で、今読み返してみたら、「スゴい」だとか「面白い」だとか、極めて貧弱なボキャブラリーが並んでいて、小学生の読書感想文でも、もそっとましなコト書くじゃねぇか、って気づいたのが、今さっき。
前々から、どうも自分は誉めるのが苦手だなー、と思ってたんだけども、自分の頭のなかにある誉め言葉が「スゴい」と「面白い」だけじゃ、そら誉めるのが苦手なのも当たり前な話だ。
なので、今日はリベンジってことで、また同じテーマについて書いてみます。
というか、一日たってみたら、こういうポイントで書けばいいじゃん?って思いついたってだけの話なんだけど。
ということで、昨日も紹介してみた、この記事をもう一回。
[アニメ]今回の電脳コイルを見て思い浮かんだ作品って何?(ふぇいばりっとでいずより)
いや、今週(12話)の電脳コイルが面白すぎて、笑い涙が止まらなかった。
それにしても、この12話を見て連想する作品が様々なのが笑える。
1日たってみると、このTriple3さんの思考の流れが面白いなー、って思い始めた。
要するに、
電脳コイルの12話が面白い、と思った。
↓
で、この12話の元ネタっていろいろあるよなー、って思って、そこでも面白かった。
ってこと。
Triple3さんが、元ネタとしてあげてるものだけでなく、アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」なんかを上げている人もいた。
私自身も、昨日、落語に似たような噺があったなー、ってことを書いている。
だけど、そもそも、この電脳コイルの12話って、これらの元ネタをまったく知らなくても、そのままで面白いものなんだな、これが。
何の予備知識がなくても、話がそもそも面白いし、笑える。
別に、私は
「元ネタを知らないでも、笑えるのに、元ネタ探しなんていう不毛なことはやめろ」
みたいなことを言うつもりでは、全然なくて、元ネタ探して楽しむのも、もちろん良い。
それは人それぞれの楽しみかただし。
ただ、そのまま見ても面白いお話に対したときに、自然に「元ネタ探し」に向かってしまう、思考が興味深かった。
(ちょっと話が脱線するけれども、ちゃんと電脳コイルの話に戻ってくるんで勘弁してください)
[自分の笑いのツボを検証してみる]
そもそも、笑いとはなんだろう?
どのような経緯で笑いは生まれるのか。
しかし「笑いとは何か」みたいな、大上段に振りかぶったことは私の手には余る。
さすがに、それはあまりにテーマが広すぎて、処理しきれないから。
なので、ある芸人の芸を見て、自分が笑ってしまったとき、それがどんな感情なのかということについて、解剖してみようと思う。
できるかぎり客観的に。
神奈月という芸人がいるんだけど、彼のやるプロレスラーの物マネが私は大好き。
見るたびに爆笑してしまう。
ヒザの悪い武藤の物まねは、よくテレビでやるので、見たことのある人も多いだろうけど、馳浩の物まねとかも絶品。
馳というプロレスラーは、試合中に、南国に住む怪鳥のような、何とも形容しがたい声を常に発し続けているのだが、その物まねがメチャ面白い。
そういえば、ナンシー関も神奈月の馳の物まねを絶賛してたなー。
ありゃ、文句なしに面白いもん。
あくまで、プロレスファンにとっては、だけど。
今では、まるっきりプロレスを見ることがなくなってしまった私だが、元々は熱烈なプロレスファンだった。
一日の思考の75%くらいをプロレスが占めていたことさえあるくらい。
なんか、今考えると、あぶねーヤツだな、しかし。
で、神奈月のプロレスラーの物まねを見て笑っている私の感情を分析してみると、そこには、ある種の優越感が認められる。
つまり、「みんなには、このネタがわからないだろうけど、オレにはわかるよ」っていう感覚。
馳の試合を見たことがあるしね(ビデオで、だけど)、君たちには、このネタの何が面白いんだか、わからないだろうけど、オレはわかっちゃうよ、みたいな感じ。
こういう、プロレスに無知で馳の物まねが理解できない人々に対する、優越感みたいな感情がたしかにあって、それが(私の)笑いを助長していたりする。
だけど、この優越感っていうのは、よくよく考えると、まったく根拠のない感情であることに気づく。
たとえば、ポストモダニズムに関する高尚なジョークがあったとして、そのジョークを笑うことで、
「オレはこんなジョークもわかるくらい、頭がいいんだぜ」
みたいなことを示そうとする人がいたとする。
こんなのは、まるっきり嫌なヤツではあるが、ただ思考の流れはよくわかる。
ポストモダンなんてのは、一般人にはよくわからない高尚なものだし、その高尚なものに対するジョークが分かるということは、その笑った人の知性も高いとみなされうるからである。
しかし、私の場合はどうだろう。
私が知っていたのは、「馳というプロレスラーは試合中、変な声を出す」という、まったくもって下らない知識である。
こんなことを知っていたからといって自慢になるだろうか?
いや、自慢にならないどころか、かえって恥くらいなもんである。
それなのに、笑っているとき、私はたしかに優越感を感じていた。
なぜだろう?
それは、たぶん「この物まねを理解できる人々の輪」の中に入っていたからだ。
この神奈月の物まねをテレビで見たとき、私は一人だったが、今、このテレビを見て、私と同じように笑っているプロレスファンの存在を、どこかで意識していたような気がする。
要するに、私と同じ知識を持ち(馳の試合を見たことがある)、同じ感性を持つ(馳の掛け声は変だ)、プロレスファンとの同胞意識が確かにあった。
この同胞意識というのは、先ほどの「プロレスの知識がない一般人に対する優越感」と、ちょうど対になっている感情である。
プロレスファンと肩を組んで、「あいつら(一般人)には、この物まねの面白さがわかんねーだろうけど、オレらは分かるもんな」って優越感に浸っている感じ。
ってこれ、全部、想像上でのことなんではあるけど。
まあ、こういった「優越感」と「同胞意識」というのがないまぜになって、馳の物まねに私は笑っていたんじゃないか、というのが分析結果。
ここには、同胞意識によってプロレスファンが一つにまとまる効果と、それと同時に一般人に対する排除の意識がうかがえる。
いままで、このブログを読んでくださってるアニオタの皆さんには、全く興味がないだろうプロレス話を続けてきたんだけど、これはあえてそうやってみた。
自分の興味のない笑いの話のほうが、ずっと理解しやすいだろうと思ったからである。
というのも、私が神奈月の馳の物まねで爆笑してたのと同じ感覚をあなたがたは最近味わったことがありませんか?ってこと。
そう、このアニメを見ていて。
らき☆すた

らき☆すたを見ていて「わかる、わかるぅ」っていう感覚を覚えた人は多いだろうが、それは自分だけが「わかる、わかるぅ」なのではない。
他のオタクと一緒になって「わかる、わかるぅ」なのである。
そこには、オタク同士に発生する同胞意識と、一般人に対する優越感が同時に存在している。
この同胞意識と優越感っていうものがあるからこそ、らき☆すたは笑えるのである。
言ってみれば、らき☆すたの笑いというものは、閉じた笑いである。
というか、閉じているからこそ笑えるのである。
らき☆すたで挟まれる、数々の小ネタは、一般人には理解できないものだからこそ笑える。
これが、一般人にも了解可能なものだったら、必ず笑いは半減する。
なぜなら、開かれた空間では同胞意識も、またそれに付随する優越感もなりたたないからである。
これが良いとか悪いとか言ってるわけじゃない。
ただ、らき☆すたっていうのは、そうしたもんだ、ということだ。
馳の物まねに笑ってたナンシー関と、らき☆すたに笑ってたオタクというのは似てるってこと(書くの忘れてたけど、ナンシーも熱烈なプロレスファンだった)。
そういえば、らき☆すたのOPをオリコン一位にしよう、という運動があったけれども、これ、傍目には理解不能な行動である。
オリコン上位に入って一般人の注目を集めたところで、一般人にはらき☆すたなんて理解できるはずがないだろう。
これが、コードギアスとか時をかける少女とかだったら、一般人にも理解できるかもしれないけど、らき☆すたみたいな、オタク話を延々するだけ、のアニメが理解されるはずもない。
しかし、上の笑いに含まれる同胞意識と優越感ということを考えてみれば、理解できなくもない。
同胞の力を一般人に誇示することで優越感を得ようとしたのだ、と考えればそれなりに納得はできるのである。
で、話が回りに回って、やっと電脳コイルの話。
これは、らき☆すたの笑いとはぜんぜん違うんである。
他の作品の知識を参照しなければ、理解できない笑いではぜんぜんない。
まったく、オタク的知識がなくとも、ちゃんと笑えることができる。
電脳コイルの場合は、開かれているのだ、つまりは。
「アレに似てる、コレに似てる」って言うことはもちろん可能だけど、そういう消費のされ方を目的としていない。
同胞意識に頼ろうとはしていない。
これだけは言っておこうとは思うけれども、電脳コイルのこういう開かれた笑いのほうが作るのが大変なのは事実だ。
なにしろ、共通理解のない一般人を相手にネタを作ってるわけだから。
そして、こういう笑いのほうが、高く評価されるべきだ、と私は考えていたりするんだけど、馳の物まねという、すんごい閉じられた空間で爆笑してた私は、それを強くいえないのも事実だったりして。
やっぱ、楽しいからね、閉じた笑いって。
まあ、アレですよ。
結局のところ、電脳コイルの12話はスゴかったなーって話だ。
(あいかわらず、誉めるとなるとスゴいしか出てこないわ)


