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2007年07月08日

そっか、翠星石ってツンデレだったのか・・・・

実は、書こうと思ってた、時かけの記事がもう一つ残ってたりするんですけど、同じことばっかりやっちゃってると飽きてしまうんだな、これが。

おっぱい記事についても、最初から4回分書くのを想定してたんですけど、途中で飽きちゃって、無駄な記事を挟んじゃったし。
どうも、性格が飽きっぽいのかもしれないです。

ということで、今日は適当に更新してみます。

一騎当千Dragon Destiny OVA♯01「成都の爆乳」

「わーい、わーい、おっぱいがいっぱい」
とか言って無駄にはしゃいでたんですけど、しばらくしてから、そもそもこの一騎当千ってアニメを見たことがないことに気づいた。
バカ。

ホスト部伝説ハルヒ 第6話「悪漢の資質」

アカギとホスト部は大好きデス。

第1回 属性別選手権 ツンデレ級王者決定戦 結果発表
ふぇいばりっとでいず経由)

いやー、みんな翠星石、翠星石って言うじゃないですか。
ネコも杓子も、そろいもそろって。

じつは、翠星石のどこがいいんだか、わけがわからなかったんですよ、私。
あれの何がいいんだろう?真紅のほうがよくない?
とか思ってた。

で、このランキング見て、
「あ、翠星石ってツンデレだったんだ・・・」
ってことに初めて気づいた。
いやー、「翠星石=ツンデレ」っていう意識がぜんぜんなかったわ。
そっか、アレはツンデレだったのか。

いや、それでも翠星石より、真紅のほうがずっと好きですけど。
なんで、真紅が不人気なんだか理解できないです。

2007年06月26日

おっぱいに関する雑文

前回で、想定してたおっぱい記事はもう終わりなんですけど、
書くにあたって、いろいろとおっぱいのことを調べてたら、
多少思うところがあったので、ちょっとだけ書いてみます。
かなり、とりとめのない話だけども。


乳房ーウィキペディア

動物学者、デズモンド・モリスの『裸のサル』によると、ヒトの祖先が四足歩行していた時代は尻が赤く大きければ性的なアピールが出来た。やがて二足歩行をする様になるに従い、尻での性的アピールは目立たなくなる様になった。そのため胸部を大きくするという種が現れ生き残っていったのではないか、という説がある。この他にも乳房の発達とその性的意味に関しては多くの議論があり、定説はない。性的な意味を否定する説すらある。

現在の西欧や日本に関して言えば、乳房の存在は明らかな性的アッピールであり、女性の肉体の性的魅力の大きな要素をなしている。また、性行為においては、乳房への愛撫は大きな位置を占める。歴史をたどっても、女性の乳房に性的意味を伏したと思われる例は枚挙にいとまがない。そのような点から、乳房は性的意味合いを持って進化したのだと考えるのはある程度は当然であろう。

では、なぜヒトにだけこのような進化が起きたかであるが、上記のようにモリスはこれをヒトが直立姿勢を取り、四つ足の姿勢を取らなくなったことに依るとした。多くのサル類では発情期に雌の尻が色づき、これを雄に示す行動が知られる。立位ではこれが出来ないため、似たような構造が胸に発達したという説である。また、性的愛撫の対象になったことに関しても、正面から向き合う交尾姿勢を取るようになったことから、直接に触れる位置にある乳房がその役割を担うようになったとする説もある。常時発達した状態にあることも、発情期に関係なく性的交渉を持つようになったことと関係づけて理解できるとする。


男のなかには、「胸」よりも「尻」に性欲を感じるタイプがいるけど、
そういうのは、より原始的な「サル」に近いってことか。

うーん、この学説は明らかに無理があるように感じるなあ。
そもそも、「巨乳」に性的魅力を見出す文化と、そうではない文化があるわけだし。
たとえば、昔の日本では「巨乳」はみっともないとされ、胸の大きな女性はさらしを巻いたりしてた。
現代の日本では、たしかに「巨乳」はもてはやされるけれども、それでも「つるぺた好き」のオタクが一定数いたりする。
で、なんでつるぺたが好きになったのかっていえば、

「エロゲーの好きなキャラがつるぺただったから」

とかのしょうもない理由によるものだったりするわけで。

こういう生物学によって人間社会を説明する式の学説って、どうもいい加減なような気がする。

このなかでサルはバックで交尾するが、人間は正常位で性交するために、胸の性的価値が強まった、というふうに書かれているけれども、そういえば昔のキリスト教では、正常位以外の体位は「快楽を貪る行為である」として禁止されてた。

昔、アメリカの雑誌で

「江戸時代の日本人はなんば歩きという、右手右足を同時に前に出す歩き方をしていたが、これは当時の日本人がとても(国家権力に)抑圧された生活を送っていたことを示している」

みたいな、とんでもなく頭の悪い文章を読んだ覚えがあるけど、あんたのとこの文化ではセックスの体位すら管理されていたじゃねーか、と激しく心のなかでツッコんだ記憶がある。


加藤周一が「女性の豊かな乳房の魅力を発見したのは、20世紀の米国である」というようなことを書いてたらしいが、日本人が「巨乳」に魅力を感じるようになったのは、確かにアメリカ映画の影響なんだろう。

アメリカ人の好きなおっぱい★美乳セレブ1位はスカーレット・ヨハンソン


スカーレット・ヨハンソンって誰だ?
知らんなー。
その一年前のランキングがこっち。

アメリカ人の一番好きなおっぱいはジェシカ・シンプソン


こうやって見ると、やっぱり、みんなデカい。
ジェニファー・ラブ・ヒューイットは、ウエストが細いから、峰不二子みたいな体型。
あんな体型が実際にありうるとは思わなかった。
マンガ・アニメの中だけで存在する体型だと思ってた。

ところで、ハリウッド女優って、パーティとかに出るときに、シースルーでおっぱいがもろ分かりの服着てたりするけど、アレはスゴいな、と思う。
さすがアメリカというか、
さすがアメリカというか、
やっぱりアメリカ人ってバカなんじゃないか、とか、
そんなことを思ったりする。
しかし、どうもおっぱい丸出しyeah!という文化は、今のアメリカに限った話ではないらしい。

女性がおっぱいを晒すのはごく普通の事だった

この度行なわれた研究によると、17世紀においては、女性が公衆の面前でおっぱいを晒すことはごく普通のことだったということが明らかになった。歴史研究家のアンジェラ・M・ジョーンズさんによれば、17世紀の民話などを描いた木版画を調査した結果、その時代のイングランドやオランダにおいては女性が公衆の面前でおっぱい丸出しでいることは何ら珍しいことではなく、社交界においても広く受け入れられた行為であったことが明らかになったという。英ワーウィック大学で講師を勤める彼女は今回の研究に当たって、ケンブリッジ大学に収蔵されているサミュエル・ピープス・コレクションから木版画凡そ2000点、更に英国図書館、ハーバード大学などからも多数の木版画を収集し、調査を行なったと話している。

まだキリスト教の影響が強かった時代に、そういう文化があったのか。
意外。

[面白かった記事]
「収穫逓増」に挑んだ任天堂の戦略
スクエニがPS3では年度内にソフトを出さないだとか、MGSがXボックスでもでるだとか、マジでやばそうです、プレステ。
なんか、ここまでヤバいとさすがに応援したくなる。
がんばれ、SCE。
PS3は買わんけど。

オタクがホストに
ビフォー・アフターの写真が面白いです。










2007年06月17日

電脳コイルとか、グッドウイルとか

なんか昨日のアクセス解析見たら、『ブックマーク(リンク元なし) 』が3000を越えてたんですけど・・・・。


これが、いわゆる一つの晒されてるってやつか。


httpのhを抜いてるのをよく見るけどアレかぁ。


というか、3000越えるアクセスって、どんだけ晒されてるんだか、想像がつかないんだけども。
こわっ。
念のために言っておくと、自分で晒したわけじゃないですから。
さすがに、そこまでの勇気はないっす。


それから、前回のおっぱい記事をはてなブックマークに入れてくれた方が30人ぐらいいたみたいなんですけど、ありがとうございました。
素直にうれしいです。


さて、本当だったら、おっぱい記事の続編というかオマケみたいなのが後二つあるんでそれを書くべきところなんだけども、さすがにおっぱい4連発だと、人格が疑われかねないので、電脳コイルでお茶を濁すことにしました。



[電脳コイル]

何気に盛り上がっているみたいですね、電脳コイルって。


テクノラティの「今、もっとも検索されてるキーワード」でも、宮崎あおいを抑えて一位になってたし。


私はついこの間、この記事を読んで、「電脳コイルは見とかなきゃいかんな」と思ってた。


「電脳コイル」への期待


昨今のテレビアニメ(劇場アニメの大半も)の大きな問題点として、視聴者にアニメのリテラシーがある程度備わっていることを前提とするのが当たり前のような風潮がまかり通っていることが挙げられると思うのです。原作ものは言うに及ばず、オリジナルですら、設定をあらかじめ頭に入れておかないと簡単には物語に入り込めないアニメは決して珍しくありません。その風潮が、「普通」の子供や「普通」の大人をアニメから遠ざけてしまっているようにも感じるのです。ジブリ作品がなぜ一般社会であれだけもてはやされるのかと言えば、何の予備知識がなくても、あるいはアニメに関する「お約束」を知らなくても、ふらりと劇場に行って(あるいは日本テレビで)見て、そのまま楽しめるという点も大きな理由の一つでしょう。

この「電脳コイル」は、まさにまっさらな頭で見ても、ぐいぐいと作品世界に引き込まれていく魅力に満ち溢れています。かなり複雑な設定を備えた世界観ではあるのですが、見ているだけで、キャラや物語の展開を楽しみながら、自然とその世界観が、恐らく子供にも理解できるように作られている隙のなさ。そんなにアニメを見ない人からは、もしかしたら「ジブリアニメみたい」という感想が出てくるのでは、とさえ思わされます。



確かに、「普通の人」が楽しめるようなアニメってもっとあっていいと思う。
最近ギャオで、ナディア見てるんだけども、ナディアみたいなやつとか、ナディアみたいなやつとか。


で、昨日、都合よく、NHKで電脳コイルの1話から5話まで再放送していたらしいんだけども、全力で見逃しました。
再放送やってたのに気づいたのが、夜だった。
しくじった。


もっとも、通常放送の6話だけは見たんだけども。


しかし、さすがにいきなり6話から見ると話の流れがよくわからん。


なんか、攻殻機動隊みたいな電脳社会を設定として使っているアニメだということだけはわかったんだけど、変な巨大生物が街を徘徊してるし、女の子が男の子に敵意を持ってる理由がわからんし。


これって「普通の人」が楽しめるアニメなんですかね?
なんか、「メタタグ」なんていう言葉が普通に出てきたりしてるんだけども・・・・。


よくわからなかったんだけど、まあ、とりあえず見続けてみようと思います、電脳コイル。


[電脳コイル関連記事]

『電脳コイル』で久々に「子供向けアニメ」を見たと感じた

「電脳コイル」は子供が主役です


[面白かった記事]
堀江氏、村上氏、折口氏を比較する

恥ずかしながら、この山崎さんの記事を読むまで、グッドウイルの折口会長がジュリアナ東京を手がけた人だって知らなかった。
いや、最近テレビとか見ないもんで。


しかし、ジュリアナ→ベルファーレ→グッドウイル→コムスンって、スゴいなあ。
すさまじい成功じゃないですか。
折口会長のインタビュー記事読むと、紆余曲折あったみたいですけど。


折口会長のインタビュー記事


すんげぇ有能な人だってのは間違いないんだろうけど、山崎さんが書いている、


(折口氏は)人物的には、親しみにくいし、率直に言って、不気味である。


ってのは納得。
率直に言って、爬虫類っぽいよね、あの人。
うん、それは率直すぎるけれども。


ちなみに、板倉雄一郎さんのブログでも、折口氏について書かれた一節があった。

「DCF法は最悪だ!」


PS^3:
その昔、YEOの立ち上げメンバーとして、友人として付き合いのあったグッドウィルグループ折口氏と、最後に会話したのは、確か1年ほど前、僕が電話をかけたときだった。
その会話の中での彼の態度は、「君とはレベルが違うんだよ、僕は忙しいから下らんことで電話しないで」と言わんばかりだった。
今では、「違うレベル」でよかったと思ったりする。
グッドウィルは、過去にMSCBによる資金調達もしている。
昔の友達は、彼に限らず、一体何のために事業をやっているのだろうか。







2007年05月30日

ナディア

ふしぎの海のナディアが、GYAOで無料放送してるみたいです。
一ヶ月に10話ずつやるみたい。


そういえばナディアって、ちゃんと見たことがなかったので、これを機会に見てみるつもり。


しかし、ギャオって久しぶりに見てみたら、「アイドル」のところにちょっとした異変があった。


インリン

ほしのあき

安田美沙子

紋舞らん(←んが?)

夏目ナナ(まあ、アイドルといえばアイドルだけども・・・)

蒼井そら(蒼井そらと蒼井優ってどっちが人気あるんだろ?・・・いや、ふと思っただけなんですけど)

見ての通り、AV女優が混じっているんですけど・・・・。


まあ、ギャオで人気の映画の上位が、いつも、「女優のヌードがおがめる映画」だったりするので、これもありといえばありか。


それから、スポーツのところで、ロベルト・バッジョの映像を見てみた。
今までバッジョって、どこがすごいんだか、よくわからなかったので。
で、見てみたんだけれども、やっぱ分からないです。
どこがすごいのかなあ、バッジョって。
マラドーナとか、ジダン、ロナウジーニョのすごさなら、サッカー素人の私にも理解できるんだけど、バッジョはよくわからん。


それから、格闘技にはぜんぜん力を入れてないみたいですね、ギャオって。
一年くらい前に見た、武田幸三(キックボクサー)の映像がまだあったよ。
プライド、UFCは権利料高そうだから無理なんでしょうけど、キックボクシングとか、修斗なんかは、なんとかなりそうなもんですが。


ちなみに、武田幸三って、マンガの行け!稲中卓球部の竹田のモデルになった人です。


どうも、稲中の作者と高校時代に先輩後輩の仲だったらしい。
実際に、武田にそのことを聞いてみたときのことを綴ったコラムがこれ。

http://homepage2.nifty.com/komlock_fan/frame.html

ここの2004年の3月9日のコラムを参照。


しかし僕は、どうしても聞きたくて聞けなかったことがあります。マンガの竹田君はアレがとっても大きくて有名なんですが、
武田選手もそうなんですかね?

そこまで聞く勇気は、僕にはありませんでした・・・・



武田はいい人みたいですけど、そりゃ聞けませんわな。
だけど、そこをあえて聞いてほしかった気もしないでもない。
タグ:アニメ

2007年05月29日

ハチクロのはぐってロリキャラ?

『舞HiME』も『らき☆すた』もキャラの設定年齢と実際が合わない!



あー、最近のキャラデザインって確かに幼すぎる感じはしますね。
舞HiMEに関しては、そんなには思わないけど、らき☆すたとかまなびストレートとかは確かに。


正直、あああいう幼すぎるキャラデザインって個人的にはちょっと苦手。

haha.jpg

これがKanonの名雪の母親。
これで「母親」とか言われると、かなり戸惑う。
ナンシー関のエッセイに、

ando.jpg

「安藤優子は年齢不詳だ。実際の年齢を聞いても実感がわかない。というより、安藤優子に『年齢があった』という事実にわれわれは驚くのである」

みたいなのがあったように記憶しているけれども、その意味でこの名雪の母親も「年齢があること」を感じさせない。
これが「何歳に見えるか?」と聞かれたら、われわれはいったいどう答えればいいのだろう?
見ようによっては小学生くらいにも見えちゃうし、これ。


アニメに出てくる父親っていうのは、年相応に見えるように描かれているのが多いけど(要するに中年男性にちゃんと見える)、母親に関しては、全般的に若く描かれているのが多いような気がする。
母親の見た目が、娘とそう変わらないってのは、どうなんでしょ。


ナンシーの言葉を借りれば、アニメのなかに出てくる「母親」って、「年齢がない」ことにされてるってことになるけど、これにはなんか意味があるんですかね?
いや、たぶんないと思うけど。


ジョンさんは、「アジア人は若く見えるので、それが影響してるんじゃないか」みたいなことを書いてるけど、それってどうだろう?
どうも違うような気がする。
だって、らき☆すたのキャラって、アジア人の私にも「幼く」見えるしなあ。


たとえば、ハチミツとクローバーのはぐ。


hagu.jpg

これで、大学生っていう設定になってる。
目からウロコを何枚落してみても、これが大学生にはとても見えない。
年齢を高めに見積もってもせいぜい「中学生」っていうのが相場じゃないだろうか。
素直に、これを見れば「小学生」に見えると思うんだけど。


ハチクロって、実写の映画化もされている。
私は、この映画を見たことはないんだけども、その映画のなかで「はぐ」を演じているのが、この女優さん。

aoi.jpg


どうだろう。
ちゃんと、大学生に見える。


というか、根本的な疑問として、どうして、


hagu.jpg
これが

aoi.jpg
これになっちゃうのか、よくわからないんですけども。


まあ、ウエンツが鬼太郎をやるようなご時勢ですから、何があっても驚いちゃいけないんだろうけども。
先日、私は「伊東美咲=音無響子」に心底からの憤りを表明したので、いちおう、「鬼太郎=ウエンツ」にも憤りを示しておきます。


しかし「はぐ」にルックス的によく似た芸能人だったら、他にちゃんといるわけですよ。
たとえばこれ。








kago.jpg
加護ちゃん


いやー、そっくり。
私もついさっき気づいたんだけど、こりゃ似てるっしょ。
まあ、加護ちゃんが、これから「はぐ」を演じることは、ユダヤ人とアラブ人の和解くらい難しいわけだけど。
加護ちゃんって、今何歳くらいでしたっけ?
たしか、19とかそんなもんか。
だったら、はぐみたいな大学生がいてもおかしくはないのかもしれない。


しかし、ハチクロっていうのは、まなびストレートとかとは違って、キャラデザインが幼いのは「はぐ」だけですね。
もう一人の女性主要キャラである山田は、

yamada.jpg

このとおり、ちゃんと大学生に見える容貌で描かれている。


「はぐ」が「子供にしか見えない」というのは、作中でもさんざん言及されている。
つまり、ハチクロのなかでは、ちゃんと現実の世界の「見た目年齢」にそって、キャラデザインが構築されている、ことになってる。


しかし、ハチクロが現実に沿った絵であることを考えるとちょっと違和感があるような気がする。
この「はぐ」は3人の男性から、求愛されるわけだけど、これって冷静に考えると、ちょっとばかし変。


なにしろ、年相応に見える山田はそんなに求愛されていない。
いや、山田も数だけで言えば、はぐよりも求愛されているんだけど、そのほとんどが雑魚キャラでしかない。
それに比べれば、はぐが求愛されているのは、竹本、森田、花本修司と主要キャラばかり。
作中のバランス的には、はぐのほうが山田よりももてているという、変な状況になっちゃってる。


冷静に考えてみると、妙なもんだと思うんだけども、これって。
ハチクロが「現実に依拠した絵柄」であることを考えると、よりいっそう変だと思う。
「おまえら、みんなロリコンか?」っていう気にもなる。
これが、みんな子供みたいに見えるまなびストレートとかだったら気にならないんだろうけど。


まあ、はぐが、他と比べて異様なくらい子供に描かれているのは、彼女が「天才」だという事実を、はっきりわからせるための方便なんでしょうけど。
子供の容貌であることで、天才であることの無邪気さと、人と交わることを怖がる臆病な心理を表してるんだろうから。


[面白かった記事]

大相撲の八百長問題をメディアもファンも直視すべきだ

相撲に限らず、総合格闘技なんかでも八百長ってのはよくあることですが、総合と比較しても相撲の八百長はかなり多いような気がする。
最初のころは八百長が少なからずあったプライドなんかは、最大のスターである桜庭がシウバに負け続けたことで、「八百長じゃない」というのを証明してしまいましたし。
もっとも、「桜庭ーランデルマン」戦なんかは、ちょっとヤオ臭かったけども。
相撲ってのは、もともとが「スポーツ」という西洋由来の概念じゃなくて、「芸能」とか「神事」とかの概念のもんですから。
しかし、外人を入れた以上、「スポーツ」としてやっていかざるをえないわけで、それなら「スポーツ」寄りになるのは当然じゃないかな。
まあ、その外人が八百長をやってるって話なわけだけど。

堀江由衣ら所属の声優事務所「アーツビジョン」社長、声優志願の少女に猥褻

自分はアイドル声優にまったく興味ないんで、ショックを受けるとかはぜんぜんないんですけど、こんなのって、本当にあるんですね。
いやー、鬼畜だね、こりゃ。
*知ってるアイドル声優というのは、4,5人くらいくらいしかいないんだけど、「ゆかな」っていう人は自然に覚えた。
平仮名だったから、エンドロールで目についたもんで。



















タグ:アニメ

2007年05月18日

美少女フィギュア!・・・じゃないフィギュア

やっぱ、美少女フィギュアっていいよねー。


もともと二次元だったものが、三次元になっているという素晴らしさ。
色々な角度から見れるという視覚的悦び。
実際に手にとって触ることができるという触覚の感動。


オタク系のサイトではサイドバーに、



こんなのや




こんなのを載っけてるところがよくあるけれども、これ、とても購買欲をそそられる。
今すぐ欲しいと思ってしまう。
ついつい買ってしまいそうになるんだけれども、そのたびに自分が並外れた貧乏人であることに思いを致し、泣く泣く購買をあきらめています。


と、このように、「美少女=フィギュア」「フィギュア=美少女」という図式が皆さんの頭のなかには出来上がっているとは思うんだけれども、中には「フィギュア=???」とでも言いたくなるようなフィギュアがこの世の中には存在している。
「美少女=フィギュア」という既成概念をぶっ壊してくれる、その存在感。
「いったい、どこのターゲットを想定してるんだ?」と言いたくなる、その異質性。


ということで、今回は皆さんの購買欲を絶対にかきたてないであろうフィギュアを紹介してみようと思っています。











@金田一耕助フィギュア



なんなんだろう?
このフィギュアに、そこはかとなく漂うマイナーな感じってのは。


ためしにセイバーの画像と並べてみた。




こうしてみると、セイバーのほうがメジャーで、金田一耕助のほうがマイナーな感じがしないだろうか?


日本人のなかでセイバーを知っている人はどれくらいいるのだろう?
たぶん、5%とか、せいぜい10%、そのくらいのもんじゃないんだろうか。
それに比べてみれば、金田一耕助なんてのは、日本人なら誰でも知っている超メジャー級のキャラクターである。
それなのに、フィギュアにしてみると、金田一のほうが格下に見えてしまうというのは、これ不思議。
ちなみに、この金田一フィギュアは在庫がないので買えません。
意外と売れてんのね。



Aシド・ビシャスフィギュア


ベースが弾けないベーシストで有名なセックスピストルズのシド・ビシャスのフィギュア。
このフィギュアに対する疑問というのは二つあって、まず一つ目の疑問。


@ シド・ビシャスってそんなに人気があるの?

セックス・ドラッグ・ロックンロールを地でいった人として、確かに彼は有名ですが、シド・ビシャスのファンってそんなにいます?
ドラッグに溺れる破滅型のロックスターということで言えば、シド・ビシャス以外にも、ジミヘン、カート・コバーンなどたくさんいるわけで、しかも彼らは(シドとは違って)音楽の才能にも恵まれていてカリスマ性もある。
そんななか、わざわざ音楽の才能の皆無なシドを好きになるっていうのは、相当な好事家のように思うんだけどもどうだろう。
そういえば、マンガのNANAの本城蓮のモデルって、このシドですね、たぶん。


A パンクスがフィギュアを愛でるの?

このフィギュアを買ったパンクスは、自室でこっそりシドのフィギュアを愛でているのでしょうか?
優しい微笑みなんか浮かべちゃったりして。
その振る舞いは、すでにパンクスとは呼べないような気がする。
パンクスならば、購入した瞬間にこのフィギュアを床にたたきつけるくらいの意気込みを見せてもらいたいところ。
ところで、話は変わるんだけれども、ロックスターとかがライブでギターを壊したりするじゃないですか?
ギターのみならず、ドラムセットとかも滅茶苦茶にしちゃう猛者もいたりする。
あれを見ると「こいつバカなんじゃねーか?」と思ってしまうのは私だけなんでしょうか?
すんごいバカに見えるんだけども。


このシドフィギュアは、日本製らしいですが、どうも欧米ではロックスターのフィギュアって一般的なものらしい。





「誰だ?このおばちゃん」と思ったでしょうが、これはローリングストーンズのミック・ジャガーらしいです。
名前出されないと誰だかぜんぜんわかりません。





これは、誰だかわかる。
ニルヴァーナのカート・コバーンだ。
しかし、このフィギュア、顔がリアルすぎて、なんか怖いんですけど・・・・。
やけに髪がごわごわしてるような感じなのは、

「一ヶ月に一回しか風呂に入らない」

というカートのグランジ魂を表現しているんでしょうか?



B 極道の妻たち 岩下志麻

ヤフーオークション


sima.jpg

sima2.jpg

画像を見る限り、このフィギュアは出来がいいです。
しかし、有名女優のフィギュアだというのに、ここまで「萌え」と無縁なフィギュアというのも、また珍しい。
たぶん、大方の人は、美少女フィギュアを買ったあとに、

「とりあえず、パンツを見てみる」

という行動をするのが一般的かと思われますが、この岩下志麻フィギュアには、そんな破廉恥行為をすることを許さないような「威厳」がある。
うーん、さすが極妻。
パンツ見るかどうか、っていう行動選択以前に、このフィギュアを買うことはまずないと思うんで、そんなのは取り越し苦労ってやつですが。



C 赤木しげるフィギュア


さて、ラストはアカギフィギュア。
これはラストを飾るに相応しい逸品。
なにしろ、アカギといえば、

akagi.jpg

「横から見るとアゴが二つあるように見える」

で有名なあの赤木ですよ。


三次元で表現されることを全力で拒否しているような、赤木しげるのフィギュアなんて果たして可能なのでしょうか?


いやー、これはどうだろう。
さすがに、これは無理なような気がする。


これは商品ではなく、個人製作のものらしいんですが、そのアカギフィギュアがこれ。


アカギフィギュア


私はフィギュアの出来がどうこうはあまりよくわからないんですが、これはかなり素晴らしい出来なんじゃないでしょうか?
一目見ただけで、これが他ならぬ「赤木しげる」であることがわかります。


「赤木を三次元にする」という難事業に挑んだ猛者がいたことに、我々は感謝の意を表すべきではないでしょうか?
もっとも、横から見ると「アゴが二つある」ようにはなっていないのは残念。
っていうか、そんなのそもそも無理なんだろうけど。





*この記事を書くにあたって、色々なフィギュアを調べてみた。
もっとも、アマゾンやグーグルの検索窓に「フィギュア ○○○」って打ち込んでいっただけなんだけども。


「フィギュア 寅さん」

とか

「フィギュア 田原総一郎」(あえて打ち込んでみた)

とか

「フィギュア 司馬遼太郎」(←だめもとで打ち込んでみた)

とか打ち込んだのは日本広しといえども私だけだろうと思うと、誇らしいような誇らしくないような、そんな気分。


そうやって調べていったんだけれども、一つ気づいたことがあって、どうも時代劇関係のフィギュアが少ないような気がする。
水戸黄門フィギュアとかはあるにはあるんだけれども、大岡越前とか遠山の金さんとかはないみたい。
時代劇フィギュアって結構、隠れた需要がありそうに思うんだけどなー。
もちろん、アクションフィギュアで刀とかも抜刀可能な仕様だといい。
大岡越前フィギュアなんかは、すごく欲しいんだけど。


[参考サイト]

萌えっとうぇぶ

タグ:フィギュア

2007年05月08日

アニオタがフランスを語ってみる

フランスの大統領選挙も終わったということで、今日はフランスのことでも語ってみようか、と思ってます。


「え?いきなりフランス?このあいだ『テッサとエッチしたい』とかぬかしてたヤツがいきなりフランスを語るっての?」


とか言われちゃいそうですが、なめるな!


このブログでアニメ以外のことを書いたのは、格闘技とアーノルド坊やだけという私ですが、フランスに関する知識の二、三は持っているのだ。
たとえばフランス人といったらあれですよ。
ボードレールとかランボーとか。
ゆとり世代の皆さんには、ちょっと高度すぎる知識かな?
ごめんね、教養があるところをひけらかしちゃって。
知らない人のために教えてあげると、ランボーっていうのは、ジャングルで戦ってた英雄です。


と、このように、その気になれば、蓄積された教養をもってして、花の都巴里の香りを皆様の鼻前に漂わすことだって不可能ではない。



さて、それではそんな教養に満ち溢れた私が仏蘭西(フランス)のことを語って進ぜよう。
テーマはこれだ。


「フランス人は体臭がキツい」

フランス人「セックスの前にシャワーを浴びる日本人の感覚は理解に苦しむ」

「セックスの前にシャワーなんて」
フランス人なら、そういう。
日本人のように“事”の前にきれいさっぱり、身を清めてから、という感覚は「理解に苦しむ」とも。
つまり、汗こそが体臭の源。フェロモンに他ならない。欲情をそそるために人間が持ち合わせている自然の妙薬を、みすみす水で洗い落としてしまったら
“その気”にもなれない。「もったいない」というわけだ。

かのナポレオンも凱旋前に、長く離れていた愛妻ジョゼフィーヌに「もうすぐ帰る。
風呂には入らぬように」と書き送ったという。
それは、身も心もセクシーな気持ちで満たす最高の“ラブレター”だったに他ならない。

実際、フランスでは毎日風呂に入る習慣はない。周りに聞いてみても「1週間に3日程度」
という友人が多い。
もっとも、適度に体臭を留めおくためだけでなく、1人ずつ湯を張り替える風呂事情で
かさむ水道代節約もあってのことだろう。


うん。フランス人は風呂に入らない。
驚くべきことに、フランスではいまだに「シラミ取りシャンプー」が売っているのだという。
汚ぇーな、おい。


そういえば、福田和也という文芸評論家が「中国とフランスは似てる」ということを言っていた。
「中国」と「フランス」なんて、普通の人の頭のなかでは、まったくの別物として認識されてると思う。
アニメでたとえると、「ハヤテのごとく」と「精霊の守り人」くらいの違いがあるように感じる。
けれども、福田の言っていた共通点はたしかに、この二国に当てはまっていて、それが面白かったのを覚えているので紹介してみる。


・陸軍国であること

たしかに両国ともどちらかといえば陸軍の力が強い。ナポレオンもイギリス海軍に苦しめられてたし。もっとも、ロシアの陸軍に負けちゃったのが、一番の敗北だけど。
反対に海軍国っていうと、イギリス、アメリカとかのアングロ・サクソン系の国になるかな。


・料理に対して異常な情熱を持っていること

世界三大料理のうちに入ってるからね。しかし、世界三大料理のうちのもう一つは、たしか「トルコ料理」のはずだけど、なんで「トルコ料理」?美味いのか不味いのか以前に、喰ったことねーんですけど、トルコ料理。これ昔から疑問。


・中華思想をもっていること

中華思想ってのは、要するに「自分の国がいちばん偉い」ってこと。中国はデカい国であり、昔は文明の中心地であったので、そういう中華思想があるのは理解できるけれども、フランスに対しては何故?と思わざるをえない。
だって、ヨーロッパのうちで、フランスが特に文化的に優れた国だとはとても思えない。音楽だったら、明らかにドイツのほうが発展してたし、哲学だってドイツのほうが上。絵画とかの分野ではたしかにフランスは中心地であったかもしれないけど、それでもルネサンスの時期の中心地はイタリアだし。
たしかに、昔のイギリスの宮廷だったり、ロシアの宮廷ではフランス語を喋っていた。
しかし、その程度のことをもって「フランスの文化が一番」っていうのは、どうも夜郎自大に過ぎやしないか、と思うんだけどもどうだろう?
フランスって結局、ヨーロッパのなかでは、one of themに過ぎないような感じがあるんだけどな。


・性に対して飽くなき執念をもっていること

世界のなかで、二大変態国をあげろといわれれば、私も「中国」と「フランス」をあげる。
フランスにはなにしろマルキ・ド・サドがいますしねえ。
中国の歴代皇帝のなかにも、並外れた変態が幾人もいる。


映画「西太后」のなかで、西太后は恋敵の女の両手両足を切り落し、壷のなかに押し込めてたっけ。
あの拷問なんかはかなり性的なものを感じさせる。
これ、実は中国では西太后以前にも同じことをやった人がいて、その名を呂太后と言う。
この人は、漢の高祖の嫁。
つまり、劉邦の奥さん。
項羽と劉邦の劉邦ですよ。
この呂太后という人は非常に嫉妬心の強い人だった。
で、劉邦の后の一人の両手両足を切り落とし、厠(トイレ)に突き落とした。
要するに「お前はウンコでも食ってろ」ってこと。
この状態で、この両手両足を切り落とされた女は一年(だったと思う)生き延びてたらしい。
人間って、そんな状態で一年も生きていられるのか。
暗澹とするような話。
両手両足を切り落とされながら、糞尿のなかで人糞を喰いながら、生をつなぐというのは、なんとも想像しがたい苦痛だろうと思う。


フランス、中国の変態たちって、日本人の私なんかにはどうも脂ぎっていて、生理的に受け付けないところがある。
やっぱ、食い物が脂っぽいと、性欲のほうも脂っぽくなるのか。



と、このような共通点をあげたあとで(他にもあったかもしれないけど忘れた)、「両国とも衛生観念がない」ということを言っていた。


ベルサイユ宮殿にトイレがなかったのは有名な話。
どこで、用を足していたかというと、「柱の陰」でしてたらしい。
昔のヨーロッパでは、よくペストとかが大流行してたけど、それって不潔な環境だったからじゃないのか?
上下水道が張り巡らされていた江戸とはえらい違いだ。


フランス人に限らず、ヨーロッパ人が「風呂に入らない」のはキリスト教の影響だということを何かの本で読んだことがある。
なんでも「体を清潔にしておくのは、異性の劣情をそそらせる行為であるから」あまり風呂に入らないらしい。
ふーん。
だけど、上記のサイトで書かれているように、彼らは「体が臭い」ところに劣情を催しているみたいだけども。
私が読んだ本を書いたのは、たしか日本人だったので、体が臭いことに性欲を催す人間というのが想定外だったのかもしれない。
こういう生理に根ざした部分の文化っていうのは、どうも理解しがたいところがあるなあ。



・・・・しかし、これのどこが「フランスを語っている」ことになるんだか。
ごめんなさい、私にフランスを語るなんて無理です。

2007年05月05日

グレンラガンの「作画崩壊」と綾波の変顔

私はこのグレンラガンっていうアニメを見たことないんだけども、敢えてこの話題に触れてみる。


まずは、知らない人のために事の経緯から。
といっても、私も大して詳しくないんですが。

「グレンラガン」作画変化でブログ炎上→社員がmixiで罵倒


【ガイナックス】 グレンラガン第4話の作画がひどすぎて公式ブログ炎上



グレンラガンというアニメがあって、その四話目の作画監督が多少絵柄を変えて書いた。
それに怒ったアニオタたちが、「作画崩壊」だと騒ぎ立て公式ブログを炎上させた。
それに怒ったガイナックスの社員がミクシィで、「キモオタ」「死ね」などと書く。
それに同調したガイナックスの取締役がミクシィで「2chは肛門」発言。


このように電脳空間での心温まるやりとりがあった後で、結局、その取締役が辞任する、という事態にまで至ったらしいです。
2ちゃんねらー達は「勝利だ」などと喜んでるみたい。


ふーん、なるほど。
私は2ちゃんねるを利用することは利用するけれども、たいしてあそこに愛着があるわけでもないし、そもそもこのアニメを見てないのだから、別にどうでもいいような話ではある。
要するに、どっちの立場に立っているわけでもない。
たしかにガイナックスの社員と取締役は、大人げない発言をしたなーとは思いますがね。
しかし、まあはっきり言って、どうでもいいような話だ、これ。


ただ、どうでもいいような話なのに、敢えて取り上げてみたのは、ここで見られる、アニオタの「作画」に対する態度が気になったから。
問題になった第四話って、ちゃんと動いていたらしいじゃないですか。
要するに、時間がないとか、製作費が足りない、とかの理由でとんでもない出来になったわけじゃなく、もともとのキャラデザインから外れた絵柄を作画監督が描いた、っていう話らしい。
(「作画」っていう言葉には多くの意味が付与されていて、「枚数が多い」とか「よく動く」なんてのも、作画の良さといいふうに使われてるみたいだけど、ここでは「作画=キャラ絵が崩れない」という意味で使います)



「作画崩壊について」せつな日記


最近は工業製品みたいにキャラデザと似た絵が好まれるようで、上手いアニメーターの特徴が消えるのが残念だったのですが、特徴を出したら一部のアニオタが作画崩壊と言ってそれを潰そうとするなんてふざけるなと言いたいです! オリジナルアニメなんだから、なおさら自由に作ってほしいんだよ。
 「グレンラガン」4話ってちょっと輪郭が太いぐらいだったんだけど、なんで過剰に叩かれたんだろう? ちなみに、4話の演出、作画を担当した小林治さんが監督の「BECK」はかなり面白かったと思ってます。





どうも今のアニオタって、「作画」に対してかなり神経質な気がする。
これは自分にも思い当たるフシがあって、脳みそのなかに

「このキャラはこの顔」

っていう刷り込みが行われると、もうそれ以外の顔は受け付けない、というようなところがある。
なんといか、感性というよりも、生理的なレベルで拒否してしまう、というか。
それで、少しでもズレた作画を見ると、文句が言いたくなってしまう。
そうした態度が逆に言うと、京アニへの絶賛にも繋がっているわけで。


その「作画」に対する神経質さってのが良いのか悪いのかは、よくわからない。
そこのところの価値判断はとりあえず置いとくとして、こういう神経質な感じって、昔のアニオタにはそんなになかったんじゃないかなあ?って思うんだけれども、どうだろう?


まあ、私はアニオタになってから日が浅い、いわゆるぬるオタなので、そうそう昔のことを引き合いに出して語るなんてことはできないんだけども、何故そう思ったのかってのには理由がある。


この前、久しぶりにエヴァンゲリオン見たくなって、DVDを借りにいったのですよ。
いくつか好きな巻だけなんだけど。


そして実際に見てみたら驚いた。
そのあまりの作画の酷さに。


いや、戦闘シーンとかは今見ても、文句なくスゴい。
最近、ゼーガペイン、ラーゼフォン、コードギアスとロボットアニメを立て続けに見てたけど、それらと比較しても、エヴァの戦闘シーンはズバ抜けてると思った。
というか、ゼーガペインなんかは、戦闘シーンがあまりにショボショボなので、そもそも比較すること自体、間違っているんだけど。
あーあ、ゼーガペインにあの戦闘シーンがあれば、傑作として後世に残ったのに・・・・。


戦闘シーンはいいとして、問題なのはキャラ絵のほう。


正直に白状すると、実は私が初めて「アニメキャラに萌えた」のって綾波レイなんですわ。
「萌え」という感覚自体、綾波と出会ってなければ知らなかったかもしれない。
アスカなんてどうでもよく、本当にどうでもよく、天地神明に誓ってどうでもよく、アスカが「あんた、バカぁ?」って言うたびに、本気でこの女にアイアンクローかけたまま背負い投げかましたいという殺意にかられていたんだけど、綾波だけは別。
別格。
そもそもアスカなんぞを綾波と比べること自体が間違っている。
それなのに、なぜか私の部屋には、アスカのフィギュアがあったりするのは我ながら不思議。
(綾波のフィギュアはない)


あの時は、綾波のことが本当に好きだった。
思えば、あそこまで萌えたのは、いまだに綾波だけかもしれない。
まあ、言ってみれば「初恋の人」なわけですよ、綾波って。
(なんかここらへん、妙に文章がキモいけど気にしないで)


で、「初恋の人」に久しぶりに会うということで、同窓会での「あいつキレイになってるだろうな」みたいなドキドキ感みたいなものを感じながら(アニメなのでキレイになってるわけない)DVD見てたんだけど、これ愕然とした。


綾波の顔が崩れてる!
崩れまくってる!


げ?うそ。
綾波って、こんなんだったっけ?


一話目とかはまともなんだけど、ヤシマ作戦だっけ、電力をいっぱい使ってバーンみたいなとこ、なんかはかなり崩れてる。
他にもたしか、ジブリが担当したところなんかはもう別人といってもいい。
ちょっとありえないくらい綾波が綾波じゃない。


・・・・これはどういうことだろう?
こういうキャラ絵の変化なんて、当時は気にもしてなかった。
というより気づいてなかった、と言ったほうがいいのか。
全部、綾波は綾波として脳に認識されていた。
で、萌えまくってた。
ありえないほど。
まあ、エヴァってかなり低予算で作られたらしく、どっかで一話あたり750万の製作費しかかかってないというのを読んだ記憶があるんだけども、そういう意味での手抜きには当時から気づいてた。
エレベーターで、ミサトとあの女科学者(名前でてこない)がずっと喋りながら、下がっていくシーンが何回もあったし、そこらへんは「手抜きなんだろうなー、これ」っていうふうに思ってた。


しかし、今だったら間違いなく「作画崩壊」として騒がれるであろう、キャラ絵の変化っていうのには、ぜんぜん意識がいってなかった。


まあ、当時はまだアニオタじゃなかったし、そこらへんの眼力ってのはなかったかもしらん。
当時のアニオタたちはどういう反応したんだろう?
「作画崩壊」「作画崩壊」って騒いでたんだろうか?
エヴァがヒットした時点では、それほどネットも一般的ではなかったから、そういう世論自体が生成されなかったんだろう、とは思うけど、それでも、今のアニオタに比べれば、そこらへんは大らかだったんじゃないか、と思う。


今のアニオタって、作画というか、「もともとのキャラデザインに忠実であること」にものすごくうるさいことは確かなんじゃないか、とは思う。
そういう感覚って、私自身のなかにもあるものであって、これがいいことなのか悪いことなのかはよくわからないのだけど。

2007年05月02日

春アニメのうち見たやつ

二、三日前にこんなことを書いたんですけど、

http://animemangarobox.seesaa.net/article/40454831.html

『そのうち、googleで「アニメ ダカダン」で検索すると、このブログが一位表示されることになるでしょう。
いやー、いつ一位になるんだろう?
楽しみ。』


さっき見たら、googleであっさり一位表示を獲得してしまってた。
なんだか、あまりにも簡単に一位表示されたので拍子け。。。。。


しかし、ここは更なる向上心をもって事に挑みたい。
これから「ダカダン」単体での一位表示を目指そうと思ってます。
今の段階でも、「ダカダン」で1ページ目に表示されているので、そう難しいことではないはず。


ということで、以下はgoogle対策なんで、見なかったことにしてください。


「ダカダンの、ダカダンによる、ダカダンのための政治」


「黒の騎士ダカダン」


「ダンカンがダカダンをたけし軍ダカダンの若い衆に見せようとしたんダカダンけどもダンカンがダカダンのビデオと間違えて団鬼六の団地妻がデカダンにSM調教されるビデオを間違えて持ってきたのでダカダン鑑賞がデカダンな団地妻鑑賞になってしまったんダカダン」


「BS見てたら平野綾が出てダカダンけども、それが茶髪になってダカダン。喋り方もすんげぇ普通だっダカダン。この平野綾のギャル化、不評らしいんダカダンけども、正直、自分はこっちのほうが好きダカダン」




さて、これでgoogle一位表示に近づいたはず。
まさかとは思うけど、これ検索エンジンスパムとみなされたりはしないよね?
こんな誰も検索かけてこないようなワードで、検索エンジンスパム扱いされたら、、、、、、、まあ、それはそれで面白いか。


ということで、本題。


つっても、春アニメのうち、自分の見たものの感想を書いてみようかと思ってるだけなんですけど。
正直、ちゃんと見ているのはDarker than BLACKだけ、なんで、他のは見たり見なかったりの状態で、あんま参考にならんかもしらんですが、そこは容赦してください。



ハヤテのごとく!


これは見てて楽しい。
最近、ゼーガペインとかラーゼフォンとか、陰鬱なアニメばっか見てたので、こういう明るいアニメは新鮮。
ただ、面白いことは面白いけれども、そんなに優れたアニメとは思えないのも事実。
これだったら、銀魂でも見てたほうがずっといいような気がしないでもない。


精霊の守り人


これ他のアニメと比べると、明らかに

「金のかかりかたが違う」

と思うんだけども、一体どれくらい違うのだろう?
たしか攻殻機動隊は一話分、3000万ぐらいかかってるというのをどこかで読んだ記憶があるんだけども、これもそれぐらいかかってるように見える。
ちなみに、一般的なアニメの製作費は1000万円台くらいだそう。

「何故、日本の『ANIME』は世界的に競争力が強いのでしょうか?」第一話



ストーリーがまだ進んでいないので、まだ面白いかどうかというのは判断がつかない。
けど、やっぱり金をかえて作られたアニメって、それだけで見てて楽しい。
このアニメがちゃんと面白くなってくれればいいな、というのが希望。
これからに期待。
ただ、個人的にはファンタジーってそんなに好きではなかったりするんだけども。


ぼくらの


これのオープニングはすごい。
何回も見たくなる。
本編のほうもレベル高し。
思春期の少年少女の不安的な心理を描き出すような、陰鬱な色彩が素晴らしい。
原作は読んだことがないんだけども、今までのところから察するに、これって「無限のリヴァイアス」みたいなストーリーなのかな?
少年少女が一緒に戦っていくなかで、互いに反目していくというドロドロの愛憎劇みたいな。
一応、ロボットアニメなんだけども、これは普通のロボットアニメじゃないなあ。
ストーリーがこれからどうなるのか知らないけども、原作を読んだ人は面白いといっているので、このレベルを保ってくれれば、今期一番のアニメが「ぼくらの」ってことになるかもしれない。
ゴンゾさん、がんばってください。
マジで頼むよ。



天元突破グレンラガン


見てない。
けどもなにかと話題なアニメなので見てみようかな。

肛門発言のガイナックス赤井氏が取締役を辞任



魔法少女リリカルなのはStrikers


特になのはには興味ないんで見ないと思う。
けども、いきなり、なのはが色っぽい姉ちゃんになってたのには驚いた。
小学生だったのが、いきなり19歳?
なんだか、いろんなものをすっ飛ばしてる感があって妙に面白い(そこだけ)。
私が見たときは、ベッドの上で、なのはが上は白いブラウスに下は黄色のパンツだけ、という扇情的な格好で横たわってた。
あはは、何だコレ?
エロいんですけど。




タグ:アニメ

2007年04月30日

自分のアホさ加減に愛想がつきたよ・・・・

先日、私はDarker than BLACKの略称として「ダカダン」ってのを提唱しました。


ところが他の人のブログを読んでいたら、あることに気づいた。


「ダーカー・ザン・ブラック第三話を見た感想としては・・・・・」



え?ダーカー・ザン・ブラック!?




ダーカー・ザン・ブラック!?



・・・・・・・・・・・そうだった・・・・・。


thanって普通は「ザン」って読むんだった・・・・。
これを「ダン」とは言わない。
だったら、これ私のように略したとしても「ダカザン」になっちゃうじゃないか。
うげ。


もちろん、「ザン」も「ダン」も日本語的な発音なので、どっちも間違いと言えば間違いなんだけども、thanをカタカナにするときって、やっぱり普通は「ザン」って書く。


いやー、まいったね。
私は昔から、このthanを「ダン」と発音する癖があって、それをまったくもって失念していたのであった。


どうして、私はこのthanを「ダン」などと発音しているのであろう?
何故?


気になったので試しに、他の「th」音の単語も発音してみた。


then 「ゼン」


them 「ゼム」


thus 「ザス」


うーん、ここらへんは普通だ。


they 「デイ」


!!!!これだ。


そう、このtheyを私は「デイ」と発音していたのである。
英語で言うと「day」の発音と全く同じ。
だから、私が「They are・・・」という文章を口にすると、たぶん「Day are・・・・」という風に聞こえると思う。
おそらく、このtheyを「デイ」と発音することが、thanを「ダン」と発音することの原因になってる。


うーん、なんでまたこのtheyを「デイ」と発音してるのかな、私は?
ということについてつらつら考えていたら、中学時代の記憶が浮かび上がってきた。


中学の時分、「They are(ゼイ・アー)・・・・」という文を習ったとき、
私はこの発音が妙に聞き苦しく感じてしまったのである。


「ゼイ・アー」「ゼイ・アー」って十回ぐらい発音してみてください。
なんか、空手の演舞でもやっているような気分にならない?
いや、そもそも「They are」を十回も繰り返す会話なんてありえないわけだけど、それはそれとして。


で、なんかこの発音が嫌だったんで、自分勝手にこの「They are」を「デイ・アー」と変えて発音していたんである。
(ここらへん、自分勝手に物事を解釈する、という現在の性格が年若いころから発現していることに嘆かざるをえない)
そしたら、それが癖になって、今の今まで自分が普通とは違う発音をしていることを全く失念してしまっていた、という話。


うーん、なんたらこった。
Darker than BLACKの略称として「ダカダン」ってのを、世間一般に広めようというひそかな野望を持っていたのに、こんなところで頓挫するとは・・・・。
なんか意気揚々と歩いていたら落とし穴にはまった気分。
その落とし穴が、自分の掘ったものだってとこが間抜け極まりないが。


「ダカダン」という呼び名を世間に広めようとしていた矢先だったんですが、上記のような理由により、Darker than BLACKを「ダカダン」と呼ぶのは世界中で私一人だけ、という事態に相成りました。
無念。


しかし、一度つけた呼び名を変えるのも男らしくない気がしないでもないので、ここは意地でも「ダカダン」と呼び続けたいと思います。
このブログ内で「ダカダン」と言ったら「Darker than BLACK」を指していますので誤解なきよう。


そのうち、googleで「アニメ ダカダン」で検索すると、このブログが一位表示されることになるでしょう。
いやー、いつ一位になるんだろう?
楽しみ。


ま、問題はそんな語句で検索してくるヤツは一人もいない、ってことなんだけど。



2007年04月28日

Darker than Black


一話目を見た段階で、何をとち狂ったのか「応援宣言」してしまった、
Darker than Black 黒の契約者。


応援するとかいった割りには、その後、特に触れることもなく、
ナニワ金融道だとか、「藤原紀香よりテッサとエッチしたい」とかいう、
妙な文章を書いてるだけだったんですけど、
Darker than Black、一応見てますよ、ちゃんと。


しかし、Darker than Blackって、タイトルが長い。
いちいち、Darker than Blackって書くのもメンドいです。
略称って既にあるのかどうかわからんけど、ここは一つ私が略称を考えてみた。
「ダカダン」ってのはどうだろう?
ドリカム方式の略称ってことで。


しかし、このアニメを応援宣言したのは間違いだったかもしれん。
ちょっと後悔してる。


こんなことを書くと、


「あ、ダカダン(←もう浸透してる)って詰まらないんだ」


とか思われるかもしらんけど、それは違います。


普通に面白いです、このアニメ。
(まあ、主人公の名前を未だに覚えてなかったりはするけど)


アクションシーンとかもそれなりに見応えあるし、雰囲気とかもいい。
ストーリーに関しては、まだ面白いのかどうかの判断がつかないけども、まあ、とんでもない駄作になることはなさそう。


今のところは普通に良作っぽいんだけど、なぜ、私が応援宣言を後悔してるのかっていうと、このアニメには「どっちに転ぶかわからないドキドキ感がない」から、なわけですよ。


たとえば、エヴァンゲリオンをリアルタイムで見ていたとする。
そうするってぇと、その間のエヴァというアニメに対する感情の振幅ってスゴいもんがあると思う。


最初のころは面白かったのに、後半になって、あの自己啓発セミナーみたいな展開に唖然として、「庵野死ね」って思ったり、劇場版第一作目を見ては、「うっわ、なにこの戦闘シーン、神」って興奮してたら、二作目でろくでもないもんを見せられて「庵野死ね」に逆戻りしたり。


なんかこういう、一歩先は傑作か駄作か、神か悪魔かっていう、デッドオアアライブ感が欲しい。
「どっちに転ぶんだろう?」っていう切羽つまった感じが、このダカダンにはない。
それほど酷いことにもならないだろうし、かといって、こっちの予想を上回るものも、また出てこなそう。
ふつーに地味ながらも良作というところに落ち着きそうな感がある。


「どっちに転ぶんだ?」っていう切羽詰った感覚を味わいたくて、あえて一つのアニメを応援してみたのに、なんだか思いっきり選択ミスしてるかな、こりゃ。


そういえば、このアニメの前にやってたコードギアスなんかは、そういう意味では「応援しがいのある」アニメだったわけだけど。
ああ、近頃見終わったラーゼフォンなんかもそうです。
デッドオアアライブ感がありありのアニメだった、あれも。
って、なんだかロボットアニメばっかだけど。


まあ、そんなわけで「地味な良作」というところに落ち着きそうな、Darker than Blackではあるけれども、これからは気が向いたときにでもレビューしてみます。
たぶん、そのころには主人公の名前も覚えているはず。



2007年04月25日

オタクと性欲@

藤原紀香とテレサ・テスタロッサ


藤原紀香さん、陣内智則さん、入籍おめでとうございます!!!
お二人の幸福が永久にあらんことを、心より願っております。








心のなかに、これっぽっちもない感情をこめて、文章を書き始めてみたんだけど、どうだろう?
ま、どうだろうってこともないんですけど。


とりあえず、めでたいことですよ。
うん。
二人に特別、良い感情も、また悪い感情も持ってないけど、とりあえず幸せになってほしいです。




二人が結婚するっていうのが分かったのって、いつでしたっけ?
去年くらいだったかな?
いや、あまり興味ないもんで、ちゃんと思い出すことができないんですけど、
結婚するっていうことが判明してから、しばらくたって、バラエティ番組に陣内智則が出てるのを二回くらい見ました。
一つがめちゃイケで、恋のかま騒ぎのヤツ。もう一つの番組はなんだか忘れた。
私は、最近テレビをとんと見ないもんで、結婚後の陣内智則を二回も見るっていうのは何気にスゴいことです。


で、その二回とも陣内智則は同じような話をしてた。
当然といえば当然なんですが、藤原紀香とのなれそめを、周りの芸人たちから根掘り葉掘り聞かれてた。
他の芸人たちは、「うっわ!藤原紀香みたいないい女と結婚できるなんてうらやましい」っていうスタンス。
その羨望のまなざしを浴びながら、幸せそうに藤原紀香とのなれそめを語る陣内という構図。


なんか、これが妙に面白かった。


というのも、私のなかでは、最近の藤原紀香って、

「K−1で、妙なテンションで的外れなコメントを残す女」

という認識しかなかったから。


まあ、藤原紀香がまだテレビに出たてのころは、多少は可愛いなと思ったり、多少の劣情を催したり(ぅが)はしましたよ。
しかし、そういう時期っていうのは、とうの昔に過ぎていて、今では藤原紀香の存在意義なんて、自分のなかではほとんどなかったわけです。
世間の認識も、私のそれとそう大差ないだろう、と思うんですけど、そこらへんはどうなんでしょ?


まあ、そういう私個人の認識とは裏腹に、バラエティ番組のなかでは、藤原紀香っていうのは、「憧れの存在」であり、彼女と結婚できるなんて、「男として最高の喜び」である、として遇されている。
結婚っていうのは思いっきり下世話な言い方をすると、「藤原紀香とヤレる」ってことです。
(ま、下世話すぎますが、これじゃ)
だから、陣内の周りで羨ましがっている他の芸人たちは、「オレも藤原紀香とエッチしたい」と言外に語っているのと同じことです。



もっともバラエティ番組というのは、ある属性を極端に扱うという特性を持っています。
たとえば、ブスとして認識されている女芸人は、必要以上にブスとして邪険に扱われる。
美人とされている、アイドル、女優などは、これまた必要以上にチヤホヤされる。
こうやって、ブスと美人の落差をつけたほうが、笑いがとれる、というような構図ができあがっている。


だから、陣内の周りでしきりにうらやましがっている芸人たちも、実はそううらやましくはないのかもしれない。
けれども、それが羨ましがっている演技であろうとなかろうと、バラエティ番組としての総体として見た場合、藤原紀香というのは「男なら誰でも抱きたいと思う最上の女性」として扱われているわけです。
そして、芸人たちの「エッチしたい」という欲望が藤原紀香に向かっているという画面を我々は見せられている。
彼らの欲望の総体が「藤原紀香=いい女」という、共通理解を作り上げていることになります。


もうすでに述べたように、私は藤原紀香なんてどうでもいい。
ほとんど興味ないです。
だから、「藤原紀香とエッチしたい」とも思わない。
私の場合、藤原紀香よりも、フルメタル・パニックのテッサのほうがいい。
藤原紀香とはヤリたいと思わない私ですが、テッサとだったらヤリたいです!



NO






tessa1.jpgYES


tessa2.jpgYES!!!






今、男として・・・・・・というか人間として、「この人、もう終わっちゃってるね」的発言をしてしまいましたが、まあ、いいじゃないですか。
正直な気持ちを述べただけの話なんだから。
しかし、ただ正直に心のうちを綴っただけなのに、「テッサとヤリたい」なんてことを言うと、たぶん、世間は私のことを白い目で見るでしょう。
「アニメキャラとエッチしたい、だなんて、この人だいじょうぶ?」みたいな、不憫な動物を見るような目で、私のことを見るに決まっている。


これ、考えてみると不思議なことです。
(「ぜんぜん不思議じゃねーよ。不思議なのはお前の頭んなかじゃねぇか」
とかいう興ざめなことは言わないように)



というのも、前述したように、「藤原紀香とエッチしたい」と公言することを世間は許している。
もちろん「エッチしたい」なんていう直接的な物言いは、風紀上、許されてはいませんが、めちゃイケの例を見れば分かるように、「エッチしたい」という欲望は言外の意として表出されている。
つまり、あまりに下品な物言いは世間の顰蹙を買うけれども、欲望をオブラートに包んでさえいれば、それを世間は批判しない、どころか、積極的に容認しさえする。


私も今、私の欲望を述べました。
テッサとエッチしたい、って。
しかし、その欲望を世間は容認してくれない。
これは、おかしい。
おかしい。
私の欲望は、それほど公序良俗に反したものでしょうか?


たとえば、私が近所に住む、香奈ちゃん(5歳)とエッチしたい、などということを言ったら、確かにこれは大問題です。
香奈ちゃんはまだ年端もいかない女の子なので、彼女との性交など、道徳的に許されることではありません。
もし、本当にこんな鬼畜なことを言う輩がいたら、強制的に去勢でもしてやったほうが、世のため人のためになる、というものでしょう。


一応、私にも道徳的観念のなんたるかは多少なりともわかっているつもりなので、こうした反道徳的な欲望が許されないことは理解出来ています。
だから、こういう(幼女と性交したいという)欲望を、世間が白い目で見るのは至極当然なことだと思う。


で、「アニメキャラとエッチしたい」という欲望は、果たして反道徳的なものでしょうか?


結論から先に言えば、ぜんぜん反道徳的ではない。
というか、実在の女性に性欲を催すよりも、はるかに道徳的である、とすらいえます。
なぜか?
それは「アニメキャラとは実際にエッチできないから」です。
実際にエッチできないのだから、頭のなかで何を考えようとこっちの勝手です。
言ってみれば実害がない。
乱交パーティを夢想しようが、レイプを夢想しようが、どんな破廉恥なことを考えようとも、それが実際に行為されることがない。
そもそも行為に移すことが不可能なんだから、行為しようがない。


これが、現実の女性に対して、こうした破廉恥な夢想をしている場合だと話が違ってきます。
「藤原紀香とエッチしたい」と欲望している人間は、そうした夢想を実際にしてしまう可能性がある。
藤原紀香そのものではなくとも、彼女によく似た女性を見た瞬間、レイプ魔と化している可能性もある。
危ない危ない。
なんたら危ない連中だろう。


こうした、素の性欲よりも厄介な欲望が、恋愛というやつです。
はっきり言って、この恋愛というものはただの性欲なんかより何倍も厄介な代物。
性欲なんていうのは、風俗にでもいけば解消できるもんですが、恋愛となるとそうはいかない。
そもそも、一人の人間を所有することなんてできやしないのに、意中の人を自分だけのものにしたくなるのが、恋愛というものですから、こりゃ危険極まりない行為と言ってよい。
洋の東西を問わず、昔から痴情の縺れからくる刃傷沙汰なんてのはありふれた出来事です。
ストーカーなんてのも、最近できた言葉ではありますが、じゃあ昔はストーカーなんてなかったのか?って言えばそれは違う。
昔から、こんなことはあったわけです。
ざらにあったし、ありふれたことだった。
ただ、だれもそれが犯罪的な行為だと思っていなかっただけの話だ。


つまり、性欲にしろ、恋愛願望にしろ、現実の女性に欲望を感じている人間というものは、このように世間に迷惑をかける公算が非常に高い。
それに比べれば、テッサに欲望を感じている私なぞは、世間に迷惑をかけることなんてありえません。
迷惑をかけようがない。
キリストという人は、

「いやらしい目で女性を見たというだけで、姦通したのと同じことだ」

なんてことを言いましたが、そのキリストだって、私のことを非難できやしないでしょう。
だって、どうやったってテッサと姦通なんてできやしねぇんだもの。


こういうことを考えてみれば、世間は私のことを人畜無害な人間である、聖人君子であるとして尊敬の眼差しで見てもよいくらいだと思われます。
しかし、実際には、そうなっていない。
誰も誉めてくれない。
いや、誉めるどころか、すんごい冷たい目で見られてる。
もうね、痛い、痛い、視線が痛い。


こうした不条理をただ「世の中バカばっかだから仕方がねぇよ」で済ますこともできるんですけど、ここはあえてもう少しばかり考えてみることにします。


なぜ社会は私を白眼視するのでしょうか?
それは「私の欲望が犯罪に近いものだから」ではありません。


アニメキャラとエッチしたい→ロリコンの気がある→性犯罪を起こす可能性がある


こういう思考回路をとって、私のことを白眼視する人もいるかもしれない。
しかし、それは成り立たないことは既に書きました。


ここで一つ例を出してみたいと思います。


たとえばここに「オレは50以上の女にしか欲情しない」という(若い)男がいたらどうでしょう?
おそらく、社会はその男のことを奇異の目で見ることだろうと思います。
たぶん、こうした視線は「アニメキャラとエッチしたい」という私に向けられた視線と同一のものです。


これが「オレは小学生の女子にしか欲情しない」という男であれば、社会が白眼視するのも理解できます。
なぜなら、それは犯罪ですから。
しかし、彼は老女(50以上を老女と呼べるかどうかはわかりませんが、ここでは老女としておきます)に欲情している。
これは明らかに犯罪ではない。
それどころか、その男が韓流スターのような容姿をしていた場合、これはその老女たちに喜ばれることはあっても非難されることはまずない。
ある意味、人助けのような側面すらある。


それなのに、彼は周囲からは奇異の目で見られてしまう。
これはひょっとしたら、「小学生にしか欲情しない男」よりも理解を得られないかもしれません。
小学生に欲情する男はたくさんいますが、老女に欲情する男はそうはいない。
これ、世間の評価基準が明らかにあべこべです。


なぜ、私やこうした老女萌えに対する社会的な評価があべこべなのか?
冒頭の藤原紀香に対する世間の欲望と考え合わせてみると、このように考えられます。
つまり、「アニメキャラに欲望を感じている」私や、「老女に欲望を感じている」男が奇異の目で見られる理由というのは、


『我々の欲望が一般的な欲望とかけ離れているからだ』


ということです。
逆の側(社会一般)から言えば、

「お前たちの欲望は私達のものと違う」

と言って、一般人は私たちに白い目を向けていることになる。


つまり、「藤原紀香に欲望を感じる」のは一般的なことなので、そう奇異には見られない。
しかし、その欲望の対象が「アニメキャラ」だったり、「老女」だったりと、世間一般の欲望とかけ離れているときには、人々はそれを不審に思う。
まあ、こういうことがいえます。





欲望は共鳴しあう


「道徳」「倫理」といった言葉と、「欲望」という言葉を並べたとき、我々はなんとはなしにこのようなイメージで捉えるのじゃないか、と思います。

道徳・倫理 = 社会的なもの

欲望 = 個人的なもの


たしかに道徳、倫理といったものは、社会に共有されているのがふつうです。完全に個的な道徳、というものはあまり存在しない。
周りがそれを正しいと思っているからこそ、自分もまたそれを正しいものだと感じる。これが道徳のありかたです。


道徳が社会的な共通理解であって、倫理がキリスト教的(一神教的)な垂直的価値観である、という使われかたが一般的なようですが、その倫理とて、まったく個的なものとはいえない。
だいいち、周りにクリスチャンが多いからこそ、自分もクリスチャンになっているという筋道をとるのが、ふつうの宗教の姿です。プロテスタントのほうが、集団的ではなく、個的であるらしいですが、そのプロテスタントだって、ある程度の集団をなしている。


結局、道徳、倫理ともに社会という存在から湧き出てくる価値観であって、それが個人の行動を縛っているのだというふうに、ふつうは考えます。
その縛りというものを、良いものと感じるか、悪いものと感じるかは人それぞれですが。


そして、そうした社会の縛りである、道徳、倫理とときに対立するものとして、個人の欲望というものがある。
欲望というのは、ふつう個的なものとして考えられています。
たしかに「テッサとエッチしたい」という私の欲望は、まぎれもなく私個人のものなので、欲望が個的なものである、というのは正しい。


しかし、欲望が純粋に個的なものかというと、それは違う。
欲望もまた、道徳、倫理と同じく社会化されていると私は思うのです。


子供のころに、友達の持っているおもちゃが、「自分も」欲しくなる、という経験は誰もが思い当たるところがあるでしょう。
友達がそのおもちゃを持っていなければ、自分も欲しいとは思わなかったかもしれない。
これは他人の欲望に、自分も共鳴しているということです。
人の欲望が自分に伝染し、また自分の欲望が他の誰かに影響を及ぼす。
こんなふうにして、欲望というものは社会化していく。


一つ例を挙げると、ある集団のなかでは、欲望が共有化されている、というのはよくあることです。
たとえば、ヤンキー。
ヤンキーの人たちは、みんな車の趣味が似通っている。
セルシオ(今はもうないのか)とかマジェスタとかの、国産の高級車がヤンキーは好きです。
これはヤンキーという集団のなかで、欲望が共鳴しあい、そして共有化されたものだと見ることができる。


また、学園ものの恋愛ドラマなんかではよくこんなシーンが出てくる。

A男とB女は軽口を言い合ったりする友達ではあるが、二人のあいだに恋愛感情はまったくない。
そこにA男の親友であるC男が、実はB女のことが好きなんだと、A男に告げる。
A男は動揺する。
それまで、友達としてしか見ていなかったB女のことを急に恋愛対象として認識しはじめる。


こういうシーンでは、「もともとA男はB女のことが好きだった(恋愛感情を持っていた)のだけれども、その胸の奥に秘められた感情がC男の告白で、はっきりと認識されたのだ」みたいに解釈するのが普通です。
まあ、確かにこれはこれで正しいとは思いますが、こんなふうにも考えられる。

「C男のB女に対する欲望がA男の欲望を呼び覚ましたのだ」
というふうに。
つまり、それまでA男はB女のことを恋愛対象(もしくは性的対象)として見ていなかった。しかし、C男の恋愛欲望(または性的欲望)がA男にB女を恋愛対象として見るという欲望を発見させた、というように考えることもまた可能です。
もしC男がいなければ、A男はB女を性的欲望の対象としてみなかったかもしれない。



誰かの欲望を自分の欲望とし、自分の欲望が誰かの欲望となる。
これをどっちが先かというのは、鶏と卵のはなしと同じになってしまいますが、とにかく社会的な欲望と、個的な欲望というのは互いに共鳴しあいながら、増幅していったり、しぼんでいったり、ということを繰り返す。
そうしてみると、「純粋に個的な欲望」などというものは、そう多くはないと思われます。
「私の欲望」は「誰かの欲望」と多かれ少なかれ重なっているもんです。


「みんなが欲しがるから、自分も欲しくなるもの」の代表例が「お金」です。
お金というものは、よくよく考えると不思議なものです。
というのも、お金は「みんなに欲望されるから」お金としての役割を果たしている。
みんなに欲望されなければ、お金というのはお金としての役割をはたせない。
もし、日本人全員がある日突然、「日本円」を欲しがらず、ユーロなりドルなりを欲しがり始めた、としたら、日本円の価値はまったくなくなってしまう。
1ドル10000円くらいの価値に暴落してしまい、また日本国内で円は流通しなくなります。
代わりにドルだのユーロだのが流通し始める。
はっきり言ってお金というものは所詮ただの紙切れなので、「みんなが欲しがっている」という幻想さえなくなってしまえば、まったく価値はなくなってしまう。
お金をお金たらしめているのは、みんなの欲望そのもなのです。



ニーチェという人は「世界とは欲望の総体である」ということを言いました。
このニーチェの言に従ってみると、人間というものは世界(欲望の総体)を自分の欲望とし、また自分の個的な欲望が表出されて世界となる。
こうした欲望のうねりのなかで、人間は世界というものを理解していくわけです。
そして、その理解をもとに行動に移す。


このように考えてきたときに、藤原紀香に欲望を感じず、テッサに欲望を感じている私に対する社会の白眼視というものがより理解しやすくなる。
つまり、私は「社会的な欲望に共鳴していないから」白眼視されているわけです。
ある意味では、社会的な欲望を私は強制されている、と言ってもいいかもしれません。
そして、それを私が拒否していることで、社会は気味悪がっているという話。
ニーチェ的に言えば、私は「世界を拒否している」ということです。
(おお!無駄にカッコいい言い回しだ)


ちょっと蛇足ではあるんですが、私のバージョンとは全く逆のパターンを描き、近年大ヒットした物語があります。
「社会的な欲望を拒否」するのではなく、「社会的な欲望を受け入れる」ことで、人々を感動させた物語です。
この物語は様々な形でメディアミックスされ消費されました。
わかります?これ。






それが何かっていうと「電車男」です。


この物語は一人のオタクが、「一般女性」に欲望を感じ、その欲望を成就させる、という話です。
私はドラマでちょっと見ただけなんですが、ドラマだと、そのヒロインが伊東美咲でした。
正直なところ「伊東美咲が好き」だという男が私の周りにいないので、彼女がどういう層から支持を受けているのだかわかりませんが、とりあえず彼女は美人でスタイルもいい、おまけに性格もいいお嬢さまとして描かれています。
私が見た限りでは、彼女のキャラというのは何とも表層的で、人格的な深みというものがあまり感じられなかった。
たとえば、彼女はあるトラウマから「嘘をつかれるのが異常に嫌い」なのですが、それがなんとも薄っぺらい。
それが脚本のせいなのか、それとも彼女の演技力のなさに起因しているのかは分かりませんが、とにかく彼女は生き生きとした一人の人間であるよりも、むしろある種の記号として存在しているように感じられる。
つまり、このドラマでの伊東美咲というのは、「一般人の女性(しかもハイスペックの)」という記号の役割を与えられています。


その「ハイスペックな一般女性」に欲望を感じるのが電車男なわけです。
紆余曲折はあるものの、彼はその欲望を信じ、その欲望を成就させることで物語のクライマックスとなる。


はっきり言って、私はこの物語のどこが感動的なんだかさっぱりわからん。
しかし、この物語に感動を覚えている人たちもたくさんいるわけです。


この落差というものを考えるに、上で書いた欲望の共鳴ということがポイントになる。
要するに、電車男で感動している人たちというのは、

「オタクという自分達には理解できない欲望を持つ人間が、一般的な欲望(伊東美咲に欲情する)に寄り添っている」

ということに感動しているわけです。
もちろん、それだけの理由で感動しているわけではないけれども、こういうところが一つの感動要素になっている。


この物語の最初のほうで面白いシーンがあります。
初てのデートの準備として、電車男がお洒落な服を買いにいくところです。
これなんかは「ファッションへの欲望」という一般的な欲望を電車男が積極的に受け入れる過程として見ることが出来る。
今までフィギュアとガンプラとかに向かっていた電車男の欲望が、ファッションという一般的な消費形態へと向かっていくという意味合いなわけです。


この「服を買う(消費する)」という以外にも、「お洒落な居酒屋で食事する」なんていうシーンもありました。
いずれも、「消費」することで、一般的な欲望を受け入れるという過程をとっている。


これのどこが感動的なんだかわけがわかりません。
たしかに、オタクというのもマンガやアニメを消費することで自己表現している存在である、ということは言えるでしょうが、オタクなんて別に感動的なもんじゃないですから。
だとしたら、こうしたファッションへの消費、もしくは一般女性への欲望もまた感動的なわけがない。
そう思うんですが、実際は多くの人を感動させてるんですよね、この三流の物語が。


電車男っていうのは、多くの人に承認された欲望に付き従う人間を見て感動しているわけで、この構造って藤原紀香と結婚した陣内智則に対する世間の関心と同じようなもんだということがいえます。










2007年04月12日

絵が下手なマンガ

絵が上手いか下手かってのは、
主観に依存するところ大なんで、
そう明確に線引きすることって難しい。


たとえばネギま!の赤松健って上手いの?これ。
上手いといえば上手いんだろうし、
線に色気がなくて嫌だな、と思ったりもする私のような人間もいたりするわけで。


まあ、そこの線引きってのは微妙なものがあったりする。


ただ、なかには、「おそらく大多数の人が下手と認めるであろう絵柄」を描くマンガ家もいる。
で、私が思いついたのは、ここらへんのマンガ。



ナニワ金融道




ミナミの帝王




カイジ





これ以外にもたくさん「絵の下手なマンガ」ってのはあるんだろうけど、
私の頭に浮かんできたのはこの3つだった。


このなかでいちばん絵の下手なのはどれかっていうと、
こりゃ間違いなく、「ナニワ金融道」。
このマンガのなかでは時々、セックスシーンが出てくるんだけど、
これ、ぜんぜん色っぽくない。
というか、セックスしてる感じがまったくしないのがスゴい。
なんか、裸の人形がただ絡みあっているだけ、に見える。
おそらく、血気盛んな中学生であっても、
この絵でヌくことはできないだろーな。
もし、ナニワ金融道でヌくことが出来た中学生がいたら、ご一報ください。
そんなあなたには細木数子のヌード画像を進呈したいと思います。


比較的、絵が上手いのは、ミナミの帝王、ですかね?
ただ、これはナニワ金融道に比べると通俗的ではある。
どっちも金貸しのマンガなのに、「どうしてミナミの帝王のほうをとりわけ通俗的とみなすんだ、お前は?」とおっしゃる御仁もあるかもしらん。
うーん。
何て言ったらいいんだろう?
ここで言う通俗的というのは、
「物語のなかにわかりやすいカタルシスがあるかどうか」っていう意味合いかなあ?


ミナミの帝王って、勧善懲悪的な度合いが強いマンガで、主人公の萬田銀次郎はトイチの金貸しの割りには、妙に正義の味方っぽいところがある。
言ってみれば水戸黄門的な安心感があって、それゆえにVシネマであれだけの人気があるんだろうけど、そこが通俗的に見えてしまう原因。
この3つのなかだと、いちばん通俗的なのは、このミナミの帝王だと思う。



ところで、この3つのマンガ、ナニワ金融道、ミナミの帝王、カイジにおいては、
絵が下手なことが、あまりマイナスになっていない、っていう感覚は、
たぶん、共有してもらえるんじゃないでしょうか?


絵が下手だから、最初から見る気がしない、っていう人もいるかもしれないけど、
実際に読んでみると、絵の下手さがそう気にならない。
それどころか、絵が下手なことがかえって良い効果を生み出しているような感じさえする。
これ不思議。


というのも、たとえば「NANA」の絵がナニワ金融道のそれだったとしたら、
どうだろう?


nana.jpg「シンちゃん、会いたかった・・・・」
レイラ





ありえない。
激しくありえない。
すぐさまこの女(レイラ)をロシアンフックでぶん殴ってしまいたくなるくらいありえない。
これを見た皆さんも、すぐさま、このレイラを脳細胞からデリートしたいと願ったであろう。


ということは、青木雄二の絵柄でNANAのストーリーを描くことは不可能ということなのである。
ま、当たり前だけど。


で、NANAのストーリーって何なの?と言えば、
それは恋愛とか恋愛とか恋愛とか、ま、そういうもん。
つまり、恋愛ものでは、この絵柄は受け付けない。


それじゃ、これらの「絵が下手なマンガ」が許容されるストーリーとはいかなるもんなのか?
まあ、それはこの3つのマンガのストーリーの共通点を探ればいいだけの話。


その共通点ってのがなにか、っていうと、それが「金」。
金貸しが主人公である、ナニワ金融道、ミナミの帝王、
それにギャンブルをテーマにしている、カイジ。
みんな金がテーマになっている。
金にまつわる人間の悲喜劇を描いているのが、これらのマンガである。


つまり、金にまつわるストーリーなら、絵が下手でも気にならない、ということが言えそうであるが、これはどうした理由によるものであろう。


人間にはさまざまな欲望がある。
その欲望を心のおもむくままに叫びたてると、破廉恥な人間だと思われる。
恥知らずだと後ろ指をさされる。
よって、真っ当な社会生活を送れなくなる。
だから、常識のある人は、心のなかの欲望を、そのまま表に出したりはしない。


しかし、人に言えない欲望を心のなかに溜め込んでおくというのは、
意外にこれがしんどいものであって、
あまり溜め込んでおくと、それが爆発してしまう。
爆発してしまうと、これがまた大惨事なので、一層困った事態と相成る。


しかし、世間というものは、案外上手く出来ているもので、
そうした欲望に綺麗な名前をつけて昇華してしまう、という機能を持っている。
たとえば、それが如実に現れるのが、
映画、ドラマ、小説、マンガ等のフィクションの世界なのであるが、
これらの作り物の世界で、登場人物たちは、おのれの欲望を発散し、がなりたてる。
人々はそれを見て、読んで、うさを晴らす。


欲望が、どのように美化されているのかの例を一つ二つ出してみる。



性欲。

人間にとって根源的な欲望でありながら、この欲望を思う様に吐き出すと、警察のご厄介になったり、村八分にあったりしてしまう、という厄介な代物。
極めて即物的に言えば、男と女が出会って、肉体を結合しあい、体液を交換する、というそれだけのことである。
ただ、その行為自体を見れば、別に恥ずかしいことでもなければ、また、とりたてて、美化すべきものとも思われない。
が、しかし、この性交を、恋愛などという言葉で呼ぶと、なにやら風雅なものに思えてくるから、不思議なもんである。
そして、恋愛という名前で美化された性欲を人々は消費していく。
男と女の惚れたはれたを見て、やきもきしたり、はらはらしたり、しまいには泣き出したり。
冬ソナとかね。
ところが、冬ソナ見て感動しているおばちゃんに、もし、ぺ・ヨンジュンとチェ・ジウのセックスを見せたらどういう反応するだろう?
まず、感動はしないだろう。
それどころかあべこべに劣情を催したりするのだから、人間って不思議なものである。



権力欲

ただ単に「権力欲」なんていう言葉を見ると、いかにも胡散臭い感じがする。
ハゲ上がった頭に脂汗を滲ませた政治家が、裏で権謀術数の限りをつくし、それをもっておのれの権力の拡大浸透を企図し、多数の人間からペコペコされて、ご満悦。
こういういかがわしい趣きがある。
が、しかし、この欲望とて、フィクションのなかではちゃんと美化されている。
それが英雄と呼ばれる存在を描いたもの。
たとえば、本邦で言えば織田信長などの戦国武将であったり、中国でいえば三国志であったり。
こうした題材を描いた書物などに出てくる英雄というのは、畢竟、「巨大な権力欲に突き動かされた人間たち」である。
大勢の人間を自分につき従えたい、領土があれば、それを寸毫でもいいから拡張したい。
そうした、人並みはずれた欲望を持った人間が英雄と呼ばれる。
町内会の会長の座を虎視眈々と狙っている、近所のジジィすら、私には不快に感じられるので、そんな欲望丸出しの英雄はさぞ不快であろうと思われるのだが、実際にそうした類のフィクションを見ると、そんな不快感は微塵も感じない。
それどころか、爽快感すら感じる。
これまた不思議な人間心理というべきものであって、どうしてちっぽけな権力欲を持った人間を見ると不快で、人並みはずれた権力欲が爽快なのか、わけがわからん。
わけがわからんが、ともかく、こうした形で、権力欲というものも、またフィクションのなかでは美化されているといえる。



で、問題の「金銭欲」。

フィクションのなかで、この欲望は、美化されることが明らかに少ない。
たとえば、本田宗一郎のような、事業を起こし、成功し、そして富を得た成功者の伝記というのは読んで面白いものだろうと思う。
しかし、本田宗一郎は、「金が欲しくて頑張った」のではなく、「頑張ったら金がついてきた」という形のものなので、本田宗一郎の伝記が金銭欲を美化している、とはいえない。
もちろん、最初から「金を得ることだけを求めて、結果、金を得た」式の成功者もたくさんいるのだろうけれど、そういう人の話ってあまり聞かない。
というか、人々はそうした話をあまり聞きたがらない。
それどころか、そういう「成金」は、とっとと失敗して破産でもすればいいのに、くらいに思っている。
結局、尊敬される経済的成功者というのは、松下幸之助、本田宗一郎、井深大などのように、「金以外のなにか」を求めて、結果、金持ちになった人々であり、金銭欲しかない人間は軽蔑される、と相場が決まっている。


人間の持っているもろもろの欲望のうちでも、金銭欲というのはなかなか美化されにくいものである。
これは、ちょっと考えてみるとなかなか不思議ではある。
たとえば、権力欲と比較してみるとよくわかる。
「自分の領土をとにかく広げていこう」とする、アレキサンダー大王やチンギス・ハーンに我々はロマンを感じる。
一方、「自分の金を無限に増やしたい」という金銭欲を持った人間には不快感を感じる。
しかし、アレキサンダー大王やチンギス・ハーンがやったことは、戦争であり、言ってみれば人殺しである。
それにくらべ、ただ自分の金を増やしていこうとするのは、それなりの迷惑を蒙る人間が出てくるのは確かではあるが、それでも戦争に比べたら、ずっと被害者は少ない。
それなのに、我々の感情は真逆の方向へ向かう。


うーん、なんでだろう?
人間、お金がなきゃ生きていけないのにね。
ベルマークをいっぱい集めても生きていけないんだよ、知ってた?
なんでだかは分からないが、まあとにかく金銭欲というのは、卑近な欲望であるとみなされていて、そうそう美化されるもんではない。


で、マンガの絵柄の話。


マンガの絵柄というのは、そのストーリーの種類別に異なっていて、たとえば、少女マンガは少女マンガに特徴的な絵柄というものがあるし、格闘マンガには格闘マンガに特徴的な絵柄がある。
上で、ナニワ金融道風のレイラを出してみたけれども、これがもし鳥山明の描いたレイラだったとしても、それなりに違和感は出てくるはずである。


要するにストーリーに適した絵柄がある、という当たり前のことを言いたい。
じゃあ、ここで一歩踏み込んで「金にまつわるストーリー」に適した絵柄ってのも当然あるんじゃないのか?


既に書いたように、金銭欲というのは卑近な欲望とされていて、美化されるところの少ない。
だったら、その絵柄だって、見目麗しい美少年の登場してくる少女マンガ系の絵柄じゃだめだろうし、鳥山明のような肉体の線をシンプルにした絵柄なのも変。
結局、金銭欲という、汚い(と見なされている)欲望を描くには、それなりに汚い絵のほうが向いてるんじゃないか、と思う。


2007年04月09日

DARKER THAN BLACK -黒の契約者-

実はいまだに、撮りだめしといたコードギアスを見終えてなかったりするんですけど。


あと何話残ってたっけかな?
たしか、シャーリーの記憶を消したところまでは見たんだけども。
どうでもいいことだけど、シャーリーがいちばんかわいいなあ。
いちばん好きなのはC.C.なんだけど、シャーリーのほうが色っぽいしな。
あのなかで、シャーリーってのは凡庸なキャラなんだけど、
なぜか(性的な意味で)ツボにはまる。
なぜだろ?
コスプレ度が低いからかな?シャーリー。
他のC.C.、カレン、ユフィとかって、コスプレ全開すぎて、
さすがに性的興奮を覚えない。
そんななかシャーリーって、あの普通っぽさがかえってそそる。
こんなふうに感じてるの私だけ?
って、そんな無駄な感想を言ってる暇あったら、とっとと最後まで見ろって話ですが。


そんなスローライフ送ってる私のことなんかほったらかして、春の新番組始まってた。
しかし、どんな番組があるのかすら、ちゃんとチェックしてなかったりするんですけど。


そんななかでも、一応、見てみようかな、と思ってたのが、
「精霊の守り人」と「Darker than BLACK -黒の契約者」。


で、精霊の守り人。
ぼーっとしている間に、いつのまにか一話目終わってました。
土曜日の7時?だか8時?から、とかいう情報はなんとなく頭に入ってたんだけど、
8時は8時でも朝の8時だとは思わんかった。
トラップ?これ。
今度からはちゃんと見ますよ。
トラップにもめげず。



で、Darker than BLACK、こっちは見れた。
一話目見たかぎりでは、結構いい感じ。
バイオレンスシーンもそれなりに残虐だし、ちょっとだけだけどブレードランナー的な退廃的な雰囲気も漂ってるし。
作画もちゃんとしてた。


ということで、いきなりですが、これから、このDTBを応援しようかな、と思います。


まあ、一話目を見た段階で、応援するってのも変な話なわけだけど、もちろん。
なにしろ、ストーリーがどうなるのかも全然わかっちゃいないわけだし、
一話目ってのは、だいたい作画に力入れるもんなんで、
これからの作画のレベルがどうなるかも、ぜんぜんわからない。
応援するというにはあまりにも不確定要素が多すぎて、応援しようがない。
だけど、そこをあえて応援してみる。
あえて応援してみせる。


いやー、アニメのブログとかで、「○○(アニメの名前)を応援してます」とかいうのがあるじゃないですか。
あれに憧れてたんで、それを私もやってみようかな、と思って。
いままでこのブログで何かを応援したことがあったでしょうか?
いや、ない。
これっぽっちもない。
だったら、応援してみるのもいいんじゃね?
実のところ、何を応援してみても良かったんですけど。
まあ、とりあえず目についたものを応援してみようかな、と。




ということで、このブログはDARKER THAN BLACK -黒の契約者-を応援してます。



で、応援するのはいいんだけど、応援って具体的に何をすればいいの?
うーん、なんかよくわかんないんで、バナーをサイドバーに貼ってみた。
お。
応援してる感がでてますね、こりゃ。


ところで、応援するのはともかくとして、
肝心のアニメのほうはこれからどうなるんでしょうか?
これから、どんどん駄作への道を転がり落ちていったらどうしよう。
なにしろ、私はコードギアス一話目を見て。

「あ、これ詰まんねぇ」

と思って一度切っちゃったくらい、予想をはずす人間なんで、
このDTBが面白そうに感じるということは、
その逆を行く可能性大。


まあ、作ってるのがボンズだし、それほど酷いことにはならないとは思うんですけど。


エウレカセブンのことを悪く言ったせいで、そうは思われてないでしょうけど、
実は私は製作会社のなかでボンズがいちばん好きです。


京アニがオタクの欲望に忠実に寄り添ったアニメを作る会社だとしたら、
ボンズって、オタクの欲望をいい意味でも悪い意味でもオタクの欲望を裏切る会社だと思うんですよ。


悪い意味で裏切った例がエウレカセブンだとみなされてるんでしょうけど、
私はエウレカが好きですしね(その割にぜんぜん誉めてないですけど)。
なんか私は、自分の予想を裏切ったものを見たいという欲求が強いのかもしれない。
だから、京アニも好きなんだけど、それ以上にボンズのほうが好きなのかもしれんなあ。


ということで、
このブログはこれからDTBの応援ブログと化しましたので、
これからはDTBのことしか書きません(嘘)。


2007年04月02日

血まみれのナウシカ

この前、風の谷のナウシカのこと調べてて、
まあ、当然のごとく、ウイキペディアにも目を通していたんですけど、そこにちょっと面白い記述が。


「風の谷のナウシカ」 ウイキペディア


ゲーム

劇場アニメ版とのタイアップで、当時の8ビットパソコン用にナウシカを素材としたコンピュータゲームが作られた。1984年に徳間書店がテクノポリスソフトのブランド名で出したMSX用ゲームソフト「忘れじのナウシカ・ゲーム」、PC-6001用ゲームソフト「ナウシカ危機一髪」、PC-8801用ゲームソフト「風の谷のナウシカ」の3作である。アドベンチャーゲームだったPC-8801用のものはともかく、PC-6001用とMSX用はシューティングゲームであり、特にMSX版はナウシカが腐海の蟲たちを撃ち殺してスコアを稼いでゆくという、作品の内容や主題をまったく理解していない代物であった。これ以降、宮崎作品・ジブリ作品を題材としたコンピューターゲームが一切現れていない(例外として未来少年コナンのゲームソフトがNEC PCエンジン用とソニーPlayStation2用に発売されている)。その原因を作ったのはこのゲームであり、このゲームに宮崎や高畑が激怒したためとファンの間では語られる。また宮崎駿がゲーム嫌いになったのはこのゲームが原因という記述が井坂十蔵の「宮崎駿のススメ。」にもある。しかしいずれも明確な出典が確認されないため、噂の域を出ないのではないかとの指摘もある。




・・・特にMSX版はナウシカが腐海の蟲たちを撃ち殺してスコアを稼いでゆくという・・・・





・・・・・ナウシカが腐海の蟲たちを撃ち殺して・・・・・・・






プッ。ナウシカが蟲を撃ち殺していくゲームだなんて笑える。


うん、まあこりゃあ宮崎駿が怒るのも無理はない。
蟲を虐殺していくナウシカってそりゃねえ。


そういえば、たしかにジブリ原作のゲームって見たことがない。
それは、こういう理由があったのか。
(まあ、下のほうに、本当かどうか疑わしい、とは書いてますけど)


しかし、そもそもジブリ作品ってゲームにしにくいような気がする。
もし、もののけ姫のゲームなんてのがあって、でっかいイノシシ(あれはなんていう名前なんだろ?)、犬神をばっさばっさと切り殺していくアシタカ、なんてのも蟲を殺すナウシカ、と同じく変だし。


もし、ありうるとしたら、アレか。
キキや千尋を主人公にして、プリンセスメーカーみたいな育成ゲームを作るとか。
それだったらアリかもしれない。
ま、宮崎駿が許すわけもないでしょうけど。




2007年03月18日

正義と文学 エヴァとフルメタのあいだ

この前、某ブロガーのAさん(仮名)をさんざん馬鹿にした記事を書いたんですけど、
その後、Aさんのブログを読んでいたら、ある発見があったので書いてみます。


これは発見というか、私の思考に盲点があったのに気づいたといったほうがいいのかもしれない。
新鮮な驚き、目から鱗がばりばり音をたてて落ちていくような。


なので、どうしてもこのことを書きたくなった。
だれのことだか分からない人のことを書いても、読んでいて面白くないだろうけど、勘弁してください。


Aさんってのは、文面を読む限り、大学生らしい。
文章にニーチェだとか、構造主義などの語句も出てくるところから見るとインテリの様子。
ニーチェかぁ、だれだそれ。
フルーチェだったら知ってるんだけど。


私がAさんのことを可笑しく思っていた理由は、

「自分はテーマ性を重視して作品を評価する」

とか、その他もろもろ偉そうなことを言ってるにも関わらず、「好きなアニメがローゼンメイデン」だったりしたから。
前回は書かなかったけれども、Aさんは、

「最近の仮面ライダーはなっとらん」と偉くご立腹。
そのほかにも子供向けのアニメなどを熱く語ったりしている。


それが妙に可笑しくてたまらなかった。

「テーマ性を重視している人」がなんで、ローゼンメイデンを絶賛したり、仮面ライダーを熱く語ったりしているのだろう、と思って。


私の目から見れば、あきらかに主張と好みがチグハグで、整合性がないような気がしてた。


しかし、Aさんのブログを読んでいるうちに、私はあることに気づいた。
たとえば、この文章。



「なぜシャドームーンは
仮面ライダーシャドーと言われないのか?

それは、仮面ライダーと言うのは正義のシンボルであり
暴力に苦しむ人々の代表者だからです。」


「良い作品は、何度でも読める。
再確認の感動、発見の感動がある。

(中略)

どうも、自分をアッといわせる意見や内容には
感動するらしい。ただし、これには注意が必要だ。

基本的にモラルが根本にある。

どんなに美辞麗句、キレイ事を並べ立てても
それが他者を傷つけること、他者を攻撃することを
促す文章ならば、まったく感動せず、また疑ってしまう。」





Aさんにとって、「テーマ性」というのは、「正義」であったり、「弱者を救うこと」だったり、「モラル」だったりするらしい。


驚いた。
マジで驚いた。
何が驚いたかっていうと、
「テーマ性」という言葉をこういう意味で使う人がいることに、私は思い及ばなかったのである。


たとえば、子供向けのアニメ、特撮ものなんかには、

「正義のために、悪と戦うヒーロー」

といった感じのストーリーがよくある。


こういう勧善懲悪ものって、「テーマ性がないストーリー」の最たるものだと、私は無意識的に観じていたのである。
別にこういうものを嫌っているわけではない。
けれども、私は、この手のものに総じて無関心だったので、大して思考することなく、なんとはなしにそう思っていたのである。


ところが、Aさんはこういうものこそが、「テーマ性」のあるものだと見なしていたんである。


つまり、「テーマ性」というカテゴリー認識がAさんと私では、真逆だったわけ。
そりゃAさんの主張がチグハグに見えるわけだわ。


いやー、しかし、これは驚いたな。


なぜ、こんなふうに同じ言葉に真逆の意味を見出してしまっていたのか、っていうと、
これも無意識的なんだけれども、「テーマ性」という言葉を私は、「文学」的な文脈で捉えていたから。


「文学」ということについてさらっとだけ触れておくとこんな感じ。
(とは言っても私はあまり文学に詳しくないし、情熱もないんで詳述はできませんが)


これは前にも触れたことがあるような気がするけれども、
日本の近代文学において、「文学とは人間を描くものだ」という意見は大勢を占めていた。
これに反対する意見も色々あって、たとえば小林秀雄という人なんかは、これに異議を唱えていたし、
また、最近の純文学では、かえって人間を表面的に描くことが流行っているらしい。
(最近の純文学にはぜんぜん興味がないのでよくわからないけど)


構造主義なんていう、なにやら難しい思想が入ってきてからは、
「構造まで還元してしまえば、クソ難しい文学もドラゴンボールも一緒じゃねぇの?」
みたいな考えも生まれてるし。


とはいうものの、「文学とは人間を描くもの」という意見は根強いし、
あんまり文学に詳しくない私も、なんとなくそう思ってる。
「文学とはなにか?」なんていう命題には、毛ほども興味ないんだけどね。


で、この「文学とは人間を描くもの」という言葉は何を意味しているのか。
なんか、このまんまじゃよく意味が分からない。
これは、言葉を継ぎ足してやると、わかりやすい。


「文学とは人間の『内面』を描くもの」


そういう考えを土台として私小説なんてものは成り立っている。
私小説ってのは、小説家の日常をただ、そのまま書いただけのもの。
つまり、自分よく知っているはずの自分の内面を描けばそれで文学になるんじゃねぇの?って発想。



だけど、これだけではまだ不十分で、もっと言葉を継ぎ足してやる必要がある。


「文学とは人間の『醜い内面』を描くもの」


これが日本の近代文学の底流に流れている思想(というか気分)。


人間の内面を深く見つめてみた。
すると、そこには醜いドロドロとした欲望、怨念があった。
だったら、それを克明に書いてみせれば、素晴らしい文学になるのではないか。


こういう気分が日本文学の底流にそこはかとなく漂っている。
だから、日本の近代文学では、「ろくでなし」が勢ぞろいしているのである。

変態(谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫)

麻薬中毒(坂口安吾、太宰治)

自殺者(芥川龍之介、川端康成、太宰治)


こんな感じで、文学の世界というのは、ろくでもない人間のオンパレード。
これとはちょっと違う方向性として「病弱」なんてのもある。
たとえば、梶井基次郎とか。


要するに近代の日本文学なんてのは、健全なものじゃない。
ろくでもなかったり、不健康だったり、ま、そういうもん。


それがいいことなのか悪いことなのかは、私にはよくわからない。


しかし、そこの価値判断はさておいて、私は「テーマ性」なんていう言葉を聞いたときに、こうした文学的な意味合いに近いところで、言葉の意味を捉えていたんである。
そして、「テーマ性」なんていう言葉を使う人も、こうした文脈に則っているのだと、なんとはなしに思っていた。


人間精神の深いところまで、潜行し、人間の救いようの無い愚かさを描くのがテーマ性の高い作品である、と思ってたわけ。
たとえば、ドストエフスキーとかドストエフスキーとか、そういうやつ。


ここで断っておくけれども、別に私は、こういう基準で作品を判断してるわけではない。
テーマ性の高い作品じゃなければ、クズだ、とか言うわけでもない。


そもそも、もしそんな価値判断をしていたら、ホスト部やハルヒが好きだ、なんて言うわけないし。
私の場合はただ単に、自分の面白いと思ったものを誉めてるだけ。
テーマ性だとかはあまり考えない。
ま、ある意味すんごい無節操だけど、それは。


ただ、「テーマ性の高い作品」なんて聞くと、こうした形の文学的な価値基準か、それに準じたものに則った評価をしているのだろう、と思ってたわけである。


それがAさんの場合は、ぜんぜん違った。
まさか、「正義が悪を挫く」という形式の作品を、「テーマ性が高いもの」と見なしている人がいるだなんて、私には想像もつかなかった。


というのも、「正義」なんてのは、日本の近代文学でもっとも縁遠いものだから、である。


そもそも、日本文学のお手本になっている、ヨーロッパの近代文学では、神という絶対正義を失った人々のお話を紡いできた。
たとえばドストエフスキーがその筆頭なんだけれども、彼の小説のなかでは、神という垂直的な倫理機構を失ったとしたら、何を支えにして生きていけばいいのか、という執拗な問いで埋め尽くされている。


神さまってのは、もちろんフィクションなんだけれども、同じように、モラル、倫理というのも、またフィクションである。


西洋の場合、神さまという根拠からモラル、倫理を導いていたので、近代になって、

「神は死んだ」

なんていう事態に陥ってしまって大変だった。
ま、大混乱ってやつ。
なにしろ、神さまという絶対的な根拠を失ってしまえば、それぞれの人間がそれぞれのモラルを打ち立てなきゃいけない。


しかし、前述したように、モラルってのもまたフィクションだから、そう簡単に作れるもんじゃない。
たとえば、「人を殺しちゃいけない理由」なんてのを、論理的に語ることなんてできないし。


結局のところ、モラルの根源には、また神さまに似たフィクション(嘘)が必要になる。
で、ヨーロッパ人のインテリは、そういうフィクションとして「理性」ってのを考え出した。
人間はだれしも理性という、「正しく物事を判断する力」を持っていて、その理性を根拠にして、人間は正しく生きることができる、っていう理屈を考え出した。


こんなの普通の生活をしていれば、だれだって嘘だって分かるような代物。
私の知り合いにはヤクザな連中が多いから、「明らかに理性を持っていない人間」をたちどころに十人はあげられる。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。あひゃひゃ。
こんなの神さまを信じるのと何ら変わりない。
むしろ、神さまのほうが、大嘘だということがすぐばれるだけマシなくらい。


まあ、馬鹿といえば馬鹿なんだけれども、こういう考えかたが民主主義とか人権思想の土台の一部となっていたりするんで、笑うに笑えない事情があったりもする。


ヨーロッパ文学のなかにも、日本と同じように「ろくでもない人間」がたくさん出てくる。

「自分は優秀な人間だから、金持ちの強欲婆ァを殺して金奪っても、ぜんぜんかまわねーじゃん?」
なんて考える大馬鹿者とか、
自分の母親が死んだのが、昨日なのか一昨日なのかわからない若ボケとか、
始終、吐き気に襲われているスカトロ野郎とか。


こうやってみると、日本の場合と事情は同じように思えるけれども、
西洋の場合、神さまという絶対倫理を失ったあとの悪あがきだから、
これ、とても真実味がある。


しかし、日本の場合、もともと、その絶対倫理がなかった。
だから、それを失う喪失感もまたない。
だもんで、西洋文学の形を真似た、日本文学のなかの堕落というものは、なにやら得体の知れぬカオスでしかないのである。
高みから堕ちていく身を切り刻まれるような辛さもなければ、
たとえ、それがかりそめのものに過ぎぬと分かっていながら、
また高みを目指す虚しさもない。
ただ、なんとはなしに堕落してるだけ。
「ぼんやりとした不安」から自殺した小説家がいるけれども、
彼らには敵の姿が見えていないとともに、
愛すべき神の姿も見えてはいなかった。


なんか話がひどく脱線したような気がするので、
話を元に戻すと、文学的価値観から言えば、
「正義が悪を討つ」という形式の作品は、
普通「テーマ性が高い作品」とはみなされない。


たとえば、エヴァンゲリオンとフルメタルパニックという二つのロボットアニメを比べてみる。
この二つのどっちが文学的と見なされやすいでしょう?
どっちのアニメが個人的に好きか?ということではなくて、文学的価値観に則ってみると、どっちが重要度の高いアニメとみなされやすいか?っていう質問です。





これはエヴァということで衆目が一致すると思う。
まずエヴァのほうが登場人物の内面描写が多い、ってのが理由としてあげられるけれども、とりあえず、それは横においておく。
文の趣旨にあっていないので。


この二つのアニメを比べてみると、正義と悪の扱いが全く違う。


フルメタのほうでは、悪という存在は明確である。
このアニメのなかでは、ガオランだかガオルンだかいうテロリストが登場してくるんだけれども、こいつ、まったくもって正義というものを持ち合わせていない。
実際のテロリストというものは、ビン・ラディンなんかがそうであるように、テロという非情な手段を使うものの、その主張には幾分なりとも正義が含まれているのが普通。
もちろん本人が正義だと信じているだけで、周りから見れば正義でもなんでもないっていうのも多いけれども、「自分が正義だ」と信じられない人間はテロリストなんていう難儀な職業に就かないもんである。
ところが、このガオランとかいうテロリストは、自分が正義だとはぜんぜん思っていない。
実は彼には何の主張もないのである。
ただ単に、自分の破壊衝動を満足させたいだけ。
何かを壊す、誰かを殺すことに無常の喜びを感じる。
それでテロやってる。
いわば純度100パーセントの悪人。


だから、彼に対立する側の主人公たちも、「実は彼の言い分にも理があるんじゃないか?」と悩んだりはしない。
主人公は、「上手く戦えない」とか「千鳥と会えなくなった」とかいうことでは悩むけれども、自分が正義の側にいる人間であることには、まったく疑念を抱かない。
つまり、絶対的な悪が存在しているので、それと戦う相良たちは、自分が正義であることを確信できるのである。


次にエヴァ。
このアニメのなかでは、使徒とかいう変な化け物が襲ってくる。
実は使徒がなぜ襲ってくるのか、いまだに私は理解してなかったりするんだけれども、ま、それは置いといて。


使徒を撃退するのが主人公である碇シンジの役割。
だから、彼は自分のやっていることが正義であることを確信しているはず。
なにしろ、人類を救うという、正義の味方としては、このうえないシチュエーションなんだから。
ところが、このシンジとかいうガキは、くよくよ悩むことが趣味という、厄介な14歳なので、自分がやっていることが正しいと感じられない。
それで何度も逃げ出しては周囲を困らせる。
シンジが自分のことを「正義の味方」である、と確信できる状況は整っているはずなのに、シンジは執拗にそれを拒否する。
その代わりに、自分のやっていることの意味を幾度も問い直す。
ま、ここらへんは問うている振りをしているだけに見えないこともないけれども。


さて、上のほうで、文学について書いているんだけれども、
それに照らし合わせてみると、シンジの態度って、まさしく文学的である。
自分の拠って立つ倫理が見出せない、という不安。
それゆえに、自分の行動に確信が持てない、という絶望。
神を失ったあとのヨーロッパ文学、もしくはそれを真似した日本文学のかたちによく似ている。


あ、一言申し添えておくと、ここではエヴァの内容が深いか浅いかは問うてはいない。
ただ、形のうえで文学的かどうかを書いてるだけなので。


つまり、正義というものが確固として存在しているフルメタル・パニックと、
正義だけでなく、倫理すら不確かなエヴァンゲリオン。
ものすごく簡単に言っちゃえば、正義を確信できない状況で、あれこれ悩んでいるほうが文学的とみなされる。
つまり、確固とした正義が存立している物語のなかでは、主人公は根源的な悩みに陥らない。
ところが、正義があやふやな状態だと、主人公は深いところで悩みだす。
もしくは、深いところで悩んでいるかのように見える。


こうやって比べてみると、「確固たる正義のあるなし」が文学的か否かを分けるポイントの一つだということがよくわかる。
そして、それを逆に言えば、「絶対的な悪」が存在しているかどうかという点もまたそうである。
というのも、絶対的な悪というものがあれば、人々はたやすく自分を正義だと思い込めるからである。


正義が悪を誅す、という形式の小説はふつう文学とはみなされない。
そういう小説は「大衆小説」なんてよばれたりする。
前回、触れたようにAさんは、「大衆批判」をよくするんだけれども、
その当の本人が好きなアニメ(勧善懲悪もの)って、こういう価値観からすれば、大衆的作品そのものなわけ。


これが面白い。
というのもAさんは、自分ではインテリのつもりらしいのだが、こうしてみると明らかなように、「文学的教養がまったくない」。
そもそも、そういうタイプの教養があるのだということにすら気づいていない様子。
だから、とても独特な言葉の使いかたをする。


もちろん、私だって、人のことをとやかく言えた身分じゃない。
本を読んでる時間よりも、ネットでエロ画像を収集している時間のほうが長いくらいだし、
月極駐車場の読み方を先月知ったくらい教養が無さ過ぎるくらいな人間なんだけれども、上記のような事情はいわば常識として頭に入っている。


なぜAさんにこういう知識がないのかっていうと、80年代に広まった
「すべての文化は等価値である」という言説によるものなんだろうなあ。
それまでの文化って階層性のものだったから、私のような無教養な人間でも文学的価値観ってのがどんなものか、ってことくらいはなんとはなしにわかってた。
文化の下っ端にいる人間でも、上のほうでどういうことを言っているか、みたいなことは漏れ聞こえてたわけだ。
ところが、文学もマンガもギャルゲーも等価値である、ということになり、わざわざしちめんどくさい文学を嗜む必要もない、ってなことになると、それぞれの小さな文化集団で集まりをなし、周りの言葉遣いとかには全く無関心という状況が生まれてくる。
それで、小さな集団ごとに固まる。
ときに隣接する集団と反目する。
そういえば、Aさんも、ローゼンを誉める一方で、ハルヒをけなしてたっけ。
それ、似たようなもんなのに。




なんか、ひょんなことから文学を語ってしまったりしたんですけど、ま、こんなのもたまにはいいでしょう。
というのも、インテリとかは、この文章みたいな基本的なことをあまり書かないので。
インテリってのは、ちょいと小粋なことを言って自分の頭の良さをアピールしたい、というムカつく連中なので、私みたいに「知ってて当たり前のこと」は書かないもんなのです。
そんな当たり前のことを、つらつらと書いていたら馬鹿に思われると思っているんですね。ムカ。


まあ、私は人から馬鹿と思われることなんて恐れてやしないので、これからも、バシバシ馬鹿なことを書いてやろうと思っております。
バカバカと。
そもそも、このブログのテーマが「当たり前のことをあえて書いてみる」ってことだし。
だから、当分ネタ切れはしないと思います。


最近、更新が滞りがちなのは、私が電車で手鏡使ったらちょいと面倒なことになった、という下らない理由によるものなので、ま、あまり気にしないでください。

2007年03月13日

面白いブログ

最近、面白いアニメ、マンガブログはないかと探してました。
ここ何年か、他人のブログを色々読んではいたんだけれども、アニメとかじゃなくて他ジャンルだったので。


しかし、いろんな人がいるもんだ。
デカルトからひも理論まで語れるくらい博識なのに、「ネギま!」とかの萌えマンガが大好きな人とか。
大して頭が良くない私でもネギま!読むのはちょっと苦痛なんだけどなあ。
あのあざとさがどうも苦手で。
パンチラとか入浴シーンとか、ちょっとうんざりする。
目の前に、「ほら、これが欲しいんだろ?」ってエサをチラつかせられている気がして。


それなのに、その人は無邪気にネギま!を楽しんでる様子。
ネタとして見てるとか、そういうひねくれた感じでは全然ないのがすごい。
作品世界に没頭して、純粋にネギま!を楽しんでいる。
なんというか、すごいな、と思った。
人間の可能性が無限だということを思い知らされる。


で、そうやって探した結果、いくつかのブログ、サイトをブックマークしたんだけれども、そのうちの一つのアニメブログが面白い、というか異彩を放っているので紹介したいと思います。
(上のネギま!好きの人とは別人物です)


そのブログの主を仮にAさんとしましょう。


Aさんはとても硬派な人です。
いまどき珍しいくらい硬派。
もうね、頭とか石で出来てるんじゃねーの、ってくらい硬派な人なのです。


硬派な人らしく、アニメ作品に対する評価基準にも一家言ある。
それがこんな感じ。


<1>「自分がアニメを評価するときに重要視するのは、テーマ性の有無と普遍性があるかどうかである」


「普遍性」というのは難しい言葉です。
私にはちょっと言葉の意味がはかりかねたのですが、Aさんによれば、

「あらゆる時代の、あらゆる立場の人々に愛される作品」

だとのこと。
成程。
そういう基準を満たした作品でなければ、Aさんの眼鏡には適わないということです。


しかし、自分なりの評価基準をちゃんと持っているというのは凄いなあ。
このまえ、私は2006アニメベスト5という記事を書きましたが、これなんかただ単に「自分の好きなアニメ」を列挙しただけですから。
何の考えもなかった。
猿のように、犬のように、ただ自分の感情を表わしたに過ぎなかった。
ちょっと反省。


さて、Aさんが硬派な人であるというのは、ただ単に「自分なりの評価基準を持っている」というだけでなく、その警醒家のような佇まいもあります。


Aさんは、よく「大衆批判」を行います。
こんな感じで。


<2>「大衆というのは、物を考えるのが苦手である。だから、中身のない娯楽作品に飛びつくのである。まったくもって嘆かわしい。我々、視聴者は良い評価を下すために、モラル、倫理の研鑽に努めなければならない」


どうでしょう?
シビれませんか?
ただアニメを見るだけのために、モラル、倫理を磨かなければならない、だなんて今まで考えたことありますか?
普通、そんなこと考えないでしょ?
ここらへんが、Aさんの常人離れしたところ。
格好いいです。


「大衆批判」なんていうと西部邁を想起しますが、Aさんは西部のような保守主義者とは違って、左寄りの思想を持っているようです。
「戦争を賛美した作品は普遍的とは思わない」という趣旨のことを書いてますし。
しかし、「戦争を賛美した作品」って具体的になんかありますかね?
うーん、なんだろう?
ナルトとか、かな。
それともバガボンドとか。
だけど、これらは戦争とはよべないか。
「戦い」を賛美したものなら思い浮かぶけど、「戦争」を賛美してるとなると、なかなか思い浮かばないかも。
しかし、たとえ具体的な作品がなくても、Aさんの警醒の言はナイフのように突き刺さります。
あたりかまわずに。
無差別爆撃みたいなもんです。


ある「中身のない娯楽アニメ」をAさんが批判したときに、そのアニメの支持者から、「あのアニメにはこういういいところがある」という反論を受けたらしいですが、それに対してAさんは、

「しょせん、そのアニメが好きだということにすぎないのである」と一刀両断に切り捨てています。侍。



さて、かようにAさんは「中身のない娯楽作品」を忌み嫌っているわけですが、それじゃ、この「中身のない娯楽作品」というのは具体的に何なのでしょう?
Aさんは、はっきりその作品名を書いています。
ここらへん、人に嫌われることを毛ほども恐れないAさんらしいです。



<3>「涼宮ハルヒの憂鬱は音楽でいえば、アイドルポップスである。このアニメに芸術性なんてものはない」


私は、2006アニメベスト5で、この「ハルヒ」を4位に挙げましたが、正直、この意見には同意できます。
私は「ハルヒ」が好きですが、それは「アイドルポップス」を好きだというようなタイプの好きですから。
だから、こういうことを言われても、腹が立たないです。


しかし、Aさんは昨今のハルヒブームがよほど腹に据えかねたのか、こんなことまで口走っています。


<4>「作画なんてどうでもいい。結局、作画が気になるということは、キャラクター目的で見ているということなのだから。それよりもストーリーのほうがずっと大事である」


ストーリーが大事だというのはその通りでしょうが、作画なんてどうでもいい、っていう意見はどうかと。
「作画がいい=良い作品」という式は確かに成り立ちませんが、作画がいいに越したことはないはず。
私はあまり作画を気にするほうじゃありませんが、それでも作画が酷すぎるアニメは見る気になれないです。
そのアニメがいいものかどうかを判断するときに、作画というのは一つの判断材料になるはずなので、Aさんの意見は明らかに行き過ぎです。
しかし、こういう「勢いあまって要らんことまで言う」のがAさんの醍醐味。


勢いあまったついでに、音楽のことまで口を出しています。


<5>「アニメと違って音楽(ロック)の世界は健全である。サイモンとガーファンクルのような「本物の音楽」がちゃんと支持されているのだから。ヒップホップやノイズなんてのは音楽じゃない」


「音楽じゃない音楽」を目指しているノイズを「音楽じゃない」というのはわかります(というか、そのまんまじゃ?)が、「ヒップホップが音楽じゃない」ってのはどうでしょう?
私はあまり詳しくはないですが、ヒップホップのなかにも素晴らしい音楽はたくさんあるように思うんですけど。
ローリン・ヒルとかカニエ・ウエストとか。
自分が好きなサイモンとガーファンクルを「本物の音楽」と呼び、自分に理解できないものを「音楽じゃない」って言いきってしまう、Aさんの「やりすぎ感」が私は好きです。




さて、ここまでAさんの笑えるところ、、、、、、じゃなかった、シビれるところを紹介してきたわけですが、ここで一つ疑問が浮かびませんか?


それは、ここまで硬派なAさんが、『好きなアニメは何なのか?』ということです。
気になるでしょ?
「大衆はものを考えるのが苦手だから、中身のない娯楽作品(ハルヒのような萌えアニメ)に飛びつくのだ」と言い切っているAさんです。
その「大衆ではない」Aさんがチョイスするアニメともなれば、高い芸術性と深いテーマ性を兼ね備えたアニメに違いない。


さて、どんなアニメが思い浮かぶでしょう?
上記の<1><2><3><4><5>を勘案してください。



こういう意見を持った人が好きそうなアニメ。
いろいろと思い浮かぶんじゃないか、と思います。
私も思いあたるアニメがいくつかあります。
ということで、「Aさんのおすすめアニメ」を発表する前に、
私がこのアニメなんじゃないか、と思うものをいくつか挙げてみたいと思います。




「イノセンス」

私の頭に最初に浮かんできたのは、これでした。
なにしろ、このアニメ、見始めると30分で眠ってしまう、というラリホーのような魔力を持っています。
「大衆には理解できないアニメ」ということで言えば、これ以上のものはなかなか見当たらないでしょう。
萌え要素も全然ないですし。


しかし、このアニメに「テーマ性」というのはあるのでしょうか?
いや、なにかしら「テーマ性」はありそうには思うのですが、そもそも私には「ストーリー自体がよく理解できていない」ので、テーマ性なんていう上級なものが分かるはずがないのです。
なんか「悪いヤツ(犯人)を捕まえようとしている」ことだけはわかるんですけどねぇ。
一応、最後まで見てるんですけど、これ。
もっとも見始めると寝てしまうので、見終えるのに4日ぐらいかかりましたけど。




「プラネテス」

高いテーマ性を持ったアニメと言えばこれなんかどうだろう。


「絶えず新しい地平を切り開いていかなければ満足できないという人間の業」


「国ごとの経済格差が怨念を生み、テロへつながるという、現実の描写」


プラネテスは極めてAさん好みのような気がする。
ストーリーもちゃんとしてるし。


しかし、このアニメは娯楽作品としても、なかなか優秀なものがあります。
最初のほうなんか、楽しいし、笑えるし。
そこらへんがAさんの好みにあうかどうか。


それに加えて女性陣もキャラが立ってるしなあ。
それを考えると、萌え要素も皆無とは言えない。


もっとも、萌え要素とは言っても、


「元気いっぱいの女の子、だけれども目が小さい、胸も小さい田名部愛」


「デレ部分が全くないツンデレ、クレア」


とか、萌えキャラとしてみた場合、欠陥商品みたいなのばっか、ではありますが。


「ハルヒはアイドルポップス」と言い切っているAさんの好みにあわせて、最後の一つは萌え要素がまったくないアニメを選んでみよう。







「ジパング」

ってことで、これなんかどうだ!
ジパングはどうだ!(なぜ連呼する?)



実はこのアニメを見たことはなく、マンガのほうしか知らないんですけど、
萌え要素なんてものは、ジパングには微塵もない。


というか、萌え以前に「女性自体がほとんど登場してこない」。
登場してくる女性といえば、衛生兵(だったと思う)のおばちゃんのみ。


これだけ、男のみで占められた作品もなかなかないでしょう。
男、男、男。
イージス艦のなかは一面、男だらけ。
それがジパング。


ま、逆にイージス艦のなかが萌えキャラだらけだったら、それはそれで圧巻かもしれませんが。


艦長 涼宮ハルヒ
船務長 沢近愛理
砲雷長 惣流・アスカ・ラングレー 
航空要員 シャナ

とかね。
って、これじゃツンデレ艦だけど。
しかし、ツンデレがここまで多いと、さすがにちょっとゲロ吐きそう。おえ。


萌えオタに媚びへつらわないという一点において、ジパング以上の作品はないはず。
もっとも、軍事オタクには媚びてるかもしれませんが。





さて、ここらへんが私が思う「Aさんが好みそうなアニメ」です。
「大衆に媚びないアニメ」というジャンルで考えると他にもいっぱいありそうではありますが、私の頭のなかに浮かんできたのはここらへんでした。
アニメに詳しい人だったら、もっとたくさんの作品を挙げられるでしょう。
Aさんは、私よりもアニメの知識が豊富なようなので、私の知らないアニメを推奨してくれるかもしれません。
さて、Aさんのオススメアニメはいったい何なのか?
実は、このアニメです。






















え?












ろ、ローゼンメイデン?



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・驚・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・呆






いやいやいや、それはないない。
ありえないでしょ。


ロリ専メイデン、、、じゃなくてローゼンメイデンは好きだし、これがただの萌えアニメでないということは分かります。
感動もできるし、いいアニメなのは確か。


しかし、良いと認めたうえで聞きますが、ローゼンが「あらゆる時代の、あらゆる立場の人々に愛される作品」ですか?
むしろ、「あらゆる時代の、あらゆる立場の人々に愛される作品」ではないからこそ、ローゼンってカルト的な人気があるように思えるんですけど。


たとえば、西郷隆盛みたいな人が、


「おいどんはローゼンメイデンがいちばん好きでごわす。翠星石、萌え萌えでごわす」


なんてことを言うのはとても想像できない。


「涼宮ハルヒがアイドルポップス」というAさんの言に従えば、ローゼンメイデンって、
「アイドルポップスなのに、意外と感動できる」とか
「アイドルポップスなのに、意外と深い」という、先入観と実際に見たときのズレで、感動を生み出すタイプだと思う。
結局のところ、「ハルヒ」も「ローゼン」も大きな括りで言えば、アイドルポップスなわけで、そんな狭いジャンルのなかで、一方だけを「所詮アイドルポップス」という貶し方をしてもしょうがないんじゃないでしょうか?
どっちもアイドルポップスに違いはないわけだから。


たとえば、上であげたプラネテスが好きな人が、「所詮、ハルヒはアイドルポップス」だと切り捨てるのは理解できるんですけどね。
ここでの理解ってのは、その人の感情に同意できる、という意味じゃなく、その人の主張に論理的一貫性があることを認めることができる、っていう意味ですけど。
しかし、ローゼン好きな人にそういうことを言われても、、、、、。
やっぱ説得力ってものがさ、、、。


まあ別に私はAさんに腹を立てているわけではないのです。
正直な感想を言えば、

「面白いなあ」

って思う。
まあ、興味深いと言ったほうがいいかもしれないけど。


オタク同士の対立(というかケンカ)って、ジャンルが遠いところにあるものの間ではあまり起こらなくて、こういうふうに近接している(ように見える)アニメ間で起こりやすいものなのかもしれない。
部外者からすれば、似たものどうしのあいだで、小さな差異をことさらに強調する。
それが時に感情的になったりする。
まあ、そういうことなんだろうなあ。


私も議論したりするのは好きなほうなんで、どしどし議論すればいいとは思うし、嫌いなものを嫌いとはっきり言える人間のほうが好きでもある。
ただ、それでもローゼンとハルヒの差異なんていう、しょぼいところで議論する気にはなれないけど。




ところで、私自身はハルヒとローゼンを比べるとどっちが好きだろう?
うーん。
よくわからない。
あんまり比較したことがないので。


しかし、マーロン・ブランドにこめかみに銃を突きつけられて、

「ハルヒとローゼンのどっちが好きか、答えろ。さもないと、その目の前にある平野綾のCDにお前の脳みそがつくことになるぞ」

なんて脅されたら、

「ど、どちらかといえばローゼンメイデン」

って答えるかも。


2007年03月08日

変な検索語

アニメ関係の検索ワードで来る人よりも、アーノルド坊やで来る人のほうが2倍くらい多いこのブログ。
アーノルド坊やなんて一つしか記事がないんですけど。


それに比べて9つも記事書いてるエウレカセブンでは全然来ない。
どういうこっちゃ。


そもそも、検索エンジン経由のアクセスがかなり少ないような気がする。
しかも、その検索ワードが、全然こっちが書いてないような語句だったりして不可解。
他のところもこんな感じなんですかね?
こんなワードで上位表示されてるわけはないと思うんだけど。
まあ、今はブログ検索とかもあるから、それでなのかもしれませんけど。


前から変なワードでここにたどり着く人が結構いたんだけれども、エロゲーの記事買いてからは、それが特に増えた。
やっぱエロ関係だと人は必死になるんだろうな。


ということで、今回はちょっと変わった検索ワードを紹介。



「やまがたのありとも切腹桜」

なんだろう、これ?
そもそも山縣有朋は切腹してないんですけど。
ひょっとして乃木希典と混同してるんでしょうか?
山縣と乃木じゃ、朝比奈みくると草薙素子くらいキャラが違うんですけど・・・・・。



「十二支がでてくるアニメ」

これはフルーツバスケットのタイトルが出てこなかったんでしょうか?
お役に立てて嬉しいです。



「男子の前で潮吹き」

お役に立てなくて申し訳ありません。
というか、今まで潮吹きなんて言葉は一度も使ったことないです。
そもそも、加藤鷹とかで検索したほうが有意義なんじゃないかと思いますが。



「『キョンの中の人の声で』とかにしようと思った..」

これは不可解。
この人はいったい何を思ってこんな語句で検索かけてきたのか。
そして、なぜ私のブログがヒットしてしまったのか。



「イリヤのブルマに触れる」

まあ気持ちは分かりますが・・・・。



「叶姉妹のエロ小説が読みたい」

気持ちがぜんぜん理解できませんが・・・。



「可能姉妹とセックス」

ためしにグーグルで検索してみたら、近親相姦のサイトがズラッとでてきてビビった。
成程。
「姉妹とセックス」「可能」ってことね。



「エロ涼宮透」

エロはともかく、涼宮透ってだれ?



「エロアメリカ人ゲーム」

どんなゲームなんだか。



「スカトロ少女マンガ」

そんな下品な少女マンガはない・・・・と思う。



「須王環ん玉」

下ネタの駄洒落で検索してくるのはやめてください。



「得ろ得ろエロエロエロエロエロエロエロエロ」

なにも、そこまで連呼しなくても・・・・。



「税理士のエロい人」

なぜ税理士限定?



「女の人はどこまでが股間」

うーん、どこまでだろう?
よくわかりません。
そんなことよりも、こんな微妙な問題をグーグルで解決しようとした、あなたがすごいと思う。

2007年03月03日

蟲師ともののけ姫

前の記事で2006年の一位に選んだ蟲師ですが、今日はちょっと詳述。






最初にこのアニメのDVDを一枚だけ借りて見たときは、そんなに強い印象はありませんでした。
「風景が綺麗で、神秘的な雰囲気のアニメだなー」くらいにしか思わなかった。
だけど、それから順に見ていくと、やっぱこれすごい。
こりゃ傑作でしょ。間違いなく。


まず、このアニメで描かれている日本の四季が異常なほど美しい。


春、桜がはらはらと散るさまは芳香がこっちまで匂ってきそうだし、
冬の雪が降り積もった景色は、しんとした静けさで満ちている。


その美しさはほとんどファンタジーの域。


かつては普通にあった日本の景色だけれども、今じゃ失われてしまったもの。
それが切ないような、哀しいような、ノスタルジックな情感をもたらします。


このアニメには様々な人々が登場するのですが、彼らに共通するのは、


「なにかを失った人たち」


であるってことでしょうか。


で、その喪失の直接的な、もしくは間接的な原因として「蟲」と呼ばれる、不思議な生命が関わっています。
彼らはその喪失を嘆いたり、悲しんだりするのですが、不思議なことに、その喪失の原因である「蟲」に彼らが怒りを見せることはほとんどありません。
たとえば、「自分をこんな酷い目にあわせた蟲を、おれは許せない」というような形での感情の表れがない。


彼らは蟲師であるギンコに喪失したものの回復を懇願したり、またはギンコに諭されて、自分が喪失を受け入れられるよう悲しい努力をしたりします。
自分たちとは異なる存在でありながら、それでも共に生きていかなければならない「蟲」に対する、こうした諦念とそれに伴うやるせなさはとても感動的なものです。


上の文章の「蟲」を「自然」と読みかえれば、これが日本人の持つ自然観にとても近いことが分かると思います。


つい日本人と書いちゃったけれども、こういう自然観は汎アジア的な広がりを持つ、かなり原初的なものなんじゃないでしょうか。
話の風呂敷を広げすぎちゃうと収拾がつかなくなるから、アジア的云々の話は止めときますが。
(第一、そんな文明論的な話をできる教養がない)


「自然と人間」というテーマといえば、だれでもジブリのアニメ、特に宮崎アニメを想起すると思います。
ですが、私は宮崎アニメよりも蟲師のほうがずっと日本人の感性にあった自然観(または宗教意識)だと思うのです。


宮崎駿のアニメのなかで、自然をテーマにしたものといえば、


風の谷のナウシカ  もののけ姫  となりのトトロ


あたりが思い浮かびます。


とりあえずトトロは横に置いておくことにして、他の二作品を見ていくことにします。


ナウシカともののけ姫はとても似通った作品です。
自然と科学技術の対立、そしてそれに伴う惨劇が描かれています。
まあ、ナウシカの漫画のほうは、後半そういう対立の構造とは離れていくので、ここではもののけ姫に焦点をしぼることにします。


もののけ姫のなかで、科学技術の側に立っているキャラクターはエボシです。


彼女は知的な上に勇敢で、しかも慈悲深さもあわせもっているという、まさに英雄と呼ばれるにふさわしい人物です。
彼女の人生哲学というのは、


「どんな困難な障害でも、人間の意志と行動によって打ち勝つ(征服する)ことができる」ということ。


彼女はとても「西洋的」な人物として造形されています。
不合理なもの、超自然的なものを彼女は信じない。
自然という対象物を、自分の知性の理解下におくことができるし、そしてそれ故に自然を征服することもできるという信念をもった人物、それがエボシです。


しかし、ある対象を自分の知性の光で照らし出すということは、不合理で不可解な闇の部分を切り捨てることに他なりません。
というのも、知性であったり理性というものは、整合性のないものを毛嫌いする性質があるから。


で、そうした知性、理性の光の届かない不合理で不可解な闇の部分を象徴するのが、もののけ達の住む暗い森です。
この森のなかでは、不可解な生き物が生息していたり、シシ神のような神秘が存在している。


ここでは、なにかを対象化し、その知識を系統化し、論理という名のフィクションへ放りこみ理解を得る、という我々が普段慣れ親しんでいる知的咀嚼は成り立ちません。
それよりも、不可解なものにたいする恐れや畏怖、またそれに伴う原初的な宗教的意識が醸成されている空間です。


この不可解で畏れを抱かせる「自然」の側に立っているキャラクターがサン、なわけですが彼女はエボシに比べるとキャラが立ってないような気はしますね。
というのも、原初的な「森への畏れ」を具現化したキャラクターが「美少女」というのはどうもしっくりこないから、なのかもしれません。
まあ、日本人の原初的な宗教観というのをどうやってキャラクター化(擬人化)すればいいのかってのは私にも全然分かりませんが。
ただ、そうした宗教観のなかでは、性的なものと自然の営みがシンクロしてるように感じられるはずで、性的な部分がどうしても必要になるような気はします。


そういえば、昔の猟師というのは、森に入るときに自慰をした、という話をなんかの本で読んだことがあります。
なんでも、森を女の神さまに見立てて、神さまの機嫌をとるために自慰をするらしいです。


あ!それを考えれば、森を象徴するのが、美少女であっても全然不思議ではないのか。
成程。
もっとも、男の自慰を見て喜ぶような神さまなら、サンのような処女(おそらく)ではなくて、もっと男を知った年増のほうがいいような気もしますが。


まあ、「サンが男の自慰を見て喜ぶか云々」という話はともかく、もののけ姫の世界では、二つの対立した空間が存在しています。
たたら場ともののけの森と。


この対立は空間的な対立であるだけでなく、人間の意識の階層としての対立でもあります。
もののけの住む森が神話的、古代的なものであるのに対して、たたら場は理性中心主義的、近代的なものとして描かれています。


で、この両者の対立は次第に激しくなり、ついには「戦争」が起こるわけです。


で、この映画の主人公である、アシタカの役割ってのは何なのでしょう?
どちらとも利害関係を持たないアシタカは両者の立場にそれぞれ一定程度の理解を示しますが、どちらかに肩入れするわけではありません。
彼は恐ろしい破滅が起きないように、両者のあいだを奔走します。
つまり、アシタカの役割というのは「調停者」です。


これは、ナウシカ(映画)の役割とまったく同じです。
ナウシカも王蟲の暴走を止めることで、調停者としての役割を果たしていました。
ただ、ナウシカ(映画)が調停者としての役割を立派に果たしたのに対して、もののけ姫のアシタカは失敗しているという違いはありますが。


風の谷のナウシカももののけ姫も、


相容れない両者の対立 → 調停(成功または失敗)


という物語展開は似通っています。


で、私は、ここらへんのストーリー展開って、「西洋的だなあ」と思っちゃうのです。
(西洋的というのは別に悪い意味で言ってるんじゃないですが)


まず自然と人間を対立するものとして構想している点。
もちろん、「時として」自然と人間は対立するという意識があり、その対立に焦点をあてて作った映画だということは分かります。
しかし、そういう製作者の意図を汲んだうえでも、こちらは対立の図式を見せられてるわけですから、それについて何か言ってもかまわんだろうと。


それに、たたら場ともののけの森は、意識の階層性を表わしているという話をしましたが、これなんかはとてもフロイト的です。
下のほうの意識(もののけ、サン)を上の意識(たたら場、エボシ)が押さえつけようとして、破滅を迎えるという図式です。


人間の意識というのは、階層になっていて、その底にはドロドロとした欲望が渦巻いている。
で、その欲望をあまりに強い倫理性で押さえつけていると、精神を壊してしまう、ということをフロイトは言いました。
(用語は違いますが、内容はだいたいこんなもんです)


フロイトはその著書のなかで、くりかえし


「下の意識にある欲望を患者が認識すれば、病気(ヒステリー)は必ず治る」


ということを言っています。


精神分析学入門や、夢判断を読んだことのある人なら分かると思いますが、これ何回も出てきます。


余談ですが、私はこれを読んだとき、こう思いました。


「プッ、このオッサン、必死だな(失笑)」って。


フロイトは、「患者がちゃんと認識すれば、必ず治るんだから、私の理論は正しい」ということを言いたいのですね。


もしフロイトの言った事実自体が正しいとしても、違う角度から見ればフロイトの理論を論破できちゃうんですけどね、これ。
まあ、今は関係ないので置いときますが。
(なんかフロイトを馬鹿にしてるように見えますが、確かに半分は馬鹿にしてます。だけど、やっぱ、なんだかんだでスゴい人です、フロイトは)


で、話を戻すと、もののけ姫では、自然と人間(もしくは科学技術)というのは対立した関係として表現されていました。
それは、意識の階層性の対立も含んだ形として、です。


では蟲師はどうでしょう?


このアニメのなかで、蟲という存在は一般の人間には見えないものとされています。
特殊な性質を持つ人間(たとえばギンコ)にしか蟲を見ることは出来ません。
つまり、目に見えない存在なので対立が生まれないのです。
違う言い方をすれば、蟲というのは意識化されない存在だということになります。


ナウシカにおける「蟲」が、目に見えるばかりでなく、凶暴な佇まいで、時に人間を襲う存在であったのと比べてみると面白い。
蟲師における蟲も、人間に悪影響を及ぼすのですが、その在りかたは前述したように、隠微で意識化されるかされないかの微妙なところに留まっています。


昔の日本人にとって、いや今の日本人にとってもそうかもしれませんが、自然とは蟲師における蟲のような存在だったのではないでしょうか?
普段は意識せず、対象化もしないけれども確実に側に在るもの。
時に悪影響を及ぼすけれども、それを恨んだりはしないもの。


蟲師のストーリーが派手さはないにもかかわらず、物哀しくも惹きつけられるものがあるのは、こういう理由もあるような気がします。












この文章書くの、すんごい苦労したんですけど、苦労のわりに出来が悪いです。
実はトトロについても書くつもりでいたんですが、それが上手くいかなかった。
トトロにおける子供観、自然観はルソー由来のものじゃないかっていう意味合いで書こうと思ったんですけど、「やっぱ違うな、これ」と思って止めちゃった。
まあ、そういう理由もあって、あんま面白くないですね、これ(言い訳)。


だったらボツにしろよって話ですが、どれだけ酷くても基本的にボツにすることはないので。
そういえばホスト部について書いたときも酷かったな。
典型的な駄文。


話はずれますが、これ書いてるときにナウシカのこととか調べてたら、久しぶりにナウシカ見たくなった。
思えば何年見てないんだろ、ナウシカ。
平気で10年は見てない。


こことか見てたら「ナウシカは巨乳」って書いてるんだけれども、ナウシカってそんなに胸デカかったっけ?
なんかあまり印象がない。
いや、でもね、今は平気でEカップとかがそこらへんを闊歩してるご時勢ですから、ナウシカの巨乳っつったってそんな大したことないはず。
ほら、高田が北尾を倒したときのハイキックは凄かったっていう記憶が残っていても、実際に見てみたら全然凄くない、これミルコのハイキック見たあとじゃ蠅が止まるようなキックだなってのと同じですよ、多分。
まあ、確認の意味もこめて、ちょいとばかし映像ソフトをレンタルしてくる。
ナウシカが本当に巨乳なのかどうかを確かめるために。


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