを嫌っているわけではない。
けれども、私は、この手のものに総じて無関心だったので、大して思考することなく、なんとはなしにそう思っていたのである。


ところが、Aさんはこういうものこそが、「テーマ性」のあるものだと見なしていたんである。


つまり、「テーマ性」というカテゴリー認識がAさんと私では、真逆だったわけ。
そりゃAさんの主張がチグハグに見えるわけだわ。


いやー、しかし、これは驚いたな。


なぜ、こんなふうに同じ言葉に真逆の意味を見出してしまっていたのか、っていうと、
これも無意識的なんだけれども、「テーマ性」という言葉を私は、「文学」的な文脈で捉えていたから。


「文学」ということについてさらっとだけ触れておくとこんな感じ。
(とは言っても私はあまり文学に詳しくないし、情熱もないんで詳述はできませんが)


これは前にも触れたことがあるような気がするけれども、
日本の近代文学において、「文学とは人間を描くものだ」という意見は大勢を占めていた。
これに反対する意見も色々あって、たとえば小林秀雄という人なんかは、これに異議を唱えていたし、
また、最近の純文学では、かえって人間を表面的に描くことが流行っているらしい。
(最近の純文学にはぜんぜん興味がないのでよくわからないけど)


構造主義なんていう、なにやら難しい思想が入ってきてからは、
「構造まで還元してしまえば、クソ難しい文学もドラゴンボールも一緒じゃねぇの?」
みたいな考えも生まれてるし。


とはいうものの、「文学とは人間を描くもの」という意見は根強いし、
あんまり文学に詳しくない私も、なんとなくそう思ってる。
「文学とはなにか?」なんていう命題には、毛ほども興味ないんだけどね。


で、この「文学とは人間を描くもの」という言葉は何を意味しているのか。
なんか、このまんまじゃよく意味が分からない。
これは、言葉を継ぎ足してやると、わかりやすい。


「文学とは人間の『内面』を描くもの」


そういう考えを土台として私小説なんてものは成り立っている。
私小説ってのは、小説家の日常をただ、そのまま書いただけのもの。
つまり、自分よく知っているはずの自分の内面を描けばそれで文学になるんじゃねぇの?って発想。



だけど、これだけではまだ不十分で、もっと言葉を継ぎ足してやる必要がある。


「文学とは人間の『醜い内面』を描くもの」


これが日本の近代文学の底流に流れている思想(というか気分)。


人間の内面を深く見つめてみた。
すると、そこには醜いドロドロとした欲望、怨念があった。
だったら、それを克明に書いてみせれば、素晴らしい文学になるのではないか。


こういう気分が日本文学の底流にそこはかとなく漂っている。
だから、日本の近代文学では、「ろくでなし」が勢ぞろいしているのである。

変態(谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫)

麻薬中毒(坂口安吾、太宰治)

自殺者(芥川龍之介、川端康成、太宰治)


こんな感じで、文学の世界というのは、ろくでもない人間のオンパレード。
これとはちょっと違う方向性として「病弱」なんてのもある。
たとえば、梶井基次郎とか。


要するに近代の日本文学なんてのは、健全なものじゃない。
ろくでもなかったり、不健康だったり、ま、そういうもん。


それがいいことなのか悪いことなのかは、私にはよくわからない。


しかし、そこの価値判断はさておいて、私は「テーマ性」なんていう言葉を聞いたときに、こうした文学的な意味合いに近いところで、言葉の意味を捉えていたんである。
そして、「テーマ性」なんていう言葉を使う人も、こうした文脈に則っているのだと、なんとはなしに思っていた。


人間精神の深いところまで、潜行し、人間の救いようの無い愚かさを描くのがテーマ性の高い作品である、と思ってたわけ。
たとえば、ドストエフスキーとかドストエフスキーとか、そういうやつ。


ここで断っておくけれども、別に私は、こういう基準で作品を判断してるわけではない。
テーマ性の高い作品じゃなければ、クズだ、とか言うわけでもない。


そもそも、もしそんな価値判断をしていたら、ホスト部やハルヒが好きだ、なんて言うわけないし。
私の場合はただ単に、自分の面白いと思ったものを誉めてるだけ。
テーマ性だとかはあまり考えない。
ま、ある意味すんごい無節操だけど、それは。


ただ、「テーマ性の高い作品」なんて聞くと、こうした形の文学的な価値基準か、それに準じたものに則った評価をしているのだろう、と思ってたわけである。


それがAさんの場合は、ぜんぜん違った。
まさか、「正義が悪を挫く」という形式の作品を、「テーマ性が高いもの」と見なしている人がいるだなんて、私には想像もつかなかった。


というのも、「正義」なんてのは、日本の近代文学でもっとも縁遠いものだから、である。


そもそも、日本文学のお手本になっている、ヨーロッパの近代文学では、神という絶対正義を失った人々のお話を紡いできた。
たとえばドストエフスキーがその筆頭なんだけれども、彼の小説のなかでは、神という垂直的な倫理機構を失ったとしたら、何を支えにして生きていけばいいのか、という執拗な問いで埋め尽くされている。


神さまってのは、もちろんフィクションなんだけれども、同じように、モラル、倫理というのも、またフィクションである。


西洋の場合、神さまという根拠からモラル、倫理を導いていたので、近代になって、

「神は死んだ」

なんていう事態に陥ってしまって大変だった。
ま、大混乱ってやつ。
なにしろ、神さまという絶対的な根拠を失ってしまえば、それぞれの人間がそれぞれのモラルを打ち立てなきゃいけない。


しかし、前述したように、モラルってのもまたフィクションだから、そう簡単に作れるもんじゃない。
たとえば、「人を殺しちゃいけない理由」なんてのを、論理的に語ることなんてできないし。


結局のところ、モラルの根源には、また神さまに似たフィクション(嘘)が必要になる。
で、ヨーロッパ人のインテリは、そういうフィクションとして「理性」ってのを考え出した。
人間はだれしも理性という、「正しく物事を判断する力」を持っていて、その理性を根拠にして、人間は正しく生きることができる、っていう理屈を考え出した。


こんなの普通の生活をしていれば、だれだって嘘だって分かるような代物。
私の知り合いにはヤクザな連中が多いから、「明らかに理性を持っていない人間」をたちどころに十人はあげられる。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。あひゃひゃ。
こんなの神さまを信じるのと何ら変わりない。
むしろ、神さまのほうが、大嘘だということがすぐばれるだけマシなくらい。


まあ、馬鹿といえば馬鹿なんだけれども、こういう考えかたが民主主義とか人権思想の土台の一部となっていたりするんで、笑うに笑えない事情があったりもする。


ヨーロッパ文学のなかにも、日本と同じように「ろくでもない人間」がたくさん出てくる。

「自分は優秀な人間だから、金持ちの強欲婆ァを殺して金奪っても、ぜんぜんかまわねーじゃん?」
なんて考える大馬鹿者とか、
自分の母親が死んだのが、昨日なのか一昨日なのかわからない若ボケとか、
始終、吐き気に襲われているスカトロ野郎とか。


こうやってみると、日本の場合と事情は同じように思えるけれども、
西洋の場合、神さまという絶対倫理を失ったあとの悪あがきだから、
これ、とても真実味がある。


しかし、日本の場合、もともと、その絶対倫理がなかった。
だから、それを失う喪失感もまたない。
だもんで、西洋文学の形を真似た、日本文学のなかの堕落というものは、なにやら得体の知れぬカオスでしかないのである。
高みから堕ちていく身を切り刻まれるような辛さもなければ、
たとえ、それがかりそめのものに過ぎぬと分かっていながら、
また高みを目指す虚しさもない。
ただ、なんとはなしに堕落してるだけ。
「ぼんやりとした不安」から自殺した小説家がいるけれども、
彼らには敵の姿が見えていないとともに、
愛すべき神の姿も見えてはいなかった。


なんか話がひどく脱線したような気がするので、
話を元に戻すと、文学的価値観から言えば、
「正義が悪を討つ」という形式の作品は、
普通「テーマ性が高い作品」とはみなされない。


たとえば、エヴァンゲリオンとフルメタルパニックという二つのロボットアニメを比べてみる。
この二つのどっちが文学的と見なされやすいでしょう?
どっちのアニメが個人的に好きか?ということではなくて、文学的価値観に則ってみると、どっちが重要度の高いアニメとみなされやすいか?っていう質問です。





これはエヴァということで衆目が一致すると思う。
まずエヴァのほうが登場人物の内面描写が多い、ってのが理由としてあげられるけれども、とりあえず、それは横においておく。
文の趣旨にあっていないので。


この二つのアニメを比べてみると、正義と悪の扱いが全く違う。


フルメタのほうでは、悪という存在は明確である。
このアニメのなかでは、ガオランだかガオルンだかいうテロリストが登場してくるんだけれども、こいつ、まったくもって正義というものを持ち合わせていない。
実際のテロリストというものは、ビン・ラディンなんかがそうであるように、テロという非情な手段を使うものの、その主張には幾分なりとも正義が含まれているのが普通。
もちろん本人が正義だと信じているだけで、周りから見れば正義でもなんでもないっていうのも多いけれども、「自分が正義だ」と信じられない人間はテロリストなんていう難儀な職業に就かないもんである。
ところが、このガオランとかいうテロリストは、自分が正義だとはぜんぜん思っていない。
実は彼には何の主張もないのである。
ただ単に、自分の破壊衝動を満足させたいだけ。
何かを壊す、誰かを殺すことに無常の喜びを感じる。
それでテロやってる。
いわば純度100パーセントの悪人。


だから、彼に対立する側の主人公たちも、「実は彼の言い分にも理があるんじゃないか?」と悩んだりはしない。
主人公は、「上手く戦えない」とか「千鳥と会えなくなった」とかいうことでは悩むけれども、自分が正義の側にいる人間であることには、まったく疑念を抱かない。
つまり、絶対的な悪が存在しているので、それと戦う相良たちは、自分が正義であることを確信できるのである。


次にエヴァ。
このアニメのなかでは、使徒とかいう変な化け物が襲ってくる。
実は使徒がなぜ襲ってくるのか、いまだに私は理解してなかったりするんだけれども、ま、それは置いといて。


使徒を撃退するのが主人公である碇シンジの役割。
だから、彼は自分のやっていることが正義であることを確信しているはず。
なにしろ、人類を救うという、正義の味方としては、このうえないシチュエーションなんだから。
ところが、このシンジとかいうガキは、くよくよ悩むことが趣味という、厄介な14歳なので、自分がやっていることが正しいと感じられない。
それで何度も逃げ出しては周囲を困らせる。
シンジが自分のことを「正義の味方」である、と確信できる状況は整っているはずなのに、シンジは執拗にそれを拒否する。
その代わりに、自分のやっていることの意味を幾度も問い直す。
ま、ここらへんは問うている振りをしているだけに見えないこともないけれども。


さて、上のほうで、文学について書いているんだけれども、
それに照らし合わせてみると、シンジの態度って、まさしく文学的である。
自分の拠って立つ倫理が見出せない、という不安。
それゆえに、自分の行動に確信が持てない、という絶望。
神を失ったあとのヨーロッパ文学、もしくはそれを真似した日本文学のかたちによく似ている。


あ、一言申し添えておくと、ここではエヴァの内容が深いか浅いかは問うてはいない。
ただ、形のうえで文学的かどうかを書いてるだけなので。


つまり、正義というものが確固として存在しているフルメタル・パニックと、
正義だけでなく、倫理すら不確かなエヴァンゲリオン。
ものすごく簡単に言っちゃえば、正義を確信できない状況で、あれこれ悩んでいるほうが文学的とみなされる。
つまり、確固とした正義が存立している物語のなかでは、主人公は根源的な悩みに陥らない。
ところが、正義があやふやな状態だと、主人公は深いところで悩みだす。
もしくは、深いところで悩んでいるかのように見える。


こうやって比べてみると、「確固たる正義のあるなし」が文学的か否かを分けるポイントの一つだということがよくわかる。
そして、それを逆に言えば、「絶対的な悪」が存在しているかどうかという点もまたそうである。
というのも、絶対的な悪というものがあれば、人々はたやすく自分を正義だと思い込めるからである。


正義が悪を誅す、という形式の小説はふつう文学とはみなされない。
そういう小説は「大衆小説」なんてよばれたりする。
前回、触れたようにAさんは、「大衆批判」をよくするんだけれども、
その当の本人が好きなアニメ(勧善懲悪もの)って、こういう価値観からすれば、大衆的作品そのものなわけ。


これが面白い。
というのもAさんは、自分ではインテリのつもりらしいのだが、こうしてみると明らかなように、「文学的教養がまったくない」。
そもそも、そういうタイプの教養があるのだということにすら気づいていない様子。
だから、とても独特な言葉の使いかたをする。


もちろん、私だって、人のことをとやかく言えた身分じゃない。
本を読んでる時間よりも、ネットでエロ画像を収集している時間のほうが長いくらいだし、
月極駐車場の読み方を先月知ったくらい教養が無さ過ぎるくらいな人間なんだけれども、上記のような事情はいわば常識として頭に入っている。


なぜAさんにこういう知識がないのかっていうと、80年代に広まった
「すべての文化は等価値である」という言説によるものなんだろうなあ。
それまでの文化って階層性のものだったから、私のような無教養な人間でも文学的価値観ってのがどんなものか、ってことくらいはなんとはなしにわかってた。
文化の下っ端にいる人間でも、上のほうでどういうことを言っているか、みたいなことは漏れ聞こえてたわけだ。
ところが、文学もマンガもギャルゲーも等価値である、ということになり、わざわざしちめんどくさい文学を嗜む必要もない、ってなことになると、それぞれの小さな文化集団で集まりをなし、周りの言葉遣いとかには全く無関心という状況が生まれてくる。
それで、小さな集団ごとに固まる。
ときに隣接する集団と反目する。
そういえば、Aさんも、ローゼンを誉める一方で、ハルヒをけなしてたっけ。
それ、似たようなもんなのに。




なんか、ひょんなことから文学を語ってしまったりしたんですけど、ま、こんなのもたまにはいいでしょう。
というのも、インテリとかは、この文章みたいな基本的なことをあまり書かないので。
インテリってのは、ちょいと小粋なことを言って自分の頭の良さをアピールしたい、というムカつく連中なので、私みたいに「知ってて当たり前のこと」は書かないもんなのです。
そんな当たり前のことを、つらつらと書いていたら馬鹿に思われると思っているんですね。ムカ。


まあ、私は人から馬鹿と思われることなんて恐れてやしないので、これからも、バシバシ馬鹿なことを書いてやろうと思っております。
バカバカと。
そもそも、このブログのテーマが「当たり前のことをあえて書いてみる」ってことだし。
だから、当分ネタ切れはしないと思います。


最近、更新が滞りがちなのは、私が電車で手鏡使ったらちょいと面倒なことになった、という下らない理由によるものなので、ま、あまり気にしないでください。


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