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2007年03月27日

エウレカ総評<2> レントンとエウレカのセックス

前回の記事で、


「エウレカセブンには、まともな大人が登場してこないので、レントンの成長物語がうまく機能してないんじゃないか」


みたいなことを書きました。


が、こんなことを書いておいてから言うのもなんですが、
これって、人の好き好きじゃないか、と思います。
(ってなんだ、そりゃ)


子供っぽい大人しか登場してこないエウレカセブンですが、
この部分を私は結構面白く感じてました。


たとえば、最初のほうでは、ホランドってレントンの憧れの人、つまりヒーローだったんですが、
物語が進むにつれ、そのホランドがとても子供っぽい、ただの凡人であるように思えてくる。
自分がヒーローだと思っていた人物が、実は多くの欠点を抱えながら、みっともない生を生きざるを得ない、自分と同じただ一人の人間である、という理解。
そして、その卑小さゆえにこそ、その人を許せるような気持ちになれるという感情の展開って、だれもが経験することです。
というのも、子供の親に対する感情って、まさにそうした経路をたどるものですし。


ただ、このホランドの、ヒーローだと思ってた人物が実は凡人、っていう見る側の認識の変化っていうのが、製作者の意図したものであるかどうかが、どうも微妙。
なんか偶然そう見えてしまっているだけ、のような気もしてしまいますが。


ということで、<1> レントンという少年の成長物語というストーリーは、そんなに悪い出来ではないと思います。
実際、この部分(26話まで)を好きだという人は多いみたいですし。


で、今回は

<2> スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生

この部分の話です。


<1> レントンという少年の成長物語が、ロボットアニメのセオリーに則った部分が非常に多い、言ってみれば見ていて安心感を与える要素の集合(つまりパクリ要素)で出来ていた部分だとすれば、この部分はロボットアニメのセオリーを大きく踏み外した物語が展開されていきます。


まず、この物語が繰り広げられていた惑星が実は「地球」だった、という衝撃的展開。
地球を覆っていた生物とエウレカが同じという事実の発覚。
そして、最終回でレントンとエウレカが合体して月へ昇っていくという、わけのわからなさ。


これでは確かに面食らうのも無理はない。
私も、後半部分はあまりの展開の奇妙さに、首をかしげっぱなしでした。
あまりにも首かしげてたんで、首がいてぇ。
エウレカセブンの前半を見て、後半にこんな展開が待っているなんて、ふつう思いません。


<1>の部分が他のロボットアニメのパクリで出来ている、という話をしましたが、実はこの<2>の部分も同じく、他の作品の引用で成り立っています。
この惑星がじつは地球、ってのはまんま猿の惑星ですし、人間が群生意識へ進化する、という設定は多くのSF小説で繰り返し、語られてきたテーマです。
つまり、ここらへんって、昔のSF小説のパクリで出来上がってます。


なんか、パクリパクリ言ってると、松本零士みたいにパクリに怒っているみたいにとられるかもしれませんが、全然そんなことないです。
そもそも私はパクリって悪いことだと思ってないですから。
ただ、結果が面白いかどうかが問題なんであって、オリジナルがどこにあるかっていう問題って、そんなに重要なことですかね?
作る側からすれば、問題かもしれませんが、見る側からすれば、オリジナルであろうとなんだろうと、どっちでもいいですけど。


で、話を戻すと、この<2>の部分って、平たく言ってしまえば、「自然と人間」をテーマにした部分なわけでです。


エウレカセブンのなかで「自然と人間」というテーマが上手く表現されてるか、もしくは、このテーマ自体が適宜なものかどうか、っていう話はしません。
というのも、私はこのまえ「自然と人間」っていうテーマで蟲師を語ろうとして、ろくでもない文章を書いてしまい、見事に玉砕した過去を持ってますので。
また身の程弁えず、玉砕したくないしね。


ここで問題にしたいのはただ一つ。
それは
<1>レントンの成長物語と、
<2>スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生、っていう物語、
この二つが明らかに齟齬をきたしてる、ってことです。


地球の地表を覆っているスカブという生物(エウレカもこの一種)は、全にして一、一にして全、という群生意識をもった生物です。
で、レントンはこの生物と同一化し(見た目はエウレカと同一化してる)、月に昇っていく。
こういう物語展開を見せて、エウレカセブンって終わるんですけど、これが全然カタルシスを得られない。
それが何故か?
まあ、唐突すぎるストーリーに頭がついていかないっていうこともありますけど、私が考えるにこんな理由なんじゃないかと思う。



最近、この本を読み返してました。



澁澤龍彦「エロティシズム」


で、この本のなかに「存在の不安」っていう一章があります。
フロイトなんかの精神分析学やバタイユを引用して論を展開してるんですけど、ここをちょっと見ていきたいと思います。




胎児期から幼児期にかけて、子供はいくつかの「分離」を経験します。


「子宮のなかの胎児は母親と一体になって生きている。これこそ絶対的ナルシシズムのユートピア、まだあらゆる分離を知らない以前の、自然と一体になった人類の黄金時代ともいうべき、幸福な時期である」


しかし、当然のごとく、やがて子供は子宮から出なければなりません。


「誕生するということは、子宮から自分を切り離すということである。臍の緒を切られて、母親の身体とは別の存在になるということである」


今まで温かい羊水のなかで母親と一体化していた子供にとって、冷たい外気にさらされた外の世界というものは恐怖と不安に満ちている。
これが一つめの分離です。


母親との幸福な一体感を断ち切られた子供が、また一体感の対象として見出すのが、母親の乳房です。
フロイトはこの時期を、しゃぶることが快感をなす「口唇愛期」と名づけました。


「小児がしゃぶる行為をおぼえるのは、栄養物を摂取する際であるが、そのうち、しゃぶる行為それ自体によって、快感がえられることを知るようになる。乳房のみならず、自分の指をしゃぶるようになる。母親がこれを禁止すれば、そこにフラストレーション(欲求不満)が起こるのは当然だろう。欲求不満と満足が代わる代わるにやってきて、やがて離乳の時期になる。
今まで子供にとっていちばん大事だった乳房が、彼の口から残酷に引き離されるのである」


こうして、二つめの分離が行われます。
子供は「母親と繋がっていたい」と願うのですが、それは無残にも打ち砕かれ、自分というただ一つの存在へ分離されてしまいます。
この存在の孤独への絶望と、それを克服したいという欲望が、「誰かと繋がりたい」というエロスの働きを呼び覚ますのだ、と澁澤は書いています。


「たぶん、人間の最も深い欲求は、この分離をなんとか克服し、存在の宿命的な孤独地獄から逃れようという欲求なのであろう」


簡単にまとめてみると、最初は世界というものを自分と繋がった連続性のあるものとして、子供は感じています。
自分と世界というものは未分化であって、自他の区別がない。
それは安心できて居心地のいい感覚です。
しかし、子供は徐々に世界から切り離されていく。
その苦痛に満ちた分離の経験、自分が自分でしかないという不安、それらが人間存在の根底にあるやみがたい不安だ、ということです。


もちろん、誰かと性交して、一時的に繋がったとしても、それは根源的な不安の解決には至らない。
ただ、つかのまのユートピアをのぞき見るだけです。
子供でなくなった人間は、満ち足りた一体感に満たされることはかなわず、自分という孤独な存在を持て余しながら生きていくしかない。


で、エウレカセブンに戻ります。


このアニメの冒頭で、レントンは故郷を捨てます。
つまり、自分という存在を住み慣れた町から分離することで、レントンの成長物語は始まるわけです。
(もっとも、乳幼児の分離と思春期の少年の分離を同列に並べるのには無理がありますけど)


そういえばレントンには母親がいません。
えっと・・・・、なぜ母親がいないんだったかは忘れてしまった、というかその理由が語られてないような気もするんだけれども、まあ、とにかく母親がいない。
それで、母親代わりにレントンを育てた姉のダイアンとかいう女性がいるんですけど、彼女も失踪しちゃっていない。
つまり、レントンというのは、物語の冒頭から、「母から分離された子供」としての側面が強調されているわけです。


そんなレントンが故郷を捨て、月光号に乗ることを決意した理由というのが、

「エウレカに恋をした」から。

言葉換えれば、「エウレカと繋がりたい」と願ったから、ということです。


エウレカという他者と繋がろうとすることで、分離された孤独と不安を埋めようとするのです。
そうしたなかで、レントンはホランドと衝突したりしながら、成長していく。


成長というのは、まず自分を確立させていくことです。
最初はホランドに憧れているだけで、ホランドを妄信していたレントンが、
自分の頭で考え行動するようになっていく。
次に、確立した自分というものを周囲に認めさせなくてはならない。
ホランドや他の月光号のメンバー、そしてもちろんエウレカにも、自分という存在を認めさせていく。


これが<1>レントンの成長物語 なんですけど、ここまではいいのです。


ところが、<2>のほうのストーリーの終盤、レントンはスカブと融合してしまう。
もう書きましたが、このスカブというのは、群生意識をもった生物。
その内部ではさまざまな意識が渦巻いていて、自他の区別が混淆している。
このなかでレントンは常に誰か(エウレカとも)と繋がっているし、また誰かもまたレントンに繋がっている。


もう何が言いたいんだか分かってもらえたと思うんですけど、
これって、母親と一体化している胎児の状態に似ているわけです。
ご丁寧にも、「母」代わりであった姉のダイアンもまた、このスカブに取り込まれていることを示すシーンがあったりします。
で、レントンはダイアン(母)とスカブのなかで再会する。


ここまであからさまだと、明らかに製作者は意図してやっているんだと思う。
つまり、エウレカセブンは、「母と分離されたレントンが、母を捜し、そして母の体内に取り込まれる」という物語として作られています。
ここで言う「母」は、姉のダイアンとコーラリアンであるエウレカを指しています。


しかし、これは違和感がある。
というのも、前半のエウレカセブンというのは、レントンの自己確立の過程として描かれているわけです。
そこが好きだという人もかなりいる。
私も好きです。
なのに、終盤でレントンは「胎児」にまで戻ってしまう。
母と未分化な状態、母とずっと繋がっている白痴的な幸福。
最後の最後で胎児に戻るなんて、それじゃ前半の少年から大人へ成長していく過程ってのは何なの、って思いません?


人間が群生生物へ進化するというSF小説はいくつかありますが、私が読んだ限りでは、それらの主人公はすべて成熟した「大人」です。
もうすでに、自分の殻というものがかっちりと定まってしまっている大人だからこそ、その殻を破り、他者と融合することに対する不安、恐怖、そしてまだ見ぬユートピアへの憧れを描くことが出来るのだと思います。
たとえば、攻殻機動隊(映画)の草薙素子もプログラムと融合して、群体へと進化しますが、彼女のキャラは、必要以上に「大人」として強調されています。
胸が大きいとかの肉体的特徴もそうですが、喋り方とか声とかも成熟した大人のそれです。
草薙素子はもう成長しきってしまった大人であり、これから大きな変化は望めません。
だから、他者との融合というテーマが光彩をはなつ。


ところが、エウレカセブンのように、前半で少年の成長を描いているような場合、こうした群生生物との融合を最後に持ってくるのはやっぱり間違いだと思う。
そんなことしたら、前半の成長物語が台無しになってしまう。
エウレカセブンの後半があまり人気がないのって、そういう理由なんじゃないか、と思うのです。


まあ、後半の人気のなさってのは、ここでグダグダ書いた理由よりも、「ロボットアニメなのに途中からレントンがぜんぜん戦わない」っていう理由によるもののような気がしないでもないですけど。




これエウレカセブンDVDの最終巻なんですけど、
ジャケットに二人は子供の姿で描かれています。

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