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2007年11月18日

アカギの鷲巣巌はなぜコミカルなのか?

washizu.jpg

前々から鷲巣巌ってコミカルだ、と思ってた。
変な呼吸音とか(クゥ、クゥ、カァ、カァ、お前はカラスかっての)、「お止めください、鷲巣様!」等の、部下との心温まるやりとりとか。
鷲巣ってよくも悪くもキャラ立ちしてる。
端的にいえば、鷲巣は笑えるってことだけど。

で、今回はその理由について考えてみた。

そんなことを考えてみてどうする、っていうまともな疑問が浮かんでこないでもなかったのだけれども、とりあえず考えてみた。


まず人間というものを「常人」と「狂人」に分けてみる。

常人というのは、一般常識の範囲で理解できる人間。
狂人というのは常識からはみでた行動をし、一般人には理解しがたい人間。

狂人というのは、別に精神病を患ってるとかそういう意味で言ってるのではなく、あくまで常人との相対的な距離感を感じさせる人っていうくらいの意味。

さて、こんなふうに極めて大雑把に人間というものを二分してみたときに、フィクションの主人公として選ばれるのはどっちだろう?
当然、これは「常人」のほうである。

主人公に共感できたほうが架空の物語に没頭しやすくなる。
だから、主人公がわれわれの理解の範囲内の人物であるほうがのぞましい。
いきなり、女をレイプして恬として恥じない、こんな主人公だったら誰が共感できるか?

一部の文学を除いては、基本的に主人公というのは常人である。
一見、破天荒に見える主人公であっても、実は心優しかったり、人類の危機には敢然として立ち向かっちゃったりするもんだ。

反対に、少年もののマンガなどでは敵役は狂人であって、平然と卑怯な振る舞いをし、またそれを恥じるところがない。
読者の共感が及ばないようにキャラ設定されていることが多い。


4884757238アカギ―闇に降り立った天才 (第4巻)
福本 伸行
竹書房 1994-06

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それじゃ「アカギ」における赤木しげるはどうだろう?

明らかにこれは「狂人」だ。

実際に作中で「(赤木は)狂人」って言われてたりするし。
そのほかにも「悪魔」「悪党」なんていう言い方もされてたりする。

対局した相手の精神を崩壊させるまで、執拗に相手を追い込むというのはどう見ても普通じゃない。
イカれてる。

「アカギ」における赤木しげるは読者の共感を集める対象ではなく、むしろ畏怖やそれにともなう憧憬といった感情をもたらす存在だ。
(ここでは語らないけど、天における赤木はまた別の存在だと思う)

この赤木の狂人っぷりというのは、ストーリーの語り方に典型的に現れてる。

406336674Xカイジ―賭博黙示録 (5) (ヤンマガKC (674))
福本 伸行
講談社 1997-07

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ここで「アカギ」を同じ福本作品の「カイジ」と比較してみる。

この二つのマンガは、「主人公が難局を知恵と度胸で乗り越えていく」というストーリー展開の点では、そう変わりはない。
しかし、ストーリーの語りかたという点では大きな違いがある。

それが、登場人物のモノローグ(独白)の割合。
モノローグってのは、マンガのなかで登場人物が自分の内心を語ってるヤツ。
フキダシに入ってない、アレ。

アレの正式名称があるのかどうか、よくわからないので、ここではとりあえずモノローグとしておくけれど、カイジの場合、モノローグの割合でいちばん多いのは、間違いなく主人公の伊藤開司だ。

利根川や大槻といった対戦相手のモノローグも確かにあるのだけれど、それはカイジのモノローグに比べれば、明らかに少ない。

当たり前と言えば当たり前の話なのだけれど、「カイジ」の主人公は 伊藤開司なのだから彼のモノローグがいちばん多くて当然なのである。

で、「アカギ」。

アカギの場合、モノローグがいちばん多いのは誰なのだろう?

登場キャラを

主人公(赤木)
対戦相手(市川、浦部)
傍観者(南郷、安岡)

この3つに分類して考えてみると、
対戦相手と傍観者のモノローグがたぶん、同じくらいの分量。
で、主人公である赤木だけが極端に少ない。

赤木のモノローグは、ストーリーを展開するうえで、必要不可欠なところでしか使われていない。

「アカギ」では、安岡などの第三者、また対戦相手のモノローグでストーリーを転がしていく。
赤木のモノローグを極端に減らすことによって、彼の行動を謎めいた不可解なものに見せ、それを後に赤木に解説させることによって謎解きのカタルシスをもたらそうとしている。

これによく似た手法が使われている小説ジャンルが一つある。
推理小説。
推理小説に出てくる名探偵というのは、最後の最後まで真相を語らないことが多い。
中盤までは、なにやら思わせぶりなことしか語らず、周囲にいる人間を混乱させることが常である。
主人公であるはずなのに、モノローグが極端に少ない(もしくはない)っていうのは、アカギと同じ。

シャーロック・ホームズシリーズの登場人物にむりやりアカギを当てはめてみると、ホームズが赤木、ワトソン役が安岡(後に仰木)という具合になってると思う。

鷲巣麻雀以前のアカギは、赤木という狂人に市川、浦部といった常人が敗れていく物語だ。
もちろん、市川、浦部が常人とは言っても、それはあくまで赤木という狂人と比較したときの相対的な評価ではある。
が、我々の存在に近いのは赤木よりも、むしろ市川や浦部だというのもまた事実だろう。

合理主義者の市川も保留の麻雀の浦部も、赤木の持つ狂、または凶に触れ、精神を崩壊させていく。
赤木と対峙することで、常人がそのまっとうな判断力を喪失していく過程。
そして、その過程を対戦相手(市川、浦部等)のモノローグを通して、われわれは見ていたのである。


ところで鷲巣。鷲巣巌。

こいつはどうだろう?
狂人であるか、それとも常人か?

そんなことはわざわざ聞くまでもない。

どっからどう見ても狂人そのものだ。

鷲巣は、吸血麻雀で若者を死に至らしめることを無上の喜びとする老人として登場してくる。
赤木もそりゃ狂であり、また凶であるけれども、この鷲巣の圧倒的な狂(凶)に比べれば、はるかにまともである。

つまり、ここで初めて対戦相手のほうが赤木よりも狂であるという事態が生まれている。

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いきなりだけど、この二つはアニメ「アカギ」のDVDボックス。

上のが浦部編まで。
下のは全部、鷲巣編になってる。

これ、鷲巣編のほうが評価が低い。

まあ、鷲巣編は途中で終わってるわけだし、
長いとか、
やっぱり長いとか、
いくらなんでも長すぎる、
とかの諸々の評価でこうなっているとは思うのだけれども、それ以外にも鷲巣編から物語の構造が変わったということも一つの要因なんじゃないかと思う。
(まあ、実を言うと、今回の記事ネタって、このアマゾンレビューを見て思いついたんですけど)

狂人である主人公が常人を精神崩壊させていく物語であったはずのアカギが、鷲巣の登場以降は常人が狂人を倒すという、一般的な物語に変質してしまっている。
ここで、赤木は相対的ながらも、常人になっている。
言ってみれば、鷲巣の登場以降、アカギはカイジと同じく常人が主人公の物語になった。

それはそれでいいんだけれども、既に述べたように鷲巣ってのは登場してきたときから狂だった。
しかも圧倒的な狂。

その鷲巣が赤木によって精神崩壊させられていく。
つまり、狂わされていく。
ここの展開はそれ以前のアカギとまったく同じ。

常人が狂ってしまうのはそりゃ悲劇だろう。
しかし、狂人が狂うのは、これ喜劇でしかないのである。

もともと鷲巣は狂人だから、それがもっと狂になったとき自然に過剰な表現になる。
オーバーアクションになる。

たとえば、赤木の捨て牌をロンしたと勘違いしたときの鷲巣。

「ロンッ・・・・!」
「ロンッ・・・・・・・!」
「ロンッ・・・・・・・!」
「ロンッ・・・・・・!」

「ロォンッ・・・・!」

駆け巡る脳内物質っ・・・・!
βーエンドルフィン・・・・!
チロシン・・・・・!
エンケファリン・・・・!
バリン・・・・・・!
リジン・・・・・!
ロイシン・・・・・!
イソロイシン・・・・!


笑っちゃうほど過剰な表現。
全部に!がついてるし。

ちなみに、このすぐ後、実はこれが安岡への差し込みだったことが分かり、逆上した鷲巣が牌を安岡に投げつけ、「(お止めください)鷲巣様!」と部下に羽交い絞めされるっていう、例の展開が繰り広げられてる。

つまり、狂人が狂うところを見せようとすると、ここまで過剰な表現が必要とされるのであり、それが鷲巣をコミカルに見せてる原因の一つではないか、と思う。

あと、鷲巣麻雀が長い、ってのもポイントかも。
この長丁場、鷲巣は何度も精神を崩壊させてきたわけで、そう何度も精神崩壊を見せられると、さすがにインパクトは薄れ「また、鈴木さんとこのお爺ちゃん、徘徊してるらしいわよ」的なご近所のちょっとした話題提供者くらいの位置にまで貶められるという効果を生んでるのかもしれない。



2007年09月24日

萌えという感情にエロは含まれるのか?

以前、2ちゃんねるで

「萌えに性的要素は含まれない。萌えというのは、もっと高次元の感情なのだ」

という趣旨のことを書いてた人がいた。

私はこれがずっと妙に気になってた。
まるで、喉元に突き刺さった魚の骨みたいに。

萌えに性的要素は含まれない。
それは本当なのだろうか?

なので、今回、検証してみることにした。

まず、検証するというからには、言葉を厳密に用いる必要がある。
ここは当然ながら「萌え」という言葉の定義について定めなければいけない。

「萌え」の定義。
私はそんなものに興味はない。

というのも、「萌え」という言葉は拡散しすぎてしまっているからだ。
「萌え」は別に二次元のキャラにのみ使われる言葉ではない。
女性アイドルに向かって「○○萌え〜」なんて使われているのはよく見るし、甚だしきにいたっては「ローゼン閣下萌え〜」なんていう使用すら見たことがある。

還暦過ぎた政治家にさえ使われる「萌え」の定義を定めるなんてことは虚しいだけだ。
というのも、言葉の定義というのは、「言葉の正しい使いかた」を提示するとともに、それに反するものを「間違った使いかた」として排除するものだからだ。

「萌え」はそれぞれの人がそれぞれの使いかたをしてるんだから、私がとやかく言うことではないだろう。
だいいち、「萌え」の定義を定めたところで、何かいいことが起こるとも思えない。
だから、そんなものはどうでもいい、のである。

ということで、この文章のなかの「萌え」はあくまで私自身の感じる「萌え」に限定させていただく。

つまり、この文で検証するのは「私自身が萌えるキャラに、私自身が性的要素を感じているか」ということである。

えっと なんか もう それは 検証とは 呼べない気がする よ

だけど、そこらへんはあまり気にしないことにして、検証を進めたい。
あくまで自分自身の感情のみの「検証」ではあるが、これも検証は検証なのだ。

さて、ということで私自身が「萌える」キャラをランダムにピックアップしてみた。
これは、かなり適当に選んでみたので、自分自身の「最萌え」というわけではない。
いわば実験材料みたいなもんである。
それで私が萌えたことのあるキャラがこちら。


藤岡ハルヒ(桜蘭高校ホスト部)
真紅(ローゼンメイデン)
鴇羽舞衣(舞-HiME)
テレサ・テスタロッサ(フルメタル・パニック)
綾波レイ(エヴァンゲリオン)
カミナギ・リョーコ(ゼーガペイン)
大阪(あずまんが大王)
瀬戸燦(瀬戸の花嫁)
カレン(コードギアス)

数えてみたら9人だった。

なんつーか、どうも、自分が萌えたキャラを発表するのって、意外に恥ずかしい。
自分の底が見透かされているような気分になる。
しかし、そんなところで乙女のように恥ずかしがっていてもしかたがないので、論を進めたい。

それで問題は、この9人に私が性的要素を感じているのかどうか、ということである。
「性的要素」というとちょっと分かりづらいので、ここはもっと直截的に「性欲を感じているかどうか」ってことに変換しておく。

しかし、この判別がかなりむずかしい。
というのも、人間の感情のどこからが性欲とみなしていいものなのか、私にはよくわからないからである。

たとえば、年頃が小学生くらいのかわいい女の子を街で見かけたとしよう。
かわいい女の子なので、私は「かわいい」と思う(変な日本語)。

さて、この小学生女子を「かわいい」という私の感情に、性欲は含まれているのだろうか?

このかわいい女子小学生をすぐさま拉致って、家に監禁し、自分の人肌のミルク、というか、いつも人肌のミルクをお腹いっぱい飲ませたい、飲ませてあげたい、いや、飲め!、、、、、とは別に思わない。

はっきり言ってそれは犯罪だし、はっきり言わなくてもそれは犯罪だし、さすがにこんなことを考えているわけではない。
こういう意味合いで私の「かわいい」という感情が生まれているわけではない。

しかし、本当にその「かわいい」に性欲が含まれていないのか、と聞かれると、ちょっと言葉に詰まるのである。

というのも、人間というのは大概のものを性的に見てしまえるものなのだ。

たとえば、父親が娘をかわいいと思う、そういう感情のなかに性的なものは含まれていないのか?
父親の娘を見る慈愛に満ちた眼差しにも、性的なものは混入しているのかもしれない。
たしかに、それはそうなのだ。

つまり「性的」だとか「性欲」という言葉の範囲はどこまでも拡大することができるのである。

しかし、父親の娘に対する感情にたとえ「性欲」が含まれていたとしても、実際に娘と性交に及ぶ父親はごくごくわずかである、というのもまた事実だ。
だから、自分の感情にたとえ性欲の影があったとしても、その感情を性欲以外の何物でもない、と断言するのは愚かしい。

ということで、ここは具体的に物事を考えることにする。

上であげた9人の萌えキャラ。
彼女らに私が性欲を感じているのかどうか、それを判別するのはもっと具体的な欲望で判別されるべきなのだ。
つまり、判断する基準はこうだ。

「そのキャラのエロ同人誌を見たいかどうか」

これだ!!!

この判断基準であれば、かなり明快に答えることができるはずである。
ということで、以下は上の萌えキャラのエロ同人誌が見たいかどうか、という私の具体的な欲望について検証してみたものである。



moefujioka.jpg
藤岡ハルヒ(桜蘭高校ホスト部)

[見たくない]
はっきり言って、藤岡ハルヒのエロには嫌悪感がある。
生理的に受け付けない。
もう一人のハルヒ、涼宮ハルヒについては言及しない。
実は、次回もエロ記事の予定なんだけど、そこで涼宮ハルヒの話を書くので。


moeshinku.jpg
真紅(ローゼンメイデン)

[ものすごく見たくない]
これは、もう無理。
道徳的な観点から拒否反応を示しているのではなくて、真紅のエロははっきり言って気色悪い。
吐き気がする。


moeayanami.jpg
綾波レイ(エヴァンゲリオン)

[見たい]
というか、もう既に何冊も読んでる。
なので、いまさら「見たい」とか「見たくない」とかの話ではないんだけど。
ところで、いままでエロ同人誌で最も描かれたキャラって誰なんだろう。
そんなのは誰にもわからないだろうけど、綾波、アスカの二人は確実にトップ10に入ってるんじゃないだろうか。
今度、CDTVとかでやってくれないかなあ。
こういう企画。


moemai.jpg
鴇羽舞衣(舞-HiME)

[見たい]
真紅に鴇羽舞衣なんて出すと「不人気の主役キャラが好きなのか」とか思われそうで、なんか心外。
おっと、エロの話。

鴇羽舞衣×エロ=全然オッケー

嫌悪感もまったくない。
なんなら、陵辱ものとかでもイケる。


moetessa.jpg
テレサ・テスタロッサ(フルメタル・パニック)

[見たい]
私はロリキャラは受け付けない体質なんだけど、テッサであれば大丈夫。
って何が大丈夫なんだか知らんけど。


moekaminagi.jpg
カミナギ・リョーコ(ゼーガペイン)

[保留]
えっと・・・、これは。
判断が難しい。
見たいような、見たくないような、自分でも感情が上手くつかめない。
だけど、実際に見てもあまり嫌悪感は抱かないような気がする。


moeoosaka.jpg
大阪(あずまんが大王)

[積極的に見たくない]
私が皇帝だったら、大阪のエロ同人誌は焚書にすると思う。
幸か不幸か、私には皇帝になる方法がよくわからないので、今のところ焚書にはなっていないが。


moesan.jpg
瀬戸燦(瀬戸の花嫁)

[保留]
カミナギと同じく、これもよくわからない。
欲望というのは不思議なもので、それが目覚めなければ自分自身にも欲望と認知されなかったりする。
だから、これは単に欲望が目覚めてない状態なのかもしれない。
ただ、

瀬戸燦×エロ

にそれほど嫌悪感は抱かないとは思うけど。


moekarren.jpg
カレン(コードギアス)

[見たい]
これは素直に見たいと思う。カレンのエロ同人誌。
いや、実際に読んだことあるんだけど。
実は私はC.C.のほうが好きだったりするんだけど、不思議とC.C.のエロは見たくないような気がする。
うーん。なぜだろう?
乳の大きさかな。


[検証結果発表]

ということで、検証してみたところ、

[見たい] 4人

[見たくない] 3人

[保留] 2人

という結果だった。

こうやって見ると、意外に[見たくない]が多い。

実は、この検証をしてみる前はこう思ってた。

「萌えに性的要素が含まれないなんてそんなバカなことがあるか。バリバリ含まれるわ、ボケぇ」って。

しかし、実際に試してみると、どうしても性欲が向かっていかないキャラが3人いた。
藤岡ハルヒ 真紅 大阪
しかも、この3人にエロを絡められると、相当な嫌悪感があったりする。

なるほど。
これは確かに「萌えに性的要素は含まれない」という言い方もアリなのかもしれない。
その人の「萌え」という感情の有効範囲によっては、たしかに性的なものが含まれてない場合があるのだろう。


[性欲を向けられるキャラとそうでないキャラの違い]

エロ目線で見ても平気なキャラとそうでないキャラがいるんだけど、この感情の違いはどこから来ているんだろう?
ちょっと考えてみた。

思いいれが強いキャラのエロは見たくない、っていう感情はかなり理解されやすいものだろうと思う。
実際にそういう人は多いのかもしれない。
とても好きだから汚したくない、みたいな。
しかし、とりあえずそれは私自身にはまったく当てはまってない。

というのも、上の9人のなかで最も思いいれが強いのは「綾波レイ」だからである。
「○○は俺の嫁」という言い方を借用すれば「綾波は俺の嫁」だ。
しかし、その嫁でヌキまくった経験が私にはある。
だから、思いいれの強さがエロを阻害する理論は私には通用しない。

それでは、どこでエロOKとエロNGの区別をしているのだろう、私は。

まず、その判断基準の一つにはすぐ気づいたんだけど、要するに「胸の大きさ」。
それが胸の大きなキャラだと、性欲のピストルを向けるのに何のためらいもない。
カレンに鴇羽舞衣が、その典型。
だけど、これが胸の小さなキャラだと、かなりためらってしまう。
ただ、この判断基準は個人的な性癖によるところ大なので、どうでもいいと思う。

次に気づいたのが作品ごとに、エロOKとエロNGを分別してるってこと。

たとえば、エヴァンゲリオン。
綾波をエロ目的で使用できるのはもちろんだが、エヴァに出てくる他のキャラも私は同様にエロ使用することができる。
アスカ、ミサト、リツコ、マヤ、すべてエロ使用が可能なのである。
これは、舞-HiMEも同様で、鴇羽舞衣、玖我なつき、藤乃静留、ここらへんはエロ使用することができる。
ただ、美袋命はちょっと無理かもしれないけど。

次に、ローゼンメイデン。
真紅がエロNGなのはすでに書いたとおりだが、他のローゼンメイデンたち。
水銀燈、翠星石、蒼星石、金糸雀、雛苺。
みんな性的な対象としては見ることができない。

ローゼンメイデンは容姿がアレだから特殊例だとも言えるけど、それなら、あずまんが大王。

あずまんが大王に出てくる、大阪以外のキャラも性的対象にならない。
ちよちゃん。いやいやいや、アリエナイ!
ちよちゃんがアリエナイのは当たり前にしても、その他の榊、とも、よみあたりも全部ダメ。
性的対象として見ることができない。
二人の女教師。
これも無理。

だけど、よくよく考えたらこの二人の女教師、谷崎ゆかり、黒沢みなもは年齢も高いわけだし、性的対象になりそうなもんである。
というか、これは積極的に性的対象として見るべきだ、とすら言える。
しかし、そういう目で見ることにどうも嫌悪感がある。

こうした嫌悪感が道徳的な規律から導き出されたものではないことは明らかだ。

だって、自分が性欲向けまくってる綾波って14歳だし。
いや、綾波に年齢は関係なかったりするか。
それじゃアスカでもいいや。
アスカを性的対象として見ることに私は何の逡巡も覚えてない。
だから、これは道徳に拠るものではなく、もっと別の基準で判断しているらしい。

・エヴァンゲリオン、舞-HiMEはほぼ全てのキャラをエロ使用することができる。

・ローゼンメイデン、あずまんが大王はほぼ全てのキャラをエロ使用できない。

これは、つまりその作品がエロをチラつかせているかどうか、ってとこで判断が分かれてるらしい。

たとえば、舞-HiMEは一話目からこんなシーンがあったりするし。

moemai1.jpg

moemai2.jpg

moemai3.jpg


こんなふうに「エロ」という撒き餌をばらまいてるような作品だと安心して、エロ使用できるらしい、私の場合。
エヴァだって、その手のエロ撒き餌は十分にまかれている。
シンジが綾波を押し倒してしまうところ、とか。

一方、ローゼンメイデンのように、エロ要素が限りなくゼロに近いものだと、エロ使用することに嫌悪感を覚える、そういうことらしい。
(PEACH-PITがローゼンメイデンに性的要素を入れないように気を使っている、みたいな文章をどっかで読んだ記憶があるんだけど、調べてみたら見つからなかった。記憶違いしてたのかなあ)

つまり、作り手の側が「これ使ってヌイていいですよー」っていうメッセージを発しているような作品だと、安心してヌイているってことか。
いや、「ヌイていいですよー」とは言ってないだろうけどさ。

今回、取り上げた中だと、フルメタル・パニックとかもそう。
これもテッサのみならず、千鳥かなめのほうもエロ使用することができるからなあ。

なんだか、こう考えてみると、自分自身がエロという意味ではまったくの凡人であることに気づく。
要するに、作り手の意思の範囲内でしかエロ妄想を膨らませることができていないのだ。
許可されたところでしか、エロ妄想できない、っていう。

私のようなエロ凡人に比べると、エロ達人はさぞかしスゴいのだろうなあ。

エロ達人。
なんだ、それ。

エロ禁止の広場で傍若無人にエロの花を咲かせることができる、それがエロ達人。
ちびまる子ちゃんのまる子、果ては日本むかし話のおばあさんでもヌケる。
たぶん、そういうのがエロ達人。

エロ達人か・・・・・。
なりたかねェな、そんなもんには。


[結論]

萌えに性的要素は含まれない、という言い方にも一理あるように感じたってのは文中で書いたとおり。

だけど、やっぱり、これは無理がある。
だって、これだとエロゲーのキャラには「萌え」って使えないことになってしまうから。

萌えの定義なんてどうでもいい、ということを冒頭で書いたけど、確かにそんなものはどうでもいい。
だけど、さすがにエロゲキャラに萌えという言葉を使えないってのはありえないだろう。

かといって、萌えに性的要素は含まれると断言することができないのもまた事実ではあるけど。

*なんか、今回の文章は中間部分をばっさり切ってしまえば、10行くらいで終わったような気が・・・・・。


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2007年07月29日

らき☆すたの閉じた笑いと電脳コイルの開かれた笑い

電脳コイルの12話があまりに面白かったんで、その興奮のまま、文章書いてアップしてみたのが昨日。
で、今読み返してみたら、「スゴい」だとか「面白い」だとか、極めて貧弱なボキャブラリーが並んでいて、小学生の読書感想文でも、もそっとましなコト書くじゃねぇか、って気づいたのが、今さっき。

前々から、どうも自分は誉めるのが苦手だなー、と思ってたんだけども、自分の頭のなかにある誉め言葉が「スゴい」と「面白い」だけじゃ、そら誉めるのが苦手なのも当たり前な話だ。

なので、今日はリベンジってことで、また同じテーマについて書いてみます。
というか、一日たってみたら、こういうポイントで書けばいいじゃん?って思いついたってだけの話なんだけど。

ということで、昨日も紹介してみた、この記事をもう一回。

[アニメ]今回の電脳コイルを見て思い浮かんだ作品って何?(ふぇいばりっとでいずより)

いや、今週(12話)の電脳コイルが面白すぎて、笑い涙が止まらなかった。

それにしても、この12話を見て連想する作品が様々なのが笑える。


1日たってみると、このTriple3さんの思考の流れが面白いなー、って思い始めた。

要するに、

電脳コイルの12話が面白い、と思った。
       ↓
で、この12話の元ネタっていろいろあるよなー、って思って、そこでも面白かった。


ってこと。

Triple3さんが、元ネタとしてあげてるものだけでなく、アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」なんかを上げている人もいた。

私自身も、昨日、落語に似たような噺があったなー、ってことを書いている。

だけど、そもそも、この電脳コイルの12話って、これらの元ネタをまったく知らなくても、そのままで面白いものなんだな、これが。
何の予備知識がなくても、話がそもそも面白いし、笑える。

別に、私は
「元ネタを知らないでも、笑えるのに、元ネタ探しなんていう不毛なことはやめろ」
みたいなことを言うつもりでは、全然なくて、元ネタ探して楽しむのも、もちろん良い。
それは人それぞれの楽しみかただし。

ただ、そのまま見ても面白いお話に対したときに、自然に「元ネタ探し」に向かってしまう、思考が興味深かった。

(ちょっと話が脱線するけれども、ちゃんと電脳コイルの話に戻ってくるんで勘弁してください)


[自分の笑いのツボを検証してみる]
そもそも、笑いとはなんだろう?
どのような経緯で笑いは生まれるのか。
しかし「笑いとは何か」みたいな、大上段に振りかぶったことは私の手には余る。
さすがに、それはあまりにテーマが広すぎて、処理しきれないから。

なので、ある芸人の芸を見て、自分が笑ってしまったとき、それがどんな感情なのかということについて、解剖してみようと思う。
できるかぎり客観的に。

神奈月という芸人がいるんだけど、彼のやるプロレスラーの物マネが私は大好き。
見るたびに爆笑してしまう。
ヒザの悪い武藤の物まねは、よくテレビでやるので、見たことのある人も多いだろうけど、馳浩の物まねとかも絶品。
馳というプロレスラーは、試合中に、南国に住む怪鳥のような、何とも形容しがたい声を常に発し続けているのだが、その物まねがメチャ面白い。
そういえば、ナンシー関も神奈月の馳の物まねを絶賛してたなー。
ありゃ、文句なしに面白いもん。
あくまで、プロレスファンにとっては、だけど。

今では、まるっきりプロレスを見ることがなくなってしまった私だが、元々は熱烈なプロレスファンだった。
一日の思考の75%くらいをプロレスが占めていたことさえあるくらい。
なんか、今考えると、あぶねーヤツだな、しかし。

で、神奈月のプロレスラーの物まねを見て笑っている私の感情を分析してみると、そこには、ある種の優越感が認められる。
つまり、「みんなには、このネタがわからないだろうけど、オレにはわかるよ」っていう感覚。
馳の試合を見たことがあるしね(ビデオで、だけど)、君たちには、このネタの何が面白いんだか、わからないだろうけど、オレはわかっちゃうよ、みたいな感じ。

こういう、プロレスに無知で馳の物まねが理解できない人々に対する、優越感みたいな感情がたしかにあって、それが(私の)笑いを助長していたりする。

だけど、この優越感っていうのは、よくよく考えると、まったく根拠のない感情であることに気づく。

たとえば、ポストモダニズムに関する高尚なジョークがあったとして、そのジョークを笑うことで、
「オレはこんなジョークもわかるくらい、頭がいいんだぜ」
みたいなことを示そうとする人がいたとする。

こんなのは、まるっきり嫌なヤツではあるが、ただ思考の流れはよくわかる。
ポストモダンなんてのは、一般人にはよくわからない高尚なものだし、その高尚なものに対するジョークが分かるということは、その笑った人の知性も高いとみなされうるからである。

しかし、私の場合はどうだろう。
私が知っていたのは、「馳というプロレスラーは試合中、変な声を出す」という、まったくもって下らない知識である。
こんなことを知っていたからといって自慢になるだろうか?
いや、自慢にならないどころか、かえって恥くらいなもんである。

それなのに、笑っているとき、私はたしかに優越感を感じていた。
なぜだろう?

それは、たぶん「この物まねを理解できる人々の輪」の中に入っていたからだ。

この神奈月の物まねをテレビで見たとき、私は一人だったが、今、このテレビを見て、私と同じように笑っているプロレスファンの存在を、どこかで意識していたような気がする。
要するに、私と同じ知識を持ち(馳の試合を見たことがある)、同じ感性を持つ(馳の掛け声は変だ)、プロレスファンとの同胞意識が確かにあった。

この同胞意識というのは、先ほどの「プロレスの知識がない一般人に対する優越感」と、ちょうど対になっている感情である。
プロレスファンと肩を組んで、「あいつら(一般人)には、この物まねの面白さがわかんねーだろうけど、オレらは分かるもんな」って優越感に浸っている感じ。
ってこれ、全部、想像上でのことなんではあるけど。

まあ、こういった「優越感」と「同胞意識」というのがないまぜになって、馳の物まねに私は笑っていたんじゃないか、というのが分析結果。
ここには、同胞意識によってプロレスファンが一つにまとまる効果と、それと同時に一般人に対する排除の意識がうかがえる。

いままで、このブログを読んでくださってるアニオタの皆さんには、全く興味がないだろうプロレス話を続けてきたんだけど、これはあえてそうやってみた。
自分の興味のない笑いの話のほうが、ずっと理解しやすいだろうと思ったからである。

というのも、私が神奈月の馳の物まねで爆笑してたのと同じ感覚をあなたがたは最近味わったことがありませんか?ってこと。

そう、このアニメを見ていて。

らき☆すた
らき☆すた 2 限定版


らき☆すたを見ていて「わかる、わかるぅ」っていう感覚を覚えた人は多いだろうが、それは自分だけが「わかる、わかるぅ」なのではない。
他のオタクと一緒になって「わかる、わかるぅ」なのである。

そこには、オタク同士に発生する同胞意識と、一般人に対する優越感が同時に存在している。
この同胞意識と優越感っていうものがあるからこそ、らき☆すたは笑えるのである。

言ってみれば、らき☆すたの笑いというものは、閉じた笑いである。
というか、閉じているからこそ笑えるのである。

らき☆すたで挟まれる、数々の小ネタは、一般人には理解できないものだからこそ笑える。
これが、一般人にも了解可能なものだったら、必ず笑いは半減する。
なぜなら、開かれた空間では同胞意識も、またそれに付随する優越感もなりたたないからである。

これが良いとか悪いとか言ってるわけじゃない。
ただ、らき☆すたっていうのは、そうしたもんだ、ということだ。
馳の物まねに笑ってたナンシー関と、らき☆すたに笑ってたオタクというのは似てるってこと(書くの忘れてたけど、ナンシーも熱烈なプロレスファンだった)。

そういえば、らき☆すたのOPをオリコン一位にしよう、という運動があったけれども、これ、傍目には理解不能な行動である。
オリコン上位に入って一般人の注目を集めたところで、一般人にはらき☆すたなんて理解できるはずがないだろう。
これが、コードギアスとか時をかける少女とかだったら、一般人にも理解できるかもしれないけど、らき☆すたみたいな、オタク話を延々するだけ、のアニメが理解されるはずもない。

しかし、上の笑いに含まれる同胞意識と優越感ということを考えてみれば、理解できなくもない。
同胞の力を一般人に誇示することで優越感を得ようとしたのだ、と考えればそれなりに納得はできるのである。

で、話が回りに回って、やっと電脳コイルの話。

これは、らき☆すたの笑いとはぜんぜん違うんである。
他の作品の知識を参照しなければ、理解できない笑いではぜんぜんない。
まったく、オタク的知識がなくとも、ちゃんと笑えることができる。
電脳コイルの場合は、開かれているのだ、つまりは。

「アレに似てる、コレに似てる」って言うことはもちろん可能だけど、そういう消費のされ方を目的としていない。
同胞意識に頼ろうとはしていない。

これだけは言っておこうとは思うけれども、電脳コイルのこういう開かれた笑いのほうが作るのが大変なのは事実だ。
なにしろ、共通理解のない一般人を相手にネタを作ってるわけだから。

そして、こういう笑いのほうが、高く評価されるべきだ、と私は考えていたりするんだけど、馳の物まねという、すんごい閉じられた空間で爆笑してた私は、それを強くいえないのも事実だったりして。
やっぱ、楽しいからね、閉じた笑いって。

まあ、アレですよ。
結局のところ、電脳コイルの12話はスゴかったなーって話だ。
(あいかわらず、誉めるとなるとスゴいしか出てこないわ)

電脳コイル (2) 限定版


2007年07月06日

「時をかける少女」原作小説とアニメの相違点

時に縛られた少女は時をかける夢を見る

前回の記事で、

「原作小説の「時をかける少女」はつまらないけど、アニメ映画「時をかける少女」は面白かった」

みたいな趣旨のことを書いた。

この記事を書いたあとで、筒井康隆が「時をかける少女は書きたくて書いた作品ではない」という発言をしていることを知ったんだけど、やっぱ、筒井自身も、この小説がそう大したもんじゃない、と思ってるんだなと思った。
だいいち、筒井康隆という小説家のスゴさってのは、「時をかける少女」の中にはぜんぜん現れてないわけだし。

で、私は、小説「時をかける少女」が×で、アニメ「時をかける少女」を○と評価したわけだけども、それじゃあ、具体的にどこがどう違っているんだろう?
どうして、こんなに真逆の評価になるのだろう。

ということで、今回は、小説とアニメの相違点を検証してみることにします。
プロット部分での比較が多めかもしれないです。


まず、最初に書いておかなければならないことがあって、小説とアニメじゃ登場人物の名前が違っている。

小説(アニメ)

芳山和子(紺野真琴)
深町一夫(間宮千昭)
浅倉吾朗(津田功介)

これは、単に登場人物の名前が変わっているということではなくて、アニメは、小説の世界から20年後という設定になっているらしく、小説のヒロインの芳山和子は、アニメのほうでは、真琴のおばさんとして登場している(このこと自体は作中では触れられてない)。
個々のキャラの性格もかなり違う。

しかし、基本的な役割は小説もアニメも変わらない。
芳山和子(紺野真琴)は、ひょんなことからタイムリープの特殊能力を身に付けた女の子だし、深町一夫(間宮千昭)は未来人という設定も同じ。
なので、これらの対応する人物は同じキャラとみなして話を進めます。


相違点@「自分の意思でタイムリープできるかどうか」
jump.jpg

真琴(アニメ)は、カラオケをしまくりたい、とかの下らない目的でタイムリープを何度も使うわけだけど、和子(小説)はそういう目的のために使わない。
というか、和子が自分の意思でタイムリープするのは、最後の一回だけ。
それまでは、自分の意思でタイムリープすることはできず、事故にあうとか、または事故にあいそうだ、という緊急事態にしかタイムリープすることができなかった。

アニメでは、自由自在に自分の意思でタイムリープできるという可能性を示すことによって、今生きている「時」が取り返しのつかない「時」であることを逆照射する形になっていることは前回述べたんだけど、こういう構造は小説にはない。


相違点A「秘密を知っている人間の数」
obasan.jpg

小説では、タイムリープしてしまった後に、和子が自分の秘密を深町一夫、浅倉吾朗の二人の友達に打ち明けている。
また、その後、福島先生という理科の先生に相談するシーンもある。
アニメだと、真琴が相談するのはおばさん(和子)ただ一人。

テンポの良さであまり気にならないけど、よくよく考えてみると、アニメで真琴が千昭、功介に何も相談しない、っていうのはかなり不自然。
あれだけ仲が良いんだから、普通だったら相談するはず。
別に他の人間にタイムリープの秘密を知られたらいけないとかの禁止事項があるわけじゃないんだから。
ここらへんはストーリー展開に不要なものをあえて省いてる感じがする。


相違点B「小説では深町一夫(千昭)の告白シーンがない」
yuuhi.jpg

いや、あるんだけどね。
一応、あるんだけど、これはラストシーンで、深町一夫の正体がわかった後での和子への告白という形。
それまでは、この二人の間に恋愛感情があるんだかないんだか、かなり微妙な描かれ方をしてる。
これが、小説「時をかける少女」を淡白にしてるところ。


相違点C「ラストシーンに至る流れ」
jikkensitu.jpg

小説では、タイムリープ能力を得ることになった時間まで遡ってきた和子が、実験室で待ち構えていたところに、深町一夫が登場。
真相がわかる、という流れ。

アニメだと、真琴が実験室に隠れてるところまでは一緒だが、そこから、功介を探し出す、千昭からタイムリープのことを問いただされる、そして功介の事故シーン、という流れで真相発覚。

こうしてみると、アニメ版は二重、三重に手が加えられてるなー、という印象。
小説は、ここでもそうなんだけど、淡白すぎるんだな、これ。
あっさりしすぎてる。


他にも、タイムリープの引き金になったのが、ラベンダー(小説)とくるみ(アニメ)とかの相違点はあるけど、そこらへんは瑣末なことじゃないかと思います。

こうやって一覧にしてみると、アニメは小説に何を付け加え、また何を省いたのかが見えてくる。

まず最初に省いたものから言うと、タイムリープに関するウンチク。
小説のほうでは、タイムリープとは何か、みたいなウンチク話が結構あるんだけど、アニメ版では秘密を知っている人間の数を減らすことによって、ウンチク話を回避してる。
おばさん(和子)は、かつてのタイムリープ経験者という裏設定があるので、タイムリープに関するウンチク話をしそうなもんであるが、それは必要最小限にとどめられている。
ここらへんは、話のテンポを上げるために、わざと省いたところなんじゃないか、と。

それで、付け加えられたもののほうは簡単で、まあ、恋愛。
真琴の恋愛感情の芽生えみたいなのはかなり詳細に描かれている。

それと、タイムリープできる回数。
小説のなかでタイムリープするのって、たしか三回だけだし。
アニメでいったい何回タイムリープしたのかは覚えてないけど、まあ、とにかくいっぱい。
くよくよ悩んだりするよりも、体で行動するのが真琴というキャラクターなんで、それを表現してるのか、と思う。
それと何度もタイムリープすることによって、繰り返しのギャグを作ってるのは、見た人ならご存知の通り。


これで終わりなんだけど、蛇足ながら、小説のヒロイン、芳山和子のキャラにも触れておきたい。
昔の小説、ということもあってか、この芳山和子の言葉遣いが古い。
とても古い。
これは四の五の言うより先に、実例を見ていただければわかると思うので、以下は小説「時をかける少女」からの抜粋。


和子はふと不審なことに思いあたり、一夫に尋ねた。
「あなたは、どうしてわたしに、こんなにいろんなことを説明してくださるの?」
一夫はしばらく考えてから、答えた。
「そりゃ、きみがいろいろなことで悩んでいたから、説明する義務があると思ってさ」
「だって、あなたにとって、わたしは過去の人間でしょう?あなたが未来へ帰ってしまえば、あなたとわたしの間には、何のつながりもなくなるのに・・・・・・・」
一夫は、しばらく、困ったような表情で、下を向いていたが、やがて和子の顔をまともに見ると、思い切ったように、こういったのである。
「じゃあ、いってしまおう。きみが好きになったからさ」
「まあ!」
和子はあきれてしまった。なんておませなんだろう!


なんておませなんだろう!なんておませなんだろう!なんておませなんだろう!


萌えーーー

られない。

時をかける少女 限定版

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時のオカリナってやったことがないんだよなー。
やってみたいけど、それだけのために64買うのもね。

2007年07月03日

時に縛られた少女は時をかける夢を見る

ホントに今さらなんだけども、つい最近、アニメ映画の「時をかける少女」を見たんで、今回はその感想です。

時をかける少女 通常版

「時かけ」観てきました(たけくまメモ)
アニメ「時をかける少女」海外批評 海外アニメサイトレビュー(誤訳御免!)

もともと、これらの記事を読んでいたんで、評判がいいのは知っていましたけど、実際に見ると案外、期待はずれだったりするんじゃないの、とか思いながら見たんですが、実際に見てみると、実際に見てみたら、、、、、これ、すごく良かったです。

たしかに、とんでもない傑作ってわけではないんだけども、たけくまメモに書かれているとおり、「爽やかな青春映画」って感じで、見終わったあと、やたらにすがすがしかった。
今度、テレビ放映があるらしいんで、見たことのない人はぜひ見てください。
すごくイイです。



おしまい。



・・・・・・・・・・・じゃなくて、ここからが本題。

時をかける少女って、今まで、ドラマ、映画、今回はアニメ映画といろいろな形で映像化されてる。
たしか内田有紀主演のドラマとかもあったっけ。
私は、今回のアニメ映画以外、それらを見たことがない。

しかし、筒井康隆の原作小説のほうはかなり前に読んだことがある。
ずいぶんと昔の話なんで、記憶が曖昧だったりするんだけど、この「時をかける少女」という小説は、ひどく退屈だった。
今回、この記事を書くにあたって、さっと読み返してみたんだけど、やっぱりその印象は変わらなかった。

これがジュブナイル小説であることを差し引いても、はっきり言ってそう大したもんじゃない。
だれでも思いつくようなプロットではあるし、登場人物の感情も、あまり上手く描かれているとは思えない。
やっぱ、退屈。

パプリカ、時をかける少女と、筒井康隆原作のアニメが良出来だったので、

「筒井は神!」

みたいな言い方を目にしたりするけど、これ実際に小説を読んで言っているのだろうか。

私は筒井康隆の大ファンというわけではないけれども、そこそこ彼の小説は読んでいて、そのうちのいくつかはかなり好きだったりする。
(もっとも、パプリカは読んでないけど)
だから、筒井康隆が才能のある小説家であることはわかっているけど、時をかける少女に関しては駄作としか言いようがない。

それじゃ、そんな不出来な小説がなぜ、こう何度も映像化されるのか?
それは「時をかける少女」というネーミング、そして、そこにこめられたイメージによるものじゃないか、と思うのだ。

考えてみれば、「少女」ほど「時」に縛られている存在もまたない。
「少女」と呼ばれる「時」は、ほんの一瞬に過ぎず、また、その「時」が一度、過ぎ去ってしまえば、もう二度と取り返すことはできない。

たとえば、男に向かって「あの人はいつまでも少年の心を忘れない人だ」みたいなことを言えば、これは誉め言葉になる。
インディジョーンズのハリソン・フォードみたいなイメージがある。

ところが、「いつまでも少女の心を忘れない」女というのはどうだろう?
どうにも、グロテスクじゃないだろうか。
ロリータファッションに身を包んだ、40くらいのおばさんが頭に思い浮かんで、ちょっと欝な気分になる。

男というものが、茫洋とした時のなかでのんべんだらりと生きているのに対して、女の人は「時」に急かされて生きている。

これは、容色の衰えだったり、社会から精神的な成熟を要求されるとかの複数の意味をこめて言っているんだけど、「時」というものに対する女の人の切実感というのは、男のそれの比ではないだろう。

少女はやがて、女にならざるをえないし、女はやがて母になる。
母になることを拒否した女は、また別の何かになるだけだ。

女は「時」の速さにおびえ、化粧にこったり、エステにいったり、またあるときはヒアルロン酸を注入するといった荒業に出るが、「時」そのものを止めることは決してできない。
(ちなみに、「時」の移ろいに身を任せた女は「おばさん」という名称で呼ばれたりする)

「少女」なんてのは、人生のうちでほんの一瞬でしかない。
「少女」は「時」に縛られていて、それはもうどうすることもできないのだから。
しかし、そうであるがゆえに、女ってのは「今ある一瞬」が取り返しのつかない、大事な「時」であることに自覚的なのかもしれない。


こう考えたときに、「時をかける少女」ってのはとても逆説的なネーミングだ。
「時」に束縛される存在である「少女」が「時をかける」。

それは現実とは逆さまであるがゆえに、ひどく甘美なファンタジーだ。
この逆説的なネーミング、そして、その切ないイメージゆえに、「時をかける少女」ってのは、人を惹きつけてきたんじゃないかな、と思ったりする。


で、この「時をかける少女」というアニメ映画のなかでは、「今あるこの一瞬がリセット不可能な取り返しのつかない『時』である」ということがテーマになっているんだけど、実は、このテーマは原作小説のなかでは、あまり現れていない。

読んでもらえばわかるけど、原作小説のなかではそもそも「タイムリープ」は、主人公が自分の意識で発揮できる能力ではなくて、なにか危機が起こったときに、自然に発動してしまう特殊能力なんである。

だから、アニメで真琴が自由自在にタイムリープしている、ってのは、原作からの改変部分になってるわけだ。
この「自由にタイムリープできる」という能力を持っていることによって、「この一瞬がかけがえのない『時』である」という事実を逆照射していく構造になっているわけだけど、これはホントに見事だな、と思った。

このまえ、放映していた、アニメ夜話のなかで、岡田斗司夫は、

「どうやってもね、この『時をかける少女』って、映画化するとき、みんなアイドル映画として作りたくなっちゃうんですよね」

なんてことを言っていた。

アイドル(特に女の)というものは、「少女」という「時」を商品化したものだから、「時をかける少女」とよく合うのは、当然なのである。
男のアイドルというのは、スマップみたいに息が長かったりするけれども、女のアイドルなんてのは旬の時期は3年くらいのもんだろう。
喋りが上手ければバラエティで、演技が上手ければ女優として延命することはできるけれども、アイドルとして持つのは、ほんのわずかな期間でしかない。
そういう期間限定商品としての、切なさみたいなのが、「時をかける少女」と上手くあっていたんじゃないだろうか。

そういうアイドルという存在に頼らず、プロットで、「時」の過ぎ行く切なさを描いた、このアニメ映画ってのは、やっぱ大したもんだ、と思いますよ。いや、マジで。

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*あ、そうそう、地上波の放送予定はこちら。
「時をかける少女」地上波テレビ放送決定ふぇいばりっとでいず経由)

2007年07月01日

ドラゴンボールのキャラが強くなりすぎてしまう理由

北斗の拳 12 遠い誓いの巻 (12)


北斗の拳というマンガのなかで、敵キャラであるラオウの肉体はかなりデカく描かれている。
主人公のケンシロウと並ぶと、中学生と大人くらいの体格差がある(ひょっとしたら、もっとかも)。

これが兄弟にはとても見えないというか、そもそも人種自体が違うように見えるというか、もっといえば、動物の種類からして異なっているようにさえ見えるというか。

ラオウはデカい。
すごくデカい。

北斗の拳に限らず、敵キャラの体を大きく描くというのは、かなりありふれた現象である。

たとえば、あしたのジョー。

もともと原作者の梶原一騎は、力石をジョーの終生のライバルとして考えていた。
ところが、漫画家のちばてつやは、力石が単なる雑魚キャラなんだと思っていて、初登場シーンで、力石の体を大きく描いてしまった。
どう見ても、力石の体格はジョーよりも一回りほどデカイ。
つまり、ボクシングで言えば、二、三階級上の体である。
なので、力石をジョーと戦わせるために、あの過酷な減量のシーンが挟まれた。

という、有名なエピソードがあるけれども、漫画家っていうのは、やっぱり敵キャラの体をデカく描きたいもんなんだと思う。

何故っていえば話は簡単で、「そのほうが強く見えるから」。
そして、敵キャラが強そうに見えたほうが、話が面白いから。

人々がバトル漫画に求めるのは「逆転」の物語だ。
最初から、メチャ強い主人公が危なげなく、敵を倒していく。
こんな話が面白いわけがない。
ヒョードルみたいなのが主人公で、当然のように勝ち進んでいく話なんて詰まらない。
(ヒョードルはたしかリングスで一回、判定負けしただけ。それもバッティングによる出血が原因という不慮の事故)

それよりも、一見弱そうに見えたり、もしくは落ちこぼれだったりする主人公が、努力と根性で強くなっていく物語のほうが、ずっと面白い。
そのほうが共感できる。
興奮できる。
燃えられる。

だから、漫画家は敵キャラの体を大きく描きたがるのだと思う。
敵キャラを大きく、そして主人公の体を小さく描くことによって、視覚的に強弱関係をアピールしているわけだ。
「この敵キャラは強いですよ」ってことを絵で示そうとしている。
そして、同時に「主人公は不利な状況に置かれてますよ」ということも示している。


と、こうして考えてみたときに気になる漫画が一つある。

ドラゴンボールである。

ドラゴンボール―完全版 (11)

(以下からドラゴンボールの話になるのですが、あいにく手元にドラゴンボールの単行本が全部揃っているわけではないので、ほとんど、私の記憶を頼りに書いてます。だから、記憶違いもあるかもしれませんが、そこらへんは容赦してください)


ドラゴンボールの前半部分では、敵キャラの体は主人公の孫悟空よりもデカい。
ヤムチャ、桃白白(タオパイパイ)、天津飯。
彼らの肉体は悟空よりも大きく描かれている。

もっとも、これは、敵キャラの体がデカいというよりは、この時点では悟空が子供だったために、相対的に敵キャラのほうが体がデカかった、という感じである。

悟空が成長して、大人の体で描かれるようになったのって、たしかピッコロと二度目に戦うとき、だったと思う。
あのマジュニアとの戦いのとき。

ここらへんは記憶が曖昧なんだけど、この時点でも悟空の体はピッコロよりも、多少小さかったように思う。

ピッコロ編までは、こういう、悟空(小)<敵キャラ(大)という不等号が基本的になりたっている。
北斗の拳でラオウの体が大きく描かれるのとまったく同じ原理なわけである。
もっとも、ドラゴンボールの場合は敵キャラが大きいというより、悟空が小さいわけだけど。

ところが、悟空が大人の体になってしまったピッコロ編以降はこの不等号が逆転してしまう。

ピッコロの次の敵キャラは、ベジータであるが、ベジータの体は悟空よりも小さい。
これは悟空が成長したので、悟空との比較で相対的にベジータの体が小さいというだけでなく、ベジータは他のピッコロ、天津飯とかと比べても明らかにチビである。
敵キャラといっても、脇役的存在のラディッツは悟空と同体格だし、ナッパは悟空よりも一回り体がデカかったりするが、肝心のボスキャラのベジータはチビ。

この時点で、

悟空(大)>敵キャラ(小)

という不等号に変わっているわけであるが、ベジータが他のキャラと比較してもチビであることを考えると、この不等号は、もっと、

悟空(大)>>>>敵キャラ(小)

みたいに、ベジータの小ささを強調しているようにも感じる。

この不等号は、次のフリーザ編でもまったく同じで、部下の脇役にデカいキャラはいるけど、肝心のフリーザはチビ。

魔人ブウはチビではないけど、悟空よりは少し背が低い。
そして、そんな身長がどうこうよりも「デブ」である。
見た目はぜんぜん強そうじゃない。

ところで、皆さんはこいつのことを覚えているだろうか。

cell.jpg

私はこのセルのことをまったく忘れていた。

フリーザ編のあとに、レッドリボン軍と戦う、ということは覚えていたんだけど、このレッドリボン軍のボスキャラがどうしても思いだせなかった。

いやー、クリリンの嫁とかは、ちゃんと覚えてたんだけどなー。
なかなか、このセルが出てこなかった。

ベジータ以降の、ボスキャラのなかで、このセルだけが「見た目が強そう」なキャラ。
たしか、このセルは体も悟空より一回りほど大きかったはずだし、見た目もなんか強そうである。

とにかく、このセルを除けば、ベジータ以降のボスキャラはすべて「見た目が弱そう」なキャラということになる。

ベジータ(チビ)
フリーザ(チビ)
魔人ブウ(デブ)

こんなふうに。

悟空の体が大きくなってから以降、ボスキャラの見た目が弱そうになっている。
「一見、弱そうだけど、実はすんごく強い」というふうに、見た目と実力のギャップを出すことによって、インパクトを出す方向にキャラ造形が変わっているのは明らかなように感じる。

悟空の体が大きくなったんなら、敵キャラはもっと大きくすればいいんじゃないか、という考え方も当然ありえた。
たとえば、フリーザ編のあとに、フリーザの父というのが出てくるが、こいつなんかは見た目が強そうだ。
体が尋常じゃなくデカいし。

dragonball.jpg

しかし、ご存知のとおり、こいつは登場したと思った瞬間に、トランクスに殺されている。

こういうキャラ造形が、意図的にやったものか、無意識的にやったものかはわからないけれども、とりあえず、読者にインパクトを与えたのは確かじゃないだろうか。
ベジータもフリーザも印象に残ってるし。
それに比べると、通常のキャラ造形の発想でつくられた、セルはどうも陰が薄いような気がする。

まあ、これはただ単に私が忘れてただけかもしれないけども。
ただ、試しに知人にドラゴンボールのボスキャラの名前をあげてもらったら、

「ベジータ、フリーザ、、、、、、、魔人ブウ?」

って答えてたので、セルを忘れてたのは私だけではないらしい。

ただ、こうしたキャラ造形はドラゴンボールに一つの欠点を与えたような気がしないでもない。


スーパーマンvsサイヤ人で議論白熱! メジャーリーガー大塚選手の日記から窺い知れる日本アニメの海外浸透度

いや、スーパーマンと比べられても…と思ったけど、そういやドラゴンボールでもしまいにはみんな普通に空飛んでましたね。亀仙人が結構最初の方でかめはめ波で月を一撃で吹っ飛ばしてましたけど、最後にはみんな成長しすぎて、強さでいえば亀仙人がドラクエのスライム並の雑魚キャラになっちゃってて、強さのインフレ化の頂点を極めたような作品でしたし。

最後のほうでは、雑魚キャラじゃなければ、地球の一つくらい余裕で壊せる、くらいまで強さのインフレ化が進んだわけだけど、やっぱ、このインフレ化は異常。

バトル漫画においては、

強敵を倒す→その強敵よりももっと強い強敵が現れる→もっと強い強敵を倒すと、もっともっと強い強敵が現れる

というふうに、強さのインフレ化というのは避けられないものではあるけれども、それでも、他のバトル漫画と比較してもドラゴンボールのインフレ化は群を抜いている。

いくら強いといっても、ケンシロウが地球を壊せるだろうか?
ナルトの螺旋丸は地球を壊せるだろうか?
ルフィは地球を壊せるほど強いだろうか?

ドラゴンボールで、この強さのインフレ化が加速したのは、ベジータ編以降のように思う。
たしかに、最初のほうで、亀仙人が月をかめはめ波でぶっとばすシーンがあるけれども、これはドラゴンボールのなかでは「無かったこと」にされてる感がある。

ピッコロ編までは、

「動きが速過ぎて、体が分身して見える」

とかの、ある程度常識の範囲に収まる程度の強さだった。
(あくまでバトル漫画での常識だけど)

それがベジータ編以降、「地球をぶっこわせる」くらいまで強さがインフレーションしてしまうのは、やっぱ、これはボスキャラの「見た目が弱そう」であることと無縁ではないんじゃないだろうか。

見た目で「こいつは強そう」と読者に思わせることができないため、別の方法で強さをアピールせざるを得ない(地球を壊せるとか)という事情があったんじゃないか、と思ったりする。

そういえば、ナルトもまた、孫悟空と同じで体が成長しているけれども、ナルトはまだ敵キャラと比べると小さいような感じがする。
イタチとかよりも小さいし。

私はここで予言しておく。
ナルトの体がこれからさらに成長して、体の小さい敵キャラが出てくるようになったとしたら、ナルトの螺旋丸は地球を壊せるようになるだろう、と。

*どうでもいいことなんだけど、螺旋丸って必殺技としてはショボくないですか?
螺旋丸を飛ばせたりするわけでもないし。
相手に直接触れなきゃ意味ないんだから、あんなの簡単にかわせそうなもんだ。
まあ、そのうち飛ばせるようになっちゃったりするんだろうけど、螺旋丸。
しかし、飛ばせるようになった螺旋丸はかめはめ波と同じような気がする。

[関連記事]
「不当な評価」からの逆転で物語は面白くなる
この記事ではコナンのことが取り上げられてますが、そういえばコナンも体が小さいです。
漫画、アニメの主人公の体が小さいのは、「子供向けだから」という意味だけでなく、「逆転させるため」でもあるってことですかね。

韓国実写版ドラゴンボール
韓国実写版北斗の拳





2007年06月15日

「巨乳=バカ」説をアニメで検証してみた2 舞-HiME他

初めての方は前回の記事からどうぞ。


 「巨乳=バカ」説をアニメで検証してみた1



検証3「舞-HiME」


最初は、主役級の3人、つまり、



mai.jpg
鴇羽舞衣


kuga.jpg
玖我なつき



maihimmemikoto.jpg
美袋命


の三人で比較検証しようと思ってたんだけども、舞-HiMEキャラの胸の大小に関する素晴らしいデータを見つけたんで、これを元に話を進めようと思います。


「サンライズ公式 ひと目でわかる」 ちちくらべ


舞-HiMEのバストサイズの大小

珠洲城遥(爆)>鴇羽舞衣(巨)>藤乃静留(豊)>宗像詩帆(並)>玖我なつき(控)>菊川雪之(貧)>美袋命(無)



これを見ると、詩帆の胸がなつきよりデカいという事実にちょっと驚く。
というよりなつきが、想定していたより小さいかな、という印象。
って、何を想定してたんだかわけがわからんが。


で、この文の本旨は、「胸と知性の関連性」を検証してみる、ということなので、各キャラを頭の良さで分けてみる。
()内の胸の大小のデータも付け加えて。


・明らかに頭の良いキャラ

藤乃静留(豊)
菊川雪之(貧)



・普通?

鴇羽舞衣(巨)
玖我なつき(控)
宗像詩帆(並)
珠洲城遥(爆)



・明らかにアホキャラ

美袋命(無)



「普通?」に入れたキャラに対しては、異論反論があるところだと思う。
なつきは頭の良いキャラに入れてもよさそうだし、遥はよく言い間違いをしているところから、アホキャラに入れてもいいような気はする。
しかし、遥は生徒会執行部部長だったりするわけだし、ここらへんはちょっと迷うところなんで、とりあえず普通にしてみた。


しかし、頭の良いキャラに入れた藤乃静留、菊川雪之とアホキャラに入れた美袋命に関してはどこからも文句はでないと思う。
藤乃静留、菊川雪之は明らかに頭の良いキャラとして描かれているし、命(みこと)はどこからどう見てもアホキャラであるから。


で、こうやって頭の良し悪しと、胸の大小を並べてみると、やっぱり一貫性がないなー、という印象。
頭の良い二人、静留と雪之は巨乳と貧乳という両極端のおっぱいを与えられているし。


ただ、スクランで貧乳の天満が一番のアホキャラだったように、この舞-HiMEでも一番の貧乳である命が一番のアホキャラになっているところには留意が必要である。


舞-HiMEでも「巨乳=バカ」説はあまり採用されていないように思う。


今まで検証してきたアニメには「巨乳=バカ」の観点からキャラ造形されているものが少なく、その線で結論を書こうと思っているんだけども、その前に一つだけ、「巨乳=バカ」説が見事に表われているアニメがあるので、それを紹介しておく。


このアニメは登場してくる女子キャラが少なく(検証するデータが少なくてありがたい)、また、その女子キャラのなかで、胸の大きさと知性が完全に反比例している。


それが、このアニメ。









検証4「涼宮ハルヒの憂鬱」


このアニメのなかで、胸の大きい順に並べると、


mikuru.jpg
朝比奈みくる


haruhi.jpg
涼宮ハルヒ


nagato.jpg
長門有希



この順。
で、頭の良さで並べると、

長門有希>涼宮ハルヒ>朝比奈みくる


こうなる。
見事に胸と知性の間に反比例が成り立っている。


小説のなかで、キョンが「朝比奈さんは、おれの目に潤いを与えてくれる」とかいうところが何度もあるが、これも特筆すべきポイントである。


というのも、「巨乳=バカ」説にこめられた人々の深層心理というのは、巨乳の女をあくまで「観賞用」として扱うことだと思われるからである。
つまり、その女に知性などという高尚なものがないとみなすことで、あくまで「観賞用」の女として扱いたい、という心理が込められているように思う。


その点から見ても、涼宮ハルヒの憂鬱は「巨乳=バカ」説をもっとも具現化したアニメであるといえる。




[結論]アホキャラは巨乳よりもつるぺた

サンプル数が少なすぎるし、取り上げたキャラも恣意的に過ぎるような気がしないでもないけど、とりあえずの結論としては、「巨乳=バカ」説は、アニメのなかであまり採用されていないような印象を受ける。


スクランの周防のように、「巨乳+多少アホっぽい」というキャラはいるが、誰の目にも明らかなアホキャラはつるぺたであったり(命 舞-HiME)、幼児体型であったり(天満 スクラン)と、子供っぽい肉体で現されることが多いように感じる。


たとえば、舞-HiMEの主役である鴇羽舞衣と、その後継作品である、舞-乙HiMEの主役アリカ・ユメミヤの胸を比べてみる。


mai2.jpg
鴇羽舞衣


arika.jpg
アリカ・ユメミヤ


舞衣が明らかな巨乳であるのに対して、アリカのほうはつるぺた気味のロリキャラ。
で、舞衣のほうがしっかり者のお姉さんという感じなのに対して、アリカのほうはかなりアホっぽい。


また、今回取り上げたのは主役級のキャラだけだったんだけれども、脇役に目を移してみると、

「巨乳+高い知性」

というキャラもそこそこいたりする。


その典型例が「女科学者」。


blood+に出てきた、ジュリアとかいう女科学者。

コードギアスに出てきた女科学者(名前忘れた)。

舞-乙HiMEに出てきた女科学者(名前知らない)。


彼女らは胸元があいた服装をしていることが多く、かなり胸を強調している。
で、当然、科学者だけに頭がいい。
現実の女科学者が、アニメに出てくる女科学者みたいにエロい格好をしてることなんて、まずありえないので、これはフィクションならではの表現方法である。
まあ、たまに女の学者(文系)で水商売風の人はいたりするけども。


また主役キャラにも「巨乳+高い知性」キャラがいる。
というか、この人はおそらくアニメに出てくる巨乳のなかで、いちばん高い知性を持つキャラ。
言ってみれば、アニメのなかでの小池栄子がこの人である。



motoko.jpg
草薙素子(攻殻機動隊)




こうしてみると、アニメの中では、どうもただ単に肉体の成熟度と、知能の成熟度を比例させているように見える。


「巨乳=バカ」説に込められた深層意識が、


巨乳→性的魅力がある→会話してるよりも、早くヤリたい→どうせ頭のなか空っぽなんだろ→とっととヤラせろ


みたいなオッサン的な思考回路を辿っているとすれば、アニメのなかの巨乳キャラの造形には、


巨乳→肉体が成熟してるということは、知能も成熟しているに違いない→きっと頭もいいはず


こんな感じで思考が流れているような気がする。
藤乃静留(舞-HiME)なんかは典型的にそうだし、草薙素子もそうかもしれない。
まあ、少佐の場合は本物の肉体ではないけれども。
そうそう、精霊の守り人のバルサもこれに当てはまるか。


ここらへんに関しては、一つ思いついたことがあるんだけども、いい加減な考察なんで、今度別に書こうと思う。


「巨乳=バカ」説はあまり顕現していないように感じるんだけど、その逆の「貧乳=頭がいい」キャラは結構ありふれているような気がする。


「無口+読書好き+貧乳」は、今回取り上げたアニメのなかでも、高野晶(スクラン)、長門有希(涼宮ハルヒの憂鬱)、それに菊川雪之(舞-HiME)もそうかもしれない。
「巨乳=バカ」説が採られていないのに、その反対概念である「貧乳=頭がいい」説が採用されているのは変な気もしないでもないが、まあ、これは置いておく。
とにかく、つるぺたには、頭のいいキャラとアホキャラが混在しているような印象。


さて、巨乳を「肉体的な成熟」とみなし、それに「知性の成熟」を重ね合わせたキャラを挙げたけれども、それとは違うタイプもいる。
言ってみれば「巨乳=母性の象徴」とでもいうようなキャラ。


今回、取り上げたなかだと、鴇羽舞衣がその典型。
弟思いで、命の面倒もよく見る。
料理が得意。
かなり母性を感じさせるキャラである、舞衣って。
舞-HiMEのなかでは、よく命が舞衣の胸に顔をすりすりするシーンが出てくるんだけど、このときの舞衣のおっぱいは男の性欲の対象ではなく、子供(命)が甘えるためのおっぱいである。

maimikoto.jpg


また、コードギアスのベスト巨乳である、ミレイなんかも、ちょっと母性を感じさせるキャラである。
ミレイがルルーシュとナナリーの後見人みたいな立場らしいし、周囲への気配りも忘れない。
ミレイの巨乳もまた母性の象徴と言える。


こういう「巨乳=母性」という観点から見たとき、興味深いキャラが「ナルト」の綱手である。
彼女はナルトのなかで、ただ一人の巨乳として描かれているわけだが、初登場時はギャンブル狂いの女だった。
言ってみれば、育児放棄した母親みたいなもん。
綱手登場時の一連のエピソードは、綱手がナルトの言葉で改心して、母親業をやる(つまり火影になる)ことを決心した過程と読むこともできる。


ところで、大昔のアニメにも、この「巨乳=母性」キャラがいる。


ナウシカの胸の大きさについて

ナウシカの胸は大きい。
私は、これは、ナウシカが共感する<自然>や<生命>ということを象徴しているのだろうと漠然と考えていたが、宮崎駿監督の弟の宮崎至朗さんはこう語る。

「兄が幼いころのことですが、母が7〜8年入院してたことあるんですよ。
寂しい思いをしたんでしょうね。

「ナウシカ」のバストが大きいのは「母性へのあこがれ」でしょうね。
悪くいえばマザ・コンとか・・・
あ、これ書かないでくださいね。」

(風の谷のナウシカGUIDEBOOK「 宮崎駿の1日」より抜粋)



nausika.jpg

ということで、私は「巨乳=母性」キャラを「ナウシカ型」と名づけたんだけども、ナウシカ型って、最近はかなり少ないような気がする。
いや、脇役とかには色々と散見されるんだけれども(ミレイとか)、メインヒロインとしてはかなり少ないような感じ。


たとえば、浅倉南(タッチ)みたいな母性タイプのヒロインって最近はあまり見かけない。
もっとも、南は巨乳ではないかもしれないけど。
鴇羽舞衣は、浅倉南にかなり似ているような気がする。
そういう意味で舞衣って最近では珍しいタイプのヒロインかもしれない。



私は、この「ナウシカ型」以外にも、「草薙素子型」「間桐桜型」「峰不二子型」と、計4種類の巨乳タイプに分別してみたんだけども、この人生を生き抜くうえでまったく無駄な考察を発表するかどうかはわからない。
まあ、ネタに困ったら発表しようか、とは思いますが。


ちなみに、「草薙素子型(巨乳+高知性)」と「間桐桜型(巨乳+気弱)」は結構、数が多いような感じがするんだけど、案外「峰不二子型(巨乳を女の武器として使う)」が見当たらないような気がする。
ただ単に私が無教養なだけかもしれないけど、私の場合、「峰不二子型」のキャラは、フェイ(カウボーイ・ビバップ)しか思いつかなかった。
アニメでなく、映画だったら007シリーズのボンドガールとかいっぱい思いつくんだけど。

舞-HiME 4
舞-HiME 4




次記事アニメキャラにおけるおっぱいと年齢の考察

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2007年06月12日

「巨乳=バカ」説をアニメで検証してみた1 スクールランブル他

コードギアス女性キャラのBサイズ


女子たちのBサイズは、

ミレイ>カレン>ユフィ>シャーリー>C.C.>ニーナ>ナナリー>神楽耶  



私は品行方正なジェントルマンなもんで、この不等号を穴があくまで凝視していたんですけど、そうして忘我の境地にふけっているうちに、


「そういえば、昔、巨乳はバカだ、って言われてたな」


ってことを、ふと思い出した。


「巨乳はバカだ」という説を、いったいどれくらいの人が聞いたことがあるのか、まったく見当がつかないんだけれども、とにかく、私はそういう説を聞いたことがある。
「乳に栄養がもっていかれるから、頭に栄養が回らない」とかいう話。


この「巨乳=バカ」説を聞いたのが、正確にいつだったかはよく思いだせないけれども、とにかく相当な昔。
そして、それ以後の人生で、「巨乳=バカ」説を聞いたことはない。



「女性の乳房と知性に反比例が成り立つか否か」などという問題について口角泡吹かせて議論するような人間はまともな人間とは言えず、多少なりとも、まともな人間である私は、そうした話を長い間、耳にすることがなかったわけである。


この「巨乳=バカ」説はもちろん科学的根拠に基づいた学説とかではなく、俗説、フォークロアの類のものと思われるが、どれくらいの人がこの説を聞いたことがあるのだろう。


そういえば、テレビで島田紳助が小池栄子に向かって、こんなことを言っていたのを聞いたことがある。


「お前は、巨乳のなかでは日本一、頭がいい女やで」


この紳助の言葉を私なりに継ぎ足してみると、以下のようになる。


「(巨乳というのはアホと相場が決まっているもんやけど)、お前(小池栄子)は(そんなバカばっかりの)巨乳のなかでは日本一、頭がいい女やで」


こうやって、言葉を継ぎ足してみると、小池栄子を誉めてるんだか、ケナしてるんだか判然としないが(実際、これを言われた小池栄子は微妙な表情をしてた)、とにかく、こういう言葉が出てくることを考えてみると、「巨乳=バカ」説が一定の支持を集めているのは間違いなさそうである。


「巨乳=バカ」説に潜む深層心理みたいなのをえぐりだしてみると、こうなると思う。


巨乳=セックスアピール(性的魅力)がある

      ↓

だから、男にチヤホヤされる

      ↓

なにもしなくても、チヤホヤされるもんだから、
巨乳の女は勉強とかの努力を怠りバカになる



これが、まったくの偏見であるか、それとも経験則に基づいた根拠ある説なのかの判断はここではとりあえず置いておくが、おそらく、こういう流れを通って、「巨乳=バカ」説は生まれたのではないか、と思われる。
さすがに「栄養を胸に吸い取られるから」なんていう理由は荒唐無稽に過ぎるし。


さて、この「巨乳=バカ」説に対する信憑性はさておき、アニメのなかで、この説に則ってキャラ造形がなされているものが多いのかどうか、をこれから検証してみたい。


念のため言っておくが、もしアニメのなかで「巨乳=バカ」説に則ったキャラ造形がされているものが多かったからと言って、

「わーい、わーい、やっぱり『巨乳=バカ』説はホントだったんだー」

とかいうことが言いたいわけではない。


たしかに私はバカかもしれないけれども、「アニメというものが作りごと」であることを理解できる程度には賢いのである。
アニメ(またはマンガ)の作り手が「巨乳=バカ」説をどの程度、採用しているのか、ということを検証してみたいのである。
これは、あくまでアカデミックな興味であって、ただ巨乳が好き、とかの個人的な性癖から思いついたのではないことをここに付言しておく。
付言しておく。


こういう場合、信頼できるデータを得るには、相当数のアニメを検証してみないといけないのだろうけど、さすがに、こんなアホなことに時間を費やしていたら、ハーバル・エッセンスを一気飲みして自殺したくなったりしかねないので、ここでは任意のアニメ、4、5本くらいに焦点をあわせて検証することにする。


ということで、検証スタート。


まず一つ目は、冒頭で取り上げたコードギアスから。


検証1「コードギアス 反逆のルルーシュ」


すでに触れたように、コードギアスの女子バストサイズは、


ミレイ>カレン>ユフィ>シャーリー>C.C.>ニーナ>ナナリー>神楽耶 


となっている。


神楽耶って誰だっけ?と一瞬思ったんだけど、あの「すめろぎ」って呼ばれてた女の子か。
「すめろぎ(天皇)」って呼ばれてたから、この子が天皇なんだと私は思っていて、「こんな右翼しか知らないような呼び名をよく使うなー」とか思ってたんだけど、実際は、この子の名前が皇神楽耶(すめろぎ かぐや)っていうらしい。
天皇というわけじゃない模様。
なんか紛らわしいわ。


それはとりあえず、コードギアス巨乳ベスト3は、


mirei.jpg
ミレイ


karen.jpg
カレン


euphy.jpg
ユフィ



このように胸の大小に関するデータは手に入っているんだけど、ここで、この企画をやるにあたって、最大級の難問が私の前に立ちふさがっていることに気づいた。



このなかで、だれがバカなんだか、よくわからない。


この後にやろうと思っているアニメに関しては、頭がいいのとバカとの区別が比較的、容易にできるんだけど、コードギアスに関してはそれがどうも判然としない。


行動だけを見れば、


ユフィを想ってオナニー、


ユフィを想ってオナニー、


ユフィを想ってオナニー、


等々の行為により、ニーナが一番のバカに見えるんだけど、実際は頭のいいキャラだしなあ、ニーナ。


コードギアスの場合、明確なアホキャラがいないので、誰がいちばんバカか、と聞かれると非常に困るのである。


ということで、コードギアスだけは、私個人の独断と偏見により、「いちばんのバカ」を決定したいと思う。


えっと、ですね、私が思うに、このなかでいちばんバカなのは、シャーリーではないか、と思います。


sha.jpg
シャーリー


これには異論反論がかなりあるだろうな、と思う。
なにせ、シャーリーはこのなかでいちばん「女の武器」を使うことに長けた女だから。


自分を可愛く見せる演技ができる、もしくは無意識的にそういう術を知っているというシャーリーを、いちばんのバカとするのはおかしいようにも思える。
だけど、結局のところ、シャーリーの頭の良さっていうのは、そういう色恋の面にしか発揮されないもんであって、まあ、はっきり言って、そう大したもんじゃない。


まあ、シャーリーがバカっていうのは、あくまでこのメンバーのなかでの相対的な意味で、なんだけども。


なぜ、私がシャーリーをこのなかで一番バカだと思うのかっていうと、彼女がもっとも政治意識が低いから、である。


こんなふうに書くと、「政治意識の低い女はバカだ」みたいなことを言っているように取られるかもしれないけど、それは違う。


このなかで、なんらかの政治的立場を背負っていたり、もしくは背負わされていたりするのは、

カレン
ユフィ
ナナリー
神楽耶

それに加えてC.C.あたりもそうかもしれない。


地位は人を作る、っていう言葉があるけれども、人間というのはなんらかの立場を与えられると、それに適応しようとするもんで、簡単に言えば賢くならざるをえない。
もちろん、なかにはバカ殿タイプもいるだろうけど、上記した女子キャラのなかにそういうタイプはいないし。
望むと望むまいと、政治的立場を持たされている彼女らと比較してみると、いつも色恋沙汰で頭がいっぱいのシャーリーは、やっぱりバカに見える。


さて、ここまでは巨乳クイーンである「ミレイ」について、何も触れてない。

mirei.jpg


ミレイはバカっぽい言動が多く、「巨乳=バカ」説を地でいくキャラではないか、と思われるかもしれないが、私はそうは思わない。


自分が無力で何もできない存在であるという諦念から今のモラトリアム期間を楽しもうという、彼女のバカっぽい行動が生まれているのであって、別に生粋のバカってわけではない。
それに加えて周りに気配りできるタイプでもあるし。


[感想]コードギアスの主要キャラをざっと眺めてみた印象では、このアニメのなかでは「巨乳=バカ」説はあまり顕在化していないかなー、と思う。
胸の大きさでは、シャーリーは4番目という、どうも微妙な位置だし。
まあ、その前に、シャーリーが一番バカ、っていう事実認定が間違っているかもしれんけど。



検証2「スクールランブル」


スクランは、とりあえず主要女子キャラ4人に絞って話をすすめたい。
さすがに全部の女子キャラを検証するとなるとしんどいし。


ということで、検証すべきは、


tenma.jpg
塚本天満


sawatika.jpg
沢近愛理


mikoto.jpg
周防美琴


takano.jpg
高野晶


この4人。


これらのおっぱいの正確なサイズというのは、どうもよくわからなかったのだけれど、



周防美琴>沢近愛理>高野晶>塚本天満


まず、これで間違いないと思う。
特に周防は、作中でもたびたび「胸がデカい」ことをイジられていて、明らかな巨乳キャラと言える。


さて、コードギアスではかなり四苦八苦した「頭の良し悪し」であるが、スクランの場合、これはかなり簡単に分かる。


まず、一番頭のいいのは、間違いなく高野。


次に頭がいいのが、沢近なのか、周防なのかはちょっと悩むところであるが、実はこれは簡単に判別できる。
というのも、マンガ「スクールランブル第三巻」に、個々のキャラの通知表というのが載っていて、それを見れば一目瞭然だからである。


この通知表はライオン、象、亀等の動物の可愛いイラストの下に

「たいへんよくできました」

「よくできました」

「がんばりましょう」

という評価文がついているという、まるで小学生の通知表みたいな代物であるのが激しくわけがわからんが、まあ、それはともかく、これで頭の良し悪しが判断できる。


沢近愛理

数学、化学、物理、英語が「たいへんよくできました(ライオンさんイラスト)」
現国、古典、世界史が「よくできました(象さんイラスト)」


となっている。
(頭の良さとはあまり関係がなさそうな、美術と保体は除いている)


次に周防美琴。

現国、古典、日本史が「たいへんよくできました(ライオンさんイラスト)」
数学、化学、物理、英語が「よくできました(象さんイラスト)」


これを比べてみると、一番評価が高いライオンさんが沢近4つに対して、周防が3つなので、僅差で沢近のほうが、頭がいいらしい。


通知表だけ見ると、この二人は頭の出来にそう大差がないように思えるけど、
周防は花井に

「お前、この成績で大学どうすんだ?」

みたいなことを言われているので、ただ単に沢近>周防というよりも、

沢近>>>>>>>>>>周防

これくらいの差はあるように感じる。


うむむ。
これは検証二つ目で早くも「巨乳=バカ」キャラが見つかったか、とも思ったんだけど、ちょっと待った。
たしかに、周防は多少バカっぽく、その意味では「巨乳=バカ」説を地でいくキャラともいえるんだけど、まだもう一人残ってる。


そう、塚本天満。


天満の通知表を見てみると、

日本史が「よくできました(象さんイラスト)」
現国、古典、数学、化学、物理、英語が「もうすこしがんばりましょう(亀さんイラスト)」


ぶっちぎりでバカである。


別にわざわざ通知表を見なくても、その言動を見るにつけ、この4人のなかで一番バカなのが天満であることは明白である。



で、天満というのは、

tenma.jpg


この通り胸が小さい。
この4人のなかでは一人だけ幼児体型である。


ここらへんの、肉体の成熟度と頭の良し悪しの関係というのは次回に詳述しようと思っているんだけど、とりあえずスクランの場合、いちばん未成熟な肉体を持つ人間が、いちばんバカである。


[感想]スクランでは、周防というキャラにおいて「巨乳=バカ」説の影響が多少見られる。
しかし、ずば抜けたバカである天満の前にそれが霞んでいる状態。



えっと、このアカデミック極まりない検証はまだ続くのですが、残りのアニメと結論は次回。
さすがに、おっぱいばかり見ていて疲れてきたので。


次回は、舞HiMEといくつかのアニメで「巨乳=バカ」説を検証します。


School Rumble Vol.17 (17)
School Rumble Vol.17 (17)

↑面白かった、これ。


「巨乳=バカ」説をアニメで検証してみた2

[面白かった記事]

「アンフェアな行為」について公式に詫びたファミ通
ふぇいばりっとでいずさん)

ファミ通はホントにソニーが好きなんだな。
旦那に尽くす一途な妾のよう。

コードギアスの韓国での反応


いっやー、この韓国人の反応はさすがにわけがわからん。
なにしろコードギアスって最初のころは「左翼的だ」みたいな批判があったアニメじゃないですか。
アメリカ人が怒ってくるんだったら話はわかるけど、まさか韓国人が怒るとは思わなかった。
竹Pもこんなのは想定外だったろうなー。
あのアニメのなかに韓国人を侮辱する内容なんて、全然見出せないんだけど。

2007年05月15日

コードギアスはなぜ売れたのか?A

前回の続き。


世の中には名ゼリフと呼ばれるのがある。
たとえばシェイクスピアの「生か死か、それが問題だ」みたいなやつ。


シェイクスピアの戯曲には他にもたくさん名ゼリフがあって、たとえば、あんなのとかこんなのとか、、、、えっと、、、、えっと、、、、、


あれ?出てこない・・・・・。
おっかしいなー。
なんたることだ。
この他の名ゼリフというと、「おおロミオ、どうしてあなたはロミオなの?」しか私の頭のなかには浮かんでこなかった。
自分のバカさ加減にちょっと愕然とする。


まあ、愕然としているだけでは話が進まないので、ちょっとgoogleさんの力を借りてみると、他にはこんなのがあるらしい。


「人間は泣きながらこの世に生まれてくる。阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな」


「シーザーを愛さなかったわけではない、シーザーよりローマを愛したのだ」


「弱きもの、汝の名は女なり」


おお!最後のは、なんか聞いたことがある。
やっぱ、シェイクスピアはスゴいなー。
こんな名ゼリフをたくさん残してるなんて(読んだことないけど、シェイクスピア)。


「生か死か、それが問題だ」みたいなのが名台詞と呼ばれるのには、なんの疑問もない。
聞いた瞬間に、記憶に残るし、格好いい言い回しだな、と思う。
しかし、こういう名台詞って普段の生活で使い道があるんだろーか?ってのは甚だ疑問。


たとえば、私が「生か死か、それが問題だ」などとしかめっ面でつぶやいていたとしたら、周りの人間からどう思われるだろう?
気がふれていると思われるか、バカだと思われるか、それとも気がふれたバカだと思われるのがオチである。


要するにこういう名ゼリフというものは、我々の暮らしている日常に属した言葉ではない。
もっと非日常的でけれんみのある言葉なのであって、だから日常で使うと妙な感じが発生してしまう。
(もっとも英語のなかにはシェイクスピアから派生した言葉が無数にあるらしいけれども、それとはまた別の次元の話をしてる)


シェイクスピアが書いてたのは何かっていうと「戯曲」である。
「戯曲」っていうのは、要するに「演劇」の台本。


実は、この文では「名ゼリフ」というものについて考えてみたい、と思っているんだけども、ためしにシェイクスピアの「戯曲」とディケンズの「小説」を比べてみると、「名ゼリフ」と呼ばれるものは、圧倒的にシェイクスピアのほうが多いと思う。
当然、私はディケンズだってまともに読んだことはないんで、そんな人間が言うのも何だけど、これは絶対そう。


なぜ、そんなことが言えるのかっていうのは、「戯曲」と「小説」というものの表現手段に差があるためだ。
戯曲、つまり演劇というのは登場人物の意思、行動を台詞で直接、お客さんに伝えなきゃいけない。
だから、インパクトのある言い回しが多用される。
一方、小説は地の文がメインになりがちである。だから、戯曲に比べると一つ一つのセリフはそう重視されなくなる。
その代わり、地の文でも、登場人物の心理描写を細かくすることができるので、小説のほうが細かな心裡描写はやりやすい。


次に、演劇と映画を比べてみる。
ここでの差異というのは、すぐに気づくものだろうけど、その発声の仕方。
演劇出身の役者が映画に出たりすると、すぐ「発声の仕方が変」と文句を言われるのはよくあることだけど、たしかに演劇の発声の仕方というのは、普通じゃない。
すごくハキハキと喋るし、声を常に張り上げている。
多分、舞台で末席にまで声を通すために、ああいう発声の仕方というのが編み出されたのだろうけれども、やっぱり最初はちょっと違和感を感じる。
それに比べると、映画のなかでの役者の演技というのは、我々の日常にずっと近いものである。
まあ、多少の違いはあるけれども、概して、普通の喋り方をするし、聞いていてあまり違和感を感じない。


大雑把に、戯曲ー小説、演劇ー映画、を比べてみると、


戯曲・演劇  非日常的 けれんみのあるセリフ回し 大げさな身振り


小説・映画  日常的(リアル) 一般的なセリフ 普通の身振り


ということが言えると思う。
SF小説とかファンタジー映画のどこが日常的なんだ、とか言われるかもしれないけれども、そういう世界観設定での奇抜さ云々ではなくて、表現方法とか演技の面での話をすると、こんな感じになるんじゃないかってことです。


要するに演劇というのは、歌舞伎にしろ何にしろ、我々の日常とはちょっとずれた表現方法であって、名ゼリフを吐く登場人物たちもまたどこか非日常的であったりする。


さて、ここらへんからが本題なんですが(コードギアスのコの字も出てこないんで、もう大半の人が読むのやめちゃってるでしょうけど)、アニメのなかでも名台詞と呼ばれるのがたくさんある。


今まで散々ネタにされた名ゼリフの宝庫といえば、やっぱガンダムですよ。
ということで、ガンダムから名セリフと呼ばれるものをいくつか抜き出してみる。


「親父にもぶたれたことないのにっ!」(アムロ)


「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」(ランバ・ラル)


「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを・・・」(シャア)


確かに印象に残るセリフである。
これらのセリフを読むと、そのシーンがすぐ頭に浮かんでくる。
そういう意味では、確かに名ゼリフと呼ばれてもおかしくない。


しかし、これ純粋に言葉だけ見てみると、あることに気づく。
なんというか・・・・、案外「ふつー」な感じがしないだろうか?
シェイクスピアの「人間は泣きながらこの世に生まれてくる。阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな」みたいな気取った感じ、ちょっとこの日常とはずれた感覚ってのがない。


たとえば、ランバ・ラルの「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」。
これなんかは、ただ単に自分の乗っているグフがザクとは違うという事実を述べているにすぎない。


次にアムロの「親父にもぶたれたことないのにっ!」。
このセリフにも気取ったところがぜんぜんない。
シェイクスピア的な名ゼリフとは質が異なっている。
ただ、このアムロのセリフっていうのは分析してみると、ちょっと面白い。
というのも、このセリフは「親父にもぶたれたことがない」という事実を示すことによって、アムロが父親と疎遠であったことを示しているからである。
つまり、このセリフは、アムロという少年の内面描写を行っていると考えることができる。


ランバ・ラルとアムロのセリフって、どちらかと言えば日常寄りの言葉であって、上記の戯曲ー小説の対比で言うと、小説よりの言葉である。
小説というものが、内面描写に優れたメディアであることを考えると、アムロのセリフは特に「小説的」だ。
(今ふと思ったのだけれども、小説的っていうのは大雑把すぎてわかりにくいかもしれないです。自然主義文学的とか私小説的とでも言ったほうがいいのかもしれない)


と、ランバ・ラルとアムロのセリフが案外「日常的」であるということを書いたんだけれども、ここで一人だけ異質な人がいる。


そう、シャアである。

「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを・・・」


これ、ランバ・ラルとアムロのセリフとは明らかに異質。
ひねくれた言い回し、どこか自分の言葉に酔っているかのような響き。
言ってみれば、シャアのほうは、言葉が「戯曲的」なのである。


考えてみれば、シャアというキャラクター自体がまったくもって「日常的」ではない。
自分の父親が殺されたことへの復讐心に燃え、仮面をかぶって素性を隠し、憎むべき怨敵の部下となって働いている。
どこをどうとっても「非日常的な」キャラである。


それと比較して、主役のアムロはどうだろう?
たしかに、彼には「ニュータイプ」という、わけのわからん特殊能力がつけられているけれども、それを除きさえすれば、その性格、言動を見るに、そこらの少年とまったく変わらない「日常的」キャラである。


とりあえず、ガンダム、Zガンダムを見てみると、主役の少年(アムロ、カミーユ等)は「小説的」キャラが多く、敵キャラ(シャア、ギレン、シロッコ、ハマーン・カーン)に「戯曲的」「演劇的」キャラが多いように感じる。
シロッコにしろ、ハマーン・カーンにしろ、身振りが大仰だしね。


私は以前、「人型ロボットに思春期の少年が乗り込む理由」この文章のなかで、ロボットアニメは思春期の感情の揺れを描き出すのに適したメディアなんじゃないか、みたいなことを書いた。
それが正しいのかどうかはいまだにわからんけれども、とりあえず、今まで私が見たロボットアニメのなかの主人公というのは、「小説的」なキャラが多いような気がする。


エヴァの碇シンジにしろ、ラーゼフォンの神名綾人にしろ、ゼーガペインのソゴル・キョウにしろ。
彼らはすべてがすべて、とんでもない運命に叩き込まれるわけで、シャアと同じく「非日常的」なキャラじゃないか、と言われるかもしれない。
それは確かにその通りなんだけれども、彼らロボットアニメの主人公たちの描かれかたって、内面描写に特化してる感がある。
まあ、簡単に言えば、うじうじ悩んでいるところを延々と描写していく、ってことなんだけれども。


ここらへん分かりにくいかもしれないので、違う言い方をすると、「アムロ、カミーユ、シンジが自分と同じだ」と考える少年少女はたくさんいるだろうけど、「シャア、シロッコと自分が同じだ」と考える少年少女はまずいないだろう、ってこと。
シャアというのは、憧れの対象にはなっても、共感の対象にはならない。


さて、やっとこさ、コードギアスの話。
この文では名ゼリフというものを中心に話を進めてきたので、ルルーシュのセリフをいくつか抜き出してみる。


「それとも気づいたか?撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるヤツだけだと」


「おれはおまえに会うまでずっと死んでいた。無力な屍のくせに生きてるってうそをついて。何もしない人生なんて、ただ生きているだけの命なんて、緩やかな死と同じだ」


「我々は、力あるものが、力なきものを襲うとき、再び現れるであろう。たとえその敵がどれだけ大きな力を持っているとしても。力あるものよ、我を恐れよ。力なきものよ、我を求めよ。世界は我々黒の騎士団が裁く」


どうだろう、このセリフの数々。
気取っていて、大仰で、非日常的で演劇的で。
「親父にもぶたれたことないのにっ!」よりも「認めたくないものだな。自分自身の若さ故の過ちというものを・・・」に明らかに近い。
というよりも、ルルーシュはシャアよりもずっとシャアだと言える(この言い回し、わけわかんね)。


ルルーシュって、よく夜神月と比較される。
まあ、当たり前っていえば当たり前の話だけど。
だけど、もう一人とてもよく似ているキャラがいて、それがこのシャアだと思うのだ。


妹がいて、肉親を殺されたことへの復讐心を持ち、強固な意志と行動力を有し、そして二人とも仮面を被っている。
これだけ共通点があれば、夜神月よりもシャアのほうがずっとルルーシュに似ているんじゃないかと思うんだけどどうだろう?


シャアが演劇的なキャラだ、ということを書いたんだけれども、そういう意味でルルーシュというのもまた演劇的なキャラである。
というより、シャアよりも遥かに演劇的なキャラだ。
「ルルーシュに自分が似てる」と思う人はまさかいないだろう。
ルルーシュの大仰な身振り手振り、気取ったセリフ回しなんてのは、「リアルであること」を求める人たちから見れば噴飯物でしかないのかもしれないけれども、あれは「演劇」だと思ってしまえば、別にそう気になることでもない、と思うのだ。
演劇での非日常的な演技も、一回その世界に没頭してしまいさえすれば、「リアル」と「リアルでないもの」の線引きってのはぼやけてしまうのだから。


私がコードギアスを面白いと思ったのは、「主人公の内面描写による視聴者の共感」というロボットアニメでよく使われる手法をばっさり切り捨てているところ。
いや、もちろんコードギアスでも内面描写はあるんだけれども、それがまったく現実感がない。
「現実感がない」なんてことを書くと、悪口のようにとられるかもしれないけれども、全然そうではなくて、むしろ誉めている。
自分とまったく共通点がない、異能の人物の活躍劇は見ていて胸が躍る。


しかし、ここで一つ疑問というか違和感を感じるところがあって、それが監督の谷口悟朗のこと。
私は谷口監督の作品って、無限のリヴァイアスとプラネテスしか見たことがなかったんだけど、この二つを見る限り、この監督って「リアル志向」なんだとばかり思っていた。
「リアル志向」という言葉は、「自然主義文学的な内面描写に特化している」とかいう言葉に置き換えてもいいんだけれども。
コードギアスみたいな現実離れしたものを作りそうな人には思えなかった。
ところが、谷口監督のインタビューを読んでみたら、こんな箇所が。


谷口悟朗監督インタビュー 第1回 役者志望から日本映画学校へ


(大学時代、進路に迷ったことに関して)

――ドキュメンタリーの道も候補のひとつだったんですか? 

谷口 当時私は、大衆演劇の人たちを追いかけてドキュメンタリーを撮っていたんです。その人たちの考え方には影響を受けました。彼らは、芝居小屋に足を運んでくださった人にどう楽しんでもらうかをとても大切にしていたんです。それは特にアニメを演出する側になってから意識するようになりました。
 

第7回 『無限のリヴァイアス』から『コードギアス 反逆のルルーシュ』へ


――監督が示すべきは「幹」ということですが、今考えていることが「幹」たり得るかどうか、などはどう判断するのでしょうか?


谷口 うーん、具体的に言いづらいんですが、頭のまわりに各バラバラのパーツが浮いているイメージなんですよ。そのパーツのだいたい3割ぐらいが、こう中心に固まってくると、幹が出来てきたっていう感じがします。

――立体イメージなんですか?


谷口 そうですね。キャラクターのパーツから伸びていくベクトルがいろいろなところで交差していく感じなんです。それで、そのベクトルからはずれたものが出てくると、これはベクトルに合わせたほうがいいか、はずれっぱなしにしたほうがいいか検討すると。目先のことしか考えずにやると、必ずこのベクトルがブレてくるんですよ。ちなみに、立体的なイメージで思い浮かべているのは、これはなにもキャラクターに限っただけでなく、メーカーとかタイアップ先企業とか、そういうビジネス的な要素も入っているんです。

――ビジネス的要素というのも入るのですか。


谷口 そうですね。私が、大衆演劇の人に影響を受けたというのはお話しましたよね。やはり私たちの仕事というのは、基本的にお客さんよりも目下にいて、お客さんからおひねりをいただいて暮らしているということを忘れてはいけないように思うんですよ。芸術家だなんて堕落した言葉は自分で使うべきではない。あれは他人に対しての、評価・感想としてのみ使うものです。

――『プラネテス』(※1)で谷口監督を知った視聴者にとっては、谷口監督は「リアル志向」というイメージがあると思うのですが。


谷口 『プラネテス』はああ作ったというだけです。実は『ガン×ソード』(※2)を監督した一つの理由は、そういうイメージで縛られたくなかったので、もっと良い意味でB級テイストな作品をやって、イメージの固定化を避けたかったんですね。



私もプラネテスの印象が強かったので、谷口監督のことを誤解していたのかもしれないなあ。
もっと、大衆演劇的なサービス精神に溢れた人だったのか。


しかし、この人は優秀な監督だと思う、ホントに。
21話、22話、23話なんて、すごく面白かったし。


*しかし、演劇の例でシェイクスピアを出したのは、はっきり間違いだったかもしれない。もっと、大衆演劇的なもの、たとえば歌舞伎とかを例に出せばよかったのかもなー。
しかし、歌舞伎なんてろくに知らないし。
ここらへん、自分の無教養を深く反省する次第。


*ここであげてる戯曲ー小説の対比って、すごく分かりづらいかもしれないですが、三島由紀夫の小説と戯曲を読み比べると、そこらへんの差異というのがわかるんじゃないかと思います。
三島由紀夫の小説はひどく退屈ですが、戯曲のほうはとても面白いです。

コードギアス関連記事のまとめ

[参考サイト]

シェイクスピア戸所研究室

ガンダム名台詞

コードギアス名言集


コードギアス 反逆のルルーシュ volume 07

2007年05月13日

コードギアスはなぜ売れたのか?@

比較することに意味がないような気がしながらも、あえて比較しつづけてきた「ゼーガペイン、ラーゼフォン、コードギアス」。


今回はコードギアスの感想なわけですが、最初に断っておくと、今回は比較しません。
それとはちょっと違う路線で書いたほうが書きやすいかな、と思うので。
まあ、もともと比較してる部分がほとんどなかったわけだけど。
それでもとりあえず、ゼーガペインとラーゼフォンの記事はこちら。

ゼーガペイン

ラーゼフォン


コードギアスのDVDは、なかなか売れてるらしいです。
それじゃ「なぜ売れたのか?」というテーマで書こうかと思ったのですが、これ無理。
「なぜ売れたのか?」みたいなマスを大雑把に区切って、分析するっていうのが私はどうも苦手で、その理由ってのはたぶん「私がへそ曲がりだから」という部分によるものなのだろうなあ。
たぶん、私が電通に入っていたら、入社早々、窓際族の仲間入りさせられていたに相違ない。
よかったァ、プーで。


そういうわけで、「なぜ売れたのか?」というテーマで書きたいんだけれども、たぶん、それは的外れのものになってしまいそうなので、最初に断っておきます。
つまり、マスに対する分析ってのは、この文ではほとんど行いません。
純粋に作品だけを見て書いてみる。
って、それじゃいつもと同じなわけだけど。
それじゃ、とりあえずスタート。





まず最初に、コードギアスに関わっている人、会社、または登場人物を書き出してみる。



監督 谷口悟朗


企画 竹田青磁


キャラデザイン CLAMP


製作会社 サンライズ


主役キャラ ルルーシュ



次に、ここに抜き出した人たちからイメージするものを右横の()内に記入してみる。



監督 谷口悟朗(プラネテス)


企画 竹田青磁(反米左翼)


キャラデザイン CLAMP(カードキャプターさくら)


製作会社 サンライズ(ガンダム等のロボットアニメ)


主役キャラ ルルーシュ(デスノートの夜神 月)



なんなんだろう、このイメージのバラバラなことといったら。
恐ろしいくらいに統一性がない。
なんか、小泉純一郎とシャナと小倉優子と松井秀喜と中島らもが一つのリングでバトルロイヤルでもしているような、そんな感じ。
まあ、そんな私のチャチな心象風景はどうでもいいんですけど。


しかも、このコードギアスが恐ろしいところは、これらの雑多な要素がすべてつぎ込まれているというところ。
ふつう、これだけバラバラなイメージを一つのアニメにまとめることなんてできやしないもんだけど、それがまがりなりにも詰め込まれている。
これだけ見ると、コードギアスが売れたのは「売れそうな要素をつぎ込んだから」という理由のようにも見える。


実際、これらの要素のうち、「売れる」ということにまったく関係のないのは、『竹田青磁(反米左翼)』だけであって、『CLAMP(カードキャプターさくら)』『ルルーシュ(デスノートの夜神 月)』なんかはあからさまに「売れそう」な要素だし、『谷口悟朗(プラネテス)』は「売れる」という意味からいえば、ちょっと微妙な感じはしなくもないが、熱狂的なファンがついているので、これも「売れそう」な要素の一つとして考えてもいいんじゃないか、と思う。
こうして売れそうな要素がたくさん集まっていて、それで実際に「売れてる」わけなので、原因(売れそうな要素がいっぱい)と結果(DVDが売れている)が直接的に結びついているように見える。
しかし、コードギアスが売れた理由って、本当にこうした「売れる要素」の寄せ集めによるものなのだろうか?
もちろん、そうした要素が「売れた」という結果に結びついているのは否定はしないけれども、それよりも、もっと違う理由で「売れている」ように、私には感じられる。
まあ、私の感覚は当てにならんので、まったく的外れなのかもしれないけど、とりあえずそれを書いてみます。


次に、上記の要素の一つ一つがコードギアスのなかでどう生かされているかを見ていくと、どうも「脇が甘い」感じがしないだろうか?
「脇が甘い」じゃなくて「要素が薄い」といってもいいんだけど。


たとえば、『竹田青磁(反米左翼)』のところ。
コードギアスのなかで「反米左翼」というテーマは上手く生かされているだろうか?
このアニメのなかでは、日本は占領されている。
しかし、その「占領されている」ということに対しての屈辱感や憤りみたいなのがそれほど伝わってこない。
というのも、主要キャラのなかで「日本人」なのは、スザクとカレンなわけだけど、スザクは名誉ブリタニア人、カレンはブリタニア人と日本人のハーフ。
彼ら二人の生活の拠点はブリタニア人と同じ。
つまり、コードギアスのなかでは「日本人の生活」というものが、ほとんど描かれていないのだ。
だから、占領されている、ということに対しての、実地的な感情がわかない。
どこか観念的なものになってしまっている。


それから、これは蛇足かもしれないけど、なぜブリタニア「帝国」なのだろう?という疑問も残る。
もしアメリカを模すのであれば、「帝国」などではなく、実際のアメリカがそうであるように「民主主義国家」として描けばよかったのに。
アメリカが戦争好きなのは、帝国主義的だからだろうか?
それは確かに帝国主義的であるという理由にもよるだろうけど、アメリカが絶えず戦争を繰り返すのは、「アメリカが民主主義国家」だからという理由もある、と私は思っているので、「帝国=悪」「民主主義=善」などという単純な発想は勘弁してほしかった。
「帝国=悪」「民主主義=善」などという図式を作ってしまったせいで、後半の「合衆国日本」という脱力感あふれる国名が出てくるわけで、そこらへんはなんとかならんもんか、と思う。
まあ、こういうのはどうでもいい話ではあるけど。


次に『ルルーシュ(デスノートの夜神 月)』の部分。
このルルーシュというキャラは、どう見てもデスノートの月(ライト)をモデルにしてるとしか考えられないんだけれども、まあ、パクリだなんだというのは、正直どうでもいい話なので置いておく。
それで、ライトとルルーシュを比較したときに、ちょっと気になるのが、

「ルルーシュがあまり頭が良いようには見えない」

ってところ。
「すげぇ!ルルーシュって頭がいいなぁ!」と感嘆できるようなシーンって実はあまりない。
デスノートでは、ライトが頭がいいことを示すシーンってのがたくさんある。
たとえばデスノートを最初に手に入れたとき、どうやってデスノートを隠すか、っていうシーンは異常に細かく描写されている。
そういう細かな神経の使いかたの積み重ねが、心理戦としての凄みを与えているし、ライトの頭が良いことの証左にもなっている。
ところが、ルルーシュの描写のされ方ってのはどうだろう?
そういう細かさってのはあるだろうか?
ルルーシュは仲間の前でもヘルメットをかぶっているのだけれど、私は「いったい、ルルーシュはいつヘルメットをかぶるのか」が不思議で仕方がなかった。
だって、黒の騎士団のアジトに行くまでは素顔で行ってるわけでしょ?
素顔のままで、黒の騎士団の誰か(特にカレン)と出会ったらどうするつもりなんだろ?
ここらへんの描写って一切ない。


こんなふうに、一つ一つの要素をとってみると「ヌルイ、ヌルすぎる!」っていう感じが否めない。
少しコードギアス関連のブログを読んだりもしたけれど「コードギアスを面白くない」と言っている人たちは、こういう「ぬるさ」に不満を漏らしてる例が多いように感じた。


確かに、要素の一つ一つを取り出してみると「ヌルい」。
私もそう思う。
しかし、それじゃあ、「コードギアスが詰まらないか?」って言われるとそれは違う。
私はこのアニメを面白いと思う。
すっげー面白かったもの、コードギアス。


しかし、コードギアスの面白さっていうのは、ゼーガペイン、ラーゼフォンの面白さとは全然違う。
これらはみんな「ロボットアニメ」なんだけれども、面白さの質っていうのは水と油みたいに違う。
私は、今までそれほどロボットアニメを見てきたほうではないけれども、コードギアスの面白さっていうのは、今まで見たロボットアニメの面白さとはかなり異質なものを感じた。


それで「コードギアスの面白さってなんなんだろう?」ってことを考えていたんだけれども、一つコードギアスと似た面白さを持ったアニメを思いついた。
それが、このアニメ。



アカギ



いったい、どこが似てんだ?とコードギアスファンとアカギファンの双方からお叱りを受けそうな感じがするんだけども、まあ待ちなさい。
今、証拠を見せてあげるから。



zero.jpg

washizu.jpg
なんか似てない?


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや、ただ単に鷲巣巌とゼロのシルエットが似てるというだけで、二つのアニメが「似てる」と言っているわけではなくてですね(汗)、まあ、色々な部分で似てると思うのですよ、アカギとコードギアス。


まずは、大仰な身振り。
上の鷲巣巌の画像を見て欲しいんだけれども、この人が何をやっているか分かります?
これ、麻雀を打ってるだけ、なのだ。
ただ単に牌をツモってるだけなのに、なんなのだろう、この大げさな身振りってのは。


それに加えて、時代がかったセリフ回し。
これなんかも共通するところ。


コードギアスのセリフ回しについては、次回に詳述しようと思っているので、今回は触れないけれども、コードギアスの面白さというのを考えるうちに、このセリフ回しというのが、重要なポイントだと私は思った。
コードギアスのセリフというのは、他のロボットアニメと比較すると、かなり変わっているもので、それがこのアニメに対する「面白くない」という評価と「面白い」という相反する評価を生み出しているように感じるので、それを次回に書いてみる。


ということで、その話は次回します。
「あれ?アカギとの比較はもう終わり?」って思われるかもしれませんが、「終わり」です。
いやー、最初はアカギとの比較でコードギアスを語ろうかとも思ったんだけど(本気)、実は違う方向で話を進めたほうが面白いな、と思ったんで、アカギとの比較は切りました。
まあ、ゼロと鷲巣の画像を並べてみたい、という誘惑には勝てず、中途半端な形で残してしまったんだけれども。
不覚。

[このブログ内の関連記事]
google trendsによると、2007年の最強アニメはコードギアスらしい
コードギアス関連記事のまとめ
コードギアスはなぜ売れたのかA
「巨乳=バカ」説をアニメで検証してみた1

コードギアス 反逆のルルーシュ 1 コードギアス 反逆のルルーシュ 2 コードギアス 反逆のルルーシュ 3 コードギアス 反逆のルルーシュ volume 04 コードギアス 反逆のルルーシュ volume08 コードギアス 反逆のルルーシュ volume09 (最終巻) コードギアス ナイトメア・オブ・ナナリー 1 (1) (角川コミックス・エース 175-1) コードギアス 反逆のルルーシュ 2008年カレンダー 公式ガイドブックコードギアス反逆のルルーシュThe Complete








2007年05月06日

ラーゼフォンは失敗作か?

たまたま、同時期にゼーガペイン、ラーゼフォン、コードギアスとロボットアニメを見たもんで、この3つを比較してみようと思ってるんですけど、そもそも比較する意味あるの?これ。
ぜんぜん違うタイプのアニメだしなあ。
ロボットアニメという以外に共通点がほとんどないような気がする。
まあ比較する意味がなさそうな気がするんだけれども、そこを敢えて比較してみます。


ということで、前回はゼーガペイン(ゼーガペインの記事はこちら)だったので、今回はラーゼフォン。





えっと、ラーゼフォンの放映時期は2002年か。
結構、昔といえば昔な感じです。
さて、実際に見てみるか。


このラーゼフォン、見る前から厄介そうな感じがしてたんだけど、いきなり一話目でこんなロボットが出てきて、軽く脳みそをぶっ飛ばしてくれる。


robot.jpg

気色悪い・・・・・



一話目からこれでは先が思いやられるというもんですが、そこから中盤あたりまでは、案外ふつうに楽しめた。
もっとも、このラーゼフォン、明らかに「欠けている」ところがあって、それにはすぐ気づいたんだけれども、その「欠けた」部分については後で詳述。


ゼーガペインと比較してみた印象では、「女の子がやたらに多い」ような印象を受ける。
「女の子」というとわかりにくいかもしらんけども、「美少女キャラ」とか「萌えキャラ」って言ったほうがわかりやすいか。


haruka.jpg

紫東 遙 
ラーゼフォンのメインヒロイン。年が30近くという時点で、かなりの人のストライクゾーンから外れてしまうかもしれないけど、私的にはこのくらいの年齢がストライクゾーンど真ん中なんで、何も問題なし。



megu1.jpg

紫東 恵
遥の妹。ちょいとツンデレ気味。


megu3.jpg

これがデレ部分。


kuon1.jpg

如月 久遠
謎の少女。よく日傘をさしてる。






kuon2.jpg

ぶふぉっ!し、失礼。




このほかにも何人か、萌えキャラが登場してくるので、ゼーガペインと比べると、やたらに「萌えアニメ」っぽく感じる。


しかし!
よくよく、考えてみたら、ゼーガペインにだって、萌えキャラは多数出てきてたのだった。


とりあえず、ゼーガペインに出てきた萌えキャラを数えてみると、


カミナギ・リョーコ(幼なじみキャラ)

ミサキ・シズノ(ミステリアス系)

ミナト(委員長属性)

メイウー(ちょいツンデレ)

メイイェン(?とりあえず胸元は開いてる)


と、かなり多い。
しかも、今気づいたんだけど、それなりに萌え要素をつけられてもいる。
(ゼーガペインを見てるときは、ぜんぜんそんな感じしないんだけど)


それなのに、ゼーガペインがぜんぜん「萌えアニメ」に見えない理由を探ってみるとそれは「作画がそんなに良くないから」ということなのかもしれない。
特にシズノ先輩なんだけど、私はとうとう最後まで、この人をキレイだとは思えなかった。


それと比較してみると、やっぱラーゼフォンの作画はとてもいい。
後半、ちょっと崩れるところがあるけども、安心して見てられる。
ここらへんは、さすがボンズというか、大したもんだと思う。


それに加えて、カメラアングルとかがやたらにエロっぽかったりする。
そのエロっぽいカメラアングルのターゲットになるというか、餌食になっているのが、この紫東 恵。

megu2.jpg

どういうわけか分からないけど、彼女に対するアングルがやたらに変態的な感じがして、かなりそそられる。
たとえば、背中越しのアングルで、胸のふくらみを強調しているシーンとかがあって、こういう変態的な視線はかなり好き。
あ、もちろん服は着てますよ。
だけど、視線の在りかたってのが、妙になまめかしい。
なぜ、恵だけ、こういうエロティックな画面構成になっているのか、ちょっとわからんけど。
だって、主要キャラじゃないからね、彼女。
なんか妙にエロっちぃんで、彼女がいちばんのお気に入りになってしまったんだけども。


こういう変態的な視線と作画の良さが相まって、ラーゼフォンは萌えアニメとしては結構楽しめるんじゃないでしょーか。


と、ここまでは誉めてきたけど、ここからが問題。


作画の良さだったり、神秘的な映像表現という点では、ラーゼフォンはゼーガペインをはるかに凌駕している。
これは間違いない。
とても美しいアニメだということは確か。
けれども、肝心のストーリーという点ではどうだろう?


これが非常にわかりずらい。
ラーゼフォンというアニメは、数々の謎が提示され、しかもその謎が宗教的な映像でほのめかされていたりするもんで、ストーリーがわかりにくいのは当然といえば当然なんだけども、そういう意味で「分かりにくい」と言っているわけじゃない。
別に難解な世界観設定というのはそれはそれでいい。


このラーゼフォンの「ストーリーのわかりにくさ」っていうのは、ひとえに「主人公の心理が判然としない」というところに起因してる。


たとえば、12話か13話あたりで、主人公の神名 綾人が、「自分は人間じゃなく、ムーリアンである」ことに気づいて、苦悩するシーンが出てくる。
ここの描写にはかなり時間が割かれていて物語上の葛藤を示す大事なところなんだけれども、これは明らかに変。


というのも、2話目あたりで、神名 綾人は自分の母親の血が青いことを知ってしまっている。
普通、自分の母親の血が青かったら、「自分も人間じゃないんじゃないか?」って疑問に思わないか?
それなのに、中盤までこの神名 綾人はそのことに何の疑問も抱いてない。
ここらへんがすごく妙な感じを受ける。


これだけだと、細かいところにいちゃもんつけてるだけに思われるかもしらんけど、そのほかにも変なところがある。
それは綾人が戦う理由がよくわからないこと。
ラーゼフォンに乗って、敵のドーレム(あの気味悪いロボットみたいなやつ)と戦うっていうことは、すなわち「母親と戦う」ことと同じだということが暗示されているのに、なぜか綾人はそのことに逡巡を覚えたりしない。
なんか、ただ状況に流されてなしくずしに戦っているだけのように見える。


別に状況に流されて戦う、というのは、ロボットアニメのなかではよくあることだから、それはそれでいいんだけど、その「戦う」ことに対して、綾人がどう思っているのかが伝わってこない。
特にラーゼフォンの場合、「戦う=母親と戦う」っていうことなのに、そのことに対する感情が描かれていないのは、明らかな欠陥であるように感じる。


ゼーガペインもまたラーゼフォンと同じく「世界観が難解」な部類に入るアニメではある。
(もっとも両者の世界観はかなり異なってはいるけど)
しかし、ゼーガペインの場合は、主人公の感情がストレートに理解できる。
見ていて「難しいなあ」とか「わかりにくいなあ」とか思うのは、「ゼーガペインに乗ってるときでも幻体なんだから、操縦桿を握ったりしてるのも実際には握ってないんだよね?」とかの、世界観のコードについてそう思うのであって、主人公の感情がわかりずらいとは全然思わない。
前回のゼーガペインの記事で書いたように、そこのところの感情の揺れというのは、わかりやすすぎるほどわかりやすいのがゼーガペインのすごいところ。
それに比べるとラーゼフォンはやっぱりわかりにくい。


まあ、このラーゼフォンと比較すべきなのは、ゼーガペインなんかじゃなくて、エヴァンゲリオンなんだろうと思うから、一応比較してみる。


ラーゼフォンというのは、一見して明らかなように、エヴァの影響のもとにあるアニメ。
たとえば、宗教的なモチーフを多用するということもそうだし、物語の後半で世界が終末を迎えるなんてのも、まさにそう。


細かい設定は忘れてしまったけれども、エヴァンゲリオンというのがシンジの母親の遺伝子だかなんだかを埋め込まれたロボットで、つまりエヴァに乗るということが「母親への胎内回帰」を意味してた。
エヴァ(母)のなかで、温かい羊水につつまれて敵と戦うという、すこし異様なイメージがエヴァにはあった。
それに加えて、綾波というのが、これまた母親のクローンだかなんだかで、ここでもまたシンジの欲望が母へと向かっている。
母じゃない、ただ一人の女、他の男とセックスでもしてしまえそうな女というのが、アスカなんだろうけど、彼女に対してシンジはオナニーするだけ、という有様。
ラーゼフォンでは、母親と対立し、自分の好きな女(遥)を選ぶんだけども、ここらへんは、そうしたエヴァへの回答として見ることもできる。
つまり、母の影響下から抜け出して、他者としての女性と契りを結ぶというイニシエーションの物語として。
ラーゼフォンの劇場版で、綾人は遥とセックスするシーンがある。
同じく劇場版で、オナニーしてしまっていたシンジとは大違い。



エヴァンゲリオンでは、ラーゼフォンと同じく、さまざまな謎が出てきて、それが暗喩的に示される。
今さらこんなことを言うのはなんだけど、これってほとんどが先を考えずに、伏線をばら撒きまくっただけの話であって、最後に収拾がつかなくなってあんなことになっちゃってるのは皆さんご存知の通り。
それに比すれば、ラーゼフォンの物語はとても上手く出来てると思う。
「お前、それ結末考えてなかったろ?」みたいなところはあまりない。


それなのに、ラーゼフォンのストーリーって、やっぱりエヴァに負けてる。
その理由はすでに書いたように、主人公の感情が上手く描写されてないから。

「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」
に代表されるように、シンジの感情表現ってモノローグで示されることが多く、それってあまり洗練された演出とは言えないのかもしれないけど、とりあえず、シンジが何を考えているのかっていうのはわかる。
丸分かり。
そのうえで、シンジを好きか嫌いか、っていう視聴者の好悪が出てくるんであって、ラーゼフォンの綾人の場合、「こいつが何を考えているのかよくわからない」ので、そもそも好悪の感情すら出てこないんである。
いくら謎めいた伏線を上手く終結させたところで、主人公の感情がよくわからないんじゃ何も意味はないと思う。


このラーゼフォン、テレビアニメが終了したあとに、劇場版が作られている。
それも見たんだけど、これがちょっと面白かった。





この劇場版はほとんどのシーンがテレビアニメの編集なんだけど、セリフが大幅に変えられている。
そこでは、上で書いたような問題点が改善されている。
たとえば、綾人が「自分が人間じゃない」ということに気づくのが、かなり早くなっているし、「戦うことは、自分の故郷(母)と戦うこと」であることが、これまた早い段階で示される。


これを見て「あー、自分が思ったのと同じ批判が当時いっぱいあったんだろうなー」と思って、可笑しかった。
やっぱ、みんな同じこと考えるのね。
この改善された劇場版のほうでは、綾人と遥の恋物語というところに焦点があっているんだけど、こっちのほうがずっといい。
こっちのバージョンで見ると、ストーリーに一本スジが通っているように見えるもの。
テレビアニメも最初から、この路線でいったほうが良かったのに。


さんざんけなしたので、最後に一つ誉めておくと、朝比奈が死ぬシーンは素晴らしいとおもいました。
ある意味では子供じみた発想かもしれないけど、私はこのシーンがすごく好き。


[追記]アップした後で気づいたんだけど、ちょうどエヴァにおける綾波に相当するのが、久遠ですね。
綾人の欲望が久遠に向かってない、という点をとってみても、ラーゼフォンにおける「母離れ」というテーマは明白なように思うけど。


[関連記事]
アニメキャラにおけるおっぱいと年齢の考察

[おすすめサイト]
ふぇいばりっとでいず
オタク系ニュースサイト。
萌え系にめちゃ強いサイトさんです。

2007年04月14日

ゼーガペインを見た、見た、見た!

とある知人から、


「ロボットアニメ好きなんでしょ?だったら、これ見てみたら」


なんて言われて、ラーゼフォンとゼーガペインを貸してもらった。


ロボットアニメかぁ。ふーん。







・・・・別段、興味ないんですけど、ロボットアニメ。


なんでか知らんが、その知人は私のことを「無類のロボットアニメ好き」として認識してたらしい。
なぜ?
今まで、ロボットアニメが好きだなんて、一言も発したことがないんですけど。


まあ、確かに、ブログ村ってのには、「ロボットアニメ」のカテゴリーで登録している。
だけど、それはただ単に他に適当なジャンルがなかったから、
「エウレカセブンの記事も書いてるし、どっちかって言えばロボットアニメかなぁ」
くらいの気持ちで登録しただけ。
だって、他のジャンルって、
「オリジナルアニメ」「萌えアニメ(ノンアダルト)」「美少女アニメ」「BLアニメ」とか、こんなのしかないんだもの。
このブログがどこのジャンルに属しているのか、私自身にもよくわからない。
まあ、BLアニメじゃないことだけは確かだけど。
だいいち、このジャンル分け、変じゃないか?
「オリジナルアニメ」ってのが。
この「オリジナルアニメ」に登録している人たちは、
「原作付きアニメなんて好きじゃない。やっぱ、オリジナルアニメが最高」
とか思ってる人たちなのか?
そんな人はまずいないと思うんだけど。


別にロボットアニメが嫌いというわけではもちろんないんだけど、
特にロボットアニメが好きってわけでも、またない。
どのジャンルのアニメが好きとかいうのが、私の場合あまりないので、
「ロボットアニメ好き」とか言われると戸惑うのである。


そんな私の手元に、「ロボットアニメが好きなら」という知人の勘違いによって、
ロボットアニメが二つも!もたらされたわけである。


んー、どうしよう。
まだ、コードギアスすら見終えていないってのに(いいかげん見ろ)、
ギアスよりも遥かにマイナーなラーゼフォンとゼーガペイン。
これは処理に困る。


しかし、人の好意を無碍にもできまい。
(ロボットアニメ好きじゃないけど)

とりあえず、ゼーガペインを少しだけでも見てみるか。
(なんかロボットがかっこわるいけど)

とりあえず数話だけでもいいかな。
(あーあ、26話までありやんの)



ということで、ゼーガペインを見た。






見た。



見た。



見た。





うっわ!!!なにこれ(驚)。
スゴいんですけど、ゼーガペイン!!!!




このアニメ、欠点を探そうとすればいくらでも見つけられる。
既に書いたロボットがかっこ悪いとか、
美人という設定なのに、全然美人に見えないシズノ先輩とか。
作画だって、そんなにいいとは思えないし、
戦闘シーンにも光るものがない。


だけど、そんな幾多の欠点を補ってあまりある、飛びぬけていい一つの特質がある。


自分で説明してもいいんだけれども、ネットを徘徊してたら、
こちらのブログで、その特質が見事に言い表されていたので、
それを紹介します。


http://telfiy.seesaa.net/article/20060788.html


(前略)
ぐあーホントやってられない。
救いようの無い設定の中で、
救いようの無い物語ばかりやられるとホント心にキますわ。
ホント、「ココロを擦り減らしながら見るアニメ」です、これ。
(「心」じゃなくて「ココロ」ね)

ここまでココロをすり減らしつつ、
正直見てるのがツライ物語なんだけど、
客観的に、冷静に、
やっぱりこのアニメのシナリオ、設定、演出、お話の構成、シーンの繋ぎ方、流れ、台詞回し、etc…
いわゆる演出?コンテ?よくわかんないので、とりあえずまとめて「ストーリー構成力」とでも言いましょうか?
言っときますか。

悔しいですが、今まで見て来たアニメの中で最高クラスだと思うです。

面白いアニメは他にも沢山ありましたが、
ここまで「ココロ」に「クる」アニメは初めてだ。
ストーリー(お話のシナリオ)、設定、物語、キャラデザ、動きetc…
正直、それぞれは全然そんな大した事は無いと思います。
ウン、結構ふつーのSFアニメ。

が、やはり「ストーリー構成力」が異常。
他のアニメの2歩、3歩上を行ってる。
ちゃんと見続けていると、ココロが強引に引き込まれる。

ロボットはかっちょ悪いし、世界の設定だってなんだかんだで結構ありがちだし、とことんまで不幸なお話と涙を誘う演出で視聴者の心を揺さぶろうとしているのが見え見えなお話。
な・の・に、見てると演出のせいで「強引にココロが引き込まれる」感覚。



そう、ストーリー構成力。
ゼーガペインを他のアニメと比較したときに、ずば抜けてるのがこれなんです。
そして、この方が書いている「ココロにクる」っていうのも重要。


ここの部分をちょっと説明してみたい。
で、説明するには、比較対照するアニメがあるとやりやすいので、
攻殻機動隊(テレビアニメ版、特に最初のシリーズ)とゼーガペインを比較してみることにします。
多分、攻殻と比較するとわかりやすいと思うから。



まず、攻殻機動隊とゼーガペインの共通点が何かっていうと、
その世界観設定。
どちらもSFインテリ臭い世界観を持っている。
ここらへんは見る人を限定するところですかね?
やっぱり、こういうちょっと難しい世界観ってのはなかなか一般人には理解されにくいだろうし。
だからこそ、マニア受けする、ということもいえるけど。


で、世界観設定は似通っているんだけど、その世界観とストーリーをどう絡めていくか、という点ではぜんぜん違う。


攻殻のほうでは、この世界観を上手く利用して、伏線を張ったり、どんでん返しを作ったり、と言った、ある意味、ミステリ的な使いかたをしている。
たとえば、笑い男事件のとこで、笑い男が、人々の視覚すら操作できる凄腕ハッカーだというイメージを視聴者に持たせておいて、その後で、同じようなことを、少佐にやらせて、真相発覚みたいなとことか。
ある種の既成概念を見る側に持たせておいて、それを覆してみせることでカタルシスを得るなんてのは、いかにもミステリ的である。
SF的な世界観ってのは、このミステリ的どんでん返しを上手く行うための道具として使われていて、これはミステリがそうであるように、一種の知的遊戯なのである。
そこが攻殻を見ていて楽しいところ。


ゼーガペインにも、そうしたミステリ的な仕掛けは出てくる。
というか、出まくっている。
だけど、攻殻がそうした仕掛けと戯れるような知的遊戯であったのとは違って、
ゼーガペインの場合、その仕掛けによって、主人公の感情が揺さぶられる。
揺さぶられまくる。
その感情の振幅というものに、焦点があたっている。


真だと思っていたものが偽であり、
偽であったものが真であり。


そうした、認識の転覆という事態に主人公は思い悩み、絶望し、また希望を取り戻し、といった具合に感情を変化させていくんだけれども、この部分が秀逸。


SF的な世界観設定という意味では、このゼーガペインは決して斬新なわけじゃない。
特に目新しい世界観とは思えない。
だけど、その世界観と主人公の心理描写を絡めるという一点においては、
ゼーガペインってアニメのみならず、他のSF映画と比較しても一級品だと思う。


上で紹介したブログで書かれている「ストーリー構成力が異常(に良い)」ってのは、ここらへんのことをさしている。
そして、どういう部分でストーリー構成力が良いのかというと、それが「ココロにクる」というところ。


SF的な世界観設定っていうのは、色々あるけれど、
その世界観設定と主人公の感情を上手く絡めているのって、意外とそう多くはない。


たとえばエヴァ。
あれのなかでシンジは常に思い悩んでいるけれど、それは周囲と上手く人間関係が作れないとかの、誰でも持ちうる悩み思い悩んでいるのであって、エヴァのSF的な設定とはそんなに関係していない。
セカンドインパクトって何?とか、エヴァンゲリオンってなにから出来てるの?とかのSF的設定でシンジは悩んでいるわけじゃない。
だから、もし仮に、舞台を太平洋戦争真っ只中の日本にして、シンジをゼロ戦乗りとかの設定にしたとしても、シンジの悩みというものは、変わらないだろう。
つまり、SF設定とシンジの個人的心情ってぜんぜんリンクしていないのである。


たとえば、2001年宇宙の旅。
この傑作SF映画のなかで、主人公は宇宙の知的生命体と融合し、人間以上のものへ進化してしまう。
最後のほうが、なにやらよくわからない映像で埋められているので、不可思議な畏れを感じさせる映画なんだけど、この映画の主人公の心理描写ってのは、案外あっさりしたものであって、まあ言ってみればあまりウエットではない。
もっとも、エヴァとは違って、SF的な設定と主人公の心理というものはリンクしている。
けれども、その感情の表現ってのがベタベタしてない。
SF映画における主人公の心理描写って、この手のドライな感じで描くものが結構多くて、こういう個人的な心理との距離感をとったほうが格好いいとでもいうような価値観があるのかもしれない。
まあ、よく知らんけど。


で、ゼーガペインなんですけど、既に書いたように、
このアニメではSF設定と主人公の心理ってのが思いっきりリンクしてる。
そして、主人公の感情の表現の仕方が思いっきりベタなものだったりする。
ある意味で、冬ソナのようなメロドラマを想起させるようなベタさ加減。
これがスゴい。
SFインテリ臭漂う、この世界観設定が、主人公の感情をかき乱すという目的のために思う存分使われている。
そして、それに応えるかのように主人公も感情を思うままにあらわにしている。
ドライな感じっていうのはそこには微塵もなくて、ただただウエット。
言ってみればSFメロドラマなんですよ、ゼーガペインって。
SF設定が、主人公の感情をぶるんぶるん振り回すっていうのは、
交通事故で恋人が死んでしまうとかのメロドラマと同じ強度のドラマ性を持ってる。
しかし、メロドラマと違うのは、SFだけに、まるで哲学の思考実験みたいな、
特殊な状況を作り出せるというところ。
その特殊状況下で主人公の感情が変容していくのが、とても見応えがある。


このSFメロドラマを可能にしている要因の一つだと思われるのが、
主人公のソゴル・キョウとヒロインのカミナギ・リョーコのキャラ(性格)設定。


主人公のソゴル・キョウっていうのは、直情径行の熱血漢タイプ。
自分の感情のままに行動するタイプ。


ヒロインのカミナギ・リョーコっていうのは典型的な幼馴染キャラ。


ちょっと「元気で明るい幼馴染の女の子」を想像してください。
想像出来ましたか?
うん。
それが、カミナギ・リョーコ。
いや、本当ですよ。
見ればわかるけど、
幼馴染の最大公約数的イメージがカミナギ・リョーコ。


なんか、ここらへん、キャラ設定にぜんぜん頭を使ってないような気がしないでもないが、実はこれがイイ。
世界観がちょっと入り組んだ設定なので、
主人公とヒロインが、思いっきり単純に作られているのが、
かえって物語に入り込みやすくしている効果をあげている、と思う。
ここで、主人公の男がシンジみたいなウジウジ系だったら、もううんざりすることこの上ないし、ヒロインの設定に萌え要素を散りばめられていたりしたら、これもうざかったろうと思う。




コードギアスの陰に隠れて、存在すら忘れられている観のあるゼーガペインですが、
突出したところのあるアニメであることだけは間違いないです。


だけど、コードギアスが人気出て、ゼーガペインがあまり人気がないってのは、
まあ、正直なところわからないでもない。
ゼーガペインはとっつきが悪いですからねぇ。
コードギアスって、ちょっとバカにしたくなるようなところが多々あって、
そういう嘲笑も含んだうえでの人気だと思う。
言ってみればアントニオ猪木みたいな。
バカさ加減もふくんだ上で懐深く構えてみせるっていうか。
いや、実際ギアスの懐が深いのかどうかはわからんけど。
しかし、ゼーガペインって、そういうバカっぽさっていうのがあまりない。
嘲笑されるのを拒否してる感じがある。
実際、私がゼーガペインで嘲笑できるのは、
「シズノ先輩がブサイク」なとこだけですし。
ゼーガペインが再評価されることはこれからあるのでしょうか?
うーん、なんかこのままマイナーなアニメで終わってしまいそうな気がするけど・・・・。



*なんかネタバレすることなく、ゼーガペインの感想を書き終えることができました。
これネタバレしちゃったら、見る価値のないアニメですから。
いやー、よく頑張った、オレ。
さて、次はラーゼフォンか。
見る前から、こんなこと言うのもなんですけど、どうも厄介な匂いがぷんぷんするんだけども、ラーゼフォン。
なんせ、ボンズ製作のロボットアニメと言えば、エウレカセブンっていう問題児を既に知っているわけで、しかも、そのエウレカより数段ラーゼフォンのほうが手ごわそう。
うーん。
無事ラーゼフォンを見終えることができるのでしょうか、私。
まあ、とりあえず、ゼーガペイン、ラーゼフォン、コードギアスとロボットアニメが3つも手元にあるので、ラーゼフォン見たら感想書いて、またその後にでもコードギアスの感想書いて、っていうふうにしようかな、と思ってます。
ロボットアニメという以外は、あまり共通点なさそうな3つだけど、そこをあえて比較してみようかな、と。

[このブログ内の関連記事]
ラーゼフォンは失敗作か?
コードギアスはなぜ売れたのか?1



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2007年03月27日

エウレカ総評<2> レントンとエウレカのセックス

前回の記事で、


「エウレカセブンには、まともな大人が登場してこないので、レントンの成長物語がうまく機能してないんじゃないか」


みたいなことを書きました。


が、こんなことを書いておいてから言うのもなんですが、
これって、人の好き好きじゃないか、と思います。
(ってなんだ、そりゃ)


子供っぽい大人しか登場してこないエウレカセブンですが、
この部分を私は結構面白く感じてました。


たとえば、最初のほうでは、ホランドってレントンの憧れの人、つまりヒーローだったんですが、
物語が進むにつれ、そのホランドがとても子供っぽい、ただの凡人であるように思えてくる。
自分がヒーローだと思っていた人物が、実は多くの欠点を抱えながら、みっともない生を生きざるを得ない、自分と同じただ一人の人間である、という理解。
そして、その卑小さゆえにこそ、その人を許せるような気持ちになれるという感情の展開って、だれもが経験することです。
というのも、子供の親に対する感情って、まさにそうした経路をたどるものですし。


ただ、このホランドの、ヒーローだと思ってた人物が実は凡人、っていう見る側の認識の変化っていうのが、製作者の意図したものであるかどうかが、どうも微妙。
なんか偶然そう見えてしまっているだけ、のような気もしてしまいますが。


ということで、<1> レントンという少年の成長物語というストーリーは、そんなに悪い出来ではないと思います。
実際、この部分(26話まで)を好きだという人は多いみたいですし。


で、今回は

<2> スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生

この部分の話です。


<1> レントンという少年の成長物語が、ロボットアニメのセオリーに則った部分が非常に多い、言ってみれば見ていて安心感を与える要素の集合(つまりパクリ要素)で出来ていた部分だとすれば、この部分はロボットアニメのセオリーを大きく踏み外した物語が展開されていきます。


まず、この物語が繰り広げられていた惑星が実は「地球」だった、という衝撃的展開。
地球を覆っていた生物とエウレカが同じという事実の発覚。
そして、最終回でレントンとエウレカが合体して月へ昇っていくという、わけのわからなさ。


これでは確かに面食らうのも無理はない。
私も、後半部分はあまりの展開の奇妙さに、首をかしげっぱなしでした。
あまりにも首かしげてたんで、首がいてぇ。
エウレカセブンの前半を見て、後半にこんな展開が待っているなんて、ふつう思いません。


<1>の部分が他のロボットアニメのパクリで出来ている、という話をしましたが、実はこの<2>の部分も同じく、他の作品の引用で成り立っています。
この惑星がじつは地球、ってのはまんま猿の惑星ですし、人間が群生意識へ進化する、という設定は多くのSF小説で繰り返し、語られてきたテーマです。
つまり、ここらへんって、昔のSF小説のパクリで出来上がってます。


なんか、パクリパクリ言ってると、松本零士みたいにパクリに怒っているみたいにとられるかもしれませんが、全然そんなことないです。
そもそも私はパクリって悪いことだと思ってないですから。
ただ、結果が面白いかどうかが問題なんであって、オリジナルがどこにあるかっていう問題って、そんなに重要なことですかね?
作る側からすれば、問題かもしれませんが、見る側からすれば、オリジナルであろうとなんだろうと、どっちでもいいですけど。


で、話を戻すと、この<2>の部分って、平たく言ってしまえば、「自然と人間」をテーマにした部分なわけでです。


エウレカセブンのなかで「自然と人間」というテーマが上手く表現されてるか、もしくは、このテーマ自体が適宜なものかどうか、っていう話はしません。
というのも、私はこのまえ「自然と人間」っていうテーマで蟲師を語ろうとして、ろくでもない文章を書いてしまい、見事に玉砕した過去を持ってますので。
また身の程弁えず、玉砕したくないしね。


ここで問題にしたいのはただ一つ。
それは
<1>レントンの成長物語と、
<2>スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生、っていう物語、
この二つが明らかに齟齬をきたしてる、ってことです。


地球の地表を覆っているスカブという生物(エウレカもこの一種)は、全にして一、一にして全、という群生意識をもった生物です。
で、レントンはこの生物と同一化し(見た目はエウレカと同一化してる)、月に昇っていく。
こういう物語展開を見せて、エウレカセブンって終わるんですけど、これが全然カタルシスを得られない。
それが何故か?
まあ、唐突すぎるストーリーに頭がついていかないっていうこともありますけど、私が考えるにこんな理由なんじゃないかと思う。



最近、この本を読み返してました。



澁澤龍彦「エロティシズム」


で、この本のなかに「存在の不安」っていう一章があります。
フロイトなんかの精神分析学やバタイユを引用して論を展開してるんですけど、ここをちょっと見ていきたいと思います。




胎児期から幼児期にかけて、子供はいくつかの「分離」を経験します。


「子宮のなかの胎児は母親と一体になって生きている。これこそ絶対的ナルシシズムのユートピア、まだあらゆる分離を知らない以前の、自然と一体になった人類の黄金時代ともいうべき、幸福な時期である」


しかし、当然のごとく、やがて子供は子宮から出なければなりません。


「誕生するということは、子宮から自分を切り離すということである。臍の緒を切られて、母親の身体とは別の存在になるということである」


今まで温かい羊水のなかで母親と一体化していた子供にとって、冷たい外気にさらされた外の世界というものは恐怖と不安に満ちている。
これが一つめの分離です。


母親との幸福な一体感を断ち切られた子供が、また一体感の対象として見出すのが、母親の乳房です。
フロイトはこの時期を、しゃぶることが快感をなす「口唇愛期」と名づけました。


「小児がしゃぶる行為をおぼえるのは、栄養物を摂取する際であるが、そのうち、しゃぶる行為それ自体によって、快感がえられることを知るようになる。乳房のみならず、自分の指をしゃぶるようになる。母親がこれを禁止すれば、そこにフラストレーション(欲求不満)が起こるのは当然だろう。欲求不満と満足が代わる代わるにやってきて、やがて離乳の時期になる。
今まで子供にとっていちばん大事だった乳房が、彼の口から残酷に引き離されるのである」


こうして、二つめの分離が行われます。
子供は「母親と繋がっていたい」と願うのですが、それは無残にも打ち砕かれ、自分というただ一つの存在へ分離されてしまいます。
この存在の孤独への絶望と、それを克服したいという欲望が、「誰かと繋がりたい」というエロスの働きを呼び覚ますのだ、と澁澤は書いています。


「たぶん、人間の最も深い欲求は、この分離をなんとか克服し、存在の宿命的な孤独地獄から逃れようという欲求なのであろう」


簡単にまとめてみると、最初は世界というものを自分と繋がった連続性のあるものとして、子供は感じています。
自分と世界というものは未分化であって、自他の区別がない。
それは安心できて居心地のいい感覚です。
しかし、子供は徐々に世界から切り離されていく。
その苦痛に満ちた分離の経験、自分が自分でしかないという不安、それらが人間存在の根底にあるやみがたい不安だ、ということです。


もちろん、誰かと性交して、一時的に繋がったとしても、それは根源的な不安の解決には至らない。
ただ、つかのまのユートピアをのぞき見るだけです。
子供でなくなった人間は、満ち足りた一体感に満たされることはかなわず、自分という孤独な存在を持て余しながら生きていくしかない。


で、エウレカセブンに戻ります。


このアニメの冒頭で、レントンは故郷を捨てます。
つまり、自分という存在を住み慣れた町から分離することで、レントンの成長物語は始まるわけです。
(もっとも、乳幼児の分離と思春期の少年の分離を同列に並べるのには無理がありますけど)


そういえばレントンには母親がいません。
えっと・・・・、なぜ母親がいないんだったかは忘れてしまった、というかその理由が語られてないような気もするんだけれども、まあ、とにかく母親がいない。
それで、母親代わりにレントンを育てた姉のダイアンとかいう女性がいるんですけど、彼女も失踪しちゃっていない。
つまり、レントンというのは、物語の冒頭から、「母から分離された子供」としての側面が強調されているわけです。


そんなレントンが故郷を捨て、月光号に乗ることを決意した理由というのが、

「エウレカに恋をした」から。

言葉換えれば、「エウレカと繋がりたい」と願ったから、ということです。


エウレカという他者と繋がろうとすることで、分離された孤独と不安を埋めようとするのです。
そうしたなかで、レントンはホランドと衝突したりしながら、成長していく。


成長というのは、まず自分を確立させていくことです。
最初はホランドに憧れているだけで、ホランドを妄信していたレントンが、
自分の頭で考え行動するようになっていく。
次に、確立した自分というものを周囲に認めさせなくてはならない。
ホランドや他の月光号のメンバー、そしてもちろんエウレカにも、自分という存在を認めさせていく。


これが<1>レントンの成長物語 なんですけど、ここまではいいのです。


ところが、<2>のほうのストーリーの終盤、レントンはスカブと融合してしまう。
もう書きましたが、このスカブというのは、群生意識をもった生物。
その内部ではさまざまな意識が渦巻いていて、自他の区別が混淆している。
このなかでレントンは常に誰か(エウレカとも)と繋がっているし、また誰かもまたレントンに繋がっている。


もう何が言いたいんだか分かってもらえたと思うんですけど、
これって、母親と一体化している胎児の状態に似ているわけです。
ご丁寧にも、「母」代わりであった姉のダイアンもまた、このスカブに取り込まれていることを示すシーンがあったりします。
で、レントンはダイアン(母)とスカブのなかで再会する。


ここまであからさまだと、明らかに製作者は意図してやっているんだと思う。
つまり、エウレカセブンは、「母と分離されたレントンが、母を捜し、そして母の体内に取り込まれる」という物語として作られています。
ここで言う「母」は、姉のダイアンとコーラリアンであるエウレカを指しています。


しかし、これは違和感がある。
というのも、前半のエウレカセブンというのは、レントンの自己確立の過程として描かれているわけです。
そこが好きだという人もかなりいる。
私も好きです。
なのに、終盤でレントンは「胎児」にまで戻ってしまう。
母と未分化な状態、母とずっと繋がっている白痴的な幸福。
最後の最後で胎児に戻るなんて、それじゃ前半の少年から大人へ成長していく過程ってのは何なの、って思いません?


人間が群生生物へ進化するというSF小説はいくつかありますが、私が読んだ限りでは、それらの主人公はすべて成熟した「大人」です。
もうすでに、自分の殻というものがかっちりと定まってしまっている大人だからこそ、その殻を破り、他者と融合することに対する不安、恐怖、そしてまだ見ぬユートピアへの憧れを描くことが出来るのだと思います。
たとえば、攻殻機動隊(映画)の草薙素子もプログラムと融合して、群体へと進化しますが、彼女のキャラは、必要以上に「大人」として強調されています。
胸が大きいとかの肉体的特徴もそうですが、喋り方とか声とかも成熟した大人のそれです。
草薙素子はもう成長しきってしまった大人であり、これから大きな変化は望めません。
だから、他者との融合というテーマが光彩をはなつ。


ところが、エウレカセブンのように、前半で少年の成長を描いているような場合、こうした群生生物との融合を最後に持ってくるのはやっぱり間違いだと思う。
そんなことしたら、前半の成長物語が台無しになってしまう。
エウレカセブンの後半があまり人気がないのって、そういう理由なんじゃないか、と思うのです。


まあ、後半の人気のなさってのは、ここでグダグダ書いた理由よりも、「ロボットアニメなのに途中からレントンがぜんぜん戦わない」っていう理由によるもののような気がしないでもないですけど。




これエウレカセブンDVDの最終巻なんですけど、
ジャケットに二人は子供の姿で描かれています。

2007年03月22日

エウレカ総評<1> ガンダムとの比較

今回は、エウレカセブンの総評です。


そもそも、エウレカレビューをやり始めた理由って、

「エウレカセブンは糞アニメという世評があるが、それが本当なのか確かめる」

という目的意識があったからでした。


ブサレカ、ブサレカ、とか言って無駄にうかれ騒いでたせいで、すっかり忘れてたんですけど、
もともとはこうして世のため人のために役に立つ有意義な目的があったのです。


で、エウレカセブンは糞アニメなのかどうか?


最初にさらっと、その結論だけ述べておきますが、
私は糞アニメだとは思いません。
見るべきところのあるアニメだと思うし、レベルとしても一定以上の水準はクリアしてます。


エウレカセブンは、様々な試みをしたアニメです。
実のところを言うと、その試みが、失敗に終わってるところも多々あるのですが、
それでも、なんの冒険もしない、ただアニメオタクの狭い欲求にだけ応えようとするアニメよりは、
こういう冒険を試みようとする意思のほうが、ずっと好感が持てます。
ま、このアニメが傑作かと問われれば、ちょっと答えに窮してしまうのも事実ですが、
それでも、私はエウレカセブンを、それなりに支持したい、とは思ってます。


こんなふうに、絶賛とまではいかなくても、私はそれなりに好評価なんですが、
実は「エウレカは糞アニメ」と言う人の気持ちも分からなくはない。


エウレカセブンというのは、製作者の意図が空回りしてる部分が、いろいろとあって、
そこが「糞アニメ」という有難くない称号を与えられる要因です。
ということで、今回は敢えてエウレカセブンの欠点を書いてみます。
「それなりに好評価」なのに、わざわざ欠点をあげつらうってのは、なんか感じわるいですが、
そこらへんは勘弁してください。
リアルに私の性格が悪いだけ、ですので。
好きなものを誉めるのが、なんか苦手で・・・・・・。
嗚呼、本田透みたいな性格になりたいな・・・・・。



エウレカセブンのストーリーの要素を抜き出してみると、この二つになると思います。


<1> レントンという少年の成長物語

<2> スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生


大雑把に言えば、この二つの要素でこのアニメは成り立ってます。
「え?エウレカセブンって、エウレカとの初恋がテーマなんじゃないの?」って言われるかもしれませんが、ここではあえて省いてます。
ま、恋愛話なんてできやしませんから、私。
ちなみに、エウレカとの恋は、上記の<1><2>両方にかかってるテーマです。
レントンの成長の過程が、エウレカとの恋愛の進展でもあるし、
異生物との共生ってのは、エウレカとレントンの恋で象徴されてます。


それから、スカブ・コーラルって名前ですが、このアニメのなかでは「スカブ」と呼ばれたり、「コーラリアン」って呼ばれたりして、その二つの違いがよく分からないんですけど、面倒なんで、ここではスカブってことで、話を進めます。
(なんかスゲー適当)


それで、大雑把に言うと、1話から26話までが<1>の要素、つまりレントンの成長物語を描いていて、
27話から50話までが<2>の要素、つまりは異生物との共生をテーマにしたエコ思想的な話になっています。


エウレカセブンの評判って、ちょっと不思議なところがあって、それは、

「エウレカはパクリアニメ」という悪評と、

「エウレカは奇をてらって失敗したアニメ」という悪評がごっちゃになってるところです。


悪評であることはどっちも同じなんですが、真逆の評価ですからね、これ。
「パクっててムカつく」っていうのと「パクらなすぎでわけわかんね」っていうことですから。
パクリの元ネタとして指摘されるのは、ガンダム、エヴァあたりなんですが、上の<1><2>に照らし合わせてみると、
パクリとされるのは、主に<1>レントンの成長物語のほうにかかってます。



それで、まずは<1>の要素から話を進めたいと思います。
つまり、レントンの成長物語、というテーマを表現した部分です。


ここでは元ネタのガンダムと比較することで、話を進めます。


確かにエウレカとガンダムってよく似てるところがあって、
たとえば、ホワイトベースにはなぜか3人の子供が乗ってましたが、
月光号にも、これまたなぜか3人の子供が乗ってます。
戦争しているのにも関わらず、子供が乗っているという不自然な設定からも明らかなように、この二つのアニメでは、「船」が擬似家族として描かれている。


たとえば、ガンダムの場合が、

ブライト(父)
ミライ(母)
アムロ(子供)

だとしたら、

エウレカセブンでは、

ホランド(父)
タルホ(母)
レントン(子供)


こういう図式が成り立っています。


そして、こうした擬似家族のなかで成長物語を紡いでいくという手法も同じです。
たとえば、アムロは父(ブライト)と衝突して「家出」してしまうシーンがありますが、
エウレカセブンでも全く同じ図式で「家出」のシーンがあったりします。
もっとも、レントンがエウレカとの恋を中心にして、成長を見せるという細部の違いはありますが、かなり似通った展開を見せてます。


で、似ているのは似ているんですが、
こうして「アムロの成長物語」と「レントンの成長物語」を比べたとき、とても大きな違いがそこにあります。


それが何かっていうと、二つのアニメに登場してくる「大人」の質です。


まず、ガンダムに出てくる「大人」の目ぼしいキャラを列記してみます。
年齢的には、「大人」というよりまだ青年といったほうが適切な人もいますが、
少年の目から見た「大人」ってことで。



ブライト・ノア


このブライトってのは、ホワイトベースの艦長だか、船長です。
本当はまだ年も若く、艦長になるにはまだ早いブライトなのですが、
戦時中の混乱のなかで、なしくずし的に艦長をやってます。


今ちょっと調べてみたら、一年戦争時のブライトの年齢は19歳!だとのこと。
ぷぷっ(失笑)。
いくらなんでも若すぎません?これ。
なんとなく20代後半かと思ってたんですけど。


年齢も若く、経験もまた浅い彼ですが、
それでも与えられた責務を果たそうとがんばります。
その責任感の強さから、時に生真面目になりすぎてしまい、
よくアムロと対立する様が何度も出てきます。


既に述べたように、ブライトはホワイトベースのなかでは、
「擬似的な父」の役割なのですが、
そういう文脈に沿って言えば、
厳格な父たらんとし、己を律し、また他を律する、それが彼の生き方です。


年が若いということもあって、時に感情的になってしまいますが、
それでも、こうした生真面目さ、規律を重んじる軍人意識が、
彼のなかの「大人」であり、その「大人」の形へ自分をはめ込んでいくことで、
社会性を獲得していこうとする青年。
それがブライトです。



シャア・アズナブル


アムロの最大のライバルのシャア、ですが、
彼はどんな形の「大人」なのでしょう?


シャアははっきりとした目的を持ち、世間に迎合する振りをしつつも、
決して、心のなかでその目的を見失ったりしない、強固な意志を秘めた人物です。


ま、その目的ってのは「ザビ家への復讐」なわけですが、
最後の最後まで、その目的を果たそうとする。


ここらへんの執拗さってのは、「大人」の分別などとは無縁です。
むしろ、青年期に特有の性格と言ったほうが良いのかも。
ブライトが「大人になろうと努力し続ける青年」だとしたら、
シャアの場合は、「青年であり続けようとする青年」なのかもしれません。


アムロはシャアと反発しあい、「シャアの青年臭さ」を否定することを契機にして、
「大人」としての自分を見出します。
(まあ、ここらへんはファースト・ガンダムの話ではなく、逆襲のシャアのほうですが)


少年のアムロにとって、シャアというのは、少年と大人のあいだの青年という存在であり、ある意味で、成長の道しるべ的な存在といえます。



ランバ・ラル


アムロが「家出」中に出会ったのが、このランバ・ラル。


ブライトが「大人」になろうとして無理をしているせいで、少しばかりヒステリックなのに対し、ランバ・ラルは常に落ち着いています。


それがなぜかというと、彼は既に成熟した「大人」だからです。
世の中が理不尽なことで埋め尽くされているのを知っているし、そのことに関してはある程度の諦念を持っている。
そして、その理不尽さのなかでも身近な誰か(妻だったり部下だったり)のために、自分の能力を使おうとする。


彼が、自分の職務を全うしようとするのは、身近な人間を幸せにするためであって、
決して、歴史を変革しようなどという大それた野望を持ったりしません。
地に足のついた、魅力的な「大人」なのです。


アムロはラルに憧れの念を抱くとともに、「あの人に勝ちたい」という欲望を得ます。
この出来事が「家出」中の出来事であるところが面白い。
というのも、ホワイトベースという「家」を一時的に捨てたアムロにとって、
家の外の世界での「大人」の見本となったのが、このランバ・ラルだからです。


アムロという少年の成長物語を見るとき、このランバ・ラルはとても重要な人物です。
彼は登場回数は少ないですが、かなり印象に残ります。




さて、ガンダムに出てきた「大人」を見てきましたが、
エウレカセブンに出てくる「大人」をこれと比較してみましょう。


まず、ランバ・ラルにあたる人物。
これは、もちろんチャールズです。


レントンがチャールズと出会うのって、ガンダムと同じく、「家出」してるとき。
チャールズというのは、とても愛妻家で、まあ、ちょっと愛妻家すぎるきらいもなくはないですが、
見ててほほえましいです。
ここらへんの「嫁を大事にする」ところもランバ・ラルに似ています。


もっともチャールズには、ラルのような、汚泥のなかにあえて踏みとどまる、
といった、人間臭さはありません。
そこらへんが、チャールズという人間が、ランバ・ラルよりも人間的深みを感じさせないところではあります。


が、しかし、レントンにとって、チャールズというのが、
「こうあるべき大人」としての、指標のような存在であることは間違いなく、
レントンの成長物語のうえにおいて、チャールズは欠かすことのできない存在です。


で、チャールズはいいのですが、ここからが問題です。
つまり、ブライト役、シャア役はいったい誰になるのか?


まず、シャアに相当する人物、つまり、主人公のライバルであり、
ものの考え方において対立する人間は、このアニメには出てきません。
あえて言えば、ドミニクになるのでしょうが、実はレントンとドミニクの間には、
あまり対立が生まれてないです。
少年の成長物語を描くときに、ライバルの存在は必要だとは思うのですが、
ドミニクはロボットにすら乗れないですから。


次が一番、重要なところなんですが、ブライトの役割を果たしている人物です。
つまり、擬似的な父であり、主人公を叱るなどして、大人の自覚を持たせる、という重要な役割です。


これ、うっかりして、もう書いちゃってますが、ホランドです。
で、このホランドが困ったヤツなのです。


ガンダムのなかで、アムロはブライトに殴られるシーンがあります。


「ぶったな。父さんにもぶたれたことないのにっ」っていう、アレです。


えっと、アムロがブライトに殴られたのが一回だったか、それとも数回あったのかは忘れましたが、
ま、とにかくこういうシーンが出てくる。


それで、エウレカセブンでもホランドがレントンを殴るシーンが出てきます。


ところが、これ、ガンダムとエウレカでは全然意味合いが違います。
ブライトというのは、上で書いたように、
「大人の役割を果たそうとしている青年」です。
だから、ブライトがアムロを殴るのは体罰の一種。
つまり、大人として聞き分けのない子供を律しようとしているわけです。


ところが、ホランドってのは、ブライトとは違って、「子供」なのです。
アニメのなかでも、他のメンバーから、

「お前は本当に子供だな」

なんて呆れられるシーンが実際あります。


レントンを殴るのも、本当に感情的にムカついているから殴っているだけであって、
大人としての立場から殴ってるわけではありません。


だから、思いっきりやりすぎてる。
レビューでも書いたんですが、殴る蹴るの暴力沙汰です。


本来、擬似的な父の役割を果たさなければいけないホランドが、とんでもなく「子供」だという事実。
ホランドのなかには、ブライトにあった、自分を律する心がありません。
その証拠に、船のなかを半裸で歩いてる。
ブライトの場合、「自分は大人でなければならない」という信念があって、
それが上手くいかなかったりして悩んだりするわけですが、
ホランドはただ感情のままに行動しているだけです。


つまり、ブライトーアムロってのは上下関係なんですが、
ホランドーレントンってのは上下関係になってません。
二人が同じレベルで争ってるっていう感じ。
成長ってのは当然、下から上へ行くもんなんですが、
そもそもエウレカセブンでは、上下がないんで、
下から上へ行きようがない。
ここらへんが、エウレカセブンの変わっているところです。


ついでに、「母」のことにも触れておきます。


ホワイトベースのなかでの擬似的な母は、ミライなんですが、
彼女はいつでも冷静沈着で、とても頼りになる女性です。
武士の妻、的な凛とした佇まいがあります。


ちょっと話は脱線するんですが、ミライって「モテすぎ」じゃないですか?
どう見ても、セイラさんのほうが美人です。
ところが、セイラさんに言い寄ってくる男はいないのに、ミライは3人ぐらいから求愛されてる。
んー、納得いかない。


で、脱線が終わったところで、エウレカセブンにおける「母」の話。
ミライの役割を果たしているのが、タルホです。
今、気づきましたが、ミライが艦の操縦士だったのと同じく、タルホもまた操縦士です。


ところが、このタルホ、ホランドと同じく、とんでもないヤツです。
ホランドがエウレカのことなかり気にかけているのが、余程気に食わないらしく、
始終、ヒステリーを起こしています。
タルホのイメージっていうと、腕組みして、眉を八の字にして、
こっちを睨んでる姿がすぐに思い浮かぶんですが、
彼女はミライのような女らしい気遣いとかが全然ない。


以前、テレビで「片付けられない女」っていうドキュメンタリー見たんですけど、
この女の部屋はゴミで足の踏み場もない。
たぶん、タルホもそういうタイプの人間です。


まあ、ホランドがレントンを敵視してる理由も、またタルホがいつもヒステリー状態なのも、
いちおう、理由は語られるんですが、これ聞いてもぜんぜん腑に落ちません。


結果、ホランド(父)、タルホ(母)、レントン(子供)という、擬似家族は、
とてもすさんだ、崩壊家庭のような様相を呈してます。


エウレカセブンをレントンの成長物語、としてみた場合、いちばんの問題点がそこです。
つまり、このアニメのなかには「まともな大人が登場してこない」のです。


唯一まともと言えるチャールズは、感動の26話のあと、あっさり殺されちゃいますし。
しかも、レントンに殺されるのではなく、ホランドに殺されます。
ここ、あまりにあっけなく死んでしまうんで、唖然としてしまいました。


やっぱり、成長物語を描くときに「目標となるべき大人」ってのは必要じゃないか、と思うんですけど。
チャールズもいい人ではあるんですが、少年の目標となる存在としては、
人物の陰影が足りないような気がします。


思えばランバ・ラルが、気が進まないながらも軍に「所属」していたのに対し、
チャールズはフリー・ランサー、つまりは根無し草でした。
ここらへんでも、ちょっとした差がありますね。
嫌なことでも、周囲のためを思って、任務をこなすランバ・ラルと、
自由気ままに自分の思うことをなすというチャールズと。
どっちが大人かっていうと、言わずもがなです。


まだ、このエウレカ総評は続くんですが、なんか長くなったんで、
続きは次回にします。


次回は、<2> スカブ・コーラルという、人間以外の生物との争い、または共生
これに焦点を絞って書いてみます。


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2007年03月20日

エウレカセブン 27話〜50話、、、、って、オイ!

エウレカセブンレビューって、一番最初にやった企画なんですけど、
26話までやったところで、いつの間にかストップしてました。


で、久しぶりに再開してみようかと思って、
過去の記事読んだらこれがスゴい。


いやー、びっくりしました。
あまりに詰まらなくて。


まあ、他の記事も酷いといえば酷いんですけど、
エウレカがずば抜けて酷い。
正視に耐えないってやつ?


たとえば、エウレカって途中でスカブとかいう変な生き物に取り込まれて、
髪が短くなり、眉毛もほとんどなくなってしまうんですけど、
その不憫な有様を見て、

「キャハハ、ブサレカ、ブサレカ」

って喜んでるやつがいる。


誰だ、この馬鹿。
知能が低いにも程がある、
いやねぇ、ゆとり世代ってのは学がなくて、
などと眉をひそめておりましたら、


あ、これ書いたの私だ!!!

っていう衝撃の事実に思い至って、
愕然とし、
意気消沈し、
いっそこの記事全部削除してやろうかしら、
なんて思ったんですけど、
生き恥を全世界に発信し続けるのも、
また一興かと思いなおしまして、
ま、そのままにしてます。


「エウレカレビューって、なんでアクセス少ないんだろう?」

ってずっと疑問に思っていて、

「やっぱ、エウレカセブンってマイナーなアニメなのかな」

とか、傲岸不遜なことを考えていたんですけど、
実は、ただ単に私の文章が詰まらないだけだった、ってのはこれ、
灯台もと暗しってやつ。


いやぁ、灯台の下って思ってた以上に暗いよ。
みんなも気をつけて。


まあ、詰まらないのを承知のうえで、
根性を出して、エウレカレビューを最後まで書く、
ってのも選択肢の一つではあるけれども、
そんな誰も望んでいない根性をここで発揮することもないだろうし。


ただエウレカの総論みたいのは、前から書きたいな、と思っていたので、
それだけはちゃんと書こうと思います。
実は、このエウレカ総論を書きたくて、
書いていてたいして面白くも無かったエウレカレビューをずっと続けてたんですけど。


ということで、一気にエウレカセブン27話から50話までレビューしてみたいと思います。
これを済ませてからじゃないと、エウレカ総論も書いちゃいけないような気が勝手にしてるから。


出来るだけ、短く済ませよう。
どうせ面白くないんだから。
さて、どれだけ短くできるだろうか。




実はエウレカはスカブ・コーラルの一種でした。

スカブというのは、この惑星の地表を覆っている正体不明の生物のことです。

スカブに覆われていたので、分からなかったのですが、この惑星はなんと「地球」だったのです。

悪い人はスカブを絶滅させて、本来の地球を取り戻そうとしていました。

その悪巧みによる混乱のなか、レントンとエウレカは合体して、月に昇っていきました。

おわり。



お、五行で終わった。
いやー、すっきりしたな。こりゃ。
これで、やっとエウレカ総論を書ける。


ということで、次回はエウレカの総評です。
今回はこんなだけど、次回はちゃんと書きますんで、
どうか見捨てないでください。

2007年02月04日

秘密さえ設定しときゃ、、、の蛇足 涼宮ハルヒ

正面きって書いたことはないものの、なんかちょくちょく涼宮ハルヒのことについて書いてるのですが、以前エウレカの記事でこんなことを書いてました。
(これは、アニメのことについて書いたものではなくて、小説のほうのことです)


(前略)この小説を読んだことがある人なら分かるように、キョンの感情はこんなふうに流れてはいません。
ハルヒよりもむしろ、長門に対する感情のほうがあらわになってる感じがしてしまいます。
これは、ある意味では失敗作ということになるのですが、あの小説全体がちょっとおかしいんですよね。
主人公の感情は、明らかにハルヒよりも長門のほうに向かいつつあるように感じとれてしまいます。
どうなるんでしょ?これ。
(引用終わり)


この小説は、「涼宮ハルヒの○○」というタイトルで8冊だか9冊だか、出版されています。
この一巻の最後が、アニメ版でのラストにあたるところで、キョンがハルヒにキスするところで終わってるのは皆さんご存知のとおり。

ところが、そのあと小説が何冊もでてるにもかかわらず、ハルヒとキョンの仲はぜんぜん進展しません。
これが不思議で仕方なかったのです。
メインヒロインであるはずのハルヒとの関係が深まらないのに、長門には妙に感情移入しだすキョンの感情の動き方が。
以前書いたとおり、「消失」ではハルヒが消失するのに、読後感では、長門メインの話であるかのように感じてしまうくらいですから。

ハルヒとの仲が深まり、それと同時に長門とも、ってことなら、ラブコメ的な三角関係で理解しやすいのですが、そうはなってませんし。

以前はそれが理解できなかったのですが、最近ラブコメの作り方を書いていて、やっと合点がいった次第。
つーか、なぜこんな簡単なことに気づかなかったのか自分でも不思議なくらいです。


この涼宮ハルヒシリーズってのは、ハルヒに隠された「秘密」をめぐってストーリーが進展していきます。
この秘密を知っているのは、キョン、朝比奈みくる、長門有希、古泉一樹の四人です。
ところが、ハルヒ自身はこの秘密を知りません。
自分の身に秘密が隠されているのですが、ハルヒ自身がその秘密を知ったらエラいことになるという設定になっていて、それでハルヒだけがこの秘密を知らされていないわけです。

私は「ラブコメの作り方 その一」で、登場人物が秘密を抱えていると、二つの効果が出るということを書きました。

1 秘密の存在によって、意識のズレが起こる
2 秘密を共有することによって、登場人物のあいだに連帯感が出る

これを涼宮ハルヒシリーズに当てはめてみるとどうなるでしょう?

まず、一つ目の意識のズレ。
これは十分すぎるほど出てます。
ハルヒが暴走して、それを他の団員がハラハラしながら見守ったり、あるいは止めたり、というのが、この小説の基本パターンです。
意識のズレは、ハルヒと他の4人のあいだに存在しており、そして、その秘密をハルヒに知らせるわけにはいかない、というドタバタが展開されてます。

で、問題は、2番目の「秘密の共有による連帯感」ってとこです。
秘密を共有しているのは、ハルヒ以外の4人なので、連帯感が生じやすいのはこの4人のあいだです。
実際のところ、なにか問題が起こるとこの4人で善後策を協議する、ってなシーンがよくでてきます。
その間、ハルヒはのけ者状態。
キョンが、「秘密の共有による連帯感」の輪のなかに入っているのに、ハルヒはその輪から外されているのです。
だから、キョンとハルヒの仲が深まらないんですね。
二人のあいだに意識のズレが挟まってしまっているわけですから。

「秘密を共有している4人」と「彼女自身に秘密が隠されているのに、それを知らされないハルヒ」との意識のズレによるドタバタがこの小説の見所なんですが、この物語構造が妙な副作用を生んでいたのです。
気づいてみれば、簡単なことだったなー、こりゃ。


しかし、このラブコメの作り方って、ギャグっぽくしようと思ってたのに、なんか真面目ぶったもんになっちゃいました。
変だな、どこで間違ったんだか。うぐぐ。
これから、この企画どうなるんだか、自分でもわかりませんが、まあよろしくお願いしたいです。



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タグ:涼宮ハルヒ

2007年01月31日

秘密さえ設定しときゃ、あとは勝手にドタバタしだすんだよ、バカヤロー その三

前回の続き。

秘密を抱える人間が、一人の場合と複数の場合を比較したときのいちばん大きな違いは登場人物の心理です。

これは、一般的な心情としてよく理解できるとは思いますが、秘密を共有している人間のあいだでは、「心理的な連帯感」が生まれます。

「実は、誰々のことが好きなんだ」
「実は、最近チロルチョコ万引きしちゃってさ」
「実は、わたしって慢性的なイボ痔なの」

等々。その秘密がいかに下らないものであったとしても、秘密を共有しているという感覚が互いの信頼関係を強固にするのは誰でも経験があることでしょう。

マンガで具体例をあげると、桜蘭高校ホスト部です。
このマンガの主人公の藤岡ハルヒというのは、男装していますが、実は女という設定であり、この秘密を知っているのはホスト部の面々だけです。
ホスト部の結束は非常に強い。
その原因のすべてが、「秘密を共有していること」にあるとは言いませんが、その一因であることは確かです。

それに、「共有されている秘密」の存在は、物語空間上に「内部」と「外部」の境界を作るので、余計、結束の強さが強調されます。
たとえば、このマンガにはホスト部以外にも色々なキャラが出てきますが、それらは全部十把ひとからげ的な扱いです。
だれもホスト部の結束のなかに入ってくることができません。


で、本題のフルーツバスケットです。
最初に私は、秘密の存在は意識のズレを生むので、ラブコメに向いているということを言いましたが、この点ではフルバは失敗作でした。
ですが、この「秘密の共有による心理的連帯感」という観点から見ると、まったく違って見えてきます。

草摩の人間たちは、それぞれ心の傷を負っています。
寓話化されているので、一見荒唐無稽な話に思えますが、彼らの苦悩というのは、だれにでも共感しうるものです。
(個人的には、はとりと楽羅のエピソードに泣きました)
そして、その傷は草摩の秘密と密接にかかわりあっているわけです。

その秘密を「外部」の人間ながら知ってしまっているのが、主人公の本田透です。
ラブコメの主人公って「なぜこんなヤツがモテてるのかわからない」場合が多いですが、この本田透は違います。
彼女の性格というのは、
「愛を与えられることよりも、ただ愛を与えることを望む」という、ほとんど宗教的といってもよいような性格です。
まあ、彼女のような人間が近くにいたら、それが恋愛感情につながるかどうかはわかりませんが、とにかく「好き」になるのは確かでしょう。

それで、草摩の秘密を媒介にして、透が草摩の人たちの心を融かしていく、というのがこのマンガの骨子です。
透というのは、他人に共感する力の強い人間で、自分のことじゃなく他人のために涙するシーンがいくつもあります。
はとりの悲恋を聞いたときも泣いてましたし、紅葉の母親の話を聞いたときも泣いてました。
それは、彼女の宗教的なキャラクターゆえでもあるのですが、「秘密を共有している連帯感」のゆえ、でもあるのです。
読んでいる我々も、秘密の存在によって透のことを草摩の「内部」の人間である、と無意識に想定してしまっているので、彼女の共感ぶりがそれほど不自然に思いません。

「秘密を共有している連帯感」というものを、ここまで極端な方向に使い、しかもそれが成功しているのがフルバの魅力です。

で、ここからは勝手な想像になるのですが、フルバって最初は普通のドタバタラブコメの方向を目指していたのではないのか、と思うのです。
だけど、それが十二支という設定にしたため、登場人物が増えてしまい、「認識のズレ」によるドタバタが生まれにくくなってしまった。
それで、「秘密を共有することによる連帯感」という方向に舵をとったんじゃないか、と勝手に推理してるんですが。
ま、違うかも。


さて、複数の人間に秘密が共有している状態は心理的連帯感を生むという、当たり前っちゃ当たり前な話を続けてきたわけですが、ここで話は「みゆき」に戻ります。
このマンガの場合、秘密を知っているのが一人であるため、心理的連帯感は生まれません。
しかし、実は生まれているのです。
その連帯感の相手は、マンガ上の登場人物ではなく、「読者」です。

この「みゆき」は、前に触れたとおり、「タッチ」とほぼ同じ時期に連載されていたマンガです。
同じ漫画家によって同じ時期に描かれたマンガなのですが、読んでもらえばわかるように、この二つには大きな相違点があります。
それは「主人公の独白」の数です。
独白ってのは、主人公の内面の心理をナレーションみたいな感じで言葉にしたやつです。
(あれって、なんかちゃんとした呼び方ありましたっけね?)

タッチでは、達也が独白する場面はあまりありません。
たまに出てくる程度です。
このマンガのなかでは、達也の心理描写というのは直接的な言葉で表現されるよりも、マンガ的な身振りで表されることが多い。

たとえば、弟の和也が甲子園への地区予選の試合をしていて、それを喫茶店の店番を任せられた達也がテレビで見ているというシーン。
この喫茶店に数人の客がやってきて、和也の悪口を始めます。
その客に達也はいろいろな意地悪をしたりして対抗するのですが、このシーンで達也の心理を言葉で表現しているところは一つもありません。
それなのに、達也が弟の和也を大事に思っていること、そして、内心では和也に嫉妬している部分があることをちゃんと描き出しています。

一方、みゆき。
これは全編にわたって、真人の独白で埋めつくされています。
たとえば、6巻の最初を抜き出してみます。

『咲いた、咲いた、桜が咲いた』(ナレーション部分)

若松真人「おはよう、みゆきちゃん」

鹿島みゆき「おはよう」

『わが青華高校、ありがたいことに2年から3年へのクラスがえなし』(ナレーション部分)

『これでみゆきちゃんとは3年間いっしょ!!』(ナレーション部分)

『修学旅行もいっしょ、同窓会もいっしょ!!クラス会もいっしょ!!』(ナレーション部分)

『切るに切れないかたァいきずな!!』(ナレーション部分)


こうやって書き出してみると、ナレーション部分の異常な感嘆符の多さが気になりますが、まあ、それはともかく、このナレーション部分が誰の内面心理を表したものなのかというと、真人なわけです。
このマンガでは、ずっとこんな感じで真人の内面のセリフがナレーション代わりに使われています。
タッチでは、こんなふうに、主人公の内面をそのまま文字にしたものはほとんどありません。

このナレーション部分で、真人が誰に語りかけているのかってぇと、それは読者なのです。
真人は一人で秘密を抱えている人間だから、こうして主人公が読者に語りかけるという、連帯感が生まれている。
つまり、秘密の存在が、タッチとみゆきのあいだに表現手法での相違点を生じさせているわけです。


今回はこれで終わりです。
あと一回、蛇足のような話(涼宮ハルヒ)を書こうと思ってますが。

あ、それから蛇足ついでに、タッチの実写映画の話をしときます。
少しまえにタッチの実写映画をテレビで見ました。
が、これヒドい出来でした。

タッチがなぜ優秀なのかってぇと、「重い話を軽い手法でやってる」ところだと思うのです。
あだち充ってもともと、表現方法が軽い人です。
登場人物が泣きわめいたりすることって、ほとんどない。
感情の表しかたがいつも、軽くコミカルなものに抑えられています。
ああいう軽さって、ほんとにすごい才能だと思うのです。
なかなか真似できるもんじゃない。

あだち充のマンガはテーマ自体も軽いものが多いわけですが、タッチだけは重い話です。
なにしろ、双子との三角関係ってだけでドロドロ感が強いのに、そのうえ和也が死んじゃうわけですから。
和也が死んだときのシーンでスゴいなと思うのは、あのシーンで泣き声が隠蔽されていることです。
達也のほうは、南にイタズラし、そのイタズラに自分がひっかかるという手法で悲しみが描かれるし、南が泣くシーンはあるのですが、その泣き声も電車の轟音にかき消されるという念のいれよう。
抜群にセンスがいい!

たとえば、冬のソナタでは、ヨン様が死んだ(と思われていた)ときに、友人たちが海に向かって

「チュンサーン(ヨン様の役名)、なんで死んじまったんだよぉ!」

と叫ぶシーンで悲しみを表現してましたが、こういうドロ臭さと比較するとタッチの上品さは図抜けています。

そういうセンスの良さが、タッチの実写版から微塵も感じられることができません。
達也も南も終始、泣き叫んでいるし、達也の苦悩というのも、全部セリフで表現されます。
一体、この監督は、あれだけ優れたマンガから何を汲み取ったのかさっぱり理解できません。
この監督にイタ電かけてぇ、「タッチ、タッチ、ここにタッチ」ってエンドレスで流れるやつ、
って切実に思いましたね、これ。

あ、だけど長澤まさみは可愛かった。
いままで、ぜんぜん興味なかったんですが、この映画見るとたしかに可愛く感じますね、長澤まさみ。


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2007年01月28日

秘密さえ設定しときゃ、あとは勝手にドタバタしだすんだよ、バカヤロー その二

ラブコメの作り方 その一
具体例「フルーツバスケット」




前回は、主人公が一人だけ、秘密を抱えているパターンでした。
今回は、複数の人間が秘密を抱えている(共有している)パターン。


ってことで、フルバです。


このマンガをラブコメにいれてしまっていいのかは正直、疑問です。
フルバを読んだことのある人なら、このマンガを「単なるラブコメ」とはみなしてはいないでしょうし。
ですが、ラブコメ要素もたしかにあるわけで、そこらへんには目をつぶってやってみたいと思います。


あ、本題に入る前にちょっと一言。
フルバはアニメ化されているのですが、このアニメは非常に素晴らしいです。
原作のもつ雰囲気をちゃんと大事にしながら、アニメ独自の味わいも出している。
特にオープニングのあの音楽がいいんですよね、マジで。
過度に叙情的にならず、さらりとしているのに泣かせるっていう。
マンガのアニメ化が成功した例としては、最上級に入る出来だと思うのですが、なぜか続編の話がありません。
最近のアニメ製作バブルでコンテンツの不足からエロゲーの類まで、アニメ化されてるってのになぜフルバの続編が作られないのか不思議でなりません。
需要は確実にあるはずです。
ここを読むとアメリカでも人気らしい。
しかも、アニメ化されていない原作部分も腐るほどあるってのにいったいなぜ?
切実に見たいんですけど、続編。



ってことで、本題です。
このマンガには、草摩という一族がでてきます。
この草摩一族というのは、異性に抱きつかれると十二支に変身してしまうという「秘密」を持っています。
草摩由希だったら鼠、草摩紫呉だったら犬といった具合にです。
この秘密は一族以外には他言することのできない秘密なのですが、この秘密を偶然知ってしまったのが、主人公の本田透というわけで、ここからストーリーが始まっていくわけです。


前回、「秘密を抱えた人間は他の人間と認識のズレが生じるので笑いが生まれやすい。だからラブコメには秘密を抱えた人間がよくでてくるのだ」という話をしました。
「みゆき」では、秘密を抱えた人間が真人ひとりだけ、でした。
それではフルバはどうでしょう?


フルバでは、同じ秘密を共有している人間は複数います。
草摩一族の秘密を知っている人間ってことですね。


今、私の手元にフルバ18巻があるので、この巻頭にある「フルーツバスケット キャラクター紹介」に則って話を進めます。
巻頭で紹介されるくらいですから、ここに載ってるのが主要キャラクターってことです。
まず、この見開き2ページの、右半分は本田透、草摩由希、草摩夾、草摩紫呉の四人が載ってます。
1ページを4人で占領してしまうくらいですから、このなかの透、由希、夾の三人は主役級です。


次に、見開きの左側の上部には草摩一族が載ってます。
十二支の面々に、神さまである慊人です。
この草摩一族で左ページの上3分の2くらいが占められています。
それで、この下部3分の1くらいのスペースの右側に生徒会のメンバー4人がいます。
そして、その生徒会の左に「透の親友」ってことで魚谷ありさ、花島咲の二人。


えー、それでは、このなかで「草摩の秘密」を知っている人間はどれだけいるでしょう?
まず右ページの主役級の4人は、当然知っています。
次に、左ページ、上部3分の2を占める草摩一族の11人、これも草摩の人間なので当然知っています。
ということは、見開き2ページの下部に追いやれれている生徒会の面々と透の親友二人だけが、「秘密を知らない人間」だということです。


この見開きページに載っている主要キャラクターは全部で21人います。
このうち、「秘密を知っている人間」は15人です!
パーセント表示にすると、主要キャラクターのうち、なんと71パーセントが「秘密を知っている人間」だということになってしまうのです。


「みゆき」の場合は、秘密を知っている人間が一人だけ、でしたが、フルバの場合はすんごい多いわけです。
ってことは、「みゆき」の場合とは、異なった力学が働くのです。


その力学を説明する前に、常識とは何か?ということを問題にしなければなりません。
常識というのは平たく言えば、「多くの人に常識だとみなされている事柄」のことです。
こういう言い方には、異論のある人もいるでしょう。
エドモンド・バーク由来の保守主義者なんかにはこっぴどく叱られてしまいそうですが、確かに常識というのはこういう側面をもっています。
カラスが白いと信じる百人のなかでは、カラスが白いのが常識ですし、中世に地動説を唱えたガリレオは、そういう意味合いでは常識のない人間とみなされて当然です。
つまり、常識というのは「多数派の意見」のことであり、それが真実であるかどうかとは無関係なのです。


「みゆき」で、若松みゆきと若松真人は本当の兄妹ではありません。
それが真実です。
しかし、他の連中はそのことを知らないので、「二人が本当の兄妹でない」ということは常識とはみなされません。
「みゆき」では、真人ひとりだけがいわば「常識のない人間」だったので、ドタバタも生まれやすかったのです。

みゆきに誰かが求愛する。
それを見ていた真人が嫉妬する、不安になる。
といったかたちでのドタバタです。
ここでは、真人とその他の人間の内面心理が異なっているからドタバタシーンが生きてくるんですね。
なぜ、内面心理が異なるかといえば、それは真人が「秘密を抱えている」からです。


で、フルバ。
このマンガにも、初期のころにはそうしたドタバタシーンが出てきます。
たとえば、「秘密を知らない」魚谷ありさと花島咲が紫呉の家に遊びに行くところとかがそうです。
「秘密を抱えた人間」と「秘密を知らない人間」との内面心理の格差によってドタバタ感がでてます。
しかし、次第にそうしたかたちのドタバタは、ほとんどなくなってしまいます。


いや、中盤、後半になってもドタバタシーンはあるにはあるんです。
紅葉(もみじ)や綾女(あやめ)がでてきたときは、ほぼ例外なくドタバタしてますし。
しかし、紅葉、綾女のドタバタというのは、彼らのキャラクターに拠るものであって、秘密の内部の人間と外部の人間によるドタバタ劇ってのはほとんどなくなってしまう。
それがなぜかっていうと、上で触れたように、「秘密を抱えた人間が多すぎる」からなのです。


常識ってのは「多数派の意見」のことだ、と書きましたが、フルバのなかでは「草摩の秘密」がすなわち常識と化してしまっているからです。
つまり、秘密の内部にいる人間が多すぎて、秘密の外部にいる人間がかすんでしまっている状態です。
ここまで秘密を知っている人間が多ければ、「みゆき」のように、「意識のズレ」なんてものは起こりません。
なにしろ、主要キャラクターの71パーセントが、秘密の内部者なのですから、むしろズレているのは、外の人間だとさえ言えてしまえます。
だから、秘密にまつわるドタバタが生まれにくくなっているのです。


それじゃ、ドタバタを作るときは、秘密を抱えた人間を必ず一人にしなきゃいけないのかってぇと、それはもちろん違います。
要するにこれはバランスの問題なので、たとえば主要な登場人物が20人だったとしたら、そのなかで秘密を知っている人間を2、3人にしてしまえば、秘密の内部と外部におけるドタバタを作りやすくなるでしょう。
とにかく、秘密を知っている人間をマイノリティーにしてしまえばいいのです。
そうすれば、意識のズレがおきやすくなります。


ある意味、フルバというのは、ドタバタラブコメの失敗例といえるでしょう。
その失敗の原因は、いままで書いてきたように「秘密を知っている人間が複数いて、しかもすごく多い」ってことです。
しかし、フルバは「秘密を知っている人間を複数」にしたことで、ドタバタとは別のところで成功した例でもあります。
それが次回書くことです。
つーか、本当は次回書くべきことを先に書くべきだったんだな、間違えた。
ま、いっか。



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2007年01月25日

秘密さえ設定しときゃ、あとは勝手にドタバタしだすんだよ、バカヤロー! その一

具体例「みゆき」
ラブコメの作り方 その一



登場人物がなんらかの秘密を抱えている、ってのはラブコメによくあるパターンのひとつです。
ほら、あんなのやこんなのとか、いろんなマンガ、アニメが頭に浮かんできたでしょ?


「秘密を抱えている」という設定は、「他人にその秘密をしられてはいけない」という登場人物のなかでの行動規範と、またその秘密がバレそうになって、登場人物があたふたする、というドラマ上のドタバタを簡単に演じさせることができるので、すごく便利です。
便利だからこそ、ラブコメにはよく「秘密を抱えた登場人物」がでてくるのです。


「秘密を抱えている登場人物」が一人である場合と複数である場合があります。
その両パターンを具体例をあげながら、見ていきましょう。


1 秘密を抱えているのが一人な場合 「みゆき」


あだち充の書いたこのマンガは1980年から1984年にかけて連載されていました。
「タッチ」が1981年から1986年に連載ですから、ほぼ同時期の作品です。

ストーリーをかいつまんで説明すると以下のとおり。

鹿島みゆきは、成績優秀、料理裁縫の腕前も優れ、おしとやかで何の非の打ち所もない美少女。
ところが、どうした風の吹き回しか、何のとりえもない主人公の若松真人に惚れている。
で、この二人は付き合っているのだが、真人はなかなか彼女との仲を進展させることができない。
というのも、彼には同じ名前のみゆきという妹がいるから。
この若松みゆきは実は血のつながっていない、戸籍上だけでの妹で、真人さえその気になれば恋人にだってできる存在だからである。


この、「みゆきが実は血のつながらない妹である」という秘密は真人しか知りません。
(その秘密を妹のみゆきも知っていたということが最後で明らかにはなりますが)
で、若松みゆきも、鹿島みゆきに負けず劣らずの美少女なので、他の男に言い寄られるわけです。
それで、兄の真人はやきもきしたり、悶々としたりしますが、最終的に若松みゆきは真人のことをいちばん大事に思ってるというエピソードが挟まれて終わる、っていうパターンが何回もでてきます。


この秘密を知っているのは、真人だけということになっているので、当然、真人と他の登場人物のあいだには「認識のズレ」が生じています。
若松みゆきは、複数の男から同時にアプローチされています。
だから、その複数の男たちは互いをライバル視しているのですが、そのライバルの輪のなかに真人は入っていません。
彼はみゆきの兄であるとみなされているので、恋のライバルとはみなされないわけです。
なので、竜一や安二郎といった、みゆきへの求愛者は、真人の機嫌をとろうと猫なで声で近づいてきたりするのです。
ところが、真人は自分自身を、彼らと同じ「若松みゆきへの求愛者」になりうる存在である、と認識しているので、彼らのことをこころよくは思いません。
若松真人という存在は、他から見たときと、真人本人から見たときでは認識にズレがあるわけです。


たとえば、漫才というものはボケとツッコミに分かれています。
ボケの人間が、常識はずれなことを言ってみせて、それをツッコミが常識に則った観点からその常識はずれを矯正するというのが、漫才の基本パターンです。
つまり、漫才のボケというものは、「認識のズレ」を無理やり作り出す存在だということです。
そして、漫才を見れば分かるように、認識のズレた人間というものは笑いの対象に他なりません。


「秘密を抱えている」人間というものは、他の人間とは異なった世界認識をします。
つまり、登場人物になんらかの秘密を持たせておけば、それだけで笑いが起こる土壌ができあがってしまうというわけなのです。
そして、できればその秘密は物語を根本から変えうる秘密であることが望ましい。

たとえば、「成績優秀、運動神経抜群、どこから見ても欠点のない美少女だが、実は悪性の水虫に犯されていて、いかなるときでも靴を脱ぐことができないヒロイン」なんてものがいたとしても、ラブコメ要員にはなりません。
そりゃ確かに彼女の「水虫」は秘密には違いないし、水島まこと(あ、これはいま私がつけた彼女の名前です)もその秘密をバレないように必死でしょうが、水虫を必死に隠し続けようとする水島まことの話だけでは、ストーリーが持ちません。


いっぽう「みゆき」では、ラストで真人が「実はみゆきが実の妹でない」ことをみんなに告白し、みゆき(妹のほう)と結ばれます。
これは物語の根本のところに秘密を設定していたから、こんなふうに物語を大きく動かすことができるのです。
水虫を隠すことだけに必死だった、水島まこととはえらい違いです。

やっぱり、「みゆき」のように物語の深いところまで食い込む秘密を設定しなきゃいけないのです。

次回は「秘密を複数で共有している場合」です。



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2007年01月24日

ラブコメの作り方 はじめに

萌える名前の作り方も終わったことだし、続きものの企画をもう一つやってみようかなと思って考えていたところ、こんなのを思いつきました。


ラブコメマンガにおけるパターンを抽出し、それを詳細に論理構築し、これさえ読めばたちどころに素晴らしいラブコメが書けるようになる、というブリリアントな企画です。


・・・・・・ってウソです。


いや、この企画を書こうと思ってるのは本当ですが、こんなの読んでもラブコメは書けません。
これから、私が書くことを踏襲して書けば、きっとクソつまらないラブコメが出来上がることは必然でしょう。


「ラブコメによく出てくるパターンをバカにする」ってのがこの企画の意図するところの半分です。
べつに今さら言い立てることもないですが、ラブコメなんてのはくだらないものです。
ただ単に「ほれたはれた」に過ぎない男女間の感情をドタバタにしたてあげる、ただそれだけのジャンルです。
だけど、そんな悪口をたたきながらも、私はこの「ラブコメ」ってものが嫌いじゃありません。
というか、積極的に好きなほうです。


愛が深いからこそ憎しみが掻き立てられ、憎しみが強いからこそ愛が引き立てられる。
そんな感じの、昼ドラ的愛憎をラブコメにこめて、これから書いてみようかと思っています。
って、ただ単に「ちょっとバカにしながらも、楽しんで読んでいる」ってだけの話なんですがね、ラブコメ。


ところが、この企画をやるにあたって一つ困ったことがあるのです。
それは、私がラブコメに詳しくないってことです。


たとえば、ネギま!、スクランの二つを私は読んだことがありません。
まあ、どんな話かくらいは知ってますが、ちゃんと目を通したことがないのです。


私が知ってるのは80年代のラブコメマンガの多少と、現代のラブコメのいくつかに過ぎません。
つまり、無知な人間があたかも知ったかぶって語るというソフィスト的振る舞いをしてしまうわけですが、そんなのはノーフィアー!(なんかノーフィアーの使いかた間違ってる)
パトレイバーすら見たことないのに、無謀にもロボットアニメを語ってしまった前科がすでについているので、そんな些細なことは気にしません。


だいいち、私なんてアニメじたいに全然詳しくないんだから、関係ねーっす。


というわけで、この企画は気が向いたときにでも書いてみようと思ってます。
たぶん5回分くらいはできるような感じですかね、なんとなく。




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