
「時かけ」観てきました(たけくまメモ)
アニメ「時をかける少女」海外批評 海外アニメサイトレビュー(誤訳御免!)
もともと、これらの記事を読んでいたんで、評判がいいのは知っていましたけど、実際に見ると案外、期待はずれだったりするんじゃないの、とか思いながら見たんですが、実際に見てみると、実際に見てみたら、、、、、これ、すごく良かったです。
たしかに、とんでもない傑作ってわけではないんだけども、たけくまメモに書かれているとおり、「爽やかな青春映画」って感じで、見終わったあと、やたらにすがすがしかった。
今度、テレビ放映があるらしいんで、見たことのない人はぜひ見てください。
すごくイイです。
おしまい。
・・・・・・・・・・・じゃなくて、ここからが本題。
時をかける少女って、今まで、ドラマ、映画、今回はアニメ映画といろいろな形で映像化されてる。
たしか内田有紀主演のドラマとかもあったっけ。
私は、今回のアニメ映画以外、それらを見たことがない。
しかし、筒井康隆の原作小説のほうはかなり前に読んだことがある。
ずいぶんと昔の話なんで、記憶が曖昧だったりするんだけど、この「時をかける少女」という小説は、ひどく退屈だった。
今回、この記事を書くにあたって、さっと読み返してみたんだけど、やっぱりその印象は変わらなかった。
これがジュブナイル小説であることを差し引いても、はっきり言ってそう大したもんじゃない。
だれでも思いつくようなプロットではあるし、登場人物の感情も、あまり上手く描かれているとは思えない。
やっぱ、退屈。
パプリカ、時をかける少女と、筒井康隆原作のアニメが良出来だったので、
「筒井は神!」
みたいな言い方を目にしたりするけど、これ実際に小説を読んで言っているのだろうか。
私は筒井康隆の大ファンというわけではないけれども、そこそこ彼の小説は読んでいて、そのうちのいくつかはかなり好きだったりする。
(もっとも、パプリカは読んでないけど)
だから、筒井康隆が才能のある小説家であることはわかっているけど、時をかける少女に関しては駄作としか言いようがない。
それじゃ、そんな不出来な小説がなぜ、こう何度も映像化されるのか?
それは「時をかける少女」というネーミング、そして、そこにこめられたイメージによるものじゃないか、と思うのだ。
考えてみれば、「少女」ほど「時」に縛られている存在もまたない。
「少女」と呼ばれる「時」は、ほんの一瞬に過ぎず、また、その「時」が一度、過ぎ去ってしまえば、もう二度と取り返すことはできない。
たとえば、男に向かって「あの人はいつまでも少年の心を忘れない人だ」みたいなことを言えば、これは誉め言葉になる。
インディジョーンズのハリソン・フォードみたいなイメージがある。
ところが、「いつまでも少女の心を忘れない」女というのはどうだろう?
どうにも、グロテスクじゃないだろうか。
ロリータファッションに身を包んだ、40くらいのおばさんが頭に思い浮かんで、ちょっと欝な気分になる。
男というものが、茫洋とした時のなかでのんべんだらりと生きているのに対して、女の人は「時」に急かされて生きている。
これは、容色の衰えだったり、社会から精神的な成熟を要求されるとかの複数の意味をこめて言っているんだけど、「時」というものに対する女の人の切実感というのは、男のそれの比ではないだろう。
少女はやがて、女にならざるをえないし、女はやがて母になる。
母になることを拒否した女は、また別の何かになるだけだ。
女は「時」の速さにおびえ、化粧にこったり、エステにいったり、またあるときはヒアルロン酸を注入するといった荒業に出るが、「時」そのものを止めることは決してできない。
(ちなみに、「時」の移ろいに身を任せた女は「おばさん」という名称で呼ばれたりする)
「少女」なんてのは、人生のうちでほんの一瞬でしかない。
「少女」は「時」に縛られていて、それはもうどうすることもできないのだから。
しかし、そうであるがゆえに、女ってのは「今ある一瞬」が取り返しのつかない、大事な「時」であることに自覚的なのかもしれない。
こう考えたときに、「時をかける少女」ってのはとても逆説的なネーミングだ。
「時」に束縛される存在である「少女」が「時をかける」。
それは現実とは逆さまであるがゆえに、ひどく甘美なファンタジーだ。
この逆説的なネーミング、そして、その切ないイメージゆえに、「時をかける少女」ってのは、人を惹きつけてきたんじゃないかな、と思ったりする。
で、この「時をかける少女」というアニメ映画のなかでは、「今あるこの一瞬がリセット不可能な取り返しのつかない『時』である」ということがテーマになっているんだけど、実は、このテーマは原作小説のなかでは、あまり現れていない。
読んでもらえばわかるけど、原作小説のなかではそもそも「タイムリープ」は、主人公が自分の意識で発揮できる能力ではなくて、なにか危機が起こったときに、自然に発動してしまう特殊能力なんである。
だから、アニメで真琴が自由自在にタイムリープしている、ってのは、原作からの改変部分になってるわけだ。
この「自由にタイムリープできる」という能力を持っていることによって、「この一瞬がかけがえのない『時』である」という事実を逆照射していく構造になっているわけだけど、これはホントに見事だな、と思った。
このまえ、放映していた、アニメ夜話のなかで、岡田斗司夫は、
「どうやってもね、この『時をかける少女』って、映画化するとき、みんなアイドル映画として作りたくなっちゃうんですよね」
なんてことを言っていた。
アイドル(特に女の)というものは、「少女」という「時」を商品化したものだから、「時をかける少女」とよく合うのは、当然なのである。
男のアイドルというのは、スマップみたいに息が長かったりするけれども、女のアイドルなんてのは旬の時期は3年くらいのもんだろう。
喋りが上手ければバラエティで、演技が上手ければ女優として延命することはできるけれども、アイドルとして持つのは、ほんのわずかな期間でしかない。
そういう期間限定商品としての、切なさみたいなのが、「時をかける少女」と上手くあっていたんじゃないだろうか。
そういうアイドルという存在に頼らず、プロットで、「時」の過ぎ行く切なさを描いた、このアニメ映画ってのは、やっぱ大したもんだ、と思いますよ。いや、マジで。
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